第12話 セフレ(6)朝食

 翌朝目覚めた早苗は、今度は混乱しなかった。


 恐る恐る隣を見ると、桜木の姿はなく、少しだけほっとする。


 体を起こして昨夜のことを思い出し、恥ずかしさに両手で顔を覆った。


「うあぁぁぁ……」


 前回は記憶の大部分を失っていたが、今回はばっちりと覚えている。


 触れる手はずっと優しくて、だけど言葉は少し意地悪で、あおられた早苗は何度も達してしまった。


 名前を呼ばれたことも思い出す。


 早苗さん、とささやく甘い声が、耳をう舌の感覚と共に残っていた。


 桜木の舌が辿たどったのは耳だけではなくて――。


 そこまできたところで、早苗ははっと我に返った。


「今何時!?」


 部屋の中には時計が見当たらない。


 スマホを探すと、ベッドの横に鞄が置いてあった。


「よかった……」


 まだ間に合う時間だった。寝坊したわけではないらしい。


 一度家に帰るのは無理だったが、直接会社に行くのなら十分時間はある。


 その時、トントン、と部屋のドアがノックされた。早苗が返事をする前に開く。


「せんぱーい、起きて下さ――あ、起きてたんですね」


 顔を出したのは――当たり前だが――桜木だった。


 早苗は裸のままの上半身を隠すように、布団を引き上げた。


「シャワー浴びますよね? 新しいタオルと歯ブラシ出しときました。トイレは向かい、風呂場はその隣です」

「あ、ありがと……」

「あと、女の人用のシャンプーとスキンケア用品も、個包装のあるんで使って下さい」


 それだけ言って、桜木は頭を引っ込め、ドアを閉めた。


 服を探せば、スーツはハンガーに掛かっていた。早苗が力尽きたあと、桜木がかけてくれたのだろう。


 それ以外は床に落ちたままだったが、下着はさりげなくブラウスで包まれていた。


 そつがなさすぎる……。


 手慣れている様子に、ちょっと引いてしまった。


 お泊まりセットと服を抱えてささっと洗面所に飛び込めば、桜木の言った通り、洗面台には歯ブラシとタオル、そして一回使い切りタイプのシャンプーとリンス、メイク落とし、化粧水、クリームが一揃ひとそろい置いてあった。


 歯ブラシはともかく、新しいタオルもまあわからなくもないけど、女性用のスキンケア用品が用意されてるって、どういうこと……?


 それ以外に置いてある物は全て男物だった。


 ――合コンでは毎回お持ち帰り、一晩限りの関係も。


 早苗は加世子の言葉を思い出した。


 桜木にとっては、こうして女性と夜を過ごすことは珍しくないのだろう。それも不特定多数の女性だ。


 簡単に家を教えてしまうのは不用心ではないかとも思うが、男だから気にしないのかもしれない。


 会社用のお泊まりセットにはシャワーを浴びる想定はなかったので、シャンプーとリンスはありがたく使わせてもらうことにした。スキンケア用品は自分のものを使った。


 洗面所もそうだったが、バスルームも綺麗にしていて感心してしまった。なんなら早苗の家よりも綺麗なくらいだ。


 ブラウスの代わりにお泊まりセットのカットソーを着て、ドライアーで髪を乾かす。


 持ち歩いている化粧道具でメイクをすれば身支度完了だ。


 恐る恐る洗面所から出て、トイレを使わせてもらう。


 これまた綺麗で再び感心してしまった。


「桜木くん……?」


 居間と思われるドアをそーっと開けて、中をのぞき込む。


 正面はテレビとローテーブル、二人がけのソファーが置いてあり、左側にはダイニングテーブルがあった。1LDKには珍しいことに、対面式のシステムキッチンになっている。


 その向こうに、ワイシャツ姿の桜木がいた。


「あ、終わりました? 飯もうすぐできるんで、座ってて下さい」

「え、ご飯作ってくれたの!?」

「先輩朝食食べる派ですよね?」

「ああ、うん、そうだけど……」


 朝食といっても、トーストをかじるくらいのことしかしない。


 早苗はすすめられるままダイニングチェアに座った。


 じろじろ見るのも失礼だとは思いつつ、つい部屋の中を見てしまう。


 ほとんど物がなく、家具が置いてあるだけのシンプルな部屋だった。一人暮らしにしてはTVが大きい。


 ここでも、前はもっとごちゃごちゃしていたのにな、と思った。はっきり覚えているわけではないが、TVはもっと小さかったし、カーテンの色もそろっていなかったような気がする。


