私と柚菜とママと

魚麗りゅう

私と柚菜とママと

 柚菜のママから電話があった。

 びっくりした。


「亜美ちゃん?」

「はい」

「近い日に、会えない?」

「私、家に行きましょうか?」

「柚菜には内緒で会いたいの」

「柚菜と、何かあったんですか?」

「柚菜とはうまくいってるの。柚菜のことで相談じゃないの」

「どうしたんですか?」

「電話ではちょっとね」

「日曜日に会いますか?」

「大丈夫?」

「私は大丈夫です。静かな所のほうがいいですよね?」

「うん。落ち着いて話せる場所がいいの」

「美術館で会いますか?」

「大川美術館?」

「はい」

「柚菜と亜美ちゃんが、よく学校さぼって行く美術館よね?」

「…はは」

 私は軽く笑い、

「場所、分かりますか?」

「大丈夫」

「じゃ、十時に、美術館の中のカフェで待ってます」

「ありがとう」


 柚菜とは大川美術館で去年出会った。私は十八歳。よく学校をさぼってその美術館に行っていたし、行っている。柚菜も私と同じような子で、学校をさぼって美術館に来ていた。絵を観ている柚菜は神聖な気がした。自分に対する視線を感じると存在を消す。それを無意識にやっているように思えた。かわいらしい容姿の輪郭だけが見えているような感じ。水中で見る美しい魚のように、手を伸ばすとサッと向こうまで泳いで行き、適度な距離を取り、そこでまた自分の好きなように遊ぶ魚のように。私はよく柚菜を見掛けていた。でも柚菜は私に気付いていなかったみたい。柚菜に話し掛けたくなって、でも柚菜の波長にうまく合わせられなくて、柚菜の波長に合わせずに、避けながら距離を縮めればいいということに気付いて話し掛けた。柚菜とはそれから友達になった。学校は違ったし、毎日会うわけではないので、いい距離感で続いている。


 美術館の中にあるカフェでコーヒーを注文してすぐに、柚菜のママが来た。

「亜美ちゃん、もう来てたの?遅れてごめんなさい」

 時計を見ると、十時を数分だけ過ぎていた。

「遅れてないですよ」

 と私は言い、右手にしている時計を柚菜のママに見せた。彼女はテーブルを挟んで私の正面に座った。

「柚菜にどこいくのって、しつこく聞かれて……」

「なんて言ったんですか?」

「お友達とちょっとねって」

 と言うと、彼女はいたずらっぽく笑った。年齢は四十一歳だけれど、二十代前半に見える。肌は触れたくなるほど透明感がある。育ちがいい少女が、そのまま大人になってしまったような印象を受ける。化粧も洋服も古臭くはなくて、柚菜のアドバイスで、“今”の感覚をうまく自分らしさに昇華させている、柚菜との生活を楽しんでいる、私にそんな想像をさせた。


「柚菜は、お母さんのことが大好きですからね」

「そうなの。十八にもなってね」

 と彼女は言うと、少女のように笑った。

 ウェイターが私の目の前にコーヒーを置いた。

「コーヒーください」

 と、彼女が言った。

「で、話ってなんですか?」

「コーヒー来るまで待って。落ち着いて話したいの」

「はい」

「この美術館素敵ね。山の中にあって」

 彼女はそう言うとテーブルに右ひじをつき、手のひらにあごを乗せ、ガラスの向こうに広がる小さな街を見た。

「ここ、初めてですか?」

「そうなの。柚菜と亜美ちゃんは、学校さぼってここで会っているのね」

「はい」

「なんだか素敵」

「素敵ですか?」

「油絵の匂いとコーヒーの香り。それだけで素敵じゃない?」

「たまに柚菜と、ワインも飲んでますけど」

「そうなの?」

 私は笑った。

 コーヒーが運ばれて来た。


「お母さん、で話……なんですけど」

「お母さんはやめて」

「じゃ、なんて呼べば」

「名前で」

「はい」

「薫子」

「かおるこさんでいいですか?」

「いい」

「かわいい名前ですね」

 容姿とぴったり合っていると思った。きれいじゃない、かわいいじゃない、きれいかわいい容姿にぴったりだと思った。

「ありがとう。自分でも気に入ってるの。で、話しよね」

「はい」

「カレが出来たの」

 私は言葉に詰まった。それから

「はい」

 と言った。

「カレが出来たの。で、亜美ちゃんに相談しようと思って」

 なぜ私なの?と思ったけれど、その言葉を飲み込んだ。

「柚菜には言えないじゃない?」

「柚菜に言ったら、結局亜美ちゃんに相談するだろうし。今のところ柚菜の友達は亜美ちゃんだけだし」

「はい」

「どう思う?」

 私はまた言葉に詰まった。

「薫子さんは独身だし、問題ないと思いますけど。ただ柚菜が何て言うか……」

「反対すると思う」

「そうですね。柚菜は薫子さんが大好きだから。それに潔癖症だと思いますし」

「まだそういう関係じゃないの」

 私は“まだ”という言葉にいやらしさを感じた。少女の中に悪魔を見たような、そんな気がした。

「軽蔑する?」

 私は言葉に詰まった。

「今日は薫子さんにカレが出来たという事実だけで、いっぱいいっぱいみたいです、今日は」

「もしかして、想定していなかった?」

「そうですね」

 私は口元だけで、無理やり笑顔を作った。

「亜美ちゃんは感性が鋭い子だから、想定していると思ったけど」


 その後、普通の会話をしていたと思う。私の着ていたワンピースも褒めてくれた。私が足が長くてよく似合うって、そう言ってもくれた。私には母親がいない。私に記憶が残らないくらいの小さい時に病気で死んでしまったと、父さんから聞いた。去年のクリスマスイヴに、柚菜と薫子さんと私、柚菜の家で、ささやかに小さく過ごした。私にとっては温かかった。友達のように薫子さんと話す柚菜が、正直羨ましかった。私は母親の愛情を知らない。それを強烈に自覚した。それから柚菜の家には行っていなかったけれど、その記憶の余韻のまま、静かなベタ凪の海のようなある日、薫子さんから電話があった。びっくりした。なぜ私の電話番号を知っていたのだろう?薫子さんには訊かなかったけれど、きっと柚菜のケイタイを勝手に見たのだろう。カレが出来たの。って……。その言葉が私の温かな記憶を何気なく静かに破壊した。母親っていいな。そんな、私が構築していた母親像が壊れた。だからあの時言葉が詰まったのだ。私は私自身を、大人だと思っていたけれど、薫子さんという存在を不意に突きつけられて、私自身の小さい輪郭が浮かび上がるように、私自身はっきり見えた。私はまだ大人なんかじゃない。家の商売を手伝って、サラリーマンの収入ぐらいは父さんから貰っているけれど。薫子さんの相談に乗れるほど、私には熟成された経験がない。感情が複雑に動いている。柚菜にはまだ言わないでねと言われた。出来れば相談してほしくなかった。結局薫子さんは、私にカレが出来たと報告しただけだ。まるで、私が信用できる女友達のように。どう思う?私には分からない。独身だし、別にいいと思う。今の私にはそれしか言えなかった。


 柚菜との関係はうまくいっている。柚菜が思っているほど私は強くない。甘えられる存在がいなかったから、自分で気付かずに、そんな印象を持たれる雰囲気になってしまったのかも知れない。父さんは私を自由にしてくれている。それには感謝している。好きなように生きればいい。父さんはそう言ってくれる。柚菜と出会い、薫子さんとの関係を見ていると、自分の中で、つよさだけが発達してしまったような気がする。そして、母親によってしか、高められない場所があることに気付いた。私はその不足した場所を、無意識に薫子さんに求めたのかも知れない。自分の母親に、好きなひとが出来たと言われたようで、自分の求めているものを拒絶されたようで、私は動揺した。今まで生きてきて、ずっと付き合って行きたい友達は一人もいなかった。そんな友達を、去年発掘した。柚菜という、かわいらしい宝物。目がくりくりしていて吸い込まれそうで甘え上手。同じ十八歳だけれど年下のように感じてしまう。いつもくちびるがぷるぷるしている。だから去年のクリスマスイヴ、柚菜の部屋で一緒に寝たときに、自然にキスをしてしまったのかも知れない。自分の唇で、柚菜のくちびるに触れたかった。不自然な欲望ではなかった。ただそうしたいと不意に思い、柚菜もそれを受け入れてくれた。軽く触れる程度のキスだったけれど、想像どおりの感触で、それを実際に確認できて、私は安心した。三人でシャンパンを飲んで、体がほんのりあたたかくてしびれていて、柚菜の髪からシャンプーの匂いが流れていて、その中で私は柚菜のくちびるに触れたのだ。不思議な瞬間だった。その記憶が今でも私を特別な存在のように感覚を昇華させる。きっと柚菜は、薫子さんのようにそのまま大人になるだろう。そんな気がする。幼さが残った大人。年齢とともに醜く変化する容姿ではきっとない。だって薫子さんがそうだもの。壊したくなるようなかわいらしさ。亜美と薫子さん。別時間を流れているような気がする。そんな時間を守ってあげたい。こんなことを思う私の感覚は、男なのかなぁ。


