もっともっともっと

 ノートパソコン右手に抱えて、反対の手でキーボードをかたかたと叩く姿がなんとなく様になっていた。

 何度もそうして片手で打つことを繰り返して、両手と遜色なくとは言えないまでも、片手でも常人に近い速度でブラインドタッチができるようになった。


 片手打ちは珍しい。


 座ってもいないのに電車内でノートパソコンを開いている姿自体が珍しいが、少女にとって周囲の目など気にしている暇などなかった。


 人生は短い。時間がないのだ。


 物語、小説。一日に十枚、四百字の原稿用紙で三百枚の換算で一本の長編小説としても、一月は必要だ。精度を高めるには直しに二ヶ月は必要だと考えると、合計で三ヶ月、一年間に四本書ければ速いだろう。そのうち、上質なものが仕上がる確率は一割を切る。二年に一本、満足いくものが書けたとして、残りの人生は六十年。このペースで書き続けたとして、三十本、そのうちに自分が心底納得できる作品が含まれる保証はない。

 少女には焦りしかなかった。

 もっと速く、もっと上手く、もっと丁寧に、もっと精緻に、もっと高密度に、もっと繊細に、もっと鮮明に、もっと深く、もっと広く、もっと、もっと、もっともっともっともっと。


「座る?」


 前に抱えたリュックの上にノートパソコンを乗せ、落ちないように右手でぐるりと抱え込み、左手で打つ。

 それが少女のスタイルだった。

 正面に座っている人の顔は見えなかった。正体不明のその人がリュックを叩いたのは、電車に乗ってすぐのことだった。


「え?」


「だから、座る? 僕は立っても描けるから。君、座ってた方が両手使えて速く打てるでしょ」


「座ります」


 少女ははじめ何を言われているのかわからなかったが、わかってしまえば遠慮する理由などなかった。


 ひたすら書く。


 それだけが少女の生きる上での第一義であり、目の前の提案してくれた人間が誰か、どういう意図を持っているか、なにか下心があるのではないか、などと疑心暗鬼に陥るくらいなら、書くことに頭を使う。

 が、顔くらい見ておくかと思い、ノートパソコンを横によけようとした刹那、声の主が立ち上がった。


 百八十センチはあるだろう、網棚の前の金属棒に彼の頭がすこし触れた。同じ年頃の少年が、スケッチブックと鉛筆を手に、少女を見下ろしていた。


「でも荷物は上に置かせて」


「はい」


 ほんの一瞬、少女は少年に意識を奪われた。

 少年の持つスケッチブックにはたくさんの球体らしきものと、立方体、直方体、直線、円など、幾何学的な図形と陰影の練習の形跡が無数に見て取れた。

 単調で無機質な線のはずなのに、少女は不思議と惹きつけられた。


「絵?」


「ああ、俺、絵を描くんだよ。あんたも書く人だろ。小説?」


「そうです」


「そうか」


 大きなリュックを下におろし、脚のあいだに挟んだ。

 膝の上にノートパソコンを置き直すと、再び画面に並ぶ文字列に視線を落とす。

 少女にとって少年はもういない。

 少年のほうでも同じらしく、視界に少女はいないどころか、乗客がいることを忘れている。

 二人はそれぞれ、まるで別の世界にいた。別の世界にいながら、なにか通じるものがあるような気がしたが、二人がそれを言葉にすることはなかった。



 言葉の可能性。

 駅から学校へと続く坂道を歩きながら、少女は自分が綴った言葉がいつか誰かに届くことがあるのだろうかと考えていた。

 道を横切る自転車のチェーンがキコキコと高い音を鳴らしながら、過ぎて行った。信号待ちをする横断歩道で、隣で咳き込む老人から樟脳のにおいがした。東の空に雲が薄く垂れ、霞がかったような薄い光の中を中学生たちが歩いていた。


 自分の言葉が、いつか誰かに届くことがあるだろうか。


 ——ない。今はまだ。


 学校に到着した。


「なに、怖い顔してどうした。文芸部?」


 友人と呼べるほどの人は数えるほどだ。少女にとっては彼女だけがクラスの中での話し相手だった。

 アイドルやテレビドラマの俳優には興味がない。アニメやバラエティ番組も見ないし、ユーチューバーも知らない。SNSもやってない。そういう人間をクラスメイトたちは変人と見做す。

 陸上部のスター選手である彼女と文芸部の地味な少女が一緒にいることを怪訝に思うものもいたが、今ではなんとなく周囲も納得がいったらしい。戦う舞台が違くとも、なにかを強く求めるもの同士は自然と波長が合うのだ。

 彼女たちの放つ熱に焼かれずにすむ者が、同じ部やクラスには他にいなかった。それだけのことだ。


「うん。まだ今月一本しか書けてない。知識が足りない。語彙が足りない。表現がつまらない。感性が乏しい。構成が甘い。プロットに遊びがない。こんなんじゃ全然ダメなのに……」


