第9話 未来へ

一瞬のことであった。


眩さに目を眩ませ、ほんの一瞬だけ瞳を閉じたその間に、一念いちねんを取り巻いていた景色は濃紺色の夜の背景から、真っ青な日中の風景へと変貌を遂げていた。


まるで狐につままれたように、ぼんやりと辺りを見回す一念。


無意識に瞳を閉じて耳を澄まし、降り注ぐ柔らかな日差しを全身に浴びると、一念の気持ちも幾分穏やかに救われていく。


どこからか心地良く、小鳥のさえずりが耳に響いてきた。


桜の花びらが風に乗り、一念の目の前をひらひらと舞い踊る。


一念は手を伸ばしその花びらを捕まえようとするが、花びらはするり、するり、とその手をすり抜け、一念の足元へと、ひらり、またひらりと舞い降りてゆく。


「春・・・ですかね?」


「そのようだな。」


見上げれば、どことなく白く霞んだ青い空。


一念は視線を下ろし、見慣れた路地を眺め入る。


「どうだ?・・・見覚えは、あるか?」

「えっ・・と・・・。」


老紳士の嗄れた声が、初めて意識あるまま時の扉を潜り抜けた一念を気遣ってか、静かに尋ねる。


目の前に広がるのは、たしかに見覚えのある風景。


しかしここが、自分の元居た場所なのかが定かではない一念。


それを確かめるべく、一念は心のままに一歩一歩踏み出してゆく。


この道を進めば、愛しい妻と娘に会えると強く信じて。


一歩、また一歩と。


やがて、段々と急ぎ足になる一念。


気が付けば、小走りで我が家へと向かっていた。


我が家の軒先が見え始めたころ、見たことのない光景が視界に現れ、一念は歩みをピタリと止めた。


一念の居た世界では、愛車が停まる駐車場。


いま目の前の駐車場に鎮座しているのは、後付けのルーフの下に停められた二台のママチャリ。


「・・・・・・・・。」


急に立ち止まる一念に、うしろから見守っていた老紳士が「どうした?」と、慌てて駆け寄る。


「いや・・・こんなの、あったかなー?って思って・・・。」


違和感ある風景に戸惑う一念。


老紳士も、同じ景色をキョロキョロと粗を探すように見上げている。


よく見ると、もともと年季の入っていた家屋は更に古ぼけ、玄関先のコニファーの樹は、シュッとした若々しい樹に植えなおされている。


「ここにはもう、お前さんたちは住んでおらんということか?」


その声に、門の向こうを覗き込む一念。


表札は“数多あまた”の文字のままであることに、ホッと胸を撫でおろす。


「ここ、僕の居た世界ではありませんね・・・きっと。」


状況から、ここは数多家ではあっても我が家ではない。


そう察した一念は踵を返し、「ここからはすぐに立ち去りましょう。」と、老紳士に提案する。


「待て待て、行きましょうったってお前、次はどこ行きゃあいいんだぃ?」

「それは・・・。」


未だ自分の元居た年代が思い出せず、言葉に詰まる一念。


すると、玄関の向こうから懐かしい声が響いてきた。


「はるー!はやくしてー!」


「ちょっとまってー!」


愛しい妻と、娘の声。


瞬時にして高まる、一念の鼓動。


会いたさに、門に手をかけようとするが、思い止まり慌てて物陰に潜む。


「もう、早くして。遅れるよ!」


懐かしく愛しい声は、さっきよりもさらに身近から聞こえてきている。


確実に近づいている妻と娘。


あの扉から出てこようとしているのだろうか?


一念の鼓動は、限界まで高まる。


ドアノブがカチャリと音を立て、中から姿を現したのは、フォーマルなスーツで身を固めた妻の千日ゆきひ


胸元の白いコサージュが映えている。


そしてすぐ後から、袴姿の娘・日和はるかが現れた。


二人とも、人生の晴れの舞台といった感じだろうか?


娘は、慣れない衣装に少々もたついている様子。


そんな娘を母は急かすように、袖をくいッと引っ張って強引に表に出す。


「引っ張らないで!」


母の強引さにつんのめる娘。


「卒業式遅刻なんて、有り得ないよ!」


そう言いながら、バックから鍵を取り出し戸締りする千日。


すると、門を開き片足を出しかけた日和が、はッ!と何かを思い出し母を呼び止める。


「ママ!パパは⁈」


鍵をバックに仕舞った千日もまた、はッ!とした顔をして、慌ててまたバックから鍵を取り出し、一目散で家の中に戻っていった。


一連の母娘おやこのやり取りを、相変わらずだなあと、懐かしそうに眺める一念。


ふと、記憶が一つ蘇った。


 あれ?あの子はまだ、中学生だったはずでは?・・・。


目の前にいる日和は、薄っすらと慣れない化粧を施し、どう若く見積もっても十代前半には見えない。


しかも今日は、衣装から察するに、大学の卒業式に出席する格好。


その旨を、一念は老紳士に伝える。


「そうか!でかした!じゃあ、何年くらい戻ればよいのだ?」

「・・・・・・・ん?」


「ん?・・・・・・ん?」


パッとすぐ、暗算だけでは浮かんでこない、ロートルな二人。


「えっと・・・八年?いや九年?」

「んーまあ良い。ようはそこらへんだな!」


なんともせっかちでどんぶり勘定な老紳士。


「そこはシビアにしといた方がいいんじゃないっすか?後々の為に・・・。」


そんな一念の忠告も耳に届かないまま、老紳士はゲートを呼出す。


「オープン!ザ!セサミ!」


合図とともに扉は開き、眩い光は再び一念を過去へと導いていった。


光に飲み込まれ消えゆく間際、一念は振り向きそっと呟く。


「おめでとう。はる。頑張ったんだね。」


 !ん?・・・・・。


娘はふと、こちらに振り返った。


そして無意識に何かを感じ取ったのか、一念が身を潜めていた物陰に、ジッと見入る。


「・・・・・・・・。」


が、すぐさま向き直り、なかなか戻って来ない母を、大声で呼んだ。


「ママー!遅れるよー!っつーか、完全に遅刻だよー!」


「遅刻だよって!あんたの卒業式よ!そう思うんならタクシーぐらい呼んどいてよ‼」


奥からは、いつもながらの母の雄叫び。


時が経っても千日と日和は相変わらずだった。


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