 柚菜から電話があった。で、会うことにした。そろそろ電話があるなと思っていた。私の部屋で会うことにした。まだ柚菜は私の部屋に来たことがなかった。私の家は漬物屋で、名前は“どすこい漬物”という。店舗と家は別なので、店舗で待ち合わせることにした。といっても店舗の裏が家だった。

「帰り、漬物買って帰ろうかな」

「柚菜だからあげるよ」

「亜美とはずっと付き合って行きたいから、そういうのは断る」

「そっか」

「ママが漬物好きだから、この漬物セットがいいかな」


 柚菜はコンビニでそこそこの量のお菓子を買ってきた。

「好きなの食べて」

「ありがと。でもこんなに買ってこなくても」

 と言い、私は笑った。

「亜美の好きなお菓子、分からないし。嫌い?お菓子」

「まぁ、あれば食べる」

「ダイエットしてるの?」

「そういうの、一切気にしないから、私。好きなものを好きなだけ食べるから」

「で、そんなにスリムなの?」

「体質的に太らないみたい。柚菜だって太ってないじゃん」

「私も体質的に太らないみたい。ママに似たのかなぁ」

「柚菜のママも、ぜんぜん太ってないもんね。二人並んでると姉妹みたい」

「よく言われる」

「髪、ちょっと切った?」

「うん。ママと一緒に切りに行って。似合う?」

「似合ってる。かわいいよ、黒木瞳みたいな感じで」

 薫子さんと同じような髪型で、とっても似合っていた。

「亜美は短く切ったら、どんな感じになるんだろう?」

 私は鎖骨のあたりまで伸ばしている。

「きつそうな感じになるんじゃない?柚菜ぐらい短く切ったことないから分かんないけど」

「う~ん。足が長くてモデル体型だから、そうかなぁ」

 柚菜はそう言うと、かわいらしく笑った。

「モデルになればいいのに」

「スカウトされたことはあるけど」

「どこで?」

「父さんと東京に行った時に」

「やればいいのに」

「父さんにも言われたけど、やらない」

「どして?」

「笑いたくもないのに笑えないし」

「亜美らしいね」

 柚菜は笑った。


「ママが最近、へん」

「変?」

「うん。変」

「何かあったの?」

「休みの日に、最近よくおしゃれして出掛けるから。外に出掛けるのがそんなに好きじゃない人なのに」

「男じゃない?」

「亜美もそう思う?」

「うん」

「どうしよう?」

「別にいいじゃない?独身だし」

「独身でも私がいるじゃない?」

「柚菜のママかわいいし。モテると思うけど」

「モテるのはいいけど、ママを取られるのはイヤ」

「ママだって女なんだから、いいじゃない?」

「亜美はパパに女が出来てもいいの?」

「私は気にしないと思う。今だって帰って来ない日があるし」

「仕事じゃないの?」

「別に興味ないからいいけど。私の好きなようにさせてくれるし」

「ネット販売は、亜美が担当してるんだよね?」

「そう。で、柚菜はどうするの?」

「ママにもしカレシがいたら?」

「うん」

「どうしよう?」

 柚菜は言葉が詰まった。

「ママと話したの?」

「深くは訊かないけど。どこ行くのって聞いて、」

「で?」

「友達とちょっとね……とか」

「訊いてみたら?カレシ出来たの?って」

「亜美ぃ。家に来てぇ?」

 と、いつものように柚菜は言った。

「一人でママと向かい合ったほうがいいよ」

「今の私には、そんな勇気ない」

「私には関係ないし」

「だって亜美は私の友達じゃない?」

「そうだけど」

「めんどくさい?」

「うん」

「じゃ、帰る」

 と言い、柚菜は立ち上がったので、

「柚菜、」

「来てくれる?」

「漬物セット、持ってくる」

「バカ、いらない」

「今日はヤダよ?」

「どして?」

「これから着替えるの、めんどくさいし」

 私はジーンズにフリースだった。

「それでいいよ。別に」

「柚菜はなんで、そんなドレッシーなワンピ着てんの?」

「こういう洋服しか持ってないんだもん。亜美みたいに足が長くないからジーンズは似合わないと思うし」

「とにかく、もう少し様子を見たら?まぁ座って」

 柚菜は座った。フワッと、いい匂いがした。

「様子をみる?」

「うん」

「見たら?」

「また私に電話して」

「うん」



 ケイタイに残っている着信履歴を検索して、薫子さんに電話した。

「いま、大丈夫ですか?」

「大丈夫」

「柚菜が気付いてるみたいですよ?もしかしたら、カレシが出来たんじゃないかって言ってました」

「柚菜が漬物セット買って来た日?」

「はい」

「おいしかった。たまに、ネットで亜美ちゃんちの漬物買ってるのよ」

「ありがとうございます。で、そういうことじゃなくて、気付いてるみたいですよ?柚菜から何か言われませんでした?」

「特に何も」

「家に一緒に来てって言われました」

「柚菜らしいわね」

 と言うと、薫子さんは笑った。

「カレシいるのって訊くのが、一人じゃ無理みたいです」

「う~ん」

「……で、どうするんですか?」

「亜美ちゃんは柚菜から相談されて、何て言ったの?」

「別にいいんじゃないって、言いましたけど。柚菜のママは独身なんだしって」

「柚菜は何て言ったの?」

「ママがモテるのはいいけど、ママを取られるのは嫌だって言ってました」

「やっぱりそうなの」

「はい。柚菜は薫子さんが大好きですから。柚菜の洋服は、薫子さんがネットで選んでるんですよね?」

「そう」

「そんなに仲良しなのに、柚菜はきっと傷つきますよ?」 

「柚菜が私から、そろそろ離れてもらわないと」

「無理ですよ、今は」

「どして?」

「どしてって、柚菜が薫子さんを大好きだからですよ。いま、ゆなが柚菜でいられるのは、薫子さんと一心同体だからですよ?」

「柚菜はもう十八よ?」

「十八でも、薫子さんというフィルターを通して、いまの自分を保っているわけだから」

「困ったものね」

 薫子さんはひと事のように言った。

「来年受験ですし、大事な時期だと思うんですけど、柚菜にとって」

「私にとっても大事な時期よ?」

「……」

 私は言葉に詰まった。

「バカだと思う?」

「思います」

 私ははっきり言った。

「柚菜とカレシ、どっちが大事なんですか?」

「カレシ」

 はっきり言った、薫子さんは。

「柚菜と、話し合ったほうがいいですよ」

「その時、亜美ちゃんも来てくれる?」

「柚菜とも約束したので、行きますけど」

「ありがとう」

 と言われてもなぁ。私は憂鬱になった。他人のことで煩わされたくなかった。


 なぜ日常は普通に流れて行かないのだろう?柚菜も薫子さんも私も、きっと何かが足りない。薫子さんは何気ない日常の中で、カレシを求めていたの?そんな小さな欲望を巧妙に隠しながら、日常を泳いでいたの?私は全然感じ取れなかった。柚菜だってきっとそうだろう。私の内側にある薫子さんを、新たに書き換えなければならない。その薫子さんに対し、私の距離感も構築し直さなければいけない。人と付き合っていくことの怖さを知った。友達なんてすぐには出来ない。長い長い時間を必要とする。それにしても薫子さんは、どんな人と付き合っているのだろう?動揺していて訊くのを忘れた。動揺している内面を整理するのに意識を保つのがやっとだった。薫子さんを受け入れるには、私の軸はまだ幼かった。薫子さんの変化で、私の軸は揺らいだ。そんな私に何が出来るだろう?私は感覚の中で、今まで生きてきたような気がする。父さんがいるから“いま”の私は生きていられる。父さんは当たり前に存在し、ネット販売で結果を出している私はそれなりの報酬をもらって当然だ。そんな感覚で生活をしていたけれど、その感覚は間違っているような気がする。薫子さんにカレシが出来たというだけで、私の軸はぐらぐらしている。感情だって、複雑に混じり合わないままだ。日常がふつうに流れているということは、きっと奇跡だ。感覚の中で生きていられたことは幸せだった。私は父さんに感謝しなければいけない。怖い。不意にそんな感覚に包まれる。自分の存在が不安になる。母親がいたら、きっとギュッと抱きしめてくれるだろう?柚菜の気持ちが理解できたような気がする。まだ柚菜は、母親を必要としている。それが強烈に理解できたような気がする。私は柚菜に、寄り添わなければならない。柚菜を、失いたくない。友達なんて必要ないと思っていたけれど、そんな私は稚拙だった気がする。私は父さんに守られていた。それに気付かなかった。私は独りで生きてきたんじゃない。愛され守られて生きていたのだ。父さんごめんなさい。内側から感謝とその言葉と涙が溢れてきた。私は独りなんかじゃない。私は部屋で一人、初めて泣いた。父さんに対する今までの私の態度に、すごく悔しかった。記憶が私を痛いくらいに意地悪に突き刺すのだ。針でぷすぷすと、全身を刺していくのだ。呼吸をしていることが痛かった。恵まれていることが痛かった。今日はそのままベッドで寝てしまった。



 ドラックストアで薬剤師として働く薫子さんは、そこで知り合ったらしい。年齢が二十五歳と聞いて、私は新たに動揺した。アレルギー性鼻炎の彼は、よく来ていて、そこで仲良くなったと言っていた。

「柚菜にはまだ言ってないの」

「日曜日に、三人で集まりますか?」

「家に来てくれる?」

「家じゃないほうがいいと思います」

「そうよね。外の方が、冷静に会話が出来るわよね?」

「はい」

「食事でもする?」

「美術館に集まりましょう。私が柚菜を誘うので」

「分かった。じゃお願い」

「はい。じゃ十時に。でも少し、遅れて来てください」

「ありがとう。気を使ってくれて」

「待ってます」


 柚菜にメールし、会う約束をした。柚菜に寄り添って、乗り越えようと思う。人のために何かをしたいなんて初めての経験で、こんな自分に不思議だった。でも私に出来ることは、二人の間に入って、距離感を冷静に保つことだけだと思う。薫子さんにはカレがいる。柚菜はそれを認めないだろう?私は家族ではないし、ただの友達だから。柚菜の気持ちを感じ、薫子さんの気持ちも感じたいと思う。わたしの内面はその時、どんな化学反応を起こすだろう?


