あの夏に、置き去り in関西

布原夏芽

和歌山の海へいま、ゆきます。

「やっくん、海についたらまさみと浮輪で波乗りせえへん?」


 シートベルトを締めるのもそこそこに妹の雅美まさみが、弟の泰斗やすとに持ち掛ける声は弾んでいた。


「ええよ! まさちゃん、なみのりってどうやるん?」


「去年もやったやん。やっくん覚えてないん?」


 普段なら「まさみはやっくんのお姉ちゃんなんやから、ちゃんと『まさ姉ちゃん』って呼んでえや!」などと文句を言うのに、それさえ忘れて、助手席で音楽プレーヤーをいじるわたしに大声で報告してくる。


「お姉ちゃーん、やっくん去年の海のこと忘れたって」


 大阪北摂に住むわたしたち家族が、和歌山県の海水浴場に出かけるのはまる一年ぶりだった。

 普段は街中を走るばかりの我が家のミニワゴン車は、長旅に向けてたっぷりと入れられたガソリンに喜ぶかのようにエンジン音を上げている。


 四歳の泰斗にとって、一年前の記憶を保っていられないのは仕方がないことだろう。

 頬を膨らませている雅美だって今年やっと小学校に入ったところで、ついこの間まで「なんなんそれ、いつの話? まさみ知らへんねんけどー!」などと言ってばっかりだったのだ。


 家族の一番最後に後部座席に乗り込んだ母は、膨らんだ手提げかばんをお尻の横にねじ込んだあと、車のドアを閉めた。

 窓の外を自転車で通りかかった町内会のおばさんに軽く会釈をしてから、車内に向き直る。


「雅美に泰斗、それに郁美いくみもおるね? うん大丈夫や、お父さん車出して」


 出発前に、子どもが全員乗っているかを確認する母の習慣は今に始まったことじゃないけれど、つい突っ込まずにはいられない。


「もうお母さん、誰かおらへんかったらすぐ気付くで。人間を忘れるとかありえへん」


「そやろか、大事なもんだって忘れるやろ。現に郁美、この前、隆司たかし叔父さんに忘れていかれたやん」


 母が言っているのは、兵庫県に住む隆司叔父さんの家から車で十五分の西宮北口駅に隣接したショッピングモール・西宮ガーデンズに行ったときのことだ。

 歩いていくには遠いしバスでは不便なので、ちょうど用事のあった叔父さんの車についでに乗せてもらったのだ。叔父さんはガーデンズの駐車場に車をとめて、電車で梅田に出ると言っていた。


 ガーデンズの駐車場はけっこう高いけれど、叔父さんは独身でお金には困っていないし節約というものに無頓着だ。


「そやったらわたしが買い物したレシートで駐車料金の割引してもらえばええな? 帰るとき連絡して」


 そう伝えて別れたのに叔父さんときたら、わたしを乗せてきたことも、乗せて帰らなくちゃいけないこともすっかり忘れて、安くはない駐車料金も払ったうえで、そのまま自分だけで帰ってしまった。


