君の声が届くまで

第1話完結

一番古い記憶は、僕が五歳くらい……かな。


僕はこの街の片隅、薄暗い路地裏で泣いていた。


冷たい雨が僕を濡らして、すごく寒くて。


手を繋いでいたはずの人の手の温もりも、顔も。

みんな忘れて、途方にくれて泣いていた。


助けて……! 神様!


冷たくなった手を握りしめて。

神様にそう願ったその時、僕の目の前に大きな手が現れたんだ。


僕はビックリして顔を上げる。


背の高い若い男の人が、僕に手を差し伸べて。

そして、歯を見せて笑った。


「……」


その人は僕に向かって何か言っていたけど、僕の耳はその声を拾わない。

困ったようにまた笑って、その人は僕に差し伸べた手じゃない方で頭をかいた。


「……」


もう一度、同じ口の形で僕に話しかける。


〝どうした? 一人?〟


僕はそう〝読んだ〟


胸の中の不安が一気に溶け出して、嬉しくて。

僕は咄嗟に、その人の手を掴んだ。


その大きな手は、雨で冷たくなった僕の手を瞬時に暖かくしてくれてた。

僕はその手の暖かさに、すごく安心してしまったんだ。





この街は、色んな人がいる。


いわゆる歓楽街のど真ん中。


いい匂いのホステスさんや、疲れて座りこんでるキャッチ、面倒見のいいニューハーフのママ。


僕はそんな街の片隅に、住んでいる。


と、いっても僕はホストでもなんでもない。

この街にある昔からの薬局にいるんだ。


歓楽街に薬局があるのは、昔からので。

昼間は滅多に来ない客が、夜になるとひっきりなしにやってくるのは、大体お察しくださいってヤツで。


え? そんな所にいたら、毎日うるさいんじゃないかって?


大丈夫。

僕は耳が聞こえないから、全然気にならないんだよ。


僕は生まれつき耳が聞こえなかったみたいだ。

みたいっていうのは、僕は自分の出自が正直わからなくって。

実は僕、小さい頃この街に置き去りにされていたみたいやんだ。

だから、僕の本当の親のことなんて、全く覚えてない。


こんな所に、こんな歓楽街のど真ん中に僕を置いてくらいだから。

きっとやむを得なかったんだろうら。


でも、僕はラッキーだったんだ。


どうしてって?


僕は、そう。

置き去りにされた僕は、この薬局のオーナーに助けられて。

そのままここに居させてもらえたから。

あのまま路地裏に一人、誰からも見つけられなかったら……。

きっと、今の僕はいないわけで。

だから、オーナーは……陽介は、僕の〝神様〟なんだ。


空の闇が、歓楽街におりる。

月曜の夜は、お店も大体閉まっているから。

ネオンも疎らで、薬局に来る人も少ない。


ふと、時計と見ると。

時刻は二十二時を回っていて、僕は、ふぁと伸びをした。


完全に気が抜けたその時、僕は肩をポンと叩かれる。

大きな、暖かい手。

僕が振り返るとその手の主は目を細めて、とても人懐っこい笑顔を見せた。


僕を助けてくれた十年前から、全然変わらない。

その笑顔、その手の暖かさ。

僕はすごく安心して、自然と笑ってしまうんだ。


〝ナオ、おつかれさま。もう客も来ないから、店、閉めようぜ〟


楽しそうに笑うその人は、僕に口を見せて話しかけてくれるから、僕は大きく頷いた。


そうこの人が、僕の〝神様〟陽介だ。





✳︎


俺がまだ高校生で。

親父の薬局を継ぐか継がないかの人生の選択をしていた頃。

俺は小さな子どもと出会った。


なかなか止まない雨が、色味を失った昼間の街を濡らす。


その日、俺はなんだか家に帰りたくなくて、家の近所をうろついていた。


ここは歓楽街。

なんだって手に入る。


そんな欲望にまみれたこの街が、俺は大嫌いだった。


この場所で生まれ育った俺は、人の裏と表をガキの頃から垣間見ていた。

大抵の危ない目には何度も遭遇し、絡まれたりすることは日常茶飯事で。

ましてや家が薬局なんて……。

お察しください、な雰囲気が本当に恥ずかしくて仕方がなかった。

だから、全てを投げだして。

逃げたくなったんだ、俺は。


朝から降り止まない雨は、この街を隅々まで濡らす。

肩に当たるその雨は、ひどく冷たく感じられた。



……あれっ?