 ふと、授業中、小説を書きたくなった。柚菜には柚菜独特の時間が流れている。その柚菜を主人公に、不意に小説が書きたくなった。でもまだ書けないことは、本能として分かる。ワインで言えば、まだコルクを開ける時期じゃない。漠然と大学には行きたいと思っていた。そうだ、文学部に行こう。この時私は自分の中に、小さな秘密を持った。駄目ならだめで、店を継げばいい。私は恵まれているのだ。店をやりながらでも小説は書けるのだから。小さい頃から本を与えられていた。気付いたら本は好きだった。その種が熟成され、今頃になって私に小説を書かせようとしているのだろうか?自分がますます分からない。



「ママと、あれから何か話した?」

「まったく。亜美から様子を見たらって言われたから、見てた」

「気まずくなかった?」

「ママが、私から離れたような気がした。私の被害妄想かなぁ?」

 私ははっきり言った。

「薫子さん、カレシが出来たんだって」

 不思議と素直に言葉が出た。

 柚菜はきょとんとしている。

「カレシが出来たんだって」

 私はもう一度言った。

「ママが、亜美にそう言ったの?」

「うん」

「ママが、亜美に相談したっていうこと?」

「うん。前に電話があって、薫子さんから」

「いつ?」

「ちょっと前」

「私が亜美の家に遊びに行ったより前?」

「うん」

「その時、なんで言ってくれなかったの?」

「柚菜が、傷つくと思ったから」

「そっか」

 と、柚菜は素っ気なく言った。

「ママから亜美のケイタイに電話があったの?」

「うん」

「何で亜美の番号知ってるんだろう」

「柚菜のケイタイを見たんじゃないの?私も不思議だったけど」

「そっか」

 と、柚菜はまた素っ気なく言った。

 そして、ゆっくりコーヒーを飲んだ。

「ママにカレシが出来て、ショック?」

「そんな感じはしてたけど、はっきり言われるとショック」

 柚菜は薫子さんのように、右ひじをテーブルに乗せ、てのひらに顎を乗せ、ガラスの向こうに見える小さな街を見た。テーブルを挟んで目の前の柚菜に、記憶に残っている薫子さんの映像が重なった。

「柚菜、冷静だね」

 私は柚菜の態度をいくつか想像し、それぞれの態度にどんな言葉を掛ければいいのかシュミレーションしていた。

「冷静じゃないよ。どんな態度を取ればいいのか分からないだけ」

「私も薫子さんから聞いたとき、動揺して、うまく言葉が出なかったの」

「で、亜美はなんて言ったの?」

「独身だから別にいいと思いますけどって。でも柚菜がって。ママのこと、大好きだからって」

「亜美らしいね」

「それしか言えなかったの。ごめんね」

「亜美があやまることないじゃん」

「でも、なんで薫子さん、私に相談したんだろう?それが不思議で」

「ママ、前に言ってた。亜美ちゃんて、すべてを見透かすような目をしてるわねって。だからじゃないの?」

「私、そんな目をしてる?」

「してる。悪いことをしてる人は、亜美にじっと見つめられると嫌なんじゃない?すべてを見透かされるようで。で告白しちゃうと思う。ママのように」

「薫子さんのしていることは悪いこと?」

「私にしてみればね」

 と、柚菜は冷静に言った。

「柚菜、ごめんね?」

「なに?」

「今日、薫子さんもここに来るの」

「ここに?この美術館に?」

「うん。ここに」

「亜美が呼んだの?」

「うん、怒る?」

「怒らないよ。このまま家に帰って、二人きりになるの、ヤダし」

「もうすぐ来ると思う」

「そっか」



 薫子さんは三十分ほど遅れてやってきた。

 私の隣に座った。

「なんでそっちに座るの?」

 と柚菜は言った。

「話しやすいじゃない?ねぇ亜美ちゃん」

「いいじゃない、柚菜」

 と、私は言った。

「ママ、何で亜美に相談したの?私のケイタイ見た?」

「見ちゃった。で亜美ちゃんに電話したの。怒らないでね?」

「いいけど」

「亜美ちゃんに相談したのは、柚菜の友達だから。信用できるって思ったから」

「で、どうするの?」

「付き合っていくつもり」

「私はどうなるの?」

「どうもしないじゃない」

「再婚、考えてるの?」

「今は考えてないけど」

「“いま”は?いずれはするっていうこと?」

「先のことは分からないって言ってるの」

「ママ変わったね?私には男は必要ないみたいって、前言ったよね?」

「そう思ってた。離婚してからずっとね」

 カフェには私たち三人の他には誰もいなかった。


「で、どんな人と付き合ってるの?」

「二五歳の人」

「ママと十六も違うの?」

 柚菜は感情が昂った。

「どこで知り合ったの?」

「お客さんで来てて。仲良くなったの」

「なったのって……」

「おかしい?」

「おかしくない?亜美?」

 私は言葉に詰まった。そして、

「分からない」

 と、素直に言った。

「すごく素敵な人よ?」

「仕事は、やってるの?」

「普通の会社員」

「私のことは知ってるの?」

「十八歳の娘がいることは、言ったわよ?」

「ママ、本当に付き合ってるの?」

「付き合ってくださいって言われて、ハイって言ったの」

「ばかじゃない?」

「そうかしら?亜美ちゃん、私ってばかなのかしら?」

「薫子さんは綺麗だから、その人の気持ちも分かるような気がします」

「なに言ってんの亜美?私の気持ちはどうなるの?」

「ママを取られるのが嫌なんでしょ?」

「柚菜、ママは柚菜のママよ?」

 と、薫子さんは言った。

 柚菜は薫子さんとの時間をこのまま過ぎていきたい。それを壊されることに、恐怖を感じている。この現実を受け入れるには、長い時間を必要とするだろう。私にはただ、この場所に根気強く寄り添うことしか出来ない。

「その人、ママと結婚する気なんてないよ」

「だから、結婚を前提に付き合っているわけじゃないの。ただ好きになったから、付き合ってるだけ」

「学生みたいだね?それでパパと失敗したんじゃないの?」

「だから何?」

「私の気持ちがないって言ってるの。私がいるのに離婚して、私にはパパの記憶がまったくない。自分勝手だよ?ママ」

「それはごめんなさいって言ったわよ?」

「感情のままに、何も考えずに結婚して子供を作って、」

「だからごめんなさいって言ってるじゃない」

「だから、感情のままに動いて、私を苦しめないでって言ってるの」

「パパがいなくて苦しんだの?柚菜」

「いればいいなって、思ったことは何度もあったよ」

「そう」

 と、薫子さんは素っ気なく言った。

「ママみたいな人は、子供を作っちゃダメだよ」

「できちゃったんだから、しょうがないじゃない」

「しょうがない?私のこと、生まなければよかったと思ってるの?」

「そんなことない。生んでよかったと思う。でも柚菜はもう十八よ?」

「だから何?」

「そろそろママから離れてもいいんじゃないかなって、思うの」

「出来ないよまだ」

 と、柚菜は言った。

「どして?」

「どしてって……」

 柚菜は言葉に詰まった。

「この間も言いましたけど、柚菜も私も来年受験ですし、」

 そこまで私は言って、薫子さんは、

「がんばってね」

 と、ひとごとのように言った。

 薫子さんはママではなく、一人の女になっていた。



 柚菜はしばらく私の家に泊まることになった。これ以上話をしても、無駄だと思った。何が無駄かはよく分からない。ただ、二人の間に時間が必要だと思った。新しい感情を静寂にさせる時間が。柚菜は不自然な感情の揺れで、何をするか分からない。酒乱のように暴れるとか、自殺をするとか、そういうことじゃない。その揺れに巧妙に入り込もうとする何かから、守らなければと思った。柚菜は繊細でかわいらしい子。柚菜はそんなにつよくない。ママの注意を惹きたくて、無意識に何をするか分からない。


