第23話 船出

 北東の空が真新しいオレンジ色に染まり始めたころ、それまでは濃紺色一色だった薄暗い病室にも、無地のカーテン越しに夜明けの明るさが入り込んで、ようやく別の色をうっすらと照らし始める。


気付かないうちに、ベッドで寝息を立てている千日。


差し込み始めた朝の光がその瞼を刺激して、ゆっくりと現実世界に目を覚ます。


ぼんやりと見回した部屋の中に、夫・一念の姿がないことに気付く千日。


朧げに昨夜の出来事を思い返し、あれは夢だったのか、現実なのかと思いを巡らす。


どちらにしてもいい思い出になったなと、フッと笑みを浮かべ、その余韻にひたっている。


「う・うぅ・・・うぅ~ん・・・・・。」


呻きを小さく上げて、無理な体勢で眠りについた体の痛みに悶え、娘・日和が重たそうにその体を起しはじめた。


「うおぉぉ・・・やべぇ・・いててててて・・・・・。」


眉間に皺を寄せ、瞳を閉じながらその体をゆっくりと、右へ、左へとねじり曲げる日和。


その様子を目にして、千日は想わずププッ!と吹き出してしまった。


 ‼


寝ぼけた眼を咄嗟に見開いて、眠る母に向き直る日和。


その目には、酸素マスク越しに微笑みを浮かべ、こちらに眺め入っている母の笑顔が飛び込んで入ってきた。


途端に涙が、日和の瞳を覆う。


日和はポロポロと涙を溢れさせ「おかえり!ママ!」と、病床の母に抱き着いた。


「ただいま・・・はる。」


マスクでくぐもったその声で、娘に第一声そう伝える母・千日。


千日のその瞳からも、大粒の涙がポロポロと溢れ出ていた。





 お天道様がだいぶ真上に昇りつめ、病棟も昨晩の静けさとは一転して日常の活気を取り戻していたころ、昨日、千日を担当した若い医師が、千日の容体を診に病室に顔を出した。


「傷も思っていたよりも早く塞がってるし、血圧もだいぶ落ち着いているようですね。」


胸元のネームプレートには“佐藤”の文字が刻まれた若い医師が、千日の容体が思ったよりも順調に回復していることを二人に告げる。


日和は看護師さんに包帯を巻き直されている母を一瞥して「なんせうちの千日、こう見えてタフガイですから。」と、佐藤医師の笑いを取った。


「わしゃ、男か!」と、包帯を巻かれる頭を動かさず、ジッとしたまま目だけで娘を見据えて突っ込む母。


昨晩、千日と一念の感情が幾度となく交錯したこの病室に、四人の笑い声がこだまする。


その様子から「これだけ元気なら、今週中には退院できそうですね。」と、目尻にキュッと皺を寄せ、佐藤医師は二人に朗報を伝えた。


満面の笑みを浮かべ、母に向き直る娘。


その表情を満足気に眺め、佐藤医師と看護師さんは「それではお大事に。」と、言葉を残し病室を後にした。


二人の医師と看護師さんに、深々とお辞儀をして見送る日和。


病室の扉がパタンと静かに閉まると、くるりと体を返し「よかったね!ママ!」と、

千日の胸にポフッ!と、飛び込んだ。


「うえっ!」


のしかかる、その娘の重たさに悲鳴をあげる千日。


大きくなったなーと、同時に幸せも噛みしめる。


「ありがとうね・・・はる。」


ほんの僅かな時間でも、一人ぼっちで不安な思いをさせてしまった後悔の念から、千日は抱き着く娘を、更に強く抱きしめ返す。


「うあぁ・・。苦しかですー。ママ、苦しかですー。」


強く抱きしめる母の腕を、身悶えしてタップする日和。


しかしその抱きしめる手に、日和もまた喜びを感じていた。


「ふうー・・・。」


「ごめん、ごめん。」と、解き放った母の腕に、体勢を立て直して再び包まれる娘。


改めて母の胸に顔を埋めて、娘は「よかった・・・。」と、心から呟き、その温もりを懐かしむようにそっと抱きしめ返す。



「あのね、ママ・・・。」


母の胸に抱かれたまま、娘は昨晩見た不思議な夢の話を母・千日に話し始める。


「あのね、昨夜ゆうべね、パパの夢見たよ。」


