眠るまち

時任 花歩

あるまちの門番の話

 こんにちは、あなたはこの街に見学をしににいらっしゃった方ですか?それならば、少しだけ私の話を聞いてくださいな。


 80年前のある夜、地下に眠っていた催眠効果のあるガスが地表に噴出して、一夜にして街中の人々が深い深い眠りにつきました。街中に広がった濃度の濃いガスのせいで目覚める事ができませんでした。ここは盆地ですから風があまり吹かず、ガスの濃度は変わりませんでした。今はこうして政府が管理しているので、風を循環させる設備があって中に入ることもできますけれど、昔では全く考えられない事でした。私はこの街の端でもう90年以上暮らしております。90歳には見えませんか、そうでしょう。まるで高校生ですって?それは流石にお世辞が過ぎます。これは全て眠るまちのおかげです。円状の街の中心部から同心円状にガスが広がっていきましたから私の住む街の端はガスが薄かったのです。だからこそ私は災害から2週間後の夕方に目覚める事ができました。酷い空腹と喉の渇きで目覚めました。カーテンの隙間から射す西日が鋭く私を照らしていました。まず布団から立ち上がろうとしましたが、うまく立てず、そこで初めて自分の足を見ると、なんとそこにはフラミンゴの様な足が、いえ棒がありました。次に酷い頭痛がして、拍動のたびにズキンズキンと痛みました。何か口に入れないといけないと思い、壁伝いにキッチンへ行き、水道水とパンを口に押し込みました。それから冷蔵庫を開けると冷気が肌に当たりました。災害の前日は私の誕生日だったのでので残っていたケーキを食べました。それから他の家族が誰も起きていないことに気がつき、他の家族の部屋に行きました。ゆすっても叩いても、名前を呼んでも目覚めませんでした。兄の部屋に行くと、兄はそこにいませんでした。急に怖くなってスマートフォンのカレンダー見ると、2020/3/14でした。これは悪夢なのではないかと思いました。私の誕生日は2/27日、閏日の前日です。2週間も経っている。何が起こったのか全く分かりませんでしたからただただ泣き喚いていました。そうしたらただいまという声が玄関から聞こえてきました。いなくなっていた兄の声でした。私がお兄ちゃん、と言うと、紬(つむぎ)!目覚めたのか!と涙ぐみながら言いました。兄は私より3日ほど早く目覚めていたそうで、私を起こしけれど起きなかった、と話しました。私は当時10歳、兄は15歳でした。兄は、この街にガスが充満していること、街の中心からガスが噴出していること、ガスが引火して燃え落ちている家もあること、自分たち以外の住民は皆死んでいたことを話しました。後で知ったのですが、私たちは2週間の間、自己防衛のために心肺機能を低下させ、エネルギーの消費を防いだから生き延びられたそうです。本来ならば人は水なしでは4〜5日程度しか生きるのことができませんから。兄がスーパーから盗んできた食料を食べました。夜になっても窓の外は真っ暗で、どこの家にも明かりは点いていませんでした。12時を回りましたが眠くなりませんでした。だから兄とトランプをして朝まで遊びました。次の日の朝も兄が昨日持ってきたパンを食べました。兄が持ってきて水につけていた豆苗が白く伸び始めていました。昨日はもう腐りかけみたいな枯葉色だったのに、と思いました。兄にマスクをするように言われ、花粉症用に買い溜めしておいたところから持っていきました。兄と私はリュックと農作業用の台車を持って近くのスーパーへ行きました。スーパーの入り口の窓ガラスの下半分が割られていて、奥からドアの内側の鍵を捻って開けた後がありました。ここも停電はしてなくてね、警報が鳴ってびっくりしたよ、でも誰もいないしこんな片田舎のスーパーが警報が鳴ったら警備会社に連絡が行く様なやつを使っているはずがない、と兄が言いました。私は通報が行ってこの街に来てくれたら私達は助けてもらえるんじゃないか、と思いました。兄は、今日は野菜の種を少しと、冷凍食品を少し貰っていこう、と言いました。私は好きなお菓子をもらってきなと言われたので当時好きだったお菓子を片っ端からリュックがパンパンに膨らむまで入れました。それから兄は台車に水のペットボトルがたくさん入っている段ボールを載せました。そして、帰るぞーと言いました。なんでお水あるのに買うの?と聞いたら、水道水はガスの影響を受けているかも知れないからな、と言いました。その夜は疲れてしまって眠かったけれど、今眠ったら二度と目覚めなくなる気がして怖くて、うとうとしながら眠るまい眠るまいと歌を歌っていました。兄は、大丈夫だ、俺が紬を起こすからな、といい私を寝かせました。次の日ちゃんと目覚めた私は両親をまた起こしに行きました。兄は黙って後ろから私を見ていました。その後兄は、両親の首と手首と心臓に何度も手を当てて、耳を当てていましたが、ゆるゆると首を横に振ってへたりと座り込みました。今思えば兄も両親が生きていることを信じたくてあんなに長く、何度も何度も脈を確かめていたんだと思います。