雨の音に混ざって、聞こえる。


弱々しい、泣き声……?


猫?


俺は、声のする路地裏に入った。


俺の経験からして、歓楽街の路地裏に入るなんて行為は、昼であっても決しておススメするようなことではない。

いつもなら素通りするところだったのに。

俺は気になって、路地裏の奥に進んだ。

建物の壁の間に、小さな影が見える。


子どもだ!!


いつからこんなとこにいるのか、全く検討がつかなかったけど。

全身ずぶ濡れで震えながら、小さい声で泣くその子に。

俺は思わず、手を差し出した。

その子はいきなり目の前に現れた俺の手にビックリして、俺を見上げる。


小さな顔に黒く澄んだ瞳。

顔を濡らしているのは、涙なのか雨なのかわからないけど。

俺はその子の姿に、心臓が爆発するような衝撃を受けた。


「……どうした? 一人?」


極力、笑顔で声をかけたけ。

その子は、僕の顔をじっと見て答えない。


どうしよう……。


俺はもう片方の手で、頭をかいた。

そしてもう一度、話しかけた。


「どうした? 一人?」


その子は俺の口を〝読んだ〟

小さく頷くと、差し出した俺の手を握りしめて、また泣き出したんだ。


漠然とした思考が、パズルのピースがパチンとはまるみたいに明確になる。


耳が……聞こえない……のか?

 

なんで、こんなところにいるんだ!?


湧き上がる疑問と、胸に渦巻く怒りと。

俺はたまらなくなって、その子をギュッと抱き上げて路地裏から逃げるように走り出した。




子どもを抱えて帰宅した俺を見て。

親父もお袋も目を丸くして「……どうした?」と呟いた。


「どうしたもこうしたもあるか、クソ親父! 見てわかんねぇのかよ! なんか冷たてぇんだよ! 耳も聞こえてないかもしんねーし! テメェ、腐っても薬剤師だろ! だったらどうにかしろよ!」


