第15話 プレゼン(2)喫茶店

 電車を二度乗り換え、顧客のビルの最寄り駅を出た時、早苗はすでに緊張のピークに達していた。


 のどがカラカラで、肩にかけた鞄の持ち手を固く握った両手は氷のように冷たい。照りつける日差しで暑いはずなのに、体は電車の冷房で冷え切っていた。足が思うように前に出ない。


「先輩、取りあえず水飲みましょうか」

「う、うん……」


 真っ青な顔をしている早苗を気遣って、桜木が適当なビルの日陰に早苗を入れ、自動販売機で水を買ってきてくれる。


「どうぞ」

「ありがとう……」


 鞄の中に飲みかけの緑茶のペットボトルが入っていることを思い出したが、今は冷えている水がありがたかった


 ごくり、ごくりと飲むと、冷たい液体が喉を流れて空っぽの胃を満たした。


「ふぅ」


 もやもやと嫌な想像で満ちていた頭が、少しすっきりしたような気がする。


 桜木がちらっと腕時計を見た。


「まだだいぶ時間ありますね」

「え、そうなの?」


 早苗もスマホを見ると、確かにまだプレゼンの開始時間までにはずいぶんと時間があった。


 出発前に桜木が心配していた通り、一路線止まった影響で混雑した他の電車も遅延し、移動には予定よりも時間がかかったのだが、それでもまだ余裕があったようだ。


「そういえば、課長と部長は?」


 今さらながら他の出席者である二人のことが気になった。四人で来ればよかったのではないだろうか。


「別の拠点で打ち合わせがあって、そこからちょくで来るそうです」

「まさか遅刻したりしないよね……?」

「いや、電車トラブルのことは連絡しといたんで、あっちも打ち合わせ切り上げて早く移動したみたいです。もうすぐ着くそうです」


 桜木がスマホを見ながら答える。


 メールで連絡を取り合っていたようだ。


 早苗など、不安がってただ桜木についてきていただけなのに、桜木はちゃんとリスクを減らす努力をしていた。


 情けない……。


 通常ならば早苗もそれなりに配慮できるはずなのだが、プレゼンのことが気になりすぎて全く頭が働かなかった。


 この分だと、肝心のプレゼンの時も頭が真っ白になって、何も答えられなくなるに違いない。


「ここにいても暑いだけですし、カフェでも行って時間を潰しましょう」

「あ、うん」


 桜木が差し出した手に当然のようにペットボトルを戻して、早苗は桜木の後をついて行った。


 連れて行かれたのは、表通りのチェーン店ではなく、一本横道にそれたところにある名前の聞いた事のないカフェだった。


 入ってみれば、静かにジャズが流れていて、客も少ない。


 カウンターの中にはベストを着た男性店員がいて、カフェというカタカナの呼び名よりも、喫茶店という言葉が似合いそうな雰囲気だった。


 店員はカウンターから出てこない。


 すると桜木はその店員とうなずき合い、いているテーブルへと勝手に進んで行った。


「よく来るの?」

「早く着いたときはたまに」

「へぇ……」


 早苗が奥田と打ち合わせをしに来るときは、時間を潰すとしたらチェーン店のカフェかファストフード店だ。


 桜木だって以前はそうだったはずなのに。


「すごい、サイフォンで入れてる。私実物見るの初めて」

「ブレンドコーヒーが美味しいですよ。でも先輩はコーヒー飲めないですよね」

「申し訳ない……」


 せっかく本格的な所につれてきてもらったのに、早苗は苦いコーヒーが苦手だった。


「カフェラテなら飲めますよね?」

「うん」

「ホットにしましょうか。先輩、体冷えてるみたいなんで」

「あ、うん。そうする」


 店内はほどよく冷房が効いていて、ホットで飲んでも暑くなることはなさそうだ。


「それと、デザートも食べませんか?」

「デザート?」

「ここのプリンが絶品なんです」

「桜木くん、スイーツ男子だったっけ?」

「甘党というわけではないですが、たまに食べます」

「へぇ」


 桜木が見せてくれたメニューの写真を見て、早苗は目を輝かせた。


 足の付いた銀色の器に入った台形型のプリン。周りには生クリームが添えられていて、上にサクランボが乗っている。


 まんま「喫茶店のプリン」だった。少し硬めで卵の味がしっかりしているに違いない。


 でも、打ち合わせの前にデザートなんて食べていいのだろうか。今は就業時間中でもある。


「先輩、今日お昼食べてないでしょう」

「う、なぜそれを……」


 実は、緊張しすぎて何も喉を通らなかったのだ。


「どうせそうだと思いました。食べないと頭回らないですよ。糖分取った方がいいです。プリンなら食べられますよね」

「……そうだね。食べる」


 桜木は手を軽く上げて店員を呼び、早苗のホットラテとプリン、自分用には水出しアイスコーヒーを頼んだ。


「桜木くんは食べないの?」

「俺はちゃんと昼飯食いましたから」


 さらりと言われ、自分が情けなくなった。


 体調を整えるのも仕事のうちなのだ。仕事でパフォーマンスを出すには心身の健康が大事だとわかっていたはずなのに。


 その後、桜木は仕事とは関係のない、私生活の話を振ってきた。


 今はゾンビを倒すシューティングゲームにはまっているらしい。あの大きなテレビも、ゲームのために買ったのだそうだ。


 そういえばトレーニーだったときも、ゲームは好きだと言っていた。