 私が目覚めてから1週間くらい経って、街の中心部から腐った生ごみの臭いがするようになってきました。それは被害者の死臭でした。だんだん家の中でも耐え難い死臭がしてきて、私たちはついに両親を土に埋めました。その日は一日中泣きました。なんとなく土葬ではなく、生き埋めにした様な気がしてしまいました。両親の部屋には立っていられないほどのきつい匂いがしました。その時付いた両親の死臭が今でも私の体からする気がします。この街がいくら田舎だからといって被害者全員の埋葬を2人でするのは途方もない時間がかかりますからそれは諦めてしまいました。スマートフォンで何度か警察に電話しましたが、電波が弱く会話が出来ませんでした。町にあったはずのFree-Wi-Fiも壊れてしまったようでした。街の外の畑も薄くガスのもやがかかっていて、あまり良く見えませんでした。電波がいい時はTwitterを見て、この災害の全容が分かっていないことや災害救助隊が出動したが生存者は未だ見つかっておらず、現在は死者の運び出しや消臭、がれきの撤去作業が行われていることを知りました。もちろんその記事に引用リツイートをして自分がこの街で生きている事、自分達の住所を書きましたが、ネットの海に溺れてしまいました。きっとデマだと思われてしまったのでしょう。しばらくして死臭が薄らぎ、多少過ごしやすくなりました。また中心部から運び出しているならばいつかはここまできてくれるはずだと安易に考えていました。こうして災害から2ヶ月が経った頃、新型コロナウイルスという感染症が国内でも流行し始めました。国はこれの対応にてんやわんやでいつしか救助隊も引き上げてしまったようでした。引き続き電波の良い日は警察に電話をかけていました。しかし、途中で切れてしまったり、うまく会話ができませんでした。流石に何ヶ月も経つと食料やら生活必需品やらが大変になってきました。まだ街の中心には店があるもののそちらはガスが噴出し続けていて危険だったのです。そこで兄が街の外へ行こうと言いました。ネットの記事では被害はこの街のみだと書かれていたからです。今日あなたがここに来る時にご覧になったように、眠るまちのとなり町はかなり離れた場所にあります。車も運転できなかった私達が自転車で行くにはかなり大変な距離でした。それに街の外で何か買うにはお金がかります。だから兄は近所の家に侵入し、お金を集めてきました。それから2人で自転車を漕いでとなり町へ行きました。となり町では何事もなかったかのように以前の私たちと同じ暮らしが続いていて、羨ましく感じました。となり町で警察に電話をかけようとしましたが兄が、紬は俺が捕まってもいいのか?と言いましたから結局電話する事も店の人に助けを求める事もできませんでした。兄は正義感が強く真面目な人でした。だから自分達が生きるために仕方なかったにしても、罪を犯してしまった事をひどく悔やんで、自らを責めていました。それに私には出来るだけ犯罪の片棒を担がせないようにほとんど一人でやっていたから私も余計な事は言えませんでした。


 災害から5ヶ月経ち、8月になりました。盆地は熱がこもってしまうので毎

日暑くてクーラーをつけっぱなしにしていました。これだけ何ヶ月も電気も水道も使っておきながら救助も請求も来なかったのは救助隊が引き上げる際に二次被害がうまれない様に、眠るまちを立ち入り禁止にしたからでした。これは私達にとって好都合でした。私達兄弟の通っていた近所の学校はもちろん生徒も先生もいなくなりましたから、図書室へ行って本を持って帰って読んだり学校のゴミ捨て場にゴミを捨てていました。兄は自分はもう犯罪者だからとなり町の高校も大学も行けやしないよと言い、老朽化した高校の、図書室の本を読んでいました。紬は中学へ行ったっていいけれど、そうしたら俺の存在がばれてしまう、そうしたら俺は刑務所だ、それは嫌だと言って転校することもありませんでした。毎日クーラーの効いたリビングや自室で本を読んでテレビを見てたまにスマートフォンをいじってご飯を食べてお風呂に入って、眠る。外との関わりがないことを除けば普通の生活となんら変わりはありませんでした。