「亜美のパパ、大丈夫?」

「事情を話せば大丈夫。ずっと食事も別々だし、ほとんど会わないと思うよ。話しておくから大丈夫」

「亜美ってやさしいね」

「想像するとね。この方がいいと思ったの」

「想像?」

「うん。あのまま美術館で話が終わって、二人一緒に帰って、会話もないまま一緒にいるのはイヤだろうなって」

「うん。ありがと」

「いいよ。気にしなくて」

「亜美が友達で良かった。亜美と出会ってなかったら、私、どうなっていたんだろう?それを思うと怖くなる」

「ゆな」

「ん?」

「独りじゃないから」

 私は柚菜を、包み込むように抱きしめた。

「あみぃ」

「ん?」

「男だったらよかったのに」

「バカ」

「男だったらすごくモテたよきっと」

「バカ。今のままでもモテるよ、私は」

「だよね」



 柚菜との生活は楽しい。柚菜とは同い年だけれど、妹が出来たようで。今まで朝も夜も、一人で食事をしていたけれど、それが当たり前でふつうで何も感じなかったけれど。新鮮で楽しい。私は柚菜のお弁当も作った。それが自分の中で嬉しかった。誰かのためにお弁当を作ったことなんてなかったけれど、それを楽しんでいる自分がいる。こんな自分もいるんだぁと、ちょっと恥ずかしくなった。柚菜はそれを、毎日おいしかったと言ってくれる。柚菜の存在で、私の日常は変化した。嫌な変化じゃない。美術館で柚菜に話し掛けた私の判断は、間違っていなかったと思える。柚菜と出会う前の私の孤独は、自分を深く見つめるための、大切な時間だったと思える。質のいい友達を見つけるには、まず自分を高めなければいけない。弱虫の馴れ合いが、私は本能的に嫌いだった。本の世界と私を取り巻く環境との間で、ずっともやもやしてきたような気がする。現実の世界で私は柚菜と出会った。素敵な出会い。柚菜が私の人生に接触している。嫌な気分じゃない。自分の内面がシンプルになったような気がする。自分にとって不必要な垢みたいなものが、気持ちよく削られたような気がする。寂しさで、男の肉体を渡り歩く、ばかな女にはなりたくない。自分の中にそんな可能性があったことに、柚菜との生活の中で気付いた。柚菜と出会っていなければ、私は自分を見失っていたかも知れない。絶えず、自分の存在に不安だった。柚菜には母親がいる。なんでも話せる母親がいる。話すことで、自分の存在に安心できる。私には母親がいない。自分を話せる友達のような母親が。父さんは、私との距離感に戸惑っていた。今だから分かる。父親には母親の代わりは出来ない。自分を話せる友達が、学校に行っても私にはいなかった。柚菜のような友達を、私は無意識に探していたのかも知れない。三か月でカレシと別れたのも、稚拙だったからだ。もの足りなかった。柚菜と出会っていなかったら、あのまま付き合っていたかも知れない。ふつうにキスしてふつうにエッチして。それをしなかったのは、柚菜と出会ったからだ。私は柚菜が好き。“へん”な意味じゃない。私の思考は早すぎる。柚菜がそのスピードを、コントロールしてくれるような気がする。


「ゆなぁー」

「どしたの?」

「私、そんなに強くなかった」

「知ってたよ?」

「え?」

「もっとゆっくり生きればいいのにって、思ってた。亜美は求道的だから」

「そうかな?」

「早く早くって、そんな風に感じてたの。もっとちからを抜けばいいのにって。自分の居場所はここじゃないって、その居場所を早く見つけなければって。だから学校をサボって、美術館に行って、自分を冷静にさせていたんでしょ?」

「そうかもしれない」

「そんな時、私と出会った」

「うん。私と同じような感性を持ってる子がいるんだぁって、嬉しくなった」

「私、亜美と出会って良かったよ?」

「私も、柚菜と出会って良かったよ。柚菜と一緒にいると、自分のままでいられるんだ。私は私のままでいいんだって」

「私がマイペースだから?」

 と言い、柚菜はにっこり笑った。

「柚菜は、柚菜独特の時間を流れているから、自分をしっかり持たないと、柚菜の時間に飲み込まれちゃうような気がするの」

「褒めてんの?」

「褒めてないよ。柚菜はそういう子だって言いたいだけ。柚菜のような個性は私にはないって気付いたの。だから私は私のままでいいんだって」

「そうだよ。亜美は亜美のままでいいんだよ」

「うん。柚菜、」

「ん?」

「私、作家になろうと思うんだ」

「小説家?」

「うん。だから文学部に行こうと思ってる」

「亜美に合ってるかもしれない」

「そう思う?」

「うん。すべてを見透かすような目をしてるから」

「自分では分からないけど」

「そんな目を持ってるから、日常に苦しくなるんだと思う」

「うん。でもまだ書く時期じゃないって、直感的に分かるの」

「何か、書いてるの?」

「ちょっと書いて、まだ駄目だって気付いたの」

「まだ十八だもん。焦ることはないと思う」

「うん。書くことよりもまず、いろんな世界を自分の目で見てみたいの」

「前に、世界をぶらぶらしてみたいって言ってたもんね」

「うん」

「ママも、私が手が離れたら、世界をぶらぶらしたいって言ってたのに」

 私は急に現実に引き戻された。

「ごめんね、あみぃ。夢を語ってたのに」

「いいの。柚菜はそれどころじゃないもんね」

「う~ん」

 と、複雑な顔をした。

「自分に問題を持ってると、人の話って入ってこないな~って気付いた」

 と、柚菜は言った。

「猫みたいだね、柚菜って」

「きまぐれで?」

「うん。亜美と一緒」

 柚菜と私は笑った。


「ママ、家にカレシ連れ込んでないかな?」

「薫子さんは、そんなことしないと思うけど」

「あみぃ」

「ん?」

「ママのカレシと、会ってきて?だめ?」

「ん?」

「どんな人か、見てきてほしいの」

「ん?おかしくない?」

「何が?」

「うまく説明できないけど、おかしくない?

他人の私が会いにいくのは変じゃない?」

「変じゃないと思うけど」


「柚菜があった方が、いいと思う」

「会って、何しゃべるの?」

「言いたいことを、しゃべればいいんじゃないの?」

「特にないし、出来れば会いたくない。でもどんな人なのか知りたい。だから、会ってきて欲しいの」

「薫子さんがなんて言うか……」

「亜美だったら、大丈夫だよ、たぶん」

 何で私が?と思ったけれど、純粋に興味があった。

「薫子さんに、電話してみるよ」

「亜美だったら出来る!」

「なにそれ?」

「分かんないけど」

 と言い、柚菜は笑った。



 薫子さんに電話すると、いいよと軽く言った。意外だったけれど、薫子さんらしいなと感じた。紹介することに抵抗がなかったので、それなりの人なのかなと、私は想像に期待した。

「柚菜も来るの?」

「柚菜は会いたくないと言ってました」

「変な子」

「私に見て来てって、言ってました」

 と言い、私は笑った。

「で、どこで会う?」

「また美術館で……ダメですか?」

 薫子さんは意味ありげに笑い、

「いいわ」

「日曜日、十時に待ってます」

「分かった。カレと行くわね」

「はい」

「じゃあ」


「日曜日、美術館で会うことになったよ」

「そう」

「隠れて来るんでしょ?どうせ」

「行かないもん」

「まぁいいけど」

「うん」

「でも薫子さん、どんな人と付き合ってるんだろうね?」

「ブサイクだったらヤダ」

「イケメンだったらいいの?」

「微妙」

「なにそれ?イケメンだったら許すの?」

「いいかもっていう気持ちもある。だから微妙」

「柚菜には悪いけど、」

「ん?」

「ちょっと、わくわくするの」

 という私の言葉を無視するように、

「私、大人にならなきゃいけないのかなぁ」

 と、つぶやくように言った。

「どう思う?亜美」

「前に薫子さんに、カレシと柚菜、どっちが大事なんですかって言ったら、」

「うん」

「カレシって、はっきり言ったの」

「ほんとに?」

「今でもびっくりしてる。薫子さんと柚菜の、仲良しを知ってる私としては」

「私とママの関係って、そんなものだったの?」

 私は言葉に詰まった。

「ねぇ亜美ぃ、そんなものだったの?私とママって?」

「私には、分からないよ」

「だよね」

「でも、浮気してるわけじゃないし。薫子さんも、女だったっていうことだと思うけど」

「亜美って、素っ気ないね」

「柚菜は、ママ離れしないと」

「ママがもし結婚したら、二五歳の人が、私のパパだよ?」

「いいんじゃない?」

「亜美のパパがもし二五歳の人と結婚したら?」

「私は受け入れると思う。家は出ると思うけど」

「受け入れられないよぉ私は」

「時間が必要かもね」

「私はやっぱり受け入れたくない」

 柚菜は今まで“柚菜時間”を流れてきた。その時間に守られ流れていくことに、心地よさだけを感じてきた。成長する必要もなく野心が不自然に溢れてこない環境の中で、流れが急に変化し、免疫が出来ていない柚菜は戸惑っている。

