第7話です てゆーか、大器晩成?

 私が借りる本すべてに書き込みがされているという、怪奇現象が続いています。

 言い過ぎですか?

 ま、まあ、怪奇現象というほどではないでしょうけれど、凄い偶然だとは思いませんか?

 

 偶然と言うより奇跡だとは思いませんか。

 いやいや、それよりどれだけ書き込みしている本が置かれているでしょう。


 もしかするとこの図書室の本すべてにされているのでしょうか。

 だとしたらとんでもありませんね。

 ただ私が書き込みされている本ばかりを選んでいるのかも知れませんが……。


 だとすると私が凄くないですか……?

 それにしても、多すぎます。

 図書委員は確認していないのでしょうか。


 別に私は憤りを感じている訳ではありません。

 それどころか、本に書き込みをした人がどんな人なのか気になっています。


 書き込みの内容が私の興味をそそるのです。

 読む人によってこれほどまでに感じ方が違うのか、と。

 今までこれほどまでに、誰かに会いたいと思ったことはありません。


 同年代の人たちは、芸能人や時の有名人に会いたいと思うのでしょうけれど、私が会いたいと思う人は作家だったり、昔の偉人だったりと、だいぶ変わっています。

 

 どういう思想を持っているのか、何を考えているのか、そういうことを知りたいのでしょうね。

 自分でも変わっていると思います。


 外見ではなくその人の内面にフェチを感じるのでしょう。

 選ぶ本ことごとく書き込みがあるのは、私が書き込みのある本に引き寄せられているからでしょうか?


 綱で手繰り寄せられるように、N極とS極が引きあうように、高気圧が低気圧に流れ込むように、私を引き寄せる。

 そういうスピリチュアルな力を信じている訳ではないので、科学的な解釈に落とし込むなら、『勘』でしょうか。


 え? それのどこが科学的なんだ、ですって。

 勘を侮っていけません。

 勘は人類が生き残るために必要だった機能です。


 脳は意識よりも先に無意識が活動するのです。

 意識が思考するまでに体はすでに行動に移していて、その後、脳は行動した理由を後付けするというのはすでに、脳科学の世界では常識のようです。


 だってそうでしょ。

 進化の過程を考えてください。

 考えてから行動していたんじゃ身に危険が迫ったとき間に合いませんよ。


 だから脳が施行するよりも先に行動があり、その後に行動した理由付けがあるのです。

 脳科学を知るということは人間を知るということなのですね。

 そういうふうに本を読みはじめて半年が過ぎ、もう百冊近くの本を読みました。

 

 心理分析の専門家ではありませんが、百冊も書き込みを読んでいればその人の性格を多少なりとも知ることができるでしょう。


 神経質なのか几帳面で、かと言ってですます調の真面目過ぎる感じではなく、ツッコミやユーモアの利いたことも書かれているので、内面はお茶目なのでしょう。


 勉強熱心なのか雑学や他作品からの引用文、類似点、色々な学問の知識から作品を毎回分析しています。

 無神論者らしく、神については人間の弱さが生み出す幻想の社会構成システムだと結論づけられていました。


 いやはや、もし同年代の子がこんなことを書いているのなら、生意気な奴なのでしょうね。 

 まるで幼いながらに『神は死んだ』ならぬ『サンタはいない』と悟ってしまった子供のようではありませんか。

 

 ちなみに私は中学に上がるまでサンタという存在を信じていたのですが、普通は何歳くらいから『サンタはいない』と悟るものなのでしょうか。


 早く悟る方が良いのか、遅い方が良いのか。

 子供は早く大人になりたがりますが、そう急いで大人にならなくていいと思うのです。

 

 野生の世界なら早く大人になることを要求されますが、今の時代はゆっくりで構わないのではないでしょうか。

 数学者のおかきよしさんは『春宵十話』の中で早く大人になるのは危険だと警鐘を鳴らしています。


 成熟は早過ぎるより遅い方がいい、と岡さんは言っている。

 今の教育では、闘争本能は育っても、人間性は育ちません。

 すべては人あってこそ、なのに現代教育は人を育てようとせず、人間をただの機械のようにディープランニングさせているだけです。

 

 昔の偉大な教育者を見ればわかる通り、偉大な教育者はちゃんと人を育てているのです。 

 他者と勝手に比べられ、子供は否応なく代理戦争に駆り出されるのです。


 老子は『大器晩成』と言っていますし、孔子曰く『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず』と論語に残しています。

 

 ああ、無情、何と嘆かわしいことでしょう。

 現代教育はそのことをわかっていない。

 私が言っているように見えますが、このことも書き込みに書いていたことの受け売りです。

 

 ね、生意気そうな人でしょう。

 苦笑いするしかありません。

 私でなければ、会いたいなどと絶対に思わないタイプの人です。

 

 その他にも面白い洞察や思想が書かれているのですが、脈絡が無くなってしまうので今はやめておきましょう。

 こんな生意気なことを書き込んだ人の顔を見てみたいとは思いませんか?


 まるで悪さをした子供の親の顔が見てみたいと思うように。

 そこで私は考えました。

 以前この本を借りた人の名前を見せてもらうことにしたのです。

 

 学校の図書室なのですから、そこまで個人情報保護法が働いていないと思ったのですが、「駄目です」と寸分の迷いもなく断られてしまいました。

 

「ちょっとだけ……駄目ですか?」


 私は手の平を合わせて、図書委員にお願いしました。


「ちょっとも、ちょこっとも、チラッとも駄目です」


「そこを何とか……」


「土下座をされたって駄目です。規則ですから」


 まだ高校生だというのにもうお役所仕事が板についています。

 将来が楽しみですね。

 こういうのを『梃子でも動かぬ』と言うのでしょう。

 というわけで、万策尽きてしまいました――。

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