 災害から1年経った頃、新型コロナウイルスの流行が酷くなって眠るまちだけでなく、となり町でもマスクをつけなければいけなくなったから買い物は俺が一人で行く、と言い、私は家から出ることが無くなりました。それに街中の現金もなくなり始め、兄はとなり町でバイトをし始めました。もちろん住所も名前も詐称していました。私は兄の使っていた中学の教科書を読むようになり暇を潰していました。ある日ふと、久しぶりに昔よく食料調達に行っていたスーパーに行ってみようと思いマスクをして外に出たら、バイトから帰ってきた兄に、紬!どこだー!と大声で呼ばれました。いそいで帰ると兄に、心配したんだぞ!と怒鳴られ、頬を叩かれました。その平手打ちが痛くて、細くて筋肉のなかった兄は一年のサバイバル生活を経て、身長も伸び、筋肉もついていた事に気がつきました。もう勝手に家から出るなよ、ときつく言われました。この世界に二人しかいない兄妹ですし、大切にされていたのも分かっていたので、言いつけを守り、以前よりも家から出なくなりました。


 災害から2年と3ヶ月が経ち2021年6月になったとき、変化が起こりました。私は12歳になり、兄は17歳になりました。兄が毎晩は家に帰らない様になりました。バイト先で知り合った友達の家に飲みに行ってそのまま泊まっていると言っていました。そしていつの間にかバイクの免許を取っていて、眠るまちのバイク屋からいいバイクを盗んで乗り回す様になりました。ある日いつもより早く帰ってきた兄が私を呼び、相対しました。すると兄はこんなことを言ったのです。俺は、年上の彼女ができたから、彼女と暮らす為にとなり町に引っ越す。紬はどうするか、と。少し声の調子を下げて言いました。今でも腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてきます。私を2年間も軟禁しておいて捨てていくのか!と思う傍ら、これで解放されるという思いで心の中がぐちゃぐちゃになりました。それで口から出たのは乾いた笑い声でした。兄はぎょっとしましたが、一番驚いたのは紛れもなく私でした。笑うこと自体いつぶりなのか分からず、私、今笑ってるんだなぁという訳の分からない事を大真面目に考えてしまって、そんな自分にも笑ってしまいました。そもそも兄と兄の彼女と一緒に住む選択肢は私にはなかったし、兄がそれを望んでいない事は声の調子で分かりました。だから、私はここに残る、と答えました。そうかじゃあしょうがないな、と声を高くし、出来るだけ残念そうな声を出して兄が言いました。さらに、まぁ紬が働ける歳になるまでは面倒見てやるから家から出るなよ、と続けました。私は言いようのない絶望感に襲われました。兄がここを離れても離れなくても私に自由はない、という観念が頭にこびりついて離れませんでした。それで私はもうだめだと観念しました。私がいつ家を出るの?と尋ねると、明日と答えました。その夜私は兄を殺しました。計画的犯行か、無計画かと聞かれれば計画的無計画でしょう。それまでにも何度も色々なパターンで兄を殺すイメージトレーニングはしていました。なにせ毎日家事以外は出来なかったものですから。ですが、その日殺しそうと思ったのは全くの無計画でした。殺す必要があったか、ですか?そうですね気絶させて逃げればいいとも思いますでしょう?でも昔それで追い回されて捕まって殴られたので逃げきれない事は分かっていました。だからやっぱり殺すしかありませんでした。そもそもそこに殺意があったかは分かりません。兄の事は大事に思っていたはずですし、実際助けられたのも事実でした。でも、私を外へ連れ出せるのは自分しかいないと思いました。兄を殺した後、ふと頭の中にフランス革命という文字が浮かび、自由を勝ち取るのに犠牲は仕方ないんだ、と思いました。図書館で借りた本からの入れ知恵でしたが、自分を納得させるには十分でした。え、どうやって殺したか?そうですね、兄は私より体格が良かったので力では勝てないと思いましたから、その日の夜散歩に行こうと誘いました。その日はマスクを二重にして、ショルダーバッグの中にタオルで包んだ包丁を持って行きました。兄は、これから同棲する彼女の話をしました。正直言ってこれから先に自分が行うことへの緊張と不安で、何を言っていたのかあまり分かりませんでした。私の少し先を歩く兄はその時だけなぜか、だんだん眠るまちの中心部に向かって歩いて行ました。いつもはまちの外周しか散歩しなかったのです。そして兄がこの季節はもうマスクが苦しいなと言い、マスクを外しました。さぁもっと息を吸ってくれ、もっと肺の深くまで吸ってくれ、そしてそのまま死んでくれ!と思いました。兄は次の瞬間コンクリートの上に倒れました。私は兄の脈を確かめました。死んでいました。やった!自由だ!そう思いました。それからガスの濃い中心部から走って遠ざかり家に帰りました。包丁を使わずに済んだのはラッキーでした。ガスで死ななかったら包丁で背後からぶすりと刺す予定でしたが、これで殺人ではなくこの災害による犠牲者に見せかけられたと思いました。