4,結

 空を見ていた。

 まるで長い白昼夢を見たような、遠くの陽炎に取り込まれてしまったような、ぼんやりとした気分だった。心音を見つけてから陸に引き戻すまでの時間は、ほんの数分だったはずなのに、何十年と長い夢を見せつけられていたような気がする。


 あれから二人を引き上げて、ロープを引っ張ってくれていた子供たちに感謝された。その後すぐに、大人を呼びに行っていた子供と、近くでバーベキューでもしていたのであろう彼らの親らしき人物がすっ飛んできて、雨上がりの鹿威しのごとく頭を下げられた。十数回「ありがとうございます」「すいません」と繰り返された後でお礼にとマゼンタの鮮やかなアイスキャンディーを貰って、今に至る。

 心音は静かにアイスキャンディーを食べていた。私も前を向いて黙々と食べていた。

 私は、何をしていたのだろうか。

 結果的に言えば、あそこで行動を起こしたのは正解だった。今こうして生きているから。だが、それは結果が良かったからの話であって、本来ならあそこで川に飛び込むのは愚策だった。大人しくしている方が良かったはずだ。

 近くにいたあの子たちは川には入らなかった。溺れている人を助けるときに自分が入っても意味がないことを知っていたから。本来、その考え方は正解、というか当然なのだろう。生きるための選択である。汚いか、綺麗か、その議論は意味をなさないだろう。

 心音は、なぜあそこで川に飛び込む選択をしたのだろうか。やはり、彼女の性質だからだろうか。人に対して希望を持ち、疑うことを知らない、困っている人がいれば損得を考えずに真っ先に手を伸ばせる、そんな心だからだろうか。彼女を助けた少女もまた、自分の出来ることを精一杯したのだろう。目の前の苦しむ人を助けるために。

 私からすれば、やはりそれは、どうしようもなく愚かで、綺麗なものだった。私が見たかった、聞こえるまで信じていた人間像だった。

 私は、どうしてあの選択をしたのだろうか。

 私は、どうして、助けようと思ったのだろうか。

 大人を待てばよかったはずなのに。あそこで川に飛び込めなくて、二人に何かあったとしても、私は責められなかっただろう。危ないのはよくわかっているから。自分だったら、そんなことは出来ないと、皆、わかっているから。私も、その一人だったから。

「絃ちゃん。あのさ。」

 心音が口を開く。いつの間にか食べ終えたみたいだ。

「助けてくれてありがとね!助けなきゃって思ってたら、足が滑っちゃってね。怖かった。ありがと!」

「ん。」

 あと一口のアイスを口にほおばって頷く。

「絃ちゃん、昨日話したあの子みたいだったよ。すごくかっこよかった。すごいなぁ、絃ちゃん。」

「ありがと。」

 心音はいつの間にか元気を取り戻していた。彼女の心の声は、ざわざわとした夕立前の風のように不明瞭なものから、昼間の夏の空のような、明るいものにいつの間にか戻っていた。昨日の、あの思い出を語った後のように、ずっとにこにこと笑っている。

 川の流れを見つめる。

 誰かに助けられる、助けるほど人と関わることはあの時から無くなった。相手も、自分も心を読んだり、読まれることを不快に思っていた。今日聞いたものは、いつものそれとは違っていた。彼女も、彼らも、ただまっすぐだった。打算的な感情を持たなかった。それは、緊急事態で切羽詰まっていたからだろうか。幼いからだろうか。まだ世間を知らないからだろうか。違うことは分かっている。反例はすぐ近くにある。

 もし、そんなことが、ありえたのなら。

 私は立ち上がり木陰から出てみる。空を見上げた。頭の上は澄み切った水色が広がっている。遠くの方には入道雲が見える。あの雲は近づいてきて、空を覆うだろうがすぐに晴れる。

 心の音は時と場合で姿を変えるだろう。だが本質はあるだろう。雲が空を覆い隠し、土砂降りの日が続くかもしれないが、雲の向こうには空がある。


 遠くで、声が聞こえる。私たちを呼んでいる。


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雲の糸 花籠 コノハ @hanakago_konoha

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