薬剤師になった今なら、当時の俺に突っ込める。


どうにもできねぇんだよ、俺。


俺の剣幕に、一瞬、硬直した親父とお袋だったが。

すぐさま我に返ると、お袋は風呂をわかしに、親父はタオルをとりに走りだす。

小さなこの子を守りたい、助けたい。

そんな思いが重なって、一家総出でてんやわんやになってしまった。


「ガサツなあんたがこんな小さな子をお風呂に入れられるわけないでしょ! さぁ、おばちゃんとお風呂入ろうねー」


お袋は俺を押しのけて、その子を抱き上げると、サッサと風呂に連れて行く。


「お前が小さい時に着てた服が、こんな時に役立つなんておもわなかったなぁ。おい」


一方、親父は。

斜め上のテンションで、衣装ケースを抱えてやってきて。

今日一番の功労者であるはずの俺は、スイッチがはいった両親に、完全に取り残されてしまった。


手持ち無沙汰で、仕方なく。

俺はその子が脱いだ服を洗濯しようと手に取る。

すると、タグのところに文字が見えた。


〝ナオ〟


……そっか、あの子、ナオって言うんだ。


あの時、俺の手をギュッと握り、頼ってきたあの子。


「ナオ」


その名前を口に出すと、なんだか胸がこそばゆくて。

俺は思わず、笑ってしまっていた。




お風呂から上がったナオは、小さなほっぺたを真っ赤にして。

かつて俺が着ていたであろう、スウェットに袖を通す。


「気持ちよかったねー。おばちゃん、ご飯準備するから待っててねー」


お袋は、ナオの視線まで腰をおろすと、ゆっくりはっきりしゃべる。

その口を〝読んで〟ナオは、小さく頷いた。


「おう! こっちでテレビでもみようか?」


親父がナオの目線で話すと、ナオははにかんで笑う。


「何があるかなぁ? 野球好きか?」


そういいながら、親父はダイニングにナオの手を引いて連れていった。


「母さん、ありがとう。なんか手伝おうか?」


俺は日頃、口が裂けても言わないような言葉を口にした。


「あら、やだ。いつもはしない手伝いとかしちゃう? だから雨が降ってるのねー」

「うるせぇよ」

「あっちの棚からお皿だして」

「……結局手伝わせんのかよ」


お袋は、カレーの入った鍋に視線を落としてポツリと言った。


「あの子賢い子ね」

「え?」

「お風呂に入ってる間、ずっと私の口元みて一言一句もらさないようにしてたの」

「へぇ、すげぇ」

「体にアザとか全くなくて、歯も虫歯なんて一本もないのよ。きっと今まで大事に育てられてたのね」


その瞬間、ナオを抱き上げた時に感じた怒りが、再び胸の中で渦巻く。


「じゃ、なん……で? 路地裏に一人でいたんだよ!!」


そんなに大事だったら、なんで一人にするんだよ!

俺は絶対そんな事しない!

自分の……親の、エゴじゃねぇか!!


お袋は、俺の頭をポンと叩いた。


「大人には色々あんのよ」

「色々って!!」

「いつも犠牲になるのは子どもだけどね。ここいるとそんな事ばっかり見えてくるわね。あんたもそうでしょ?」

「……」


俺はお袋の言葉に、言い返すことができなかった。

そんな俺の頭をポンと叩くと、お袋は続けた。


「あの子はきっと、あんたのことを待ってたのよ」


俺とお袋は、親父と一緒にテレビを見ているナオに視線を向ける。

その姿に、俺はつい本心を吐露した。


「耳が聞こえないって、どんな感じかな?」

「陽介……」

「俺、ナオの兄ちゃんになりたいな。ナオの耳になって色んな事を教えてやりたい。ナオの声になって色んな事を話してみたい。……母さん、ダメかな?」


お袋は目を見開いて驚いた顔をしていたが、すぐに目尻を下げて笑った。


「いつも斜に構えているあんたが、そんなこと言うなんて珍しいわね。きっと父さんもあんたと同じ気持ちよ。私だってそうよ」


その一言に俺は、涙が出そうになる。


その子の命を救えた。

これから先に必ずくる、幸せを繋げることができた。


たったそれだけだけど。

俺はすごく嬉しくて。

ナオに選ばれたんだって、思えて。


そして照れ臭いけど。

親父とお袋の子どもで、よかったって思ったんだ。



その日食べたカレーは、今まで食べた中で一番うまかった気がする。


その証拠にナオは口いっぱい頬張って、美味しそうにカレーを食べていて。

渦巻く怒りが、幸せに溶かされたように感じたんだ。


その夜、俺はナオと一緒に寝た。

というか、ナオが俺から離れなかったって言った方が正しい。


「あんた寝相悪いから。くれぐれもナオを蹴っ飛ばさないようにね」


お袋の余計なアドバイスのおかげで、俺は寝返りをうつにも緊張したけど。

隣で俺の腕をギュッと抱きしめて寝ているナオが……。


すごく、すごく。

愛おしかったんだ。





✳︎


おばちゃんと口話教室に行った時。

僕は先生にお願いして、一つの言葉を教えてもらった。

はじめはなかなか出来なくて、すごく泣きそうになったけど。

だんだんコツがわかってきて、最後は先生に褒められるまでに上達して。

僕は、ワクワクしながら家に帰って。

そして、言ったんだ。


「ようすけ」


陽介は、僕を見てすごくびっくりした顔をして、ポロポロと涙を流して泣きだしてしまった。


僕はびっくりした。


何? 僕、何かした?