「とりあえず会ってくるから」

「うん」

「来るんでしょ?どうせ。美術館で会いたいって私が言った時、薫子さん、意味ありげに笑ったんだよね」

「私が来ると思ってるのかな?」

「来るんでしょ?」

「う~ん」

 柚菜はかわいらしく腕を組んだ。

「自分の目で、見たほうがいいと思う。私の感性と柚菜の感性は違うし。大事なママが付き合ってる人だし、とにかく自分の目で見たほうがいいと思う」

「う~ん」

「ゆなー」

「うん」

「私が一緒にいるから」

「う~ん」

 柚菜は手が掛かる子だ。それがかわいいのだけれど。

「いくよ?ゆな」

「アイス買ってくれる?」

「ば~か」



 柚菜は結局来なかった。

 名前は如月快人という。透明感のある人だなと思った。清潔感のある髪型で、中性的な容姿だった。化粧したら綺麗だろうなと思う。雰囲気が、薫子さんに似ているなと感じた。出会い、印象がお互いに強烈に残り、短い時間で惹かれあったなと想像させる。私は身長が一六五だから、彼は一七五はあると思う。慇懃という言葉がぴったりなことばづかいと、所作だった。柚菜が会ったら逆に好きになっちゃうかも。

「柚菜、許してくれるかしら?」

 薫子さんは、彼をちらっと見、そう言った。

「イケメンだったら許すかもって、言ってましたよ」

 と言い、私は笑ってしまった。


 純粋に、恋人同士だった。好きだから付き合っている。ただそれだけのような気がした。性的な関係があったとしても、これからあっても、自然なような気がした。その先に別れてしまっても、いいような気がした。付き合わないことが、不自然なような気がする。暗い会話になるかなと思っていたけれど、その想像が消えていった。雨から天気になるみたいに。柚菜がこの場所にいたら、同じ感覚になったかも知れない。薫子さんは如月君が好き。如月君は薫子さんが好き。ただその気持ちだけがあった。そこに存在するエネルギーは、嫌なパワーではなかった。こんな恋愛に巡り合えた薫子さんが、羨ましいと思った。


「柚菜、元気で生きてる?」

 薫子さんは、冗談っぽく言った。

「元気ですよ」

「迷惑じゃない?」

「まったく。柚菜と一緒に食事して、一日あったことを話して。朝、柚菜のお弁当も作ってるんですよ?妹が出来たみたいでそれが楽しくて」

「ごめんなさい。そんなことまでしてくれて、」

 と薫子さんは言い、財布をバックから取り出そうとしたので、

「いいんです」

 と私は慌てて言い、

「私が好きでやってることですから」

「お父さん、迷惑じゃない?」

「生活のリズムが違いますから。同じ家に住んでいるのに、ほとんど会わないんです。だから気にしないでください。それより、」

 私は薫子さんの顔をジッと見た。

「ん?」

「柚菜が、カレシを自宅に連れ込んでないかなって、心配してました」

「亜美ちゃん、柚菜に言っといて」

「はい」

「そんなことしてないって。一度しか」

 私は如月快人の顔を見た。如月快人は慌てて隣の薫子さんを見た。

「嘘よ。信じた?」

「ちょっと」

 薫子さんは少女のように笑った。

 笑顔が素敵だと思った。

 恋をしている輝き。

「私、帰りますね」

「もう?」

「はい。ゆっくり楽しんでください、美術館デート」

「気を使わなくていいのに」

「使っていません。私が心地悪いだけですから。素敵な絵がいっぱいあるので、楽しんでください」

「ありがとう。柚菜のこと、お願いします」

「ん?」

「そういう意味じゃなくて、柚菜の気持ちが落ち着くまで、お願いしますっていう、」

 と、薫子さんは慌てて言い、

「分かってますよ。大丈夫です。柚菜は私の妹ですから」

「ありがとう」

 と、もう一度薫子さんは言うと、にっこり笑った。その笑顔に、母親としての薫子さんが見えたので、ちょっと安心した。



 柚菜は私の部屋でテレビを見ていた。

「行って来たよ」

「うん」

 柚菜は私の顔を見ずに言った。

「柚菜が会ったら、好きになっちゃうかもね」

「そうなの?」

「中性的な人だった。薫子さんに、雰囲気が似てたかなぁ」

「ママに?」

「うん。育ちがいいまま、大人になったような。でもアイドルみたいに、中身がないような感じじゃなくて」

「イケメンなの?」

「うん」

 と、私ははっきり言った。

「亜美のタイプ?」

「素敵だなと思うけど。私はもっと野性的な人がいいかな」

「そっか」

 柚菜は、興味なさそうに言った。

「どんな人かなって不安だったけど、大丈夫だと思う」

「大丈夫?何が?」

「自然に出会って自然に好きになって。そんな感じに見えたから」

「それが大丈夫なの?」

「羨ましいって、思えたの」

「羨ましい?」

「自分の全部で好きになれる人って、人生の中で、稀だと思うから」

「そうかな?」

「私にはまだない。柚菜もないでしょ?」

「うん」

「だからそれまで、自分を大事にしようって、思う」

 私は何を言ってるんだろう?

「なに言ってんの?亜美」

「ね、自分でもよく分からない」

「で、結局何が大丈夫なの?」

「私が見た限りでは、変な人じゃないから大丈夫なんじゃないかって、思ったの」

「まだ、一度しか会ってないじゃん」

「薫子さんは、精神的に弱くなってたわけじゃないでしょ?」

「病気とか?」

「そうじゃなくて。悩みがあってとか、深く傷ついていたとか」

「私が見ていた限りでは、」

 と、柚菜は私の真似をして

「ない、と思う。それが何?」

「そういう状態の女の人に、入り込んでくる男じゃないなと、私の見た限りでは思えたの。二人とも健康な状態で出会って、自然に好きになって。そんなふうに感じたから、大丈夫だって思えたの」

 柚菜は理解したような、でももやもやしていることは分かった。

「薫子さんとあの人は、傷の舐め合い的な関係じゃないよ。だから羨ましいって思えたの」

 柚菜は黙っている。

 そして、

「ママはずっと前に、私には柚菜がいればいいって、言ったんだよ?」

「あの人と出会って、変わったんだよ」

「ママは私を裏切った」

 と言い、柚菜はふてくされた。

「ただ、好きな人が出来ただけだよ」

「今まで、私だけのママだった。今は私より、その人の方が大事なんでしょ?」

「恋が始まったばかりだから、そう思ってるだけだよ。母親として柚菜は大事。一人の女として、カレが大事。今はただ、カレに気持ちがちょっとだけ傾いているだけ」


 母親の視線を独り占めにしてきた柚菜は、戸惑っている。親友に裏切られたような気持ちだろう。自分のそばにいてくれた存在が、突然離れていく。何の準備もないままに。柚菜にとっては赦せないだろう。私のそばから柚菜が突然離れたら、私もきっと赦せないかも知れない。柚菜と一緒にいると心地いいし、疲れない。この関係は、いつまで続くんだろう?


「ママに、別れてほしいの?」

 柚菜は黙っている。

「受け入れようよ?ゆな」

「亜美と私って、いつまで続くんだろう?」

「え?」

 私は柚菜に気付かれないように、内側の感情の動きを抑えた。

「亜美も、本当に好きな人が出来たら、私から離れていくの?」

「柚菜は?」

「分かんないよ、そんなこと」

「私はずっと、柚菜と友達でいたいよ?」

「人を好きになるって、誰かが傷つくの?」

「どうなんだろう?」

「ママは幸せで、私は傷ついてる」

「私がいるよ、ゆな?」

「答えになってないよ」

「だったら傷つくんじゃないの?」

「だったらって何?」

「もういいよ」

「私はペットじゃない」

 今度は私が黙る。

「自分が寂しい時だけかわいがって、好きな人が出来たら、もう知らないって離れていく」

「言われてみれば」

「でしょ?」

「勝手に私を生んで離婚して、カレシが出来たら私より大事って」

「親って、そんなもんなんじゃないの?柚菜だって、好きな人が出来たら、ママから離れていくと思うよ?」

「私、ママ好きだもん」

「ゆな、そろそろママから離れようよ」

「亜美は、ママがいないから分かんないよ」

 私はこの言葉に、特に傷つかなかった。

「そうかも知れない」

「ごめん」

「大丈夫。免疫が出来てるから」


 私は柚菜を、ペットのように思っていたかも知れない。一緒に住むことで、私の心は満たされている。こんな時間はいつまでも続きはしないし、続いてはいけない。柚菜の言葉で、現実に戻ったような気がする。私と柚菜の時間。大事にしようと思う。


「そろそろ家に戻らないとダメかなぁ?」

「好きなだけ、いてもいいよ」

「ずっといるかも」

「それは困るけど」

 気付いたら、私の部屋に柚菜の荷物がけっこうある。空いている部屋があるので、そっちを使ったらと言ったけれど、柚菜はここがいいと言った。生まれた時から、ずっと一緒だったような気がする。前世なんて私は信じないけれど、柚菜とは深い繋がりのようなものを感じる。