その言葉に、千日も昨晩の出来事を同時に思い返す。


「そう、良かったね・・・パパ、元気だった?」


千日は娘に優しく問いかけた。


「うん・・・。」


母の胸に顔を埋めたまま、娘は小さく頷いた。


「それでね・・・パパ。私に言ってくれたんだ。」


娘は顔を埋めたまま、更に話を続ける。


「なんて?」


静かに聞き返す母。


「ただいま。って、言ってくれた。」

「そう・・・良かったね。」


千日は娘が、昨夜のことをちゃんと憶えていたことに涙ぐみ、そしてまた静かに微笑み直した。


「うん。良かった。うれしかったよ。」


その言葉に、今度は力を加減してキュッと娘を抱きしめ直す千日。


再び伝わってきた母の愛情に、日和も再びギュッと、母を抱きしめ返した。




「パパ、いまどのへんなのかなー?」


娘のその言葉に「どのへんとは?」と、聞き返す千日。


娘は、人は亡くなったらあの世に行くって言うじゃん。と、母に告げる。


それを聞いて、ハッ!とした顔で壁にぶら下がったカレンダーに目を遣る千日。


「1・2・3・4・5・・・。」と、なにやら目で数を数え始めた。


 あ!


そして気付く。


今日が、夫・一念の初七日に当たることを。


「パパね、いまちょうど三途の川のほとりに着いた頃だと思う・・・。」


「さんずのかわ?」


「そう。あの世とこの世の境の川。」


「ふ~ん・・・・・。」


日和は空を見詰め、母の説明に思考を巡らす。


「じゃ、あれだ。その三途の川を渡って、あの世に行くんだ・・・。」


「そうだね。」


千日もちゃんと、仏法を学んだわけではないので、ごく一般的な常識の範囲で娘に説く。


「あれかな?・・・。」


そんな千日に、日和は再び湧いた疑問を母にぶつける。


「あれかな?・・・。川を渡るのは、なんで渡るのかな?歩いてかな?船かな?それとも大きな橋が架かっているのかな?・・・・。」


「う~ん・・・・。」


その質問に、思考を巡らす母・千日。


そういえば!と、子供の頃、田舎の法事に参列したときに、酔っぱらった親戚のおじさんから「三途の川の渡し賃は六文銭なんだよ。」と聞いた覚えがあることを思い出した。


「船!船だよ。」


そう娘に、自信満々に言い放つ千日。


すると娘は「え⁈じゃあパパ、大丈夫かなぁ?・・・。」と、心配そうにそらを見上げた。


その様子を見て「どうして?」と、今度は千日が娘に質問をする。


「だってパパ、船ダメじゃん・・・・。」


その娘の言葉に、千日は再びハッ!とした。


二人はそらを見上げ、三途の川を渡る船で、顔面蒼白な父と夫を想像してしまった。


「ププッ・・・。やばいね。パパ。」

「そうだね、やばいね。ピンチだね。」


娘と妻は顔を見合わせ、こみ上げる笑いを堪えた。


「どうするんだろうね・・・気持ち悪くなったら。パパ。」


「リバースかな?・・・。」


「いやぁー、さすがにそれはまずいでしょ!三途の川で!」


「じゃあ、どーすんの?」


「とりあえず手、上げるでしょ!」


「誰に?・・・。」


「・・・・船長さん?・・。」


お二人とも、三途の川の渡し船は、さんではなくさんです。


「ま、手を上げたところで、気持ち悪いのは治らないけどね・・・・。」


「あははは、そっか!・・・じゃあパパ、やっぱりやばいじゃん!」


娘と妻。二人のちょっと残酷な笑い声は、病室を飛び出して病棟の廊下にまでしていた。



一念さん。旅立った今でもまだ、お二人の話題に上り笑顔をプレゼントできるなんて、あなたは本当に素晴らしい方ですね。



「きゃはははははははっ!」


「あはははははは!ちょっと!それはいくらなんでも、パパに失礼すぎない⁈・・ねぇ!」




ほら、また笑い声が聞こえてきた。



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