 今の桜木の年齢なら、この広さも家具のグレードもおかしくないのだが、当時は新入社員にしては贅沢ぜいたくな広さだな、と思ったことを思い出す。


 早苗の家なんて、ついこの前まで二人暮らしだったのに1DKで、ここよりも狭いくらいだ。


「乾燥機あるんで洗濯もできたんですけど、勝手にされるの嫌かなって思って。先輩着替え持ってるみたいだったんで」

「うん。持ってた。大丈夫。ありがとう」


 チンッとベルの音が鳴る。


「私、何か手伝った方が……」

「もうできました」


 早苗が立ち上がろうとしたが、先に桜木が朝食を持ってきた。


 おしゃれな木製のトレイの上が目の前に置かれる。


「うわぁ」


 早苗は思わず声を上げてしまった。


 メニューはトーストと目玉焼き。横に焼いたウィンナーと炒めたアスパラが添えてある。小皿には一回分のバターとバターナイフ。オレンジジュースのグラスまで乗っていた。


 しかもはしではなくて、ナイフとフォークである。


 オシャレすぎでしょ。


 どこぞのホテルの朝食だろうか。


「なんかまずかったですか? 食べられない物ありましたっけ? オレンジじゃなくて牛乳の方がよければありますよ。先輩、コーヒーは飲みませんよね?」


 桜木が座りながら不安そうに言った。


「ううん、全然。ちょっとびっくりしただけ。すごいね、いつもこんなにちゃんとしてるの?」

「まさか」


 桜木が笑った。


「今日は先輩がいるからですよ」


 何でもないというような顔で言う。


 うわ……。


 それはちょっとずるくないか?


 これは女性が尽きないわけだ。向こうが放っておかないだろう。


「先輩、すごく時間に余裕があるわけでもないので、早く食べて下さい」

「あ、ごめん。いただきます」


 ごく普通のトーストと目玉焼きであるからして、特別な味がするわけではなかった。


 だがこのセッティングである。非常に優雅な朝食の時間となった。


「ごちそうさまでした。大変美味しゅうございました」

「お粗末さまでした」


 頭を下げて丁寧にお礼を言うと、桜木がさっとトレイを持ち上げた。


「お皿くらい洗うよ」

「いや、それは俺がやるんで、ちょっと早いですけど先輩はもう出て下さい。行く時間ずらしましょう」


 あ、そっか。


 出勤時間をずらすなんてこと、全然考えていなかった。


 家の方向が違う二人が一緒に出社したら怪しすぎる。


 つくづく慣れているな、とまたも感心してしまった。


 ここまでしてもらっておいて、その桜木に別々に出勤したいから先に行け、と言われてしまっては、従うほかない。


 まさか皿を洗うために早苗の方が残るわけにもいかないし。


「……じゃあ、お言葉に甘えてお先に行かせてもらうね。このお礼は必ずするから」

「何言ってるんですか? これ先輩のお礼なんですけど」

「え?」

「昨日の資料作りの」


 そうだった。


 昨日、何でもおごると言って、そのお礼に自分がいいと言われた結果、今こうなっているのだ。


「いやでも、朝ご飯までごちそうしてもらっちゃったし」


 というか、お礼が自分というのも謎である。


「俺は先輩にご飯食べてもらえて嬉しかったですよ」


 桜木は目を細めて、本当に嬉しそうな顔をした。


 ぐっ。


 さすがにこれはきた。


 昨夜の資料作りで助かったことといい、セックスといい、今朝のいたれり尽くせりといい。


 仕事ができて、セックスが上手くて、朝ご飯まで作ってくれて、しかもイケメン、大手企業勤め。


 ハイスペックにも程がある。


 そして向けられるこの笑顔。


 早苗の心はぐらりと傾きかけた。


 それをなんとか立て直す。


 いやいや勘違いしてはいけない。


 桜木にとってこれは普通のこと。よくある話で、平常運転。


「私、行くね」

「送りますよ」


 早苗は逃げるようにして寝室へ鞄を取りに行った。


 その後を、キッチンにトレイを置いた桜木がついてくる。


「お邪魔しましたっ」

「先輩、忘れ物です」

「え?」


 パンプスを引っかけて出ようとしたとき、桜木に呼び止められて、早苗は振り向いた。


 桜木がその顔に手を添えて――。


 ちゅっ。


「いってらっしゃい」

「~~~~~~!」


 部屋を出たあと、早苗はドアを背にしゃがみこみ、両手で顔を覆った。


 

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