貴方の為だから

清野勝寛

本文



「ボクはね、君の為を思って言っているんだ」

 鈴虫の透明な鳴き声が時折響く深夜。森の奥地にある廃墟に、二人の男がいた。

「だからそれは、とても嬉しいんです。本当に、本心からそう思っている。飯田さんはいつも、僕のことを真剣に考えてくれているから」

 一人は恰幅の良い男。もう一人は眼鏡を掛け、瘦せこけた男。

「だったら迷うことないじゃないか神田君。後はボクに任せて」

 恰幅の良い方が飯田、痩せこけた方が神田。飯田は神田の細い肩に片方の手を置き、もう一方の手の親指を立てた。神田の反応は、それでもどこか煮え切らない。

「でも、どんな状況になっても、やっぱり人を殺すのは……」

「何言ってるんだよ。世の中にはね、確実に、一定数以上いるんだよ。死んだ方が良い人間ってのがさぁ」

 飯田は額から汗を滴らせている。夏の夜は蒸し暑く、鞄からペットボトルの水を取り出してグビグビと煽った。

「それでも、一応今は僕の妻ですし」

「本気で言ってるのそれ。無意味な暴力を受けて、自分は働きもせず、神田君の通帳握って稼いできた金の自由を奪って。あげく向こうは神田君を放って男遊びしているんだろ? 目を覚ませよ神田君。大体、君の方から、嫁をなんとかしたいって言ってきたんじゃないか」

「たしかに、そうだけど……殺すとか、そういうことでなく……」

 神田の顔色は悪くなる一方だった。

「大丈夫。君は何もしなくて良い。ただ、自分の妻にしっかりと保険を掛けて、後は三か月くらい、普段通り過ごしてくれたらいいからさ」

 それ以降、神田は何も言わなくなった。



「ただいま」

 家に帰ると、鍵は開いていたが、部屋は暗かった。妻は既に眠っているようだ。部屋着と替えの下着、バスタオルを手に取って浴室へ向かう。汗まみれのスーツを脱ぎ捨てて、シャワーを浴びる。出始めは冷たい水が出たが、火照った体には丁度良い気がした。椅子に腰かけ、頭からシャワーを被る。そのままぼんやりと、彼女のことを思い出していた。


「あんたもいつまでも一人でいないで、そろそろ結婚した方が良いと思ってさ、お見合い、組んでおいたから」

 母からそう告げられたのは五年前。しがない実家暮らしの四十代サラリーマンをしている僕を見兼ねてか、思い切った行動に出たようだ。

「え、急に何言ってるんだよ。行かないよ僕」

「あんたこそ馬鹿言ってんじゃないよ、これはあんたの為を思ってやってるんだからね。まだ外に出歩いて遊んだりしているならまだしも学生の時から女っ気なしで、大人になっても仕事がなければ一日中引きこもり。出会いなんて、これくらいしないとみつからないんだから」

 そう言われると、何も言い返せなかった。家は一人っ子だし、両親も、自分が元気なうちに孫の顔がみたいのだろう。

「でも、そんな急に。大体、相手の人は……」

 言いかけると、母は薄ら笑いを浮かべて僕の向かい側へ座り、テーブルの上に一枚の写真を差し出してきた。

「この方、お父さんの古い知り合いの娘さんらしいんだけど。歳はまだ二十七歳だって。とーっても綺麗でしょう?」

 写真を手に取り、女性の顔を確認する。確かに、とても美人だった。

「そ、そんな人なら、なおさら僕みたいな奴より良い人一杯いるだろうし」

「ところが、向こうからあんたに会いたいって言ってきたんだよ。まぁセッティングは済んでるし、一度会ってみて波長が合わないなって思ったら、無理にとは言わないからさ。無理矢理くっつけてお互いにバツ一つ増やしても嫌でしょ」


 それからは、あれよあれよという間に話が進んだ。初めて会ったその女性は、気品のある所作に、話し方もどこかお淑やかで聞き上手。そのせいか、ペラペラと僕は自分のことを話してしまった。これまでの女性経験や趣味のこと、結婚してからのこと。相手の話を聞いている余裕なんてなかった。そんな僕の、どこを気に入ってくれたのか、結婚は彼女から申し入れられた。

「貴方となら、死ぬまで一緒に歩めると思ったんです」

 そんな風に手を握られて、悪い気分になるわけがない。僕は彼女の手に誘われるまま、その半年後には彼女と結婚していた。


 結婚して、二人で居を構えてから、徐々に彼女は自分の本性を現した。

「ねぇ、アイスが食べたいんだけど」

「そうなんだ、それじゃあ明日帰りに買ってくるよ」

「そうじゃなくて、今食べたいの」

「うーん……今日は疲れてるんだ、明日じゃ」 

 ダメかな。そう言おうとしたところで僕の顔はあらぬ方向へはじけ飛んだ。

「今食いたいから言ってるんだろが」

 平手打ちをされたと気付いたのは彼女がその場からいなくなった後だった。あまりの衝撃に、僕は朝が来るまで、その場から動けなかった。


「ねぇ、これからのことなんだけど。家計のこともあるし、これからは貴方の口座の管理、私がするね」

 数日後、彼女は僕の銀行口座の通帳をペラペラと捲りながら、そんなことを言った。

「え、いや。それは僕の個人口座だから……作るなら家用の口座作って、そこに振り込んで貯金するとか、考えようよ」

「……ホント馬鹿ね、貴方。貴方普段から仕事しかしてないから脳が死んでるでしょ? だから家の支払いとか食事代とか計算出来ない。ちょっと中身確認してみたけど、その年で幾らも貯金がないのがその証拠。だから、私が貴方ごと管理してあげるって言ってんだよ。これは貴方の為でもあるんだから」

