第02イヴェ ヨッポー、初めての握手と深い後悔

 八月二十八日の池袋サンシャインでのイヴェントは十八時開始だったのだが、平日の水曜だし、開始の三十分前に会場に到着すれば余裕だろう、と義武は思っていたのだが、それは完全に甘い考えであった。


 噴水広場の周囲のスペースは既に多くの人で溢れかえっていたのだ。

 どうやら、開始の数時間前から、CD購入者に対して、ステージ側で観覧するための整理券が配られており、整理券をもたない者は、その〈有料エリア〉の中に入ることはできないのだ。義武が目にした人垣は、そのエリア外から無料で観ようとしている群衆であった。

 三十分前に到着した義武は、当然、ステージの近くどころか、有料エリアの外周から観覧することさえ難しく、仕方なく建物の上階のバルコニーからミニライヴを観ることにしたのだった。

「アニオタ、こんな早くから集まって、時間が無駄って思わないのかね?」

 階段を昇りながら、義武は周りに聞こえないように小声で呟いていた。


 十八時――

 ついに、ミニライヴが始まった。

 エールさんの歌唱は圧巻だった。

 テレビのスピーカーを通して聴いた歌もすばらしかったのだが、生で耳にした歌声は、吹き抜けの高い天井に届かんばかりの声量もあり、高く澄んだ声は音の矢となって、義武の耳を射抜いた。

 しかも、アニメの曲も、あの放映時よりも長く、さらに、歌ったのは、そのアニメのオープニング曲だけではなかった。

 これまで、一度たりともライヴにもコンサートにも行った事がなく、歌なんてTVやサブスクで、BGMとして聞ければ十分だと思っていたのだが、生で歌を聴くという行為に義武は強い衝撃を受けた。

「し、知らんかった。こ、こんな世界もあったのかよ」


 生まれて初めて、ミニライヴに参加した義武は、終了後に、そのまま会場から立ち去ろうとしたのだが、その時、司会がこう話すのが聞こえてきた。

「はい、握手会参加の方は、そのまま係員の指示に従って二列にお並び下さい」

「な、何ですとぉぉぉ~~~、そんなん、あり得るの!? 歌手って芸能人だろ。そんな御方と握手なんて、できんのかよっ!」

 義武は、隣にいた大学生らしき観客に訊ねた。

「握手会って、どうやったら参加できるんですか?」

 彼が言うに、CDを買えば、参加券がもらえるとのことであった。

「えっ! まじで、それだけで、いいのかよ」

 義武は、ステージ脇の販売テントに急いだ。


 幸運なことに、義武は、最後の一枚の握手券を入手することができ、そのまま流れに乗って握手会の列に並んだ。

 何せ、四十歳手前にして人生初の芸能人との握手だ。何をどうしたらよいのか全くわからない。

 右手で握手したらいいの? それとも左手? やっべ、めっさ手汗かいてきた。

 ハンカチで手をぬぐいながら、握手会の模様を観察していて気付いたのは、オタク達は、単に握手をしているだけではなく、翼葵さんと会話をしているのだ。

「な、何ですとぉぉぉ~~~、握手だけじゃなく、は、話もできんのかよっ!」

 でも、いったい何を話したらいいんだ? 初めまして、いや、曲の感想? 先週アニメを偶然に見ていた時に知りました。歌うまいですね、いや、歌手だから当たり前か? ま、まったく、ま、まとまらん。

 思考がぐるぐる回っているうちに、自分が握手する順番が来てしまった。

「え、えっと、え、エールさん、は、はじめまして……………………………………」

 初対面の挨拶をした直後、話そうと考えていたことは全部、頭からふっとんでしまい、義武は何も言えなくなってしまった。

「わっ、はじめてなんだ。嬉しい。今日はありがとう。またよろしく、ね」

 そう言ってきた、目の前のエールさんの顔を見詰めながら、義武は何度も何度も頷いていた。

 エールさんは、歌声だけではなく、その美貌も麗しく、ありていに言えば、義武のドストライクだったのだ。こんな人がこの世に実在するなんて……。

 呆然と立ち竦む義武に、エールさんから握手してきてくれたのだが、触れ合ったその手は柔らかく、さらに、軽く力を込めて手を上から握ってきてくれたのだ。これまでの人生において彼女がいたことすらない義武は、女の人に触れられた経験も数える程しかなく、この握手によって、完全に心が蕩けてしまった。

 そうこうしているうちに、「はい、ありがとうございます」とマネージャーらしき男性に言われ、義武は、その場から〈剥がされ〉、つまり、遠ざけられてしまった。


 帰りの埼京線の中で、義武は、この日のイヴェントの余韻に浸りながら、ずっと掌に視線を落としていた。

 まだ、先程、体験したばかりの彼女の手の感触と温かさが残っているように、義武には感じられていたのだった。


 どうしたら、エールさんにまた会えるんだ?

 帰宅するや否や、義武は、早速、ファンクラブに入会し、この秋に、全国八ヶ所で行われるライヴハウス・ツアーがあることを知った。

 早速、義武は、チケット販売サイトにアクセスしてみたのだが、東京公演は既にソールドアウトになっていた。たしかに、東京以外の都市は未だ購入可能だったのだが、ライヴのために、わざわざ遠出なんてあり得ない。

 かくして、義武は、この秋の機会を断念したのだった。


 だが、その秋のツアーの開催中に早くも、次の年のツアーの概要が公表された。

 二〇二〇年の春に、全国十四ヶ所を巡るホール・ツアーの開催が決定し、関東では、東京、千葉、埼玉、神奈川といった四ヶ所でライヴが催されるのだ。

 ファンクラブの会員は、先行抽選に申し込みができるらしく、二〇一九年の秋のツアーは、エールさんを知ったのが遅かったばかりに、東京のライヴに行けなかったことに後悔の念を抱いていた義武は、申し込み初日に関東四ヶ所の応募を済ませ、その後、チケットに当選した義武は、春の到来をただひたすらに待ち続ける日々を過ごしていたのであった。


 だが――

 世界規模の感染症という未曾有の事態のせいで、ツアーは、延期の末に、結局、その全箇所が中止となり、義武は、エールさんに会えない事態に絶望的な気分を味わいながら、深い後悔の念に苛まれることになった。


 かつて、エールさんと握手した右の掌に目を落としながら、義武は独り呟いた。

「どうして俺は、『遠出なんてあり得ない』という、あんな無意味な選択を……。その結果、二年もの会えない時間が……」

 義武のその強い思いは、初対面以来、エールさんに会いたくても会えない間に、彼の心の奥底で熱く厚く堆積していったのであった。

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