陽介は、僕を抱きしめてずっと泣いていたから。

僕は、どうしたらいいのかわからなくて……。

よく陽介が僕にしてくれるように、大きな陽介の背中を優しくなでた。

しばらくして、陽介が僕にゆっくりと言った。


〝ナオの声、とてもキレイだ。あんまりキレイだから嬉しすぎて泣いちゃった。ありがとう、ナオ。今までで一番嬉しいプレゼントだよ〟


そう言うと、陽介はもう一度、僕を抱きしめたんだ。




陽介に言わせれば、僕は〝隙だらけでおっちょこちょい〟らしい。

僕が何かをしようすると、心配しすぎて具合が悪くなるそうだ。

僕だって、もう小さな子どもじゃない!

そんな事を言われると、ついムッとしちゃう!


……でも、まあ。言われてみれば。


バスに乗ったら居眠りしちゃって、どこだかわからない終点まで行ったことも。

薬局で酔っ払ったオジサンに、お尻をなでられたことも……あったな……アハハ。


その度に、陽介が僕を助けに来てくれた。

本当だ。

僕は結構、色々とやらかしちゃってる。

だから僕は、しっかりして、陽介の負担にならないようにしなくちゃって。

そう決意したんだ。


〝ナオ?〟


突然、僕の目の前に顔が現れて。

あまりの距離の近さに、僕はすごくびっくりした。

その人は、僕を見て笑い出す。


〝どうしたの? 考え事?〟


切れ長の大きな瞳に、すっとした鼻筋。

背が高くて、だれもが振り返るくらいのイケメンが目の前で笑ってる。

良之だ。

良之は、陽介の幼馴染なんだって。


あ! でも! 陽介だって、良之以上にカッコいいんだからね!


〝仕事中にぼんやりしたらダメだよ?〟


良之はそう言って、僕の頭を撫でるから。

僕は耳が一気に熱くなるのを感じた。


〝かわいいーっ! 耳が赤くなってる!〟


良之はさらに笑いながら、僕の頭を更に撫でる。

完全に子ども扱いだ。

一瞬で決意が萎えてしまうくらい、良之せいで一気に脱力してしまった。

その時、僕の肩に大きな手の感覚がして、僕は振り返る。


〝良之、来てたんだ。久しぶり〟

〝仕事がたまたま近くだったんだ。久しぶりに陽介の顔でも見とこうかと思って〟


良之は、僕の頭に手を乗せたまま答えた。


〝ナオ、見ない間に背が伸びたね。ますますかわいくなったんじゃない?〟


かわいいって……僕、男なんだけど。


〝上がってく?〟

〝そうだね、久しぶりだし〟

〝ナオ、悪いけど一人で閉店の準備してくれないか?〟


陽介の言葉に、僕は大きく頷いた。

任せてよ!!

閉店の準備を一人でするのは、初めてじゃないよ!!

大丈夫!!


二人が奥に入ったのを見送って、僕はシャッターを閉めようと外にでた。


……視線を感じる。


最近、よく感じるこの視線。

鋭くて冷たくてイヤな感じ。


僕は視線の先を見ないように、淡々と作業を進める。


瞬間、僕は何かに激突されて、シャッターに叩きつけられた。


頭を思いっきりぶつけて、目から星がでる。

立ち上がれないでいると、フードを深く被った男が、僕に馬乗りになってきたんだ!


頭をぶつけたせいなのか、僕の抵抗は空回りして。

その間にも、男は僕の胸元を強く圧迫する。

息が苦しくなった。


〝助けて!! 陽介!!〟


僕は助けを求めた。

声にならない声が、頭にこだまする。


どんどん息が苦しくなって……。


僕は、ありったけの力を込めて叫んだんだ!!


