第03イヴェ ヨッポー、全国ツアーの発表に驚愕す

 二〇二一年五月中旬の、とある平日の正午ちょうどのことであった。

 南森義武のスマート・ウォッチに一つの通知が舞い込んできた。


 義武の勤め先では、昼休みは十二時十分から始まることになっている。だから、十分前とはいえども、通知が届いた十二時は、未だ午前の業務中であった。

 中間管理職という義武の立場上、就業中に、堂々とスマフォやタブレットに触ることはできない行為である。それは、上司や同僚というよりもむしろ、部下に対して示しがつかないからなのだが……。

 実は、スマート・ウォッチに届くように設定しているのは、〈エール〉さんからの通知だけであった。

 だから、一分、一秒、一刹那でも早く、その内容を確認したい、という気持ちは、エゴイスティックなヲタク特有の止むに止まれぬ、否応なき性であり、義武は、時刻を確認するような素振りを周囲に示しながら、澄ました顔でスマート・ウォッチに届いた通知の表題を確認したのであった。


「今夏の全国ツアーが決定!!」


「なっ……」

 大きく目を見張った義武は、驚きのあまり、思わず声を出しそうになってしまった。

 一刻も早くツアーの詳細を確認したくて、仕方なくなった。

 わずか十分とはいえども、昼休み開始までの時間が永遠のようにも感じられ、昼休みに突入するや否や、上司からの、同僚からの、部下からの、ありとあらゆる昼食の誘いを全て断って、義武は、誰にも邪魔されない独りきりになれる場所、トイレの個室に飛び込んで行ったのだった。

「南森さん、そんなに腹が痛かったのならば、わざわざ、昼休みを待たなくてもよいのに。ほんと、きマジメなんだからさ」

 ほとんどの会社の仲間たちは、義武が腹痛のせいで個室に駆け込んだと思ったようだが、真相はトイレの中だ。

 義武は、トイレに入るや否や、ボディーバックに入れておいたタブレットを取り出して、その大きな画面で、通知内容の詳細を確認したのであった。


 なんと、この八月から九月までの二ヶ月に渡って、全国十四ヶ所を巡るホール・ツアーが開催されるとのことであった。

 前年に開催が予定されていた全国ツアーは、感染症のパンデミックのせいで、結局中止されてしまったのだ。今回のツアーは、一昨年の秋のライヴハウス・ツアー以来、つまり、一年九ヶ月ぶりの開催となる。

 義武は、翼葵こと〈エール〉さんのファンになったのが、一昨年の夏の終わりだったため、その年の秋に催されたライヴハウス・ツアーには、折悪く、参加できなかった。

 つまり、義武がエールさんに会えたのは、たった一度きり、新曲のリリース記念イヴェントだけであった。もしも、今夏に開催予定の全国ツアーに参加できた場合、それは、義武にとっては初めてのフルライヴへの参加で、エールさんの生歌を聴けるのは、まさに、ほとんど二年ぶりのことになる。


 実を言うと、義武には、悔やんでも悔やみ切れない一つの後悔があった。

 二〇一九年の八月末にエールさんを知った直後の秋のライヴハウス・ツアーは、行きたいと思った時には既に、東京公演がソールドアウトになっていたのだ。だがしかし、実は、東京以外の公演は購入可能状況だったのである。だが、二年前、その当時の義武には、ライヴに参加するために、新幹線や飛行機を使って、わざわざ遠方地に出向く、すなわち、〈遠征〉するという発想など持ち得なかった。その結果として、義武は、エールさんの生歌を聴ける機会を逸し、今に至っているのである。

 もしも、あの時、〈遠征〉してさえいれば……。

 こうした悔悟の念は、二年近くという月日が経過してなお、義武の頭から消えることなく、否、会えない時間の長さゆえに、ますます、彼の心の奥底に蓄積していったのである。


 今回の全国ツアーが開催される十四都市の内、義武が住んでいる関東地方で開催される、すなわち、日帰り可能なのは、神奈川県の相模大野、千葉県の市川、埼玉県の三郷、そして東京都の渋谷である。ちなみに、渋谷は二日連続の開催だ。そしてさらに、静岡県の静岡市は、たしかに東海地方とはいえども、神奈川県の西に隣接しているため、感覚的には、ちょっとした〈遠出〉ぐらいの距離で、ここも日帰りできる。だから、関東の四ヶ所に静岡を加えた、これら五ヶ所・六公演の参加に関しては、義武はトイレの中で即決することができた。

 しかし、残りの九ヶ所に関しては、埼玉県在住の義武にとっては、新幹線や飛行機を使って移動せざるを得ず、場合によっては開催地で宿泊することになる。つまり〈遠征〉しなければならない遠方地なのだ。

 しかし、二年前の義武にはまったく考え及びもしなかったことなのだが、今回のツアーでは、どこかに〈遠征〉したい、と今の義武は考えていた。

 問題は、どこに行くかだ。

 そんなことをトイレの個室で思案しているうちに、あっという間に時は流れ去り、昼休み終了の五分前を告げる時計のアラーム音が鳴ってしまった。


 今回のチケットの応募は先着ではなく、期間内に応募した上での抽選である。

 だから、まだまだ慌てるような時間では全くない。


 そこで、義武は、〈ヲタク仲間〉たちに、今回のツアーでの初〈遠征〉について相談してみることにしたのであった。

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