 その日は、叔父さんが一人で暮らす母の実家に、母や弟妹と訪れていて、夕食を一緒にする予定だったから、一人で帰ってきた叔父さんに母はいたく驚いたらしい。

 当の叔父さんは、母に「あれ、あんた一人なん? 郁美は?」と聞かれて、顛末てんまつをやっと思い出したというのだから思わず、冗談でしょと言いたくなる。


 そのあと「叔父さんに忘れられた郁美姉ちゃん」の話は、我が家の定番の話題として何度も食卓にのぼった。


「もうその話はええわ、あれは隆司叔父さんがおかしいねんて!」


「まぁ確かに、隆司は独身が長いし、誰かと待ち合わせるっていう発想がなかったんやと思うけど」


 母は取り成すように、自分の弟のマイペースな性質を挙げる。


「叔父さんに頼ったわたしがアホやった……」


 そう、物ならともかく人を忘れるわけないのだ、普通は。叔父さんがどうかしているとしか思えない。


「でも隆司叔父さん、電話に出たのが誰なんか声聞いて当てるよなあ。まさみ、すごいと思うねん」


「まさちゃんの言う通りや。やっくんもいつも、もしもしって言うだけでやすとくんやなって言ってくれるで」


 叔父さんの肩を持つように雅美が言うと、すかさず泰斗が同調した。


「まぁ泰斗は唯一の男の子やから当然やろけど……確かに、わたしが出ても、名乗る前に郁美ちゃんですかって聞いてくれるなあ」


「おねえちゃんとおかあさん、声そっくりやのにね」


「お父さんなんか、まさみが出てんのに『あぁお前か、今晩は仕事が立て込んでてなぁ遅なるわ』とかなんとか、お母さんだって決めつけて話始めちゃうねんで」


 もっとも最近の父は、「誰や? 郁美か?」などと一応は尋ねてくるようになった。まぁそれも、だいたい間違っているのだけれど。


「悪かったな。この家の女たちはみんな声が似てるんや」


 黙って運転に集中していた父が、会話に入ってきた。


 いつでもうちの車の中は騒がしいけれど、今日は待ちに待った海水浴に向かう途中だから、ボリュームは三割増しだ。

 それでも大阪から和歌山まで二時間のドライブを経て、「海ついたら何して遊ぶ?」というはしゃぎ声は、「まだ着かへんの? 車飽きたー」というクレームに変わっていった。


 やがて泰斗がまどろみ始め、車に酔いやすい体質の雅美は青白い顔で黙り込んだ。静かさを取り戻した車内で、今日から一週間の好天を伝える天気予報の音だけが響き渡った。


 紀伊半島の西側に伸びた阪和自動車道をひたすら南に進んでいく。

 入り口にみかんの絵が描かれた長いトンネルをいくつか抜け、有田市に入ってなおしばらく走ると、毎年訪れている海水浴場の堤防がようやく見えてきた。


 その向こうに広がるのは太平洋だ。学校の社会科の時間に習ったけど、「紀伊水道」っていう海域なんだっけ。

 海辺特有の潮風の匂いが、細く開けた車の窓から入り込んできて鼻をくすぐる。


 小さいころから毎年来ているはずの海なのに、こうして実際にこの場に戻ってくると、まるで見知らぬ扉が開くかのような思いに駆られる。

 六年生にもなって、去年の記憶を差し置いてこんな新鮮な気持ちを抱くのだから、海での遊び方をすっかり忘れている泰斗のことをあながち笑うこともできない。


「海や! 海が見えるで!」


 目を覚ました泰斗が沸き立つ隣で、母は出発直後にも口にしていた心配ごとを繰り返し始めた。


「もう着くけど、ほんまになんも忘れもんしてきてへんやろか。こういうときって大事なもん置いてきてたりするんよねえ」


 そういえば去年も、海を前にした母は同じようなことを言っていた。

 出発日の一週間以上前から、家族五人分の荷造りに勤しんできたというのに、目的地を目前にしてなお不安に駆られる母の姿はよく見知っていた。何かを忘れているに違いない、と言うわりに、具体的にそれが何なのかを思い出せないことも。


 そのとき置かれたムードの中でしか、辿り着くことのできない考えや事実というのは確かにあるものだ。

 海で必要不可欠なものが、十分に準備したはずの荷物から漏れているのではと疑う母の存在も、「またその心配してるん?」とわたしが呆れたことも、去年海辺を後にしてから一年の間に消え去ったわけではない。なのに、どうしてなのか、それを思い出すのは今この瞬間がきっかり一年ぶりなのだった。


 もしかしたらこれが、ときどき耳にするデジャヴというものなのだろうか?

 この光景を何度も見てきたと思い込んでいるだけで、去年もおととしもその前も、実際には起こっていない出来事だったりするのだろうか?