「ようすけ!!」


--スッと。


いきなり、僕はすべての圧迫から解放された。

肩で息をする僕を、良之が優しく抱き起こされた。

視線を横にやると、男はグッタリと倒れていて。

男の近くに、陽介の姿を見た僕は。

安心して、思わず小さく笑う。

陽介は僕に向き直ると。今にも泣きそうな顔をして僕を抱きしめてきた。


大きな背中が、震えてる。


陽介の息が僕の耳にかかって、何か言ってるみたいだった。

ごめん、僕。

ちゃんと……決意したのに。

陽介は僕の顔を両手で覆うと、涙を目にためて僕に言った。


〝届いた……届いたよ! ナオの声! 届いたよ! ごめんな、怖い思いさせて……ごめんな〟








✳︎


ナオはうちに来てからというもの。

明るくてかわいくて……かなり、危なっかしかった。


俺が大学生の時もそう。

たまたま学校帰りに、公園で遊んでいるナオを見かけた。

ナオはブランコにのって、高く高くこいでいて。

かわいいなぁ、なんて呑気に眺めてると、ナオが俺に気付いてニッコリ笑った。


「ようすけ!」


次の瞬間、ナオは両手を離して手を振る。


手ェ、離すなよ! バカッ!!


ブランコから体が離れたナオは。

そのまま大きな放物線を描いて、小さな身体が宙を舞う。


……心臓が、マジで止まるかと思った。


ナオの体は伸び放題の植え込みに落ちて、俺はカバンを放り投げて、ナオにかけよる。


「ナオ! 大丈夫!? ナオ!!」


俺は、植え込みに埋まったナオの体を、必死で抱き上げた。

どうか……どうか、無事でいて!

そんな俺の心配をよそに。

抱き上げられたナオは、バツの悪そうに唇をかんで笑っていた。


「ナオ!! どっか痛いとこないか!?」


俺の必死な問いかけに、ナオは首をふって答える。

伸び放題の植え込みのおかげで、ナオは意外にも無傷で。

無事を確認した瞬間、俺は全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。

あとでナオに聞いたら、俺を見つけて嬉しくなって、ブランコに乗ってることを一瞬忘れたらしい。


そんな感じで、万事、ナオは危なっかしい子だった。


手を繋いでいないとすぐいなくなってしまいそうで、気が気じゃない。

俺の寿命が見えるとしたら、すでに三十年分くらいは消耗してるんじゃないか?

