第10イヴェ ヨッポー、胸の〈Be@T〉が止まらない

 今回のツアーでは、開催の前の週の同じ曜日の午前十時に、座席位置がスマフォ・アプリに表示されるのだが、京都公演のヨッポーの座席は、一階の十列目の二十三番であった。


 〈座席ガチャ〉


 指定座席番号の発表をそう呼ぶらしいのだが、座席ガチャの直後、もういてもたってもいられなくなって、「ロームシアター京都」「座席」というワードで検索をかけ、ロームシアター京都のホームページで、ヨッポーは既に自分の座席位置を確認していた。

 十列目の二十三番は、ステージ真正面という、角度的には最良のポジションであった。


 二日目の神戸、三日目の高松の座席ガチャの後、オンラインで〈ツアー決起集会〉が行われた。

 その時、参加者の誰かが言っていたのだが、ステージに立つエールさんの真正面の位置を〈ゼロズレ〉と呼ぶらしい。その位置からならば、基本的に〈ポジション〇(ゼロ)〉にいる演者の一挙手一投足を、真正面から観ることができるそうなのだ。

 しかも、ホールの場合はステージが高く、観客がいる一階フロワは、ステージから後方に向かって緩やかなスロープになっているので、八列目から十列目くらいが、ステージ上のエールさんと同じ目線の高さになるかも、とのことだった。


「あたしの場合、〈上手(かみて)〉しか勝たんのですが、十列目中央って、エール・ヲタクの皆さんには、最前よりも最善な〈ベスト・プレイス〉かもしれませんよ」

 そう〈じゅ姐さん〉が言っていた。


 さらに、十列目は、遅刻ギリギリのヨッポーにとっての〈ベスト・プレイス〉にもなった。


 ロームシアター京都のメインホールの一階フロワは、一列目から九列目までが一つのブロックになっている。つまり、十列目の真ん前は通路なのだ。

 そのおかげで、開始ギリギリにホールに飛び込んで来たにもかかわらず、ヨッポーは、スムースに自分の座席までたどり着くことができたのである。

 これが、他の列だったならば、それがいかなる列であれ、これから始まらんとしているライヴを直前に気持ちが昂っている観客たちの前、列と列との間の狭い場所を、チョップ形にした片手を前方に差し出し、「すみません、すみません」と連呼しながら、自分の座席まで進んで行かねばならなかったであろうから。


 ヨッポーが自分の指定位置に辿り着いて、荷物を椅子の下に滑りこませていると、一席はさんで左隣にいる観客が、ヨッポーに声を掛けてきた。

「ヨッポーさん、間に合ったね。よかったわ」

 そう言って出迎えてくれたのは〈ふ〜じん〉であった。

「ほんとうですね」

 そして、一席はさんだ右隣は〈シュージン〉であった。

 二人には、偶然にもヨッポーと隣り合った席が充てがわれていたのだ。こういうのを〈自然連番〉と呼ぶらしい。


 ふ〜じんとシュージンから声を掛けられた直後、ホールの照明が落ち、音が鳴り始めた。

「おっ、〈SE〉ですね」

「よっし、今日も〈現場〉作っていきまっしょい」

 そう言いながら両の掌を大きく一拍叩いたふ〜じんは、早くも立ち上がっていた。

 そんな二人にサンドされているヨッポーは、九分間、一キロ以上もの距離を走ってきたせいで、ライヴが未だ始まってさえいないというのに、既に息も絶え絶えの状態で、胸の〈鼓動〉は激しく脈打ち続けていた。だから、ヨッポーは、マスクの下で必死に息を整えようと深呼吸を繰り返していた。

 返していたのだが、そんなヨッポーの息が整うのを、ライヴは待ってくれはしない。


 ライヴの始まりを告げる楽器の音、ヨッポーは後で知ったのだが、こういう音楽こそが、先ほどシュージンが言っていた〈SE〉であるらしい。

 〈SE〉とは、サウンド・エフェクトの略語だそうなのだが、たとえてみると、これは、スポーツの試合で選手入場の際にかかるBGMみたいなものだな、とヨッポーは連想していた。

 というのも、このSEが流れている最中に、ギター、ベース、ドラム、キーボードといったバンドメンバーが、次々にステージ上に現れ、自分の楽器の方に向かって行ったからだ。


 そして——

 始まりのサウンド・エフェクトの最中に、ステージの背面に、女性のシルエットが浮かび上がり、その数瞬後に、薄い幕が開いて、翼葵こと、エールさんが、ステージの階段を下りて、前に進み出てきたのだ。

 

「キャン・ユー」

 前奏なしで、いきなりエールさんの声から曲が始まり、一曲目、言い換えれば、この日のライヴ、すなわち、夏の全国ツアーが始まった。


 この曲は、六月にリリースされたばかりの、今年の四月期に放映されていたアニメのオープニングにもなっていた、アップテンポのチューンであった。


 曲名は「Be@T...」


 歌声が耳に届いた瞬間、ヨッポーの胸に鳴り響いていた〈ビート〉は、いっそう激しく揺れ動き出した。

 曲の間、ヨッポーの胸を締め付けるような苦しさは、全くおさまる気配がなかった。

 脈打つ胸の下を包む大きな心臓の音は、京の町中を全力疾走した事だけが原因ではない。

 この胸を揺らし続けている〈鼓動〉の理由は、目の前で歌唱しているエールさんの存在だ。


 この二年間、ただひたすらに会いたかった。彼女の歌が聴きたかった。

 空白の二年間、会いたくて、〈愛〉たくて、ずっと胸が苦しかった。

 でも、エールさんが目の前で実在しているこの瞬間、二年もの長い時に作られてしまっていた分厚い壁は壊され、一瞬で過去を乗り越えたかのような感覚を、今、ヨッポーは味わっていた。


 自分は四十歳、〈不惑〉だ。

 「四十にして惑わず」と孔子は言ったらしいが、惑わずなんて少なくとも、今の自分には全く当てはまらない。

 迷い続けている自分は、脆くて弱い存在かもしれないけれど、そんな自分でも、エールさんと未来を歩んでゆくために、俺はこの熱い〈ビート〉を鳴らし続ける。


 一キロの全力疾走直後の激しい曲のせいで、胸は本当に苦しい。

 だが、だがしかし、だ。

 俺は、この〈鼓動〉を決して止めたりはしない! 


 ドント・ストップ・ビートだ。


 そして一曲目が終わって、二曲目のイントロのピアノの調べが流れ出した時、徐に、ヨッポーの脳裏にこんな文が浮かび上がってきた。


 エールさん、あなたの元にある未来、それが僕の最良の居場所


 I will... I will be at you, AiLe. That’s my best place.






「ヨッポー、不惑にして惑いまくる」(ヨッポーの章) 〈了〉

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