何が書いてあったって気にしないんだろ

埋もれていく言葉の数々

これ以上言う事なんてあるのか

 創作論という程には形が固まっていないので、その他という事にしておく。書き始めると、一度は考えるであろう事を、これから書き連ねるからだ。「タイトルなんて誰が見てるんだ? 凝ったタイトルに価値があるのか? 理解してもらう為には、情報量は少なくしなければならないんじゃないか?」……先に言っておくが、こんな事に答えなど出せない。

 いや、この表現は正確ではない。正確には、ある答えを出しても、万人に納得してもらえないという事だ。だから、いくら凝ったタイトルを書いても、長くしても短くしても、それで解決する訳ではない。そして、自分が思いつく様な事は、既に誰かが試しているものなのだから、やってみせるだけ時間の無駄なのだ。

 しかし、それを言うなら、自分が気付いた事の大半というのは、誰かが気付いた事であって、それには価値がないという話を進めざるを得なくなる。だから、そんな残酷な結論で話を済ませる前に、何か言っておかなければならない。


 結局のところ、読者はタイトルなんてものに興味をそそられてはいないのだ。タイトル自体に興味を惹かれる事があるとすれば、それはシリーズものであって、つまりは既存の作品の続編とか、二次創作であって、自分の紡いだ文章の方ではないんだと。しかしそうやって考えて、自分が物語を続ける事を諦めたら、そこには何も残らないのである。

 だから、タイトルに含めた意味を汲み取ってもらえなくても、それは全ての作家が等しく置かれている境遇であって、あなただけの苦悩ではないということだ。つまり、あなたはもっと別の事に思いを馳せるべきなのである。例えばそれは、物語の筋書きであったり、あるいは結末であったりとか、そうやって読者がに目を通すであろう所に、如何なる工夫を凝らすか、という事であろう。これを悩んでいなければ、他に悩む事などない。それくらい、筋書きというものは作者を悩ませるものなのだ。

 だから、あなたが筋書きによって悩まされているのでなければ幸福である。この恩恵にあずかって、物語を紡ぐ他にはないであろう。つまり、幸福な人の話はここで終わりとなる。大抵の人は不幸に喘いでいるのだ。裕福な人を眺めながら、自分はそうではないと思って生きているのだ。そして実際、そうではないので、その苦悩が癒される事はないのである……それは、自分の手によって解決されなければならないからだ。

 物語の筋書きも同様である。これを導き出せず、毎日更新を諦める人々の群れが、世の中の諦観の一部を築いているといっても過言ではない。とにかく、これは解決し難い問題であり、そして解決される事はないのだ。先程、幸福な人という存在が文章に現れたが、実際のところ、そんな人はどこにもいないかもしれない。探して、見つけ出したとしても、その人もやはり筋書きに悩まされているかもしれない。そうやって、いもしない人を夢に見て、憎悪を募らせるよりは、悶々としながらも筋書きと向き合う方がいいだろう。そして結局は、そうするしかないのだ。


 創作論というのも、同じようなものではないか。結局は、自分の行いと向き合った結果であって、言わば経験論であって、本質というものに対して触れている言葉といったら、「とにかく書け」以外には何一つとして存在しないだろう。創作論を執筆している本人が、何に納得させられたか見せられたところで、自分の問題は何も解決していないのだ。少し、心が軽くなっただけだ。その側で、筋書きは遅々として進まない。何か思いついた事……それさえも紡げない。そんな状態にあって、すこし心が軽くなったところでどうなるというのだ。

 そうやって、自分の問題を解決してほしいのなら、他人には頼まない事だ。他人に頼るのは大切な事だが、他人というのは自我を持った別人であって、何もかも解決してくれる完璧超人ではないのだから。だから、最後には自分が自分の問題を解決するしかないのだ。それは苦痛を帯びているかもしれない。あるいはもう何度も向き合っていて、失敗続きなのかもしれない。それでも、最後には自分が解決してやらねばならないのだ。そして、。だめか? だったら、あなたはどうやって育ってきたのだ!


 そうやって、また心が軽くなったろう。何も解決していないのに、どこか満足したような気持ちでいるだろう。助言の全てを実現している人などどこにもいないというのに、それこそが素晴らしい事だと勘違いしているだろう。いや、そんな嫌味を言いたくて、ここまで文章を連ねていた訳ではない。

 僕はただ、ここに何が書いてあっても、どうせ何も気にしないのだろうと、そう思っただけだ。どうであれ、あなたはあなたの物語を書き連ねていくしかないのだ。誰かに言われて変わっていく物語ではなく、あなたが紡いでいく物語を紡ぐしかないのだ。そうやって、あの頃に漂わせていた青臭い気持ちを抱えながら、現実に打ちのめされていくしかないのだ。みんなそうだ。みんな、そうやって苦しみながらも、物語を完結させようとしているのだ。そんなのでいいだろう。それって格好悪いかもしれないけど、泥臭いかもしれないけど、それでいいだろう。それが嫌なら、そうではないところに身を置けばいい。そして、文筆というものは、その泥臭さとどうしようもなく向き合わされる他にはない事なのだ。

 そうでなくとも、筋書きに悩まされるという事だ。そして、結局それも泥臭さなのだ。嫌ならやめればいい。嫌味ではなく、苦痛を続けさせる必要はないだろう。そんな軽薄な言葉一つでやめられるのなら、どこかでつまづいた拍子にやめているだろうから。そして、そうやって、自分から選択できないのなら、初めから何を決意しても、自分の決意ではなかったという事だ。それは環境の決意で、社会の決意で、親の決意で、決して自分の決意ではなかったという事だ。

 そういう言葉に苛立つなら、続けた方がいい。また、思い悩んで、筆を折ろうという時に腹が立ったら、続ければよろしい。どうせそうするしかないのだろう。誰が止めても、あなたは続けるのだろう。なら、そうすればいい。そして、自分で責任を取ればいい。浅はかな考えだが、自分の決意である。自分の選択である。これを尊重する事こそがであって、これを失わせてはならないのだ。文字通り、死活問題だ。そして、これこそが、自分が解決しなければならない最初の問題なのだ。




 これ以上言う事なんてあるのか。

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