それくらい、ナオの行動は、俺の体に悪かった。


それから何年か経って。

俺が薬剤師の国家試験に合格した数日後、お袋が倒れた。

ガンだった。

わかった時は、手の施しようがないくらいで。

それでも明るく振る舞うお袋に、何もできない自分がとてももどかしかくて……。

そんな何もできない、情けない俺とは反対に。

ナオは、お袋の側にずっと寄り添っていた。

お袋と一緒に料理をしたり、手を添えて話をしたりして。

最後の最後まで一緒に、寄り添っていて……。

ナオはお袋の柩を見つめて静かに泣いていた。

はらはら落ちる涙が儚くて、小さく震える細い体が壊れてしまいそうで。

そのままナオも、お袋と一緒に消えてしまいそうで……。

そう思ったら心がギュッと苦しくなった。

お袋が逝って、それから。

親父もめっきり元気がなくなって、よく体調を崩すようになった。

ナオはお袋にしていたように、ずっと親父にも寄り添っていて。

お袋が亡くなってから二年後に、親父はお袋のところに逝った。


あんなに賑やかだった家が、本当に静かになって。

俺とナオの二人きりになってしまったんだ、と初めて実感した。


それでも、俺たちは毎日楽しく過ごしていた。

多分、ナオが必死だったんだ。

親父とお袋がいなくなった分、ナオが俺に見せる笑顔も多くなった。

多少なりとも、ダメージを受けていた俺を元気づけようとしているのが、手にとるようにわかっていたのに。

俺は、そんなナオについ甘えてしまっていて。

危なっかしいナオに、気を使わせている。

〝頼りないかなぁ〟と思う反面。

ナオと本当の家族になれた気がして。

嬉しいような、こそばゆいような、そんな気持ちになった。

その時は、多分気付いてなかったんだ。

家族以上に、ナオが愛おしいと思っていることに。



そんなある日、事件がおこった。


ちょっと前から変な気配は感じていた。

ナオがまた変なノを呼んだのかと、俺は気にもとめていなかったんだ。

いざとなったら、俺が守るから大丈夫って。

そんな時、久しぶりに幼馴染みの良之が訪ねてきた。

良之は警察官になったけど、忙しそうでなかなか会えないでいたから。

そう、親父が亡くなった以来だったから。

話をしたくなって、ナオに閉店をお願いして、俺と良之は部屋に入った。


「どう? 少しは元気になった?」


良之は、優しい声音で言った。


「あぁ。ナオのおかげで、だいぶ立ち直ってきたよ」

「ナオは、いい子だもんね。かわいいし」

「……良之、あんまりナオをからかうなよ」


その時、店の外でガシャーンと音がした。


俺と良之は目を見合わせると、慌てて店の方に走る。

瞬間。


「ようすけ!!」


ナオの叫び声が聞こえた。


心の中が不安で乱れる。


地に足がつかない状態で外に出ると。

ナオがフードを深く被った男に倒され、押さえ込まれていた。


抑えきれない怒りと不安が一気に加速して、頭に血がのぼる。


勢いに任せて、俺は男に膝蹴りをした。

男♡吹っ飛んで、まるでスローモーションのように倒れ込んだ。


ナオは!? ナオは大丈夫!?


振り返ると、良之がナオを優しくゆっくりと抱き起していた。


ナオの不安げな瞳に、チグハグな笑顔。


……無事だ!! よかった……!!


安心したら、泣きそうになって……。

俺はナオにしがみつくように抱きついていた。


「一人にしてごめん……」


そう呟くと、俺はナオの小さい顔を両手で覆う。

怖かったよな、ごめん。

一人にしないって誓ったのに、守れなくてごめん。


でも……俺は。

「ようすけ!!」って叫んでくれて、頼ってくれて……。

俺はすごく、嬉しかったんだ。





✳︎


あの事件以来、陽介は僕に対してかなり過保護になってしまった。

僕の気配を常に意識していて、少しでも気配が消えると僕を探し回る。


結局、僕のせいなんだ。

僕が〝隙だらけでおっちょこちょい〟だから。

たまに僕を見る陽介の目が、とても悲しそうな色をしていて、僕は心がとても苦しくなる。


そんな顔しないで……ちゃんとしっかりするから。

笑ってよ、陽介。




僕の唇の下にはホクロが三角形みたいに並んでいて。

陽介が「星座みたい」って言うから、僕は星座を見るのが好きになった。

この街は明るすぎて、星空は見えない。

だから郊外にできた大きなプラネタリウムに、僕はどうしても行きたかったんだ。


〝陽介。プラネタリウムに行こうよ〟


僕は手話で陽介に言った。

陽介は少し笑って、困った顔をする。


〝そこ、すごく遠いよ。帰ってくるの夜になっちゃうよ〟

〝でも、すごくキレイなんだって。ここに行ければ、他のものはすべて我慢するから。お願い〟


陽介は悲しそうな目をして、僕から視線をはずした。


なんで?

なんで、そんな顔するの!?

ちゃんと僕の目を見て!!