「柚菜は薬学部に行くんでしょ?」

「そのつもり」

「そしたら、家を出るんでしょ?」

「うん」

「一緒に住もうか?」

「いいよぉ。別に住んであげても」

「なにそれ」

 と言い、私は笑った。

「じゃ、それまで家にいればいいじゃない?勉強も一緒に出来るし」

「しかたないな~じゃぁ~いてやってもいいよぉ~」

 私は柚菜の頭を手のひらで、ポンポンした。

 柚菜はにっこりした。

「そうだ」

「ん?」

 と、不思議そうに柚菜。

「薫子さん、家にカレを連れ込んでないって」

「そっか」

「安心した?」

「うん」

「柚菜と薫子さんが造ってきた家だもんね」

「うん。穢されたくない」

「そういうことも、理解できてるカレみたいだよ?」

「ママ、男を見る目、ある?」

「私が見た限りでは、あると思う。お酒も飲まないって言ってたし。タバコも吸わないみたいだし」

「でもママ、離婚したんだよねぇ」

 と、柚菜は嫌味っぽく言った。

「失敗して、いろいろ学んだんじゃないの?」

「だといいけど」

「ママ、男は完成するまで時間が掛かるって言ってた。私のパパは弱かったんだって。機嫌が悪くなったから、それ以上は訊かなかったけど。その人、まだ二五でしょ?」

「うん」

「ママの好きなタイプと違うような気がする」

「好きなタイプと、実際に付き合う人って、違うんじゃないの?」

「女って、不思議だね」

 と言い、柚菜は笑った。

「柚菜だって私だって、女だよ?」

「亜美は男より、女が好きでしょ?」

「どして?」

「去年のイヴの時、私にキスしたじゃーん」

 柚菜は、いじわるそうに笑った。

「それは柚菜のくちびるが、いつもぷるっとしてて、あの時はシャンパンを飲んで体がしびれてて、でやっただけ。別に舌は入れてないし。柚菜とは友達だよ。それ以上のものはない」

 と、私は動揺せずに言った。

「私も美術館のこっちのベンチで、亜美に触れるくらいのキスをしたことあったけど、それ以上じゃない」

「それと一緒だよ」

「そっか」

 なんだろう?この居心地の悪い空気。

「ボーリングでも行かない?」

「なに急に?」

 柚菜はこの居心地の悪い空気を、いじわるに楽しみたいようだった。

「部屋にいてもつまんないしさ」

「え~疲れるからヤダ~」

「行こうよ。部屋にばっかりいたら、おかしくなっちゃうから」

「亜美はもともとおかしーじゃ~ん」

 柚菜と会話をしていると、たまに自分が壊れそうになる。私の弱い部分を敏感に感じ取り、そこに甘えるように入り込んでくる。まるで父親に甘えるように。私は本能で、一定の距離を取ろうとするのに、それをスッとすり抜けて、私のテリトリーに侵入してくるのだ。私の内面をかき乱し、それを楽しんでいる。悪い女の子。男だったらなおさらおかしくなるかも知れない。かき乱しておいて、決して自分には触れさせない。触れようとするとそれを敏感に感じ取り、スッと逃げてしまう。捉まえられない。少女が父親の愛情を確認しているような。柚菜は父親の愛情を知らずに育った。その欠けている部分を満たしてやることは、私には出来ない。どうか柚菜が、素敵な男性に巡り合えますように。



「卒業まで、柚菜をこっちで預かりますよ」

 私は薫子さんに電話した。

「柚菜が、そう言ったの?」

「私がお願いしたんです。一緒に受験勉強出来ますし」

「そう」

「寂しいですか?」

 とりあえず私は聞いてみた。

「うん。寂しい。一人の食事って、寂しいものね」

「カレと、すればいいじゃないですか?」

「毎日会うわけじゃないでしょう?休みの日に会うだけだもの。柚菜がいた時は、いろいろ忙しかったなぁって。朝はお弁当作ったりね。当たり前だったことが、急に消えちゃうと、何をやっていいのか分からない。そうなると人間て、不安になるのね」

「カレがいるじゃないですか?」

「そうね。でも家に連れ込んでないわよ?」

「分かってますよ。柚菜が薫子さんと造ってきた家だから、穢されたくないって言ってました」

「私も同じ。柚菜は同志だもの。この家には、柚菜との時間がいっぱい詰まってるから、誰にも入ってきて欲しくないの。だからあの子は、一度も家に友達を連れてこなかったんだと思う。亜美ちゃんが初めてだった」