本当にこの街で独りぼっちの夜は今までのどんな夜より静かでした。眠るまちのしじまを破ったのは鳥のさえずりでした。鳥なんて今までいただろうかと思いましたが、急いで朝ごはんを食べ、兄の財布から現金を全て抜き取り、自分の財布に入れ替えました。盗みなんて今更なのに妙な罪悪感を覚えました。それから家族写真と母子手帳と保険証、スマートフォン、家にあるだけのお菓子、ペットボトルの水をリュックに詰めました。二度と帰らないのに家の鍵を閉め、両親のお墓の前に水のペットボトルとお煎餅を二つずつ置いて、手を合わせました。さようなら、お母さん、お父さん、安らかにお眠りください、と心の中で唱えました。それから眠るまちを出て自転車でとなり町まで行き、警察に電話しました。となり町の端に着いて、疲れてしまった私はとなり町の端まで来てほしいと言いましたが、住所がわからず交番まで来て欲しいと言われました。久しぶりにでた街の外の空気は澄んでいて肺の奥まで新鮮な空気を吸い込みました。本当においしいと思いました。自転車でとなり町の中心地にある交番まで行き、さらに大きな警察署まで車で乗せて行ってもらいました。小さなパトカーでしたが、後部座席の乗ると、自分が犯罪者であることがばれていて本当は今から逮捕されるのではないかという気がしてひどく動悸がしました。警察署に着き、中に入ると、君が紬ちゃんかな?と言われ、頷くと、よく頑張ったね、もう大丈夫だよ、と言われました。奥の静かな個室に通されると2人の大人がいました。そこで私は災害発生からの出来事を事細かに聞かれました。そこで温かい飲み物を久しぶりに飲みました。眠るまちでは、ガスが引火して火災が起こっていたので、家ではガスコンロやオーブントースター、電子レンジは使用禁止でしたから。初夏のひどく冷えた日でした。私は一旦、児童養護施設へ行き、生活の面倒を見てもらうことになりました。どこへ行っても誰かを頼らなければ生きていけない無力さに打ちひしがれていました。それから3日後に精神に異常がないか調べにきました。それから4日後に県の職員がまた事情聴取に来て、保護されてから2週間後には有名な新聞社の記者が取材に来ました。政府の落ち度ですから新聞社は言いたい放題一面に記事を載せました。毎回分けてこないで同時に来て欲しいと思いました。おんなじ話をCDをリピートする様に続けるんですから。それで保護されてからとなり町の小学校に転校しました。私が被災生活の中で犯した罪は罰せられませんでした。兄の事は黙っていました。私という生存者が見つかった事と流行していた感染症が収まった事で眠るまちにおける救助活動が、再開されました。でも見つかったのは死体ばかりで生存者はいなかったそうです。死亡時期が災害時より少しずれている方もいたそうでした。政府はあの時救助活動を途中で辞めてしまった事を詫び、慰謝料として幾らかの現金をくれました。私はだんだん色々な人に災害について聞かれるのが面倒になりました。中学3年間は失われた2年間を取り戻す様に必死に勉強も運動もしました。高校生になって、ようやく眠るまち全体の被害者の埋葬が済んだと聞きました。それを聞いて私はいい事を思いついたのです。保護された後に政府のお偉方の一人に何かあったら連絡してくださいと電話番号をもらっていたのを思い出し、連絡しました。そこで私はこう提案しました。眠るまちを安楽死のための場所にしませんか、と。催眠ガスが絶えず噴出するあの街はどうにもしようがなく、放っておかれていましたから。電話先でその人はそれはいい案だ、これで安楽死問題も解決するかもしれないな、と言いました。それから2年間国会で眠るまちの安楽死の街への建設案と安楽死問題についての議論がなされました。私が高校を卒業する年に眠るまちに限って国内での安楽死が認められました。私は当事者として視察に同行しました。巨大な扇風機で街の中心部のガス濃度を下げ、焼け落ちた住宅の取り壊しが行われました。元々眠るまちは計画都市であったため、となり町には無いようなショッピングモールもありました。人口密集地から高速道路で帰れるベッドタウンでした。人がいないと街はダメになるようでした。国内唯一安楽死が、できる場所になるので予算がたくさんあるらしく、片っ端から全部壊して建て直すそうでした。だから私は最後に自宅に帰ろうと思い、街のはずれまで行きました。自宅横の両親の墓に持ってきた仏花を供え、手を合わせました。私が被災生活を送った家に興味があった視察団は私の家を訪れました。全てが家を出た日のままで、時間が止まっているようでした。視察団の内の誰かが、これは記録用に残してはどうか、と言い始めました。それはいいと誰かが賛同しましたから、それならば私をこのまちで雇ってくださいと言いました。実際このまちの全貌を知っているのは私のみで、この白い催眠ガスを取り払わない以上、他の人は地図でしか街を見たことがありませんでした。また、私はこの催眠ガスに耐性ができていましたからこのまちで働く事を許されました。工期は4年ほどの予定だったので、都市部の大学に進学しました。


