巧みな指導者 〈歴史〉

 天正十年(1582)六月十九日 神流川かんながわの戦い。


 北条と滝川、両軍の睨み合いが続く中、先に動いたのは北条氏直の部隊であった。北条二万の軍勢は、滝川軍右翼の遊撃隊に攻めかかる。


 五百ほどの滝川軍遊撃隊は大軍が向かってくると知るや、即座に撤退を始める。


───撤退すると見せかけた囮作戦おとりであった。


「まんまと引っかかったな! よし、右翼隊は神流川を渡り敵の側面に奇襲せよ! わしの本隊も川を渡り敵正面を突く!」


 滝川総大将の声が響き渡る。囮作戦に引っかかった二万の兵は縦に伸び、進軍する横っ腹を右翼隊に突かれる形となった。


「好機じゃ、当主氏直に痛手を与え、北条を大人しくさせようぞ! 倉賀野くらがの、後方に控える上州勢にこちらに向かうよう伝えてくれるか! 総大将氏直を討つか撤退させる作戦じゃ!」


 しかし、北条軍に援軍が入り、士気回復した氏直は陣を立て直し、五万の兵を別働させ、滝川軍を壊滅させていく。


「父上、上野国の地に拘っても仕方ありませぬ。このまま突き進めば我が兵を散らす事になりましょうぞ。撤退致しましょう!」嫡男一忠が一益に撤退する事を進言した。


「うーむ、敵将に一太刀浴びせず逃げ出すのでは滝川一益たきかわかずますの名が廃る! 皆の者、運は天にあり、討死覚悟で敵中に飛び込むぞ! わしに続けー!」

 

「なりません! 北条は援軍を得て今や五万の兵、勝ち目はございません。私が殿しんがりを務め、一益様を国境まで警護しますゆえ、どうか、どうか!」


 主君の命を無事果たし、戻ってきた倉賀野秀景は一益を思いとどめさせる。


「無念だがここまでじゃ! 秀景ひでかげよ、箕輪城で待つ」


───進むも滝川、退くも滝川。撤退の法螺貝の合図が川面に響く。



□ ◼️▪️□ 翌六月二十日 箕輪城にて別れの酒宴


戦に敗れ箕輪城に戻った滝川一益は、上州衆を城に集めて別れの酒宴を張った。


「よくぞご無事で戻られました。お美代は嬉しゅうございます」一益の正妻お美代は、家臣より先に労いの言葉をかけ酒を注ぐ。戦乱の世を切り抜けてきた夫が誇らしくもあったが、一益は齢六十に近い。死の知らせが届けば、いつでも後を追う覚悟は出来ていた。


於美代おみよ、其方をおいて先には死なん」一益はお美代の手を握る。


 叔父の側室であったお美代と不義密通を犯したのはいつの事であろうか。叔父に咎められ、自分の命を守る為に一益は叔父を斬りつけた。


『そなたの事は忘れぬ。命あらばまた会おう』その一言をずっと信じお美代は一益を関東まで追って来た。愛い奴じゃ、一益はポツリと呟き酒を呑む。


「私はもう、あなた様と静かに穏やかに暮らしたいと存じます。同じ甲賀の血が流れた者、同じ石の下に眠りとうございます」お美代は一益の手を握り返す。


 叔父を殺め、逃げた地で一益は火縄銃の腕を磨き、織田信長にその腕を買われた。二十五間(45m)先の一尺四方の的めがけ撃てば、百発中、七十五発射る腕前であった。お美代はその話を何度も聞いて、その度に気持ちが華やいだ事を思い出した。握った手に力を込める。お美代の不安を感じとって一益は言う。


「信長様亡きあとの世はもっと乱れるであろう。一門衆に感状を、いやその手間を省き、今からわしの宝全てを分け与えようぞ」


 一益は信長様から多くの褒美を貰った。古備前高綱太刀こびぜんたかつなのたち海老鹿毛えびかげという名馬。一世一代の晴れ姿を飾ったお宝など惜しくはない。


───五十を越えてもなお役に立つ男よのう!


 一益は織田家宿老として殿を務め、鉄砲隊指揮官として主君を守り抜いて来た。信長様の褒め言葉を思い出して、また酒を一口。手柄の度に与えられたのは領地。所望しても叶わなかった茶器は信長様の声と共に幻となる。


 お美代さえそばにいてくれたら他に何もいらぬ。一益は人質を解放し、家臣たちを戦乱の世のという鎖から自由にしてやりたいと思った。そして自分も。


 いつもと違う主君の様子を感じとった家臣たちは、一益のそばに集まり、


「我らは貴方様を主君に持ち幸せにございます。貴方様が鶴として我らをお守り下さったゆえ、仕える者の眠りは甘く、いつ横たわろうとも少しも怖れを感じませんでした。我らは雀、いつも貴方様の加護の元に暮せた事を感謝致します」


 家臣たちは涙酒を一口で呑み干し、各々その場で畳に額をこすりつける。一益との鷹狩りでの出来事を思い出して、皆泣いた。


───大名たる我はあの鶴の身持ちと変わらぬ。汝ら家臣は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しめ!


〈鶴は敵から狙われやすく、常に警戒する必要があるが、雀は無邪気に餌をついばむ。雀は気が楽だ〉


「ふっ、そんな事もあったよのう。その言葉忘れず、忠誠を尽くしてくれて嬉しいぞ。わしも茶人として穏やかに、雀のように暮らしたいが、願っても叶わず。……運には見放されたやもしれんが、妻と家臣に見放されなかった人生、悔いはなし。───気分がいい。別れの舞を踊ろうぞ。ここに鼓を」


 愛するお美代と家臣が見守る中、一益は自ら打つ鼓に合わせて唄う。


「武士の交わり頼みある仲の酒宴かな」


「名残今はと鳴く鳥の」別れを名残り惜しむように倉賀野秀景が続ける。


 鶴はいつまでも鶴。雀になれぬ我が身を嘆きながら、滝川一益は深夜、箕輪城をあとにした。


───於美代、其方の事は忘れぬ。命あらばまた会おう───




『巧みな指導がないと民は倒れる。しかし助言者の多い所には救いがある』

11章14節


『あなたはいつ横たわろうとも少しも怖れを感じない」3:24

『仕える者の眠りは、自分の食べる分が多いか少ないかに関わりなく甘い。しかし、富んだ者の豊富さはこれに眠りを許さない」関連聖句 伝道5:12



※ 織田家四天王として有名な滝川一益の事を書いてみました。史実と逸話と伝承を混ぜています。創作です。ただ偶然にもお美代という妻がいたので、童話「白粉花」で雨乞いの犠牲になったお美代ちゃんの無念を晴らすため、夫婦愛をテーマにしました。実際の夫婦仲、於美代は別れの酒宴にいたのかは定かではありません。笑




 


 



 




 










 




 


 




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