「嬉しいです。受け入れてもらえて」

「亜美ちゃんだったら、大歓迎」

 と言い、薫子さんは笑った。


「亜美ちゃんも大学行くの?」

「はい。文学部に行こうと思います」

「で、来年から家を出て、柚菜と一緒に住もうと思ってます」

「そこまで話は進んでいるのね」

 薫子さんは笑った。

「亜美ちゃんと一緒だったら、安心出来るけど」

「心配ですか?」

「その前に、合格しないと」

「そうですね」

 私は笑った。

「柚菜も亜美ちゃんも、頭がいいから大丈夫だと思うけど。でも文学部にいくの?」

「はい。作家になりたいなと思って」

「作家になるの?」

「なれるか分からないですけど」

「何か、書いてるの?」

「まだ、ちゃんとしたものは」

「亜美ちゃんだったら、なれると思う。そんな目をしてるから」

「そうですか?そんな目をしてますか?」

「うん。すべてを見透かすような目。だから私は亜美ちゃんに、カレのことを相談したんだと思う」

「自分ではよく分からないですけど」

「いずれ、私と柚菜のことを書いたりして」

「かも知れないですね」

「こわいこわい」

 と言い、薫子さんはいじわるそうに笑った。

 笑い方が、柚菜とそっくりだった。声も、柚菜と一緒だった。薫子さんだと意識しなければ、柚菜だった。


「気持ちが落ち着いたら、家に来るように言ってくれる?」

「はい」

「ママが、寂しがってるって」

「言っときます。柚菜も、寂しいと思います。言わないですけど」

「前に、カレの方が大事だって言ったけど……」

 薫子さんは口ごもり、

「やっぱり柚菜の方が大事。だって私の子供だもの」

「薫子さんみたいな聡明な人でも、恋で自分を見失うんですね」

 今度は私がいじわるそうに言った。

「なにそれ~?」

「その言い方、柚菜にそっくりです」

「柚菜“が”、そっくりなの」

「そうですね」

 私と薫子さんは笑った。


「不安だったの」

 どんな会話から、この話になったのか分からない。話をしているうち、素の薫子さんに戻っていくのが分かった。

「二三で柚菜を生んで、でもあの子の父親は堕ろせって言ったの。同い年だったし、怖かったんでしょうね」

 私はショックだった。もしかしたら柚菜は存在しなかったかも知れない。そう思うと怖くなった。言葉が出なかった。

「でも私は柚菜を生んだ。私から別れてやったの」

「そうですか」

 しか言えなかった。

「男を見る目が私になかっただけ。ただそれだけ」

「前に、柚菜がママにパパのこと聞いたら、機嫌が悪くなったって言ってました」

「亜美ちゃんに、そんなこと言ったの?」

「はい。ママがパパのことを、弱かったんだって……」

「言った記憶はあるけど」

「そういうことだったんですね」

「柚菜を生んで良かった」

 薫子さんは、確信的に言った。

「ありがとうございます。柚菜を生んでくれて」

「その言葉、あの男から聞きたかった」

「どこにいるのか知ってるんですか?」

「知りたくもない」

「ですよね」

「あの時から、女としての私の時間は止まっていたのかも知れない。でも柚菜との時間は楽しかった。後悔なんてしてない」

「柚菜は素敵な子ですよ」

 これは、私の本心だった。

「柚菜は私の宝物」

 と薫子さんは言い、笑った。

「私の宝物でもあります」

「ありがとう」

「私の妹ですから」



「カレから好きだって言われた時、素直に嬉しかったの」

「出会ってすぐに、ビビっと来たでしょ?」

「分かる?そうなの。初めての感覚だった」

 と、薫子さんは少女のように言った。

「この人だ!って、全身の細胞がざわついたの。私はこの人と付き合うんだとか、そういうことじゃなくて、とにかく全身の細胞がざわついたの、亜美ちゃん分かる?」

「そういう経験がないもので、分かりません」

「カレシはいたんでしょ?」

「三か月しか付き合わなかったですし、それほど好きじゃなかったので」

「分かる」

「分かるんですか?」

「柚菜の父親に対して、そんな感じだったから。容姿もそこそこだし、こんなもんかなって」

 と言い、薫子さんは笑った。

「私にも、全身がざわつくような人との出会いがありますかね?」

「知らない」

 と、薫子さんは素っ気なく言った。

「何ですか?それ~」

「だって亜美ちゃんと私は違うもの」

「薫子さんのほうが、モテるっていうことですかぁ~?」

「私は私。亜美ちゃんは亜美ちゃん。出会うかも知れないし、出会わずに、適齢期だから……みたいな出会いに満足するしかないかも知れない」

「それで結婚するの、ヤダなぁ~」

「しなければいいじゃない?亜美ちゃんは結婚に向かないと思うし。私もしてないし」

「はい?」

「だから私は結婚してないの。柚菜には、小さい頃に離婚したのよって言ったけど」

「そうだったんですか」

「四一歳で、初めておかしくなるくらい、本当に好きな人が出来たの、おかしい?」

「おかしくないと思います」

 と、私は素っ気なく言った。

「適当に言うのね」

 薫子さんは笑った。

「もっと早く出会いたかったわ」

「そうすると、柚菜は生まれてこなかったですね」

「亜美ちゃんとも、知り合えなかっただろうし」

「私、柚菜と出会ってなかったらと思うと、怖くなるんです」

「どして?」

「私の世界は今現在、学校と家だけです」

「うん」

「その小さな世界と自分との間のバランスが、うまく取れなかったんです。距離感っていうか」

「うん」

「自分のスピードは速いのに、その小さな世界のスピードが遅く感じられて……」

「だから学校をサボって美術館に行って、自分を冷静にさせていたの?」

「そんな気がします」

「そこで柚菜に出会ったと」

「はい」

「柚菜はマイペースだから、癒されるんじゃないの?」

「そうなんです。私と小さい世界とを、うまく繋いでくれるっていうか。柚菜は意識してないでしょうけど」

「私とカレが、もっと前に出会わなくてよかったね」

「上から目線ですね~」

 私はいじわる風に言った。

「そうよ?だって柚菜を生んであげたんだから」

 と、薫子さんはいじわる風に言った。

 私と薫子さんは笑った。


「経済力があれば、男は必要ないかも知れない。ただ、子供は欲しいけど」

「あと、ごくたまにの恋ですか?」

「からかってるの?」

「はい」

 と言い、私は笑った。

「でも、亜美ちゃんの言うとおりかも知れない。恋なんて、そんなに必要ないかも。エネルギーをいっぱい使うし、自分を見失っちゃうしね」

「柚菜よりカレが大事」

「いじわるねぇ~」

 私はからかうように笑った。

 母親がいたら、こんな感じなのかなと、何気なく思った。


「気付いたら、柚菜はもう十八歳。カレに好きですって言われて、そのことに、ハッと気づいたの。あれからもう十八年も経ったんだって。私は気付いたら四一。焦燥感というか、恐怖心というか……」

 薫子さんは言葉に詰まった。

「柚菜が巣立ったら、海外を一人でぶらぶらしようなんて、漠然と思ってたけど、考えてみると旅行ってそんなに好きじゃないし」

「どしてですか?」

「行くのはいいけど、帰ってくるのがめんどくさいじゃない?」

「ハハ」

「買い物だって、今は家にいながらネットで何でも買えるし。出掛ける必要ないじゃない」

「世界遺産とか、見たくないですか?」

「映像でじゅーぶん。綺麗だなって」

 私は大声で笑った。

「柚菜とディズニーシーに行った時、待ち時間とか長くて、辛いことのほうが多いんだけど、乗り物に乗って、その記憶が強烈に残るから、結果楽しかった……みたいな」

「そうかも」

「人からどうだったって聞かれて、楽しかったって言わないと、ダメなような空気があるじゃない?夢の国だし」

「そうですかぁ?」

「そうよ。デートで使えばネタに困らないし、いいと思うけど。二人の世界で盛り上がるし」

「柚菜とのディズニーシーは、おもしろくなかったんですか?」

「そう聞かれれば、おもしろかったって言うわよ。せっかく行ったんだもの」

「薫子さんて、おもしろいですね。視点が変わってるっていうか」

「三時を過ぎると、お父さん達がヘトヘトになってタバコを吸ってるの。その姿がおもしろかった」

「柚菜が前に、私と薫子さんが似てるって言ってましたけど、私の視点と同じですね。私も前にシーに言った時、ミッキーのぬいぐるみを買ったんです」

「うん」

「で、」

「亜美ちゃん、」

「はい?」

「亜美ちゃんて、ぬいぐるみが好きなの?」

「好きというか、記念で。変ですか?」

「亜美ちゃんに、ぬいぐるみは合わないかなーって」

 と言い、薫子さんは笑った。

「記念ですよ、記念で」

「そうなの、で?」

「で、レジの人が、そのぬいぐるみを袋の中に入れよとするのですけど、」

「うん」

「ミッキーの足から入れようとするんですけど、足がバタバタしちゃって、なかなか袋の中に入らなくて、そのうち顔が真っ赤になってきて、」

「笑ってたの?」

「はい。でも内側で、ですよ?」

「で、その人どうしたの?」

「やっと冷静になって、テーブルの上にミッキーを寝かせて、足から入れました」

 薫子さんは笑った。私もつられて笑った。

「私と亜美ちゃんて、感性が同じ種類みたいね」

「私もそう思います」

「亜美ちゃんと会話してると楽しいわ」

「嬉しいです」

「柚菜は、私が私がだから、疲れるの」

「甘えんぼですから」

「でも私にも、甘えたい時はあるの」

「甘えられるカレが、出来たじゃないですか」

「そうなの。亜美ちゃんも、出来るといいわね」

「私は甘えるのは苦手みたいです」

「甘えられたい?」

「男には嫌ですね。何甘えてんのって、反応するみたいで。柚菜はかわいいと思いますけど」

「女が好きなの?」

「そういうことじゃなくて」

 私は確信的に言った。

「私が必要な時にだけ、いてくれればいいっていうか」

「ペットみたいね」

「う~ん」

「亜美ちゃんはたぶん、ろくでもない男と付き合うわよ」

「そう思います?」

「自分が必要な時にだけ、いてくれればいい人って、仕事してない人だもの」

「ですよね」

 と、とりあえず私は言った。

「亜美ちゃんは綺麗で商才もあって目差す目標もあって。結局、男を必要しないじゃない?」

「でも孤独ですよ」

 私は自分の口からこんな言葉が出て来たことに、ハッとした。私は孤独だったの?それをただ、自覚しなかっただけなの?

「泣いてる?」

「どうしたんでしょう?私」

「もっと、ちからを抜いたほうがいいと思う。まだ十八歳だもの」

 母親に、やさしく諭されているようで、余計に涙がぽろぽろ出た。

「よしよし」

 私はわんわん泣いてしまった。柚菜はまだ帰って来なかった。自分の部屋で私は泣いている。そんなことは今まで一度もなかった。そんな自分が信じられなかった。私の中に、私自身が自覚しなかった自分がいたことに、怖かった。薫子さんが、私をやさしく抱きしめてくれている。

「私は亜美ちゃんのママだから」

 私は言葉を出せなかった。

「落ち着いた?」

「はい」

「いつでも電話して。それと、いつでも遊びに来て。カレの話もしたいし」

「ありがとうございます」

「うん」

 と、やさしく薫子さんは言った。

「感情をコントロール出来なくて、泣いてしまってごめんなさい」

「いいんだよそれで。そんな時だってあるの。人間だもの」

「相田みつをみたいですね」

「なにそれ~」

 私と薫子さんは笑った。



 今の私はこのままでいいはずがない。そんな焦燥感に、束縛されていたような気がする。もっと力を抜けばいい。薫子さんの言葉が、いい意味で痛かった。現実のスピードと、頭の中のスピードがうまくリンクしなかった。それに気付いた。現実はきっと、ゆっくりゆっくり動いている。今現在流れている価値観が、私は感覚的に嫌いだ。でも何をしていいのか分からない。まだ十八歳だもの。薫子さんのこの言葉に、ハッと私は我に返った。そうだ、私はまだ十八歳。将来小説家になりたいけれど、書くことを焦らなくてもいい。夢はどこかに小さくしまっておいて、その時期が来たら、取り出せばいい。私はまだまだ未熟だ。だってまだ十八歳だもの。実際に見て、触れて、感じたい。その時私の内面は、どんなふうに動き、感じるだろう?何かを創り出すには、私の軸は細すぎる。無理に不幸になる必要もなく、弱さや強さに自分を見失う必要もない。私は神様なんかじゃない。普通の女の子。私は私の人生に責任を持てばいい。私は私以上でもなく、私以下でもない。



「亜美、」

「ん?」

「なんか変わったね」

 と、柚菜が言った。

「そう?」

「うん。変わった。地に足が着いたっていうか。現実に戻ってきたっていうか」

「今を大事にしようって、気付いたの」

「私のおかげ?」

 柚菜を卒業まで預かると、薫子さんに電話をしたと言ったけれど、それ以上は言わなかった。薫子さんのおかげだったけれど、

「そうかも」

「私が一緒でよかったね」

「うん」

 私は笑い、柚菜の頭を手のひらで、ぽんぽんした。


「私たち、まだ十八歳なんだよねぇ」

「あたりまえじゃん」

 と言い、柚菜はぽかんとしている。

「焦らなくていいんだよね?」

「受験?」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういういみ~?」

「よく分かんないけど」

 私は何となく笑った。

「亜美は、難しい本を読み過ぎだと思う」

「そうかも」

「もっと、簡単に考えればいいのに」

「ね」

 私は納得するように言った。

「そんなに考えすぎると疲れちゃうよ?」

「うん」

「今は、受験のことだけ考えればいいんじゃない?」

「だよね?」

「受験、がんばろうね」

「うん。柚菜がそばにいてくれて、良かったよ」

「でも、もうキスはしない」

「しないよ、バカ」

「油断すると、してきそうだから」

 と、柚菜はいじわる風に言った。

「でもお風呂はいっしょに入ったげる」

「私が、毎日入ってあげてるの」

「どうでもいいけど」

 柚菜は笑った。


 楽しい時間が流れている。ちょっと先の未来を考えたうえでの楽しい時間。その先の未来を考える必要は、“いま”はない。そこに気付いた私は急に疲れてしまって、学校を三日間休んでしまった。どこにこんな疲労が溜まっていたのかと、びっくりするくらい体がだるくて動けなかった。ただ眠かった。だから寝た。何も考えられなかった。情報と遮断されることで、本来の自分に戻っていくような気がした。柚菜のことも、父さんのことも、店のことも、どうでもよかった三日間だった。激しく夢を見たような気がする。夢というより、本のページを素早くぱらぱらするように、記憶が流れた。私の頭の中が動いている。大陸が少しずつ動くような、脳がそんな感じに動いている。私を動かすプログラムを、書き換えられているような感じ?