 その言い分にはたくさんの綻びがあった。貯金がないように見えるのは結婚資金や新居に貯金を使ったからだし、二人で生活し始めてから僕一人の働きに対して食費や不要な雑費が嵩んでいたからだ。お金のことを気にするならまずは生活を改めたり、彼女もバイトなりして稼ぐ方がよっぽど現実的だと。そう言い返せば良かった。

「うん……そう、だね」

 だが、僕は言えなかった。


 やがて、彼女が家にいる日は少なくなった。それと同時に、通帳の残高が目に見えて減っていった。僕は家に帰ってからご飯を食べるでもなくシャワーを浴び、直ぐに寝るという、以前の生活サイクルに戻った。


「ねぇ、ちょっと」

 久しぶりの休日。自室で眠っていると、彼女に叩き起こされた。寝ぼけた頭で眼鏡を探し出し、彼女を確認すると、ずいぶん派手な化粧を施している。彼女と出会ってから、初めて見た彼女の姿だった。

「な、なに……?」

「今から家に友達連れてくるからさ、今日一日家出ててくれない?」

「あ、いや。それなら勝手にしてくれていいよ、僕は邪魔しないよう寝ながら本読んだりしてるからさ」

 そう返すと、僕に聞こえる大きな声で、彼女が舌打ちし、それから僕の頭を叩いた。

「そうじゃなくてさ、察しろよ。そういうことじゃないの。とにかく、早く起きて出てって」

 僕は寝間着のまま、外に放り出された。どうすることも出来ないので、その日は漫画喫茶で一日を過ごし、夜になって家に帰った。家に入った瞬間、むせ返るほどの香水の匂いと、酒の匂いが鼻に飛び込んできて、思わず口元を手で覆った。


 そんな生活も三年が経つと、慣れが生じてくる。彼女からの連絡はメールかショートメッセージで届くようになり、その指示に合わせて僕は行動した。僕も、極力彼女とは顔を合わせたくなかったから、都合が良かった。



 男は、久しぶりに実家に帰った。彼の両親はとても驚いた顔をしていたが、男は構わず自分の部屋だった場所へ向かった。

「その……あんた新居に越す時、部屋にあった物殆ど持って行ったでしょ? だからあんたの部屋、今父さんの部屋になってるんだわ」

 母親はどこか気まずそうに作り笑いを浮かべそう言った。男はなるほど、とどこか納得したようにそうなんだねと無表情で返した。

 その日の夜、男は飯田に電話を掛けた。

「大丈夫。絶対に君に迷惑はかけないから。良く言ってくれた。大丈夫、君の為に、ボクも頑張らせてもらうよ」


 半年後、男の妻がなくなった。交通事故だった。男は、少しだけ悲しい気持ちを抱えながら、事故でボロボロになった妻の遺体を見つめる。付き添いの警察官が二人、後ろで神妙な顔を浮かべ、そっと手を合わせた。


 事情聴取や葬式、諸々の行事が終わる頃、男の手元には何百万というお金が入った。通帳の残高に、見たことのない桁の金が振り込まれているのを見て、男は虚しさを覚える。一体このお金に、どんな価値があるのだろう。


「確かに。二百万、振り込まれているのを確認したよ。辛いところごめんね神田君」

「いや……僕なんかより、キミの方が辛いでしょ、人殺しの手配なんて」

「なぁに、キミの為ならいつでも力を貸すよ、ボク達友達だろう?」

 その言葉に、神田は胸に針が刺さったような痛みを覚えた。

「……そうだね」

「とりあえず、そのお金で旅行にでも行きなよ。仕事はもう辞めたんだよね?」

「うん……やめたよ」

 神田は、自分を引き留めた上司の言葉を思い出していた。

「ボクなんかが言えたことじゃないかもしれないけれど……これからは自分の為に生きるといいよ。きっと今より楽しく生きられる」

「それは……」

 僕には無理だよ。そう言おうとして、神田は言葉を呑んだ。

「……うん、ありがとう。それじゃ」


 電話を切ったその時、神田は思いついてしまった。自分がこれまで考えてきたこと、その問題の回答を得る方法を。



ずっと考えていた。

本当は皆、誰かのことなんか考えちゃいない。

人は、自分自身の為にしか生きることなんて出来ない。

誰かの為なんて、嘘っぱちだ。

それらは全部、自分が得をするための口実だ、詭弁だ、言い訳だ、建前だ。



 高層ビルの屋上。どうやって忍び込んだのか、男が一人立っていた。

男は大きなアタッシュケースを抱えて、ビルの端に佇んでいた。あと一歩踏み出せば、十数メートル下の地面へ真っ逆さまというところに、男は立っている。

 男は一度大きく深呼吸をして、それから今から自分が着地するであろう周囲を見た。それなりの交通量がある、自分が落ちれば、間違いなく注目されるだろう。

 男は目を閉じ、そっと体を中空に預けた――。


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