第27話

 そして金曜日。

 夜の7時に待ち合わせしたサエコとマリンは、駅前のスーパーに寄ってから、サエコの自宅へと向かっていた。


 買い物袋の中には、大量の野菜と鍋のもと、チューハイやおつまみが入っており、歩くたびにガサガサと袋が揺れる。


 とうとう呼んでしまった。

 イツキ以外の女性を家に上げる日が来てしまった。


 やべぇ……。

 掃除してねぇ……。


 前日か前々日でいいだろう、と余裕ぶっていたら、仕事が立て込んで体力的にもヘロヘロで『ありのままのサエコ邸』といった様相をていしている。


「私の家、本当に汚いから」

「なら、尚更なおさらですよ。一緒にお掃除しましょう」


 日本広しといえども、パパ活女子に家事を手伝わせるのなんて、サエコくらいではないだろうか。


 イツキのせいだ。

 急に家から出ていったから。

 なまじ部屋を掃除してくれていたせいで、サエコが一切の家事をやらなくなった結果、イツキがやってくる前より悪化している。


 お願いです、神様、羽虫が湧いていませんように、と祈願しながらドアを開ける。

 するとマリンは、わぉ、と言ってから買い物袋を落としてしまった。


「思ったよりきれい……と伝えようとしましたが、やっぱりやめておきます」

「だから見せたくなかったのに〜!」


 まずゴミ箱からあふれた牛乳パックが床に転がっている。

 その隣にはエナジードリンクの空き缶が3つ、しかも若干中身がこぼれている。


 もっともマリンを呆れさせたのは、シンクのところに並んだ使用済みコップの数々。

 コーヒーの残り汁が泥水みたいににごって、そこそこの悪臭を放っている。


 脱衣所には脱ぎ捨てたストッキングが海岸のワカメみたいに落ちていた。

 最後に洗濯機を回したのは4日前か、それとも6日前か。

 もう恥ずかしすぎて死にたい。


「うわ、タオル貯金じゃないですか〜」


 ベッドの布団をめくってみると、壁との隙間にハンドタオルが挟まっており、ティッシュみたいに次から次へと出てくる。

 マリンがそんな惨状を見逃してくれるはずもなく、


「いつかカビを生やして、出て行く時に修繕費を請求されちゃいますよ」


 鬼のように冷たい視線を注がれた。


「うん……だよね……知ってる」


 サエコが中学生や高校生だった頃、母親が『あんたも少しは自分で掃除しなさい!』と目くじらを立てていた記憶がよみがえってきて急に頭が痛くなった。


『いいじゃん、自分の部屋なんだから〜』

『他人に見せるわけでもないし〜』


 当時はそう思って直さなかったが、こんな風にダメージを受ける日が来ようとは……。


「サエコさんってアレですね。家事とか絶対にできない典型的なタイプですよね」

「うぐっ……」


 毒を吐くだけ吐いたマリンは、散らかっているゴミを拾い始める。

 サエコもできる部分から着手していった。


 掃除が難しいわけじゃない。

 コンスタントに掃除するのが難しいだけ。


 イツキの場合、トイレを掃除するのは何曜日、みたいなルールを決めているらしいが、つい先延ばししてルールを破ってしまうのだ。


『仕事はできるくせに、なんで家の掃除ができないかな〜』


 イツキの手痛い一言を思い出して泣きたくなる。


「でも、サエコさんの不衛生なところ、嫌いじゃないですよ。ギャップ萌えです」

「言わないで!」


 トイレの掃除、どちらがやります? と話を振られた。

 もちろん、サエコが全力できれいにしておく。


「私のバカバカバカ〜!」


 マリンはあんな性格だから、サエコがちゃんと掃除しているか、定期的にチェックしにきそう。


 これも自分を変えるチャンスだろうか。

 殊勝しゅしょうなことを考えながら便器をゴシゴシしていると、部屋にいるマリンから声がかかった。


「ここの下着類って、洗ったやつですか? どこに仕舞えばいいですか?」

「それは見ちゃダメ!」


 一週間分の下着をばっちり見られたサエコは、クーラーが効いた部屋の中で冷や汗をかきまくった。


        ◆        ◆


 掃除を苦手とするサエコであるが、ピカピカになった我が家を見るのは気持ちいい。


「おおっ! これが例の!」


 一度も使われることなく放置されていた仕切り鍋をマリンが嬉々として開封する。


「本当に使っちゃって良いのですか? 例のご友人と鍋を囲むために買ったのですよね?」

「いいのよ、別に。宝の持ち腐れだったし」


 鍋の底に反射しているサエコの顔は力なく笑っている。


「じゃあ、使いましょう! サエコさんのお鍋が泣いています!」


 台所に立って一緒に野菜をカットした。

 先月までイツキが使っていた包丁をマリンが握るのは、とても不思議な現象という気がした。


 そういや、この二人……。

 身長がほとんど同じだな。


 イツキはいつもシューズやスニーカーを履いていて、マリンはかかとの高いブーツを履いていたから、てっきりマリンの方が高身長かと思っていたが、よくよく観察すると同じくらい。