「亜美、だいじょうぶ?」

「寝すぎて、腰が痛い」

「よく寝てたもんね」

「お弁当、どうしたの?」

「コンビニで買った」

「ごめんね」

「あやまることないじゃん」

「なんか、義務のような気がして」

「私のママみたいだね」

 と言い、柚菜は笑った。

「柚菜と一緒にいると、母性が出てくるみたい」

「なにそれ~」

「何かしてあげなくちゃって」

「私、そこまで子供じゃないよぉ~?」

「子供だよー」

「子供じゃないもん」

「今日、なに食べたい?」

「オムライス」

「子供じゃん」

「オムライスは大人も食べるよー?」

「柚菜が食べるから子供なんだよ」

「意味わかんない」

「私も」

 柚菜と私は笑った。


「元気になってよかったね」

「病気じゃなかったしね。疲れてたんだと思う」

「私のせい?」

「違うよ。自分の中で、何かがホッとしたんだと思う。柚菜がそばにいてくれたから、ホッと出来たんだと思う」

「そっか」

「柚菜はただ、そばにいてくれればいいの」

「ただそれだけでいいの?」

「いいの」

「でもキスするのはもうヤダよぉ?」

「同じ会話になりそうだから、やめよーね」

「つまんな~い」

「バカ」

 柚菜と私は笑った。




 柚菜がうちに来て、何か月か経ったある日、薫子さんからメールがあった。家に来て欲しい。そんなメールだったと思う。そのメールから、何か暗いものを感じたので、柚菜には知らせずに行った。薫子さんは、私の顔をみるなり泣いた。何かがあって、カレと別れたんだと思った。慰めの言葉を探していたら、

「カレが死んだの」

 と言った。

「はい?」

 死んだ?

「カレが死んだの」

 薫子さんは、もう一度言った。

「何があったんですか?」

「事故だったみたい」

「みたいって……」

「電話をしても、つながらなかったの。新聞を見て、事故で亡くなったって知って…」

「お葬式には……」

「行けなかったの。立てないのよ。立てなかったの。ショックで、立てなかったの」

 薫子さんの肌はぼろぼろだった。寝てないんだと思った。

「そうですか」

 しか、言えなかった。

「とりあえず、眠ったほうがいいですよ。私がいますから」

「眠れないの。眠ってしまったら、現実が入ってくるようで。体から、ちからが抜けないの」

 私には、何も出来ない。私はただ静かに呆然とした。

「ごめんなさい。亜美ちゃんにしか、相談できないじゃない?」

「はい」

「何をしていいのか分からないの」

 私はただ、薫子さんの言葉に、相づちを打つだけだった。私にしゃべることで、何とか自分のバランスを保って欲しかった。

「迷惑かけて、ごめんね」

「迷惑じゃないですよ。今日はずっとそばにいますから」

「ありがとう」


 私はしばらくこっちに泊まることにした。薫子さんのそばに、いてやりたかった。私は柚菜に電話した。

「薫子さんのカレが、亡くなったらしいの」

「知ってるよ?」

「え?」

「事故でしょ?対向車線から突っ込んできた車にぶつかって」

「何で知ってるの?」

「新聞で」

「いつ?」

「亜美が、三日間寝てた日。暇だったから、新聞見てたの。そしたら載ってて。あっ、ママのカレシだって気付いたの」

「何で言ってくれなかったの?」

「亜美、寝てたじゃん?」

「何言ってんの?」

「怒ってる?」

「何で知らん顔してんの?ママの大事な人だよ?」

「私には、関係ないじゃん」

 柚菜の言葉に、言葉が出なかった。

「ママと一緒にいるんでしょ?」

「そうだよ?」

「何で亜美に相談してんの?」

「それは……」

「ママ、泣いてんの?」

「うん」

「いい気味」

 と言い、柚菜は笑った。

「柚菜!」

「なに怒ってんの?」

「ママの気持ち、考えてみなよ?」

「ママだって、私の気持ちなんて考えないで、カレシなんかつくったじゃん。勝手にカレシつくって、死んだから慰めて欲しいって言われても」

 と言い、柚菜はまた笑った。

 薫子さんは、私のママじゃない。だから、一人の女として、薫子さんを見ることが出来る。でも柚菜にとっては母親だ。その母親を、一人の女として見ることなんて、出来ないと思う。私は言葉に詰まった。

「そうじゃない?亜美?なに黙ってんの?」

「とりあえず、薫子さんのそばにいてやりたいの。だから着替えを持ってきて欲しいの」

「ヤダ」

「柚菜、お願い」

「ヤダ。近いんだし、取りにくればいいじゃん」

「柚菜が私の家に来るとき、私が柚菜の着替えとか、運んだんだよ?」

「そういうこと、言うんだ?」

「言うよ?」

「ママと会いたくない」

「会わなければいいじゃん」

「疲れるからヤダ~」

「柚菜!」

「分かったよ。持ってく。でも変じゃない?」

「何が?」

「私が亜美の家にいるんだよ?亜美がいないのに」

「父さんに電話しとくから、大丈夫だよ」

「そういうことじゃなくて」

「何?」

 私はいらいらした。

「何かが少しずつ、おかしくなり始めてるような気がする」

「言ってる意味が分からない」

「私とママ、もうダメかも知れない」

「ダメって何?」

「もう、私のママじゃない気がする」

「柚菜はそろそろ、大人にならなきゃいけない時期なんじゃないの?」

「考えてみると、亜美と私達って、他人だよ?」

「だから?」

「そこまでする必要はないんじゃない?」

「私は柚菜と薫子さんを、他人だなんて、思いたくないの」

「じゃ、何?」

「大切な人。だから大事にしたいし、寄り添っていたいの」


 柚菜は私の荷物を持ってきた。

「ママに会ってく?」

「うん」

「でも眠ってるの。やっと眠ってくれたの」

「亜美が来てくれて、安心したんだね」

「そうみたい」

「ありがとう、亜美」

「そんなことはどうでもいいの。すごく痩せちゃって……仕事も1週間、休んでるみたい」

「そっか」

「うん。薫子さん、柚菜を生んで、ずっと不安だったみたい」

「そうなの?」

「一人で柚菜を育てて、気付いたら柚菜がもう十八歳で。如月君に好きだって言われて、その時自分はもう四一なんだって、ハッと気付いたみたい」

 柚菜は何も言わなかった。

「甘えられる存在が出来て、弱い自分に気付いたんじゃないかな」

「女って、バカだね」

「そうかも知れない」

 と私は言い、次の言葉を出そうとすると、

「でも私たちも女だって言わないでね」

 と、見透かすように柚菜は言った。

「カレシが死んだくらいで、一週間も仕事を休んで、バカみたい」

 私は何も言わなかった。

「ママ、パパのことを弱かったって言ったけど、ママだって弱かったんだよ」

「柚菜を必死で守ってきたじゃない?」

「生んだんだから、当たり前じゃない?だったら生まなければいいのに」

「私は柚菜と出会えてよかったよ?」

 柚菜は何も言わなかった。

「柚菜は、生まれてこなければよかったと思う?」

「それは思わない」

「どして?」

「楽しいから」

「薫子さんがママでよかった?」

「それは今は微妙」

 私は何も言わなかった。

「ママ、亜美には何でも話すんだね?」

「娘には、話せないこともあると思う」

「家族なのに?」

「家族だから、話しづらいこともあるんじゃない?」

「ママ、ほかに何か話したの?」

「柚菜がやっぱり一番大事だって。宝物だって気付いたって」

「女って、ほんとにバカだね」

「うん」

「認めるんだ?」

「薫子さんみたいな恋をしたことないから分かんないけど、たぶん、おかしくなるんだと思う」

「私、結婚したくない」

「好きな人が出来なければ、しなくてもいいんじゃない?」

「亜美はするの?」

「分かんないよ、先のことは。そんなことより、薫子さんが今は心配」

「私もこっちに泊まる」

「泊まるって、柚菜の家じゃない」

「そうだけど」

「その方がいいと思う」

「亜美もしばらくこっちに泊まって?」

「うん」

「私、亜美がいなかったら、おかしくなってたかも知れない。もしママと二人きりだったら、どうなっていたんだろう?」

「出会いって、不思議だね」

「うん」

 柚菜は笑った。



 これから薫子さんは、長い時間を必要とするだろう。柚菜も、その薫子さんを受け入れるには、長い時間を必要とするだろう。私はそんな二人に、寄り添いたいと思う。いずれ、私はこの二人を書くことになるだろう。そんな予感がする。薫子さんは静かに眠っている。きっと、頭の中で記憶が動いているだろう。現実が侵入し、眠っている薫子さんを満たしていく。そんな気配を感じるのだ。私は不思議と心臓がどきどきしている。これが私の現実。そう思うとなぜか怖かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私と柚菜とママと 魚麗りゅう @uoreiryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