僕は、陽介の顔を両手で挟むと強引に僕の方にむけると。

驚く陽介を無視して、僕は一気に手話で捲し立てた。


〝なんで目をそらすの!? ちゃんと僕を見て! 僕はここにいるんだよ! ちゃんと僕の話を見て! 僕は! 僕は……〟


そこまでまくし立てて、僕は胸がいっぱいになってしまった。


涙が溢れる。

つい、流れ落ちる涙と一瞬に。

抱えていた気持ちが、洪水のように溢れ出た。


〝僕は……陽介が、こんなに好きなのに!〟


あんなに行きたかったプラネタリウムなんて。

もう、どうでもよくなった。


陽介の笑顔がみたい。

ギュッと抱きしめてもらいたい。


……好きって、言ってもらいたい。


僕は、目を閉じた。

僕は陽介の頬をもう一度両手で触れると、そのまま、陽介の唇にキスをする。


陽介、好きだよ。

すごく、すごく、好き。

僕をあの路地裏から助けてくれた時から、ずっと好き。


こんなことをして……僕はもう、ここには居られないかもしれないけど。


後悔はしたくなかったんだ。


僕は唇を離すと、陽介を見上げた。

陽介の瞳が赤くなって、今にも泣きそうになっていて。

僕は陽介の頬から手を離した。


「!?」

「行かないで……ナオ」


陽介から離れようとした僕の体を。

陽介はグッと、胸に引き寄せた。

僕の背中に回した腕に、力がこもっていて。

陽介の大きな背中が、小刻みに震えていた。


僕の胸は押しつぶされそうに苦しくなった。


ごめん陽介、そんな顔、しないで……。


陽介は僕をまっすぐ見て言った。


〝ナオが……ナオが、手を離すといなくなるんじゃないかって……。俺もナオが好きだ……。初めてナオを見つけた日から、愛おしくてたまらない。だから、俺から離れないで。

俺は、君の声が届くところに……ずっと側から離れたくないんだ〟


反則だよ、陽介。

なんでそんな、涙が止まらなくなるようなことを言うの?


そして、僕たちは。

どちらからともなく、再び唇を重ねた。


涙は止まらないけど、陽介の手を初めて握ったあの時みたいに。

僕は、安心した気持ちになっていたんだ。






✳︎


あんな風にナオが怒りの感情を表に出してきたのを初めて見た。


ナオのまっすぐで熱のこもった瞳に、俺の心は押しつぶされそうになる。


こんなにナオが傷ついていたなんて、思ってもいなかった。

いつもニコニコして、明るくて、かわいくて。

怒るといえばほっぺたを膨らますくらいだったのに。

ナオを失いたくない一心だったのに。

俺は一人、空回りして……。


結果、俺はナオを傷つけていた。


〝なんで!? なんで目をそらすの!? ちゃんと僕を見て! 僕はここにいるんだよ! ちゃんと僕の話を見て!〟


ナオの言葉が胸に刺さって、俺は動けなくなる。

動けない俺に、ナオはキスをした。


柔らかく、ナオらしい、儚いキス。

一生忘れることのできない、切ないキス。


その瞬間、俺の中に押し込んでいた感情が、一気に溢れ出す。


俺は……ナオが好きだ。

好きなんだ。


俺たちに、愛情を伝える音の言葉はない。

でも、それ以上に気持ちが伝わる。


唇を話すと、ナオは俺にしがみついた。

そのまま俺の肩におでこをくっつけて、瞳を閉じて安心したような顔をする。


その姿がたまらなく愛おしくて……。


ナオは、もう。

この世で一番、愛しい人なんだって……確信したんだよ。





数日後、俺たちはプラネタリウムに行った。


諦めていたであろうナオは、満面の笑みで子どものようにはしゃいでいて。

半球体の天井に満天の星が映し出されると、ナオは夢中になって見つめていた。

星のあまりの綺麗さに、俺も言葉を失って見上げる。

半球体の星空に囲まれて。宙に浮いてる不思議な気分になった。


横に座っているナオを見ると、ナオの澄んだ瞳に沢山の星が入り込んでいる。


宇宙に広がるその星空は、ナオの静寂の世界に近いのかもしれない。


俺はナオの手に、俺の手を重ねた。


「ようすけ」


ナオのキレイな声が、静寂を切り開く。


俺の声は、星空にいるナオに一生届くことはない。


でも、ナオの声は一つの星の光みたいに届いて、俺の心を満たす。


俺はここにいるよ、ナオ。

君の声が届くまで、ずっと。


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