 長いドライブの影響か、そんなとりとめのないことを真剣に検討しはじめてからも、堤防に沿って車は走り続ける。

 いつも帰りにおみやげを買う古びた梅干し屋さんを通り過ぎ、懐かしい海辺の田舎町が見えてくる。


 やがて車は速度をゆるめ出し、海沿いの見慣れた旅館の前で停車した。


「滝村さん、遠いところ今年もご苦労さんです」


 旅館のおじさんが車の音を聞きつけて、いつもの笑顔を浮かべながら、厨房の勝手口から出てきた。両親が車の中から挨拶を返す。


 父が車を駐車場所の線内にとめるのを待って、次々に車から降り立ったわたしたちをおじさんが迎えてくれた。


「雅美ちゃんも泰斗くんも、がいにきなってー。郁美ちゃんはもう立派なお姉さんやいしょ」


 おじさんの方は、わたしたち姉弟三人の名前をきちんと覚えてくれている。なのにわたしは、おじさんがどんな顔をしていたのか、ついさっきまでは朧気だった。顔を合わせてやっと、あぁこんな人やったなと思い出した。


 おじさんはいつも眉を少し下げて、まるで何かを哀れむように笑って見せる。髪の毛がふんわりと薄くなっているようだけれど、これは去年も同じだっただろうか。


 遅れて出てきたおばさんが案内してくれた先は、窓から太平洋が一望できるうえに広い角部屋だった。長時間の運転から解放された父が、畳の上で仰向けになっている。


 泰斗は潮の匂いを嗅いで、ようやく夏の楽しさを思い出したのか、「はよ海いこ! はよう早う!」と急かしながら、いつになく素早い動きで服を脱ぎ捨て、水着に着替えた。


 その声に押されたわけじゃないけれど、わたしも早く蒸し暑さから逃れて、波に身を浸したくなってきた。

 旅館の一部屋しかない空間で、父や弟の前で裸になるのが最近はなんだか恥ずかしくて、実は朝に家を出たときからワンピースの下に水着を身につけている。さっと服を一枚がせば、準備は整った。


 母はわたしの何倍もの時間をかけて念入りに日焼け止めを塗っているし、雅美は車酔いが少し残っているのか、着替えという行動に移るのも億劫おっくうらしく、座り込んでいた。


「泰斗、お姉ちゃんと二人で先に行ってようか!」


 そう持ちかけると、すぐ隣で寝そべっていた父が、「せや、先行っとき。父さんらは後からパラソルとか持って追いかけるわ」と体を畳に預けたまま、手だけを振った。



 旅館のすぐ目の前に伸びた片側一車線の車道を渡り、堤防の階段を下りれば一面、海が広がっていた。


 ここからさらに車で南に行けば、全国的に有名な観光地である南紀白浜がある。そのテレビでよく紹介される白く輝く砂浜とは違って、ここらへんの海は岩間に入っているらしい。