 災害から12年経ち、2032年に眠るまちの施設が完成、運営が始まりました。そして私は大学を卒業した後、予定通り眠るまちの安楽死施設で働き始めました。円状の街ですから実家とちょうど真反対の街の端に家を建ててもらいそこに住み始めました。軟禁生活を思い出してしまうので、出来るだけ遠くに住みたかったのです。そして、だんだんガスに対する研究が進み、ガスの濃度を調節し、おおよそどのくらいで死ぬか分かるようになりました。それでもあの日の私達家族のように、体力や疲労などの個人差で両親のようにすぐ亡くなる人や、時間がかなりかかる人もいらっしゃいました。


 災害から30年が経ち、私が40歳になった頃、周りの職員が私を不気味がる様になりました。なんでも外見が老けなさすぎるとかでした。私も気になってはいましたが、別に若くて困ることもないだろうと思っていました。年に一度視察にくる政府の役人が私のことを不思議がって検査を勧めました。すると私は20歳の姿から身体の成長も老化も止まってしまったと言われました。どうやら長期間にわたって催眠ガスを浴び続けたことが原因ではないかと言われました。細胞はちゃんと活動しているから皮膚や髪はきちんとターンオーバーをしていると言われました。研究者からはかなり面白がられました。それで年に一回視察団が帰る時に一緒に都市の研究施設へ行き、検査を受けることになりました。それからはずっと毎日同じことの繰り返しで、数十年が過ぎても見た目も仕事内容も変わりませんでした。


 災害から60年が経ち2090年になりました、70歳になった私は施設内部の仕事からこの街の門番をするようになりました。いい加減飽きてしまいましたから。それに常に人の死の側にあるというのは私の中の重苦しい記憶を常に呼び起こすのです。兄は、兄はあの日の私に殺される為にわざとまちの中心部でマスクを外したのでしょうか、私を自由に、する為に外で暮らすと言ったのでしょうか。えぇ、ありがとうございます。きっとそうだと信じたいですね。私はあなたみたいな優しい人に出会えて嬉しいです。きっとこうしてここを訪れた人に私の犯した罪を話してしまうのはせめてもの贖罪なのかもしれません。いつか贖罪を終えたら私もこのまちで深い眠りにつきます。ここまで長いお話を聞いてくださってありがとうございました。またいつか機会があればお越しください。え?もう贖罪は、十分だから外の世界へ行こう?ですが私は、自分が生きる為に兄をも殺した非情な人間です。一生この罪を背負って生きる宿命なのです。……。これは、涙?数十年ぶりに涙が出てきました。不思議です。私はずっとあなたのその言葉を待ち望んでいたのでしょうか?ええ、そうなのかもしれませんね。あなたがそこまでおっしゃるのなら私はついていきましょう。ではあなたがこの街を発つ日に私も出ます。それでは私は明日、両親とそれから兄のお墓参りをしてきます。あなたも興味がおありでしたらどうですか?ええ、わかりました、では明日の朝、見学者様用ホテルのお部屋を訪ねます。それではこの後もガスに気を付けて眠るまちの見学をお楽しみください。

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