 なんかいいな。

 マリンの目線がいつもより低いから、その分親近感がある。


「玉ねぎの皮むき、お願いできますか」

「は〜い」


 サエコだってこのくらいはできる。


「マリンちゃんのネイル、大丈夫? お料理していたらはがれない?」

「ああ……金属でこすっちゃうとダメージを受けますが」


 注意していれば問題ないらしい。


「でも、素手でハンバーグをこねたりはダメですね。お米を研ぐのもそうですが、やっぱり不衛生というか、ネイルがはがれて食べ物に入ったら嫌ですし」

「ふ〜ん、できることが限られるのね」


 こういう会話をすると新婚夫婦みたいで楽しい。

 というか、マリンみたいなお嫁さんが欲しい!


 でも、マリンってノンケだよね?

 それともバイセクシャルなのかな?


 ぐぬぬぬぬ……。

 マリンをそっち側に目覚めさせてあげたい! という最高にダメな欲望が頭をチラつき、手のひらを爪で痛めつける。


「はい、サエコさん、次はミニトマトのヘタを取ってください」

「お鍋にミニトマトって、本当に大丈夫なの?」

「これが意外に合うのです」


 野菜のカットが終わったらカセットコンロに鍋をセットしてスープを沸かした。


 味は2種類ある。

 片方がちゃんこ鍋でもう片方がキムチ鍋。

 どちらもサエコの大好物だ。


 マリンは冷蔵庫から缶チューハイを取り出すと、一本をサエコに渡してきた。


「一週間、お仕事お疲れさまでした」

「ありがとう」


 買っておいたサラミやチーズも開封する。

 同じ宅飲みでも、イツキの時はコスパ重視であり、ピーナッツやポテトチップスが並んだりする。


 サワーを飲んで、ふう、と一息ついたマリンが室内をキョロキョロした。


「こうして掃除してみると、サエコさんの家はキャリアウーマンって感じですよね」

「まあ、可愛い小物とか、お出かけ用の洋服とか、あまりないかも」


 マリンが指さしたのは本棚。

 専門書や資格系の方が半分を占めている。


「やっぱり皆さん、たくさん資格を取られるのですね」

「人によるかな。持っていない人は1個か2個だよ。ほとんど自己満足みたいなものだし」


 とはいえ資格を大量に持っているエンジニアはおおむね優秀なのも事実。

 ナオヤなんか大小30の資格を保有しており、これは帝斗システム内部でもかなり多い方とされている。


「そうだ」


 サエコは自分の名刺を取り出した。


「資格もピンキリでね。取るのが難しいとされる難関資格の場合、XXX認定〇〇スペシャリストとか名刺に印字できるのよ」

「おお、すごいです! デキるサラリーマンという気がします!」

「うん、自己満足だけれども、会話の糸口にはなるかな」


 野菜に火が通ってきたので、つまみを調整して火力を弱くする。


「あっちの可愛い本は何ですか?」

「これは本じゃなくてね……」


 サエコは席を立ち、持ってきたアルバムをテーブルに広げた。


「大学の卒業旅行。サークルの女の子6人で行ったんだ。みんなで撮った写真をシェアして、同じアルバムを6冊作ったの」


 旅行会社が用意しているツアーで、ロンドン、パリ、ベルリンを巡るやつ。

 他の参加者たちも全国からやってきた大学生ばかりだった。


 イツキは『旅行に行くお金があったら、ビールを箱買いしてきて、一週間一歩も家から出ずに、出前だけで生活してみたいよ』なんて性格だから、サエコが無理やり温泉旅行に連れていった。


 あれから4年ちょっと。

 老けちゃったな〜、とサエコが自虐っぽいことを考えていると、


「サエコさんは全然変わりませんね。眼鏡は今の方が格好いいです」


 マリンは優しくほほ笑んでくれる。


「一緒に卒業旅行した皆さんと会ったりするのですか?」

「向こうが東京に出張してきたらね。住んでいる場所がバラバラなんだ。中には地元に再就職しちゃった子もいるし、結婚式の時に会って、2年ぶり〜、とか挨拶あいさつしたり……」


 温かい鍋を二人で囲んでいると、大学時代にタイムスリップしたような錯覚がして、心までポカポカしてきた。

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