 こういう所は変わらないんだな、と少し安心した。


 やがて頼んだ物が運ばれてきて、早苗はまた目を輝かせた。


「可愛い!」


 ラテアートが可愛らしいクマの形をしていた。


「写真撮っていいかな?」


 店の雰囲気的にスマホで写真を撮るのはアウトだろうか、と周りをうかがう。


「大丈夫ですよ。ここ、SNSの公式で写真上げてるくらいですから」

「じゃあ、少しだけ」

「先輩、SNSやってるんですか?」

「ううん、これは自分で眺める用」


 早苗はクマの写真をスマホで撮った。


 プリンの方も、メニューとそのままの見た目で、レトロな感じがたまらない。表面にムラがあって、既製品ではなく店の手作りであることがうかがえた。


 もちろんこちらも撮った。


「あとで待ち受けにしちゃおー」


 スマホを置いてふと桜木を見ると、早苗をじっと見て口元を緩ませていた。


「な、何?」


 年齢に見合わずはしゃぎすぎただろうか、と反省する。


「先輩が喜んでくれて嬉しいな、と思って」

「っ!」


 どきりとした。


 顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。


 なぜこの男は、こんなセリフをさらりと言ってしまうのか。


 自分のことが好きなのでは、とうっかり勘違いしてしまう女性がいてもおかしくない。


 桜木はそんな早苗の反応さえ楽しむように、にこにことしていた。


 早苗は素知らぬ顔をして、カフェラテに口をつけた。


「あ、美味しい……」

「でしょう?」


 フォームミルクでコーヒーの苦みが緩和されていて、飲みやすい。その一方で、ふわりと鼻に抜けるコーヒーの香りはしっかりしていた。


「桜木くんも飲んだことあるの?」


 桜木はブラックコーヒー派ではなかったか。現に今もアイスコーヒーを飲んでいる。


「まあ、リサーチがてら」

「リサーチ?」


 早苗は首を傾げた。


 そして、ああ、と思い至る。


 雰囲気のある喫茶店だ。きっとデートにでも使うのだろう。


 コーヒーの苦手な女性のためにカフェラテの美味しい店を調べておくなんて、陰ながら努力もしてるんだな、と思った。


 自分なら、たとえ休日であっても、顧客のビルのすぐ側でデートなんて絶対にごめんだが、早苗以外の女性にはとっては何の関係もない場所だ。


 早苗は次に、プリンに取りかかった。


 スプーンを手にして、カラメルの乗った上からひとすくい。ちょっとだけ生クリームもつける。


 一口食べると、まずカラメルとバニラの香りがした。


 食感はやはり少し硬めで、濃い卵の味がする。甘みは控えめで、代わりにカラメルと生クリームが甘く、一緒に食べるとちょうどいい甘さになる。


 早苗はカフェラテを飲むのを忘れてしまうくらい、プリンに夢中になった。


「そんなに美味しいですか?」

「うん。美味しいよ」

「一口下さい」

「どうぞ」


 桜木に言われた早苗は、スプーンの柄を桜木の方を向けて差し出した。プリンの器も桜木の方へと近づける。


 途端、桜木が残念そうな顔をした。


「……頂きます」


 ちぇ、という顔で、桜木はプリンをすくって食べる。


「美味しい?」

「美味しいです」

「でしょでしょ?」


 早苗は得意げに言った。


 しかし、すぐに、これは桜木が教えてくれたのだと思い出す。カフェラテ同様、桜木はプリンも試食しているだろう。早苗が得意がる場所ではなかった。


 時々思い出したようにカフェラテを飲みながら、早苗はプリンを堪能たんのうした。


「美味しかった~」

「よかったです。――そろそろ時間ですね」

「げ」


 そうだった。


 これからプレゼンなのだった。


 すっかり忘れていた早苗は、ずどんと頭の上に岩が落ちてきたように沈み込む。


「先にトイレに行ってきてもいい?」

「右行った突き当たりです」

「ありがと」


 トイレで用を足した早苗は、鏡を見て、ひどい顔だなと思った。


 だが、カフェに入る前よりは大分マシだろう。ホットラテのお陰で体も手も温まり、プリンの糖分が頭に回っている。


 軽くメイク直しをして目の下のクマを隠した。チークを乗せて口紅を塗り直せば、取りあえずは血色がよく見えるようになった。


 早苗がテーブルに戻ると、桜木が鞄を持って立ち上がった。


「俺もトイレでネクタイ締めてきますね」


 トイレに向かった桜木はすぐに戻ってきた。


 さっきまでのラフな様子からは一転、渋めの赤色のネクタイを締めて、きっちりとしたビジネスマンの格好になっていた。


「お待たせしました」

「ううん」

「では行きましょう」

「うん……」


 桜木について浮かない気持ちで店の出口に向かうと、桜木はレジを素通りしてしまった。


「あれ? お会計は?」

「済ませました」

「え? 私出すよ」


 ここは先輩である早苗が払うべき場面だ。


 早苗が財布を出すと、桜木は眉を下げた。


「こういう時くらいかっこつけさせて下さい」

「でも――」

「先輩、急がないと遅刻しますよ」


 押し問答している場合ではなかった。

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