「うげぇ。あんた真剣すぎだよ。時間や思いが強ければ良い作品が書けるってもんじゃないでしょ。たまには力を抜きなよ。良い作品を書くためにもさ」


「力を抜くって言われても、時間がなさすぎる。全力で駆け抜けなきゃ、あっというまに死んじゃうのが私たちでしょ」


「死ぬって、あたしたちまだ高校生でしょが。なにを言うか若造が」


「若造でも、いつか死ぬって意味では老人とそう変わらんのだよ、若造よ」


 きゃはは、と二人して笑った。


「だってさ、期限がいつまでかって違いだけで、終わることは確定してるから。私たちは確実にいつか死ぬ。時間は限られている。だから焦るの。私のたどり着きたい場所に生きているうちに届くか、私にはまだわからないから」


「うん、知ってる。あたしも同じだもん」


 彼女は顔に垂れた髪をかきあげると、校舎に向かって走る学生たちを見下ろした。遅刻組だった。


「でもね、だからこそ無駄をしなきゃいけない。無駄をしないためには、無駄だって必要かもしれないってことだよ。あたしが言いたいのは」


 友人がしたり顔でのたまうのを黙って聞いていたが、少女にはその意味が解せなかった。

 とはいえ、常に完璧な答えにたどり着けているという自信などない少女は問うてみる以外にない。


「どういうこと」


 と素直に尋ねた。


「んや、わかんないけど」


「わからんのかい」


 きゃはは、と二人してまた笑った。



 求めるものは遠かった。

 少女も友人も、そこへの近道などないことは既に知り、あとは繰り返し自分たちのできることをやり続けるだけだ。

 無謀で無力でふがいないなりに、生きる、息つく暇なく走り続ける。求める場所へ、暗闇のなかの一条の光へと、ひたすら、ひたすら。


 もっともっともっと、と。


 少女は授業中も、執筆中の作品のことで頭がいっぱいだった。

 目の前の一つひとつに誠実に向き合えないものが、作品に向き合えるはずない、良い作品など書けるはずがない。少女の信条だったが、意識は常に作品へと流れた。

 化学や物理学、地理、歴史、英語に音楽、美術や数学、どれも作品と無関係ではありえない。世界のありとあらゆるものが不可避的に関係してしまうのが、小説であり、文芸だ。

 少女は十分に理解していた。だからこそ、勉強、という単純な暗記と理解の繰り返しでしかない退屈な作業すらも、おろそかにはせず努めてきた。

 だが、理想とする作品は常に遠い。

 微積分を理解したところで、文章力には結びつかない。歴史を知っていたからといって、その時代に生きた人の心は書けない。英語を話せたからといって、美しい日本語をつむぎ出せるわけじゃない。

 逃げ道ばかりを探して、小説を言い訳にして学ぶべき問題から逃れようとしている自分に気づかずがむしゃらになることすら上手にできない。だから小説を書くし、書けるのだ、と少女は思った。を何重にもメタで思考し内省を繰り返すからこそ、不十分であることもわかり、それでも書きたいと思えるのだ。



 放課後の校舎から、ゆっくりと生徒たちが吐き出されていく。半分は帰宅部、もう半分は幽霊部員、少女は後者に近い。


「今日はすぐ帰るの? 図書館は寄ってかないの?」


 昇降口で友人が尋ねた。

 少女は毎日、付属の大学の図書館に寄り、調べものをしてから帰った。今日は部室棟と同じ方角の正門の方へと二人で歩いていた。


「今日は寄らない。なんとなく、今朝にすこし、知らん人からモチベもらったから、それを今日のうちに存分に使い尽くしたいの。本を読むんではなく、今は書く時間。タイミングって大事だと思うし」


「ふーん。それ、私にもちょっとわけてくれればいいのに」


「ふふ、気が向いたらね」


 少女は分けてやる気などさらさらないし、友人にもその気はない。分けて減るものではない。むしろ増えることすらある。馴れ合いを互いに嫌うだけだ。

 自分の手でつかまなければ意味がない。つかんだそれが、価値のあるものなのかも自分ではわからないが、進む。少女たちは心得ていた。


「じゃあ、がんばってね」


「そっちも」


 別れた。二人とも振り返らなかった。



「それ、なに描いてるんですか」


 少女は翌日も同じ少年に出会った。


「ああこれ。線の練習。あと陰影。基礎練みたいなもんだよ。こういうの積み重ねて、指先の感覚を洗練させる。絶対に必要な作業なんだ、描くために。きっと、君も一緒でしょ」


「そう、……ですね」


「今日も座る?」


「座ります」


 少女は無遠慮に椅子に腰掛けると、少年のことなどすぐに忘れてしまった。少年もまた、少女のことなど忘れて、立ったまま線と陰影の練習を続けていた。

 必要のない情報を自分から遠ざけるくらいの意識の扱いくらい、二人にとっては容易いことなのだ。


 電車で出会った少年少女は、互いに別々の視点から、同じものを見た。

 遠くにあるそれを。理想を。

 今は届かない、いつ届くかもわからないそれを、それだけを求めて。そうしていつのまにか、彼らはひとりでのに、ひとりじゃなくなっていた。


 ずっと以前から誰かがそこにいて、同じものを見ていた、ずっと先も誰かがそこにいて、同じものを見る。


 二人は互いに孤独の意味を知っていた。孤独の連なりが描く美しさも知っていた。だからこそ、孤独ではなかった。


 届くのが誰でも構わない、連続のひとつでありたいと、願って駆け続ける。もっと、もっともっともっともっと、もっと、と。


 欲深いふたりは、どこまでも。

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