 海岸にはごろごろと小石が転がっているし、大阪湾に近いからか海の色も真っ青とはいかない。


 父や母が子どものときと比べればレジャー離れが進んでいることもあってか、海岸に立つパラソルはまばらに散らばっていて、すぐ近くにほかの海水浴客の姿は見えなかった。


「こんなでかい海やのに独り占めやな。いや、泰斗と二人やから、この場合は“二人占め”やろか?」


「おねえちゃん、ぴちゃぴちゃしようや!」


 泰斗は興奮を抑えきれず、手前の砂浜にビーチサンダルを放って、波打ち際で両足を交互に踏み降ろしている。


 普段、大阪の街中で日常を送るわたしたちの目に和歌山の海は、求めていた以上に広大に映った。心なしか怖さを感じるほどだった。


 ちょっとしたことで、わたしはあの水の奥底に連れて行かれるかもしれへん――。


 なぜだかわからないけれど、暑い夏の日なのに薄ら冷たい白波が、わたしの体の中をさっとめぐったような気がした。


 わたしは視界の遠くに、空と海の混じり合う境目を探した。波音の残響は重々しく、こちらに何かを伝えようとしているようだった。

「今年も来たんやな」という歓迎もあるけれど、それよりも、遠くから呼びつけられているような、そんな音。


 不安を払うように砂浜に向かって振り返り、泰斗が脱ぎ捨てたビーチサンダルを、波の来ない安全なところに揃えた。

 すぐ隣に自分のサンダルも並べ、また海に向き直ると、先ほどまで目線の少し下にあった泰斗の頭が、もっと下の方、海面と同じ高さで浮かび、揺れていた。


「えっ、泰斗?」


 返事はない。大きな音を立てることもなく、弟は静かに溺れていた。


 夏休み前に公民館で見かけた「本能的溺水反応に注意。子どもは静かに溺れます」というポスターが、場違いのように頭に浮かんで消えた。


 体感としてはかなり長い時間が経ったように思えたけれど、実際はすぐ動くことができたらしい。

 記憶がすっぽり抜け落ちた何秒かの間にわたしが抱き起こしたとみられる弟は、さっきまで静かに浮いていたのが嘘のように、海水を吐きながら咳き込み、激しく泣いた。


「ごめん和斗、ほんまごめん! ちゃんと見てへんかった! ごめん和斗!」


 自分の身に何が起きたのかも理解できず動揺する弟を前に、急激に湧いたとてつもない罪悪感。そして一方で、これだけ泣けるなら大丈夫やなという直感的な安堵が、わたしの中でせめぎ合う。


 混乱する頭でわたしはさらに、つい今しがた自分の口から出た言葉に驚いていた。


 ――今、わたし、なんて呼びかけた? 和斗? 弟の名前は泰斗やのに? いくら焦ったからて自分の弟、呼び間違える?


 弟さんの代わりに返事をしましょうとでも言いたげに、遠くで波の音がざわめいていた。



「わあ、めっちゃでかい! おさかな一匹ぜんぶお刺身になってるん!?」


 部屋に運ばれてきた贅を尽くした海鮮料理に、雅美は目の色を変えた。中でもひときわ目を引くのは、中央に陣取った尾頭おかしら付きの船盛だ。


「これは今朝、太平洋で釣られたばかりの鯛の活け造りよお。ようさん食べよし」


 部屋の前にとめたワゴンから取り出したおかずを、机の上に所狭しと並べながら、おばさんが目を細めた。


「こりゃご馳走や! いつも奮発してもろて、えらいすんません」


「いえいえ。変わらず毎年来てくれるさけ、主人と二人で驚いちゃぁるんです」


 喜び勇んでお礼を言う父に対して、おばさんは控えめに微笑みながら答えた。


 この旅館はわたしがまだ生まれてもいなかった昭和の時代から営業しているそうだ。館内の老朽化や流行の移り変わりで、お客さんが年々減っているようだと、両親が話しているのを聞いたことがある。

 白浜をはじめとする華やかな海水浴場や、新しく開かれたリゾートホテルに鞍替くらがえすることなく、十年近くもの間、夏になると二泊していくわたしたちは、上客っていうやつなのかもしれない。


