嵐の夜 3

 突然の抱擁とキスだった。

 健司の目は真剣で、それでいて優しい色をしている。

「ごめん」

 何に対しての謝罪かはわからない。健司の身体が離れていく。

「草野さん」

 焦燥感にかられていたはずの美紀の心が、落ち着きを取り戻した。

「君は役に立っている。だから無理をするな。セクハラで訴えるなら、この仕事の後に」

 携帯に手をのばす健司の背を美紀は眺める。

 今のはセクハラなのだろうか?

 どちらかといえば、美紀を落ち着かせるための荒療治だろう。

 それは愛でないにせよ、健司がするのであれば必要なことだと思えた。

──嫌なことなんて何もない。

 健司の意図がどうであれ、美紀はハラスメントだとは思わない。

 たとえここで押し倒されたとしても、美紀は健司を受け入れるだろう。もっとも、そうなったら美紀の心は健司の相棒ではいられないけれど。

「はい。車ですか。いえ、こちらも攻撃を受けました。一応大丈夫のようですが、大事をとって朝まで休ませます。わかりました」

 健司が電話をしているのをぼんやりと聞く。

 外はごうごうと雨が降っている。この雨の中、神崎は車で移動しているらしい。

 稲光が眩しい。びくりとするくらいの激しい雷鳴。

──落雷被害もあるのかもしれない。

 窓を眺めながら、ぼんやりそんなことを考える。

「八坂?」

 電話を終えた健司が美紀を振り返った。

「なんでもありません。それで?」

「うん。とりあえず、神崎は相田と一緒に車で高速に乗ったらしい。どこへ行くかはわからない。俺たちは最初の予定通り朝まで待機となった。八坂の体調をみて、明日の朝、神崎を追う」

「今追わなくていいのですか?」

「この雨は神崎が降らせているわけじゃない。すぐ何かを仕掛けることはないだろう」

 健司は窓の外を眺める。

「この支部の霊能力者も追跡に同行している。逃げられることはない」

「はい」

 神崎の狙いはまだわからない。単純に身を隠す場所を探しているのかもしれないし、新たな呪具を作ろうとしているのかもしれない。

「とりあえず今日のところは休もう」

「はい」

 美紀はゆっくり立ち上がろうとしたところを健司に抱き上げられた。

「無理するな」

 健司は美紀を部屋に運ぶと、丁寧に結界を張る。結界くらい自分で張れると美紀は言ったけれど、健司は聞かなかった。

「それじゃあ、俺はこれで」

「待ってください」

 結界を張り終えた健司の背に、美紀は抱き着いた。

 驚いた顔の健司に手をのばし、美紀は背伸びをして唇を重ねる。

「……これで、セクハラはおあいこです」

 健司の顔が朱に染まった。

「八坂」

「おやすみなさい」

「……ああ」

 虚をつかれた健司は呆然としながら扉を出ていく。

──真面目よね。

 お互いいい年の大人なのに、学生のようなキスでうろたえている。

 なし崩しに大人の関係にならないのは、健司が美紀に気がないからなのか、それとも仕事だからなのか。

──両方かもね。

 美紀は大きくため息をつくと、シャワーを浴び始めた。





伊富岐いぶき神社か」

 健司はメールで送られてきた報告書を見て、眉を寄せる。

 昨日の雨はやみ、空はすっきりとした青色をしていた。

 健司と美紀はラウンジで、朝食を早めにとっている。パンとサラダ、ハムエッグという洋食スタイルだ。

 美紀の体調は戻っているらしく、顔色がよくなっていた。昨夜キスをしたものの、お互いそのことには触れず距離感は変わっていない。

 気にしていては仕事ができないのだが、変わらない美紀を見ていると少し寂しい。

「古い神社には力がありますからね」

 昨夜、天然記念物のご神木はぶじだったものの、境内の杉に雷が落ちたらしい。

 今朝未明、神社に現れた神崎はその杉の一部を持ち去ろうとしたようだ。ただ追っていた捜査員は、そこで神崎を見失った。

 伊富岐神社は、祭神がはっきりしない。伊吹山の神多多美彦命たたみひこのみこと天火明あめのほあかりのみこと、八岐大蛇、鸕鶿草葺不合うかやふきあわせずのみことなどと言われている。

 いずれにせよ、七一三年には創建されていたとされる古い神社で、美濃国二宮とされた由緒正しき神社だ。

 なんにせよ、神崎の行方はまだわかっていない。

「……山の力を手にしようとしているのかもしれません」

「山?」

「はい。伊吹山です」

 美紀は頷く。

日本武尊やまとたけるのみことを病にした神があそこにいます」

「日本武尊?」

「草野さんの武器は、あめの叢雲剣むらくものつるぎの形代です。日本武尊は、あめの叢雲剣むらくものつるぎ山に入って、山の神に会ったわけですが」

 美紀は紅茶のカップに手をのばした。

「それでも、あの山には強力な神がいます。草野さんに対抗するなら、伊吹の山の力が必要だと、神崎が考えてもおかしくはないのではないでしょうか」

「山の……力か」

 伊吹山は古くからの信仰の山である。

「レンタカーを用意しましょう。神崎はたぶん、山頂に向かうはずです」

 美紀は手にした携帯をタップした。

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