第19話 走れよ乙女、人生を


 私の目に入り、私の人生をひっくり返してしまうほどの衝撃を与えた物を私は拾い上げて確認した。



―――それは一冊の本であった。



サン=テグジュペリの『星の王子さま』そして、裏表紙に書かれた『水本エリ』の名前。それは数年前のあの1日の中で私が渡した物だった。



「タニハラくん...」


私は数秒の間に、その事を理解して。立ち上り駆け出した。神様と言うものが居るので有れば、その神様のくれた一瞬で大きなチャンスに私はしがみつく様に走った。ヒールが折れる事も、膝丈のスカートが捲れる事も、必死になり崩れる表情の事も忘れて。


 この本を落し駆けて行った濃い藍色のシャツにベージュ色のゆったりとしたパンツを履いた男性を、必死に追い掛けた。先に走り始めた男性に追い付ける程、私は足も早くはなくて。ヒールやスカートで有れば尚の事であり。目的は見失わない事になっていた。


 日頃、大して運動をしない私はそれでも息が切れ、脇腹が破裂しそうな程に痛くなり。足は水の中を歩く様に重くなり。今にも足を止めて座り込みたかったが、私は足を止めずに追い掛けた。


 追い掛けた彼が、私が受講する次の教室へと入って行くのが遠目に見えた。私は走るのを止めて息を整えながら彼の入った教室へと近付き、入り口の前で彼が落とした本をもう一度眺めた。


 何回も読まれたのかページの小口が汚れている。背表紙も少し日に焼けて色落ちし、何回か落としたのか天の部分も少し傷が入っている。だけど、油性マジックで書かれた私の名前はハッキリと残っていた。


「大切に持っていてくれたんだ。」


私はそう呟くと先程の走った疲れは嘘のように消えていった。私は教室のドアを開けると中には階段状に並んだ机に、疎らに人が座っていた。


 私はその中から目で濃い藍色のシャツの男性を捜した。一頻り見渡して、もう一巡見ると。教壇の斜め前の前の方の机に彼は一人で座っていた。


(判ってくれるかな?)


(変な人に思われないかな?)


そんな風に心の中で思いながらも、恐る恐る彼へと近付いて。私は隣の席に座り彼にさっき落としていった本を彼の方へと差し出して。


「こ、これ。さっき落としましたよ。」


と言った。すると彼は本を見るなり目を見開き、私を見ていた。彼は幼い日のマサトの面影が有る気もするが、昔と違い節々が逞しくなり。目付きも鋭いものとなり、輪郭には髭もうっすらと見えた。私は怖じ気付き不安になった。


 しかし、そんなに構える私とは裏腹に彼は本を手に取り爽やかに笑顔を見せて


「ありがとう。これ大切な物だったんだ。」


そう言うとトートバッグへと入れて、教科書とレポート用紙を取り出し。受講の準備を始め出した。私は、私が『水本エリ』だと気付いてくれるのではないのだろうか。と淡い期待を持っていたのだが。よくよく思い出せば、マサトは元々が勘の良い人間では無い事を思い出した。


 私はずっと彼の方を見ながら、もしここで声を掛けて。彼がマサトでは無くて違う男の人だったらどうしよう?それならばそれで、あの本を手に入れた経緯いきさつを聞けばマサトへと辿り着けるかもしれない。と思い勇気を振り絞り。


「ねぇ?あなたタニハラくん?」


私は普段通りの声を掛けるつもりが、自信の無さから蚊の鳴く様な声で彼へと話し掛けた。彼は内容までは聞き取れず。私の方を向いて『?』の浮かんだ表情を見せた。


 そして数秒間、私の顔をジーッと見ると。彼は驚き後ろへと下りながら。慌ててトートバッグから、さっきの本を取り出して。裏表紙を私に見せて『水本エリ』の名前を指して。


「えっ!?もしかして、君。み、水本さん?」


私は声が詰まって出ない代わりに、一生懸命に頷いて見せた。すると彼は


「そうだよ!僕は谷原マサトだよ!」


マサトはそう言うと、『星の王子さま』と教科書とレポート用紙をトートバッグへと入れて私の手を握ると立ち上り、教室の外へと私を連れて行った。私は突然の行動に


「つ、次の授業が...」


そう言っても、マサトは止まらずに私をこの校舎の裏庭に在る大きな銀杏の木の横に在るベンチへと連れて来た。私は受講をすっぽかした罪悪感も有ったが、マサトへの積もり積もった気持ちと、この初めて神様に感謝したくなる様な気持ちが入り交じり


「また、怒られるよ。」


と笑うと。マサトは微笑んで


「やっぱり水本だ。久しぶりだな。久しぶり過ぎて最初は判んなかったよ。」


「あの日はごめんね。私が竹下公園に行かなかったら。あんな事にならなかったのに。」


「ああ、あれな。良いよ気にしなくて。あれな、僕は親父の転勤で引っ越しが決まっててさ。最後にあそこで良い想い出が出来たよ。水本が警察官の腕にしがみついて。『タニハラくんは悪くないんです!』って泣きじゃくったのなんて今でも覚えているよ。」


「止めてよ。私のせいでって必死だったんだから。それよりタニハラくん『僕』って。昔は『俺』だったのに一人称。」


「僕だってこの八年間いろいろ有ったんだよ。」


そう言って笑うマサトの笑顔が眩しすぎて、私は目を細めると目からこの長い年月の間に積もり積もったマサトへの想いが涙となり溢れ落ちた。細めた視界と涙で歪んだ世界の中でマサトが居る事だけはハッキリと見えた。


 そんな目を細めた私にマサトはハンカチを取り出して。私の涙を優しく拭いた。私はそのまま近付いたマサトの顔へと顔を寄せて唇を合わせた。数秒、その時間に唇の柔らかさや、舌の滑らかさや、歯の形状やら絡み付くマサトの気持ちやら私は感じ離れると。


「水本どうしたんだよ?」


「八年間待ったのよ。良いでしょ。」


「お前、強くなったなぁ。」


「あなたが強くしてくれたの。」


そう言うと私はもう一度マサトの唇を奪った。マサトは照れ臭さそうに微笑んだ。私もそんなマサトが可愛らしくて笑った。




――――私はいつも、このマサトとの想い出を大事な仕事の時に思い出す。



 そんな想い出に更けるうちに、私は次の出張先へと辿り着いた。今日頑張れば明日は帰れる。ともう一度気合いを入れ直してキーホルダーから手を離し。キャリーバッグを握り締めると電車から降りて建ち並ぶビルを見て心も身体もヤル気に満ちた状態で駅を出た。その時に


(マサト今日もありがとう。)


と心の中で呟いた。



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