 今日は結局あのあと、海水を吐き出す泰斗を介抱しているうちに、両親と雅美が荷物を抱えてやってきた。

 泰斗はそのころには泣き止んで、それまでの騒々しさが嘘のようにけろっとしていた。弟とは対照的に青ざめて放心するわたしに、両親は何かあったのか尋ねた。


「目を離した隙に、泰斗が溺れかけて……」


 そんな言葉が口をついて出てきたことで、幾分か落ち着きを取り戻した自分に気が付いた。

 咄嗟のことで、弟のことを「和斗」などと見知らぬ名前で呼んでしまったけれど、もう大丈夫。泰斗は泰斗だ、正しく名前が出てきた。


 弟の名前を間違えずに呼べたという、冷静に考えれば当然すぎる実績にすがるわたしの様子は、やはり少し変だったらしい。

 両親が、息子が命を落としかけたことに対するショックを瞬間的に処理したあと、すぐに、責任を強く感じているであろう長女の心配へと移ったのがわかった。


 そのあとわたしが持ち直したころには、事情を知らない雅美はもちろん、両親や泰斗自身さえもが、何事もなかったかのように海遊びに精を出していた。


 始まりは散々だったものの、遅れて訪れた楽しい時間は、陽を落としていく空の変貌とともに終わりを告げた。


 そうして今では家族五人、ずらりと並んだ海の幸に心奪われているのだから、あれが今日の出来事だったとはとても信じられない。

 まるで、遠い昔の失態を思い返して胸を痛めているような心持ちだ。


 手際よく配膳を終えたおばさんは最後に、「これは坊ちゃんに。好きじゃったろ」と静かに言って、食卓の端に小皿を一つ置いた。


 それは、ぷるんと白く輝く、らっきょう漬けだった。立派な器に何粒かよそわれている。

 家族みんなで言葉もなく、顔を見合わせた。無言の空気をどう思ったのかはわからないが、おばさんはそれ以上は何も言わずに出て行った。


 自分にと持ってきてくれた小皿を覗き込んだ泰斗は、「これなんなん?」と誰にともなく尋ねた。


「らっきょうよ。うちではあんま食べへんのに……。おばさん、誰かほかのお客さんと勘違いしてるんやね」


 母が訝しがりつつも答えた。泰斗は見慣れないらっきょうを一粒口に入れて、「うぇ、なにこれ、おいしくないんやけど……」とすぐに顔をしかめた。


「まぁあんま子どもの喜ぶもんとちゃうよな。しゃあないな、父さんが酒のつまみにするわ」


「やっくんばっか特別でずるい! まさみにも専用のお料理、出してくれへんかなー?」


「雅美はお刺身好きやからええやろ。泰斗はまだ小さいから、おまけしてくれたんやで」


 弟と二歳しか違わないのに、事あるごとに大人ぶりたがる雅美の喜びそうな言葉でなだめてみた。けれど雅美は納得がいかないらしく、手元の煮物を箸でもてあそんでいる。


「それより明日はどうするんや? あさっての昼には帰らなあかんから、まるまる一日遊べるんは明日だけやで。食べながら作戦会議やな」


 父の言葉で話題はまた海遊びの計画で持ちきりになり、海辺で過ごす一年ぶりの夜は平穏に更けていった。



「後ろからでっかい波がきたらなぁ、浮き輪しっかりつかんで思いっきり前に蹴り出してみい」


 初日に引き続いて雅美は二日目も、泰斗に自己流の“波乗り”を教えていた。


「なぁ雅美、その波乗りって誰から教わったん?」


「えっ、お姉ちゃんやろ。波乗りおもろいやんなあ」


 当然のように言われても、わたしには身に覚えがなかった。いつからか我が家で定番になっている遊びだが、いったいどこから来たのだろう。考えてみると、出所がわからなかった。


「うーん、やったらお兄ちゃん? あれ? まさみ、お兄ちゃんなんておらへんのに」


 不思議な妹の発言は引っかかったけれど、日中は遊んでいるうちに海で洗い流されたのか忘れ去ってしまった。


 それを次に思い出したのは、その日の夜、旅館の前で花火をしていたときだ。


 花火の先に鮮やかな光が弾けたのと同時に、昼に雅美の口から出た「お兄ちゃん」という独特の響きが立ち戻ってきた。一度思い出してしまうと、その我が家では聞き慣れない言葉は、耳にまとわりついて離れようとしなかった。


