第23話 リリース(5)完了

 メールの件名の冒頭に【トラブル最終報】と入っていることを確認して、早苗は送信ボタンをクリックした。


「終わ……た……」


 自席の椅子にぐったりと背を預ける。ぎしっと音がした。


 周囲でも同様の光景が見られた。床に転がっているメンバーもいる。


 早苗の機転でトラブル対応をしたあと、無事にサービス開始 リリースの作業が全て完了したのだ。


 徹夜で本番環境での緊張をいられる作業、というだけでも疲れるのに、加えて、トラブル対応とその後のタイムリミットの厳しい作業だ。集中力を全て使い果たし、みな抜け殻と化していた。


 時刻は朝七時。窓から入ってくる太陽の光がまぶしい。


 顧客の接続試験も済んだので、これで早苗たちのお役目は終わりだった。


 あとは朝九時のサービス開始まで待機していればいい。その開始作業は顧客側で実施することになっていた。


「報告書、作ら、なきゃ……」


 早苗はよろよろと体を起こし、マウスを握った。


 トラブルについての正式な報告書だ。改めての正式対処の計画も盛り込まねばならないので、その検討も必要だった。


 帰る前に顧客に送る必要がある。


「桜木くん、書いてもらった事象説明のスライド、どこにある?」


 先ほど作ってもらったファイルのありかを、斜め向かいの席に座っていた桜木にたずねる。それに追加して作るつもりだ。


「あと十分待って下さい。もうできます」

「え? でもさっきできてたよね?」


 早苗は桜木の座る席へと向かい、ディスプレイをのぞき込んだ。


「あと結論のスライドだけです」

「待って待って。事象だけじゃなくて、原因と対処まで全部作ってくれたってこと?」

「はい。先輩たちが本番作業してるあいだ、手がいてたんで。恒久対処のスケジュールも仮で引いてみました」


 桜木にマウスを譲ってもらい、早苗は資料をスクロースしていった。


「うわ……。よく書けてる。てか資料作るの早いねぇ。さすが営業」

「それほどでも」

「スケジュール感もいいね。ただ、ここは要件定義書のレビューがあるから、時期ずらしたいかな」

「あー……、そうですね。それ漏らしてました」

「このスケジュールのスライドだけちょうだい。こっちで直す」

「わかりました」


 早苗は自席に戻った。


 すぐに桜木からファイルの断片が送られてくる。


 それを手直ししていると、桜木から資料が完成したという報告があった。


 全体を眺めながら、本当によく書けているな、と思った。


 ただ言いたいことを書くだけならば簡単なのだが、ポイントを相手にわかりやすく伝える資料というのは、なかなか作るのが難しい。


 開発部隊の書く資料は簡素になりがちだ。


 必要な事柄が書いてあればいいだろう、ということで、デザイン無視の長文スライドになってしまうことも少なくない。


 だが、営業部隊できたえられた桜木の資料は、すっきりとしていてとても読みやすかった。


 変にって時間がかかるのなら考えものだが、短時間で作れるのならばこの方がいいに決まっている。内部の資料ならともかく、顧客に出す資料なのだから。


「皆瀬さん、僕も手伝いましょうか?」


 隣の席で机に突っ伏していた奥田が、顔だけを上げて早苗に聞いた。


「いえ、桜木くんが資料作ってくれたので、奥田さんたちは休んでてもらって大丈夫です」

「今日は大変でしたが、なんとか終わって良かったですね」

「ですね」


 二人で微笑み合っていると、そこに桜木がやってきた。


「先輩」


 振り向くと、桜木が立っていた。


「ちょっとコンビニ行きませんか」

「あ、行く」


 早苗は机の上のスマホをつかんで桜木の後をついて行った。


「あ、ごめん、先トイレ行ってもいい?」

「いいですよ。エレベーターで待ってます」


 桜木と別れてトイレに向かう。


 用を足して冷たい水で手を洗っていると、寝不足と使いすぎでぼーっとした頭が、少しすっきりするような感じがした。徹夜のハイテンションなのか、目はえている。


 自分のコンディションを確認していると、体が熱くなっていることに気づいた。トラブル発生とその対処でアドレナリンがたくさん出たのだろう。


「桜木くんとえっちしたい……」


 ハンカチで手を拭きながら、早苗はぽつりとつぶやいた。


 次の瞬間、自分の発した言葉に驚愕きょうがくした。


 ばっと周りを見る。


 大丈夫、個室にも誰もいない。


 誰かに聞かれたら大変だった。なんて破廉恥はれんちな発言をしまったのか。


 顔が少し赤かったが、桜木をあまり待たせるのも悪いので、早苗はエレベータホールへと向かった。


 エレベーターはすでに着床していた。


 昼間であればまた別の階へと移動していってしまっただろうが、今は早朝である。ボタンを押し続けていなくても、止まってくれていたようだ。


 桜木の顔を見るのが気恥ずかしくて、目を伏せたままエレベーターに乗り込んだ。

 

 操作盤の前に立った桜木は何も言わない。


 夜勤なのに律儀にワイシャツ姿だ。そでをまくっていて、血管の浮き出ている腕が見えていた。指は細くて長く、爪がきれいに整えられている。


 シャツに覆われていて見えないが、早苗はその背中が引き締まっているのを知っていた。何度も何度もしがみついたから。


 その時の光景を思い出して、早苗はまた体を熱くした。


 やだ、もう、どうしちゃったの……。


 自分の体を両手で抱きしめる。


 エレベーターが一階に着いたとき、「開」ボタンを押してくれている桜木の横を、早苗はさっと通った。


 コンビニはビルの一階の一角いっかくに入っている。真夏の外に出なくていいのはありがたい。


 コンビニに入ると、冷房の効いているオフィスよりもさらにヒンヤリとした空気が、早苗の体の熱を取った。


 軽食と飲み物をかごに入れ、アイス売り場へ。

 

「アイス、そんなに買うんですか?」


 先に自分の会計を済ませた桜木が戻ってきた。


「うん、みんなへの差し入れ。桜木くんも好きなの選んでいいよ」

「やった!」


 桜木は躊躇ためらいもなく、高級アイスを早苗のかごに入れた。


 遠慮がない、と笑ってしまう。


 後輩とはこうあるべきだ。先輩の好意は素直に受け取る。大変よろしい。


 早苗がスマホで決済を終えると、当然のように桜木が袋を受け取った。


「ありがとう」

「いえいえ」


 よかった。普通に話せた。


 早苗はほっと胸をなで下ろして、上りのエレベーターに乗り込む。


 桜木が荷物を持っているので、ボタンを押すのは早苗の役割だった。


 エレベーターが動き出すと、操作盤の前に立つ早苗に、すっと桜木が体を寄せた。不自然な程近い距離に、早苗はドキリとする。


「先輩、この後うち来ませんか?」


 耳元でささやかれた言葉に、カッと体の熱がぶり返した。


 見上げると、桜木が欲情のこもった目で早苗を見ていた。


 桜木くんも、同じなんだ……。


 早苗は黙ってうなずいた。

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