「滝村さんとこは今年で五年になるけ。いま思い出しても、気の毒なことやった」


 自分たち一家の苗字が聞こえてきて、花火の燃えさしを入れるバケツに水を汲みに来たわたしは足を止めた。


 旅館外の水道場の向こうにある厨房で、おじさんとおばさんが後片付けをしながら会話を交わしているようだった。


「ご家族みなさん、気丈でご立派やねぇ」


 うちの家族について話しているはずなのに、何について気の毒だとか気丈だとか言われているのか、まったく話が見えない。


「あんときゃ台風が近くまで来とったから波も高くて、一丁前に『めっちゃすごい波乗りできそうや!』って喜んどったのにな」


 おじさんの言葉を皮切りに、脳内で懐かしいような新しいような映像が再生されはじめた。


「坊ちゃんはやんちゃ盛りで、六歳児らしく浮き輪やのに『波乗り』てぅちゃぁるんがなんとも可愛かえらしかったやんね」


「俺は釣りの片付けしててたまたま現場に居合わせたんやけど、たった一歳でよちよち歩きやった雅美ちゃんの手ぇ握りもて、お母さんはおろおろするばかりで。お父さんが助けに入ったけど、追いつけやんかった。あっちゅうまに海が坊を連れって、みずせったビーチサンダルだけが浜に残っちゃぁった」


「来年には四人兄弟になるて仲良うしちゃぁったんによー、まさか直前に一人ないようなる亡くなるなんてなぁ。ほいでも悲しい記憶のある土地やのに、あれからも毎年おいでていらして……。坊ちゃんの好きやったらっきょうを追悼でお出ししたときのしんみりした空気、堪らんかったわ」


「海に呑まれた人間は、死後も海辺に居付くっちゅうけど……ほいたら今もこの辺りのどこかにおるんけ? 和斗くん」


 昨日の昼間、泰斗が溺れかけたときに間違えて呼んだ「和斗」という名前が、突然出てきたことに驚いた。それと同時に、忘却の彼方にあった記憶が急激に蘇ってきた。


 わたしが七歳の夏、この地で途絶えた年子の弟との思い出。

 わたしにとって初めての兄弟で、雅美も泰斗もまだいない時を一緒に過ごした弟。

 家族みんなが見ている前で、あっという間に波にさらわれていって、それっきり見つからなかった、和斗。



 海水浴のうえに花火まで堪能して疲れ切ったのか、雅美も泰斗も部屋に戻るとすぐに、布団で寝息を立てはじめた。


 父は「明日はまた運転して帰らなあかんから、英気養わへんとな」などと調子のいいことを言って、瓶ビールの栓を開けている。母は母で「食事作りから解放されるんも、明日で終わりやなあ」と切なげだ。


「なぁ、うちが毎年海に来るのってなんでなん? お父さんもお母さんも、ほんまはアウトドアとか好きちゃうやろ」


「そうやねえ。最初のきっかけは、子どもが自然に触れる機会を作るんも親の務めなんちゃうかって話したことやったかなあ」


 母の言葉を受けて、父はグラス片手に、暗い闇に沈んだ窓の向こうの海を見遣みやった。


「それからは、なんでやろうな。なんでか夏になったらこの場所に戻らなあかんような、そんな気になるねんなあ」


 思わず「それって、和斗に会いに来てるんとちゃうん?」という言葉が、口をついて出てくるところだった。

 だけど脳裏に、必死の形相で海の向こうに和斗の名前を叫び続けていた両親の姿が浮かんできて、何も言えなくなった。


 あのときはあんなに悲痛の底にいた家族が、今では何事もなかったかのように平然と暮らしている。長男の和斗に関する記憶と引き換えに。わたしの中に、罪悪感がむくむくと満ちてきた。


「ちょっと自販機で飲みもん買ってくるわ」とだけ言い残して、お小遣いの入った財布を掴んで部屋を飛び出し、旅館一階のロビーまで階段を駆け下りた。


 どことなく海の匂いを漂わせる古びたロビーは薄暗くて、誰もいないはずなのに、かくれんぼで見つかっていない子に背後から見つめられているような感覚に陥った。


 昨日泰斗が溺れかけたのは、わたしたちに忘れられたことに腹を立てた和斗が、海の底に引きずり込もうとしたからだったとしたら――。


 恐ろしさに囚われて、無性に誰かの声が聞きたくなった。


 ふと見るとロビーの端に、昔ながらの公衆電話があった。財布から小銭を取り出して、ゆっくりと受話器をとる。


 自宅以外に、何も見ずに思い出せる電話番号はただ一つ。母と喧嘩したときに、家出先として頼る隆司叔父さんだけだ。

 変わり者の叔父さんなら、こんな話でも聞いてくれるかもしれない。


 そう考えて叔父さんの番号を押したはいいものの、何から話せばよいだろう。コール音が鳴り止んでからもわたしはしばらく、受話器を耳にあてずに手に持ったまま佇んだ。


 心を落ち着けてから「もしもし」と言ってみる。しばらく無言だったので切られてしまったかと思ったが、聞き慣れた隆司叔父さんの声が返ってきた。


「おや、今度は郁美ちゃんやね」


 今度はという叔父さんの言葉に、もしかしてと心臓が早鐘を打つ。

 わたしの頭の中を覗いたかのように、叔父さんは平然と「今、和斗くんがそこにおるんやろ?」と聞いてきた。


「隆司叔父さん、和斗のこと知ってるん?」


「そりゃあ甥っ子やからねえ。郁美ちゃん雅美ちゃんや泰斗くんを知ってるんと同じぐらいには知っとうよ。普段は話せへんけどね」


 それだけ聞くとにわかに安堵が体をめぐった。叔父さんの穏やかな口ぶりで、ついさっき頭によぎった和斗に対する悪い妄想がみるみる霧散していく。


 尋ねたいことはたくさんあったけれど、手持ちの小銭では間もなく電話が切れそうだった。叔父さんからは、海から帰って直接会ったときに、いろいろ和斗のことを聞けばいい。


 今はただ、見えないけれどすぐそばに感じる弟自身から、何かを受け取れないか試してみたい。その一心が胸中を占めていた。



 二泊三日の家族旅行も、気付けば帰路につくところまできていた。


「泰斗、初日に溺れたん覚えてる? あんときはほんまにごめんな」


 大事に至らず済んだのはよかったが、泰斗には怖い思いをさせてしまった。海を嫌いにならないといいのだけれど。


「大丈夫やで、なんか知らへんお兄さんがたすけてくれてん」


「えっ?」


 そういえばあのとき目の前が真っ白になって……次の瞬間、泰斗は起き上がっていた。まさか、和斗が……。


「全員乗った? 郁美、雅美、泰斗、うんオッケーやね」


 お決まりの母の点呼が、今日は悲しく感じられた。

 和斗、あんたにも聞こえてるんかな?


 走り出した車の窓から、間もなく見えなくなる和歌山の海を最後に見届けようとしたわたしは目を疑った。男の子が一人、堤防の端の岩陰に立っていた。

 海を映し出したかのように青みがかった半透明な色をしている。動いている車の中からでは顔もよく見えないけれど、あれが誰だかわたしは知っていた。


「なぁ、みんな忘れてるで。和斗がそこにおるよ。一緒に帰らなくてええん?」


「えっ、なに忘れてるって?」


「だから、かず……」


 わたしがその名を言い切るのを待たず、堤防が途切れて海は視界から消え、紀伊山地を深く貫くトンネルにわたしたちの車は吸い込まれていく。

 渋滞情報を流していたラジオの音声が途切れ途切れになり、ノイズが混じり始めた。それと呼応するかのように、さっきまでなにか大切なことを考えていたはずだったのに、それが何だったのかわからなくなっていった。


「今年の夏ももう終わりやな」


 父が何気なしにつぶやいた。トンネル内部で等間隔に並ぶオレンジ色の照明灯が、日常に戻っていくわたしたち五人の横顔を、一定の間隔で照らしていた。


「三日も家あけたけど、電気とかガスとかちゃんと消してきたやろか。忘れてへんかったらええけど」


 既に気持ちのうえでは大阪の自宅に戻っている母が、いつもの心配ごとを口にした。


「またらいねんも、海に行くん楽しみやねぇ」


 早くも一年後の海水浴を待ち兼ねている泰斗が言うと、わたしたちはみんな、いつもと変わらない笑い声を上げた。

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あの夏に、置き去り in関西 布原夏芽 @natsume_nunohara

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