名のない人々

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共感、理解、光

 ライブの帰り少し羽目を外し過ぎだったと、女はすぐに後悔した。


 想定していなかったわけではない。

 SNSで出会った友人と地元の友人と三人で、ライブ後にはしっかり時間を確保していた。興奮したままの勢いで電車に乗ると失敗する。たかぶった感情をまずは落ち着かせるため、静かな店で食事をするとあらかじめ決めていたのだ。

 たった一時間では互いに推しの魅力を語りつくせるわけがなかった。推しの魅力を過小評価した結果が悲劇を生んだ。なにより、推しは偉大なのだ。


 帰りの電車はさほど混んではいなかったため、周りの乗客に対する配慮もしなかった。

 それがいけなかったのだ、とあとになって考えたところで遅い。後悔先に立たず、なんて言葉を持ち出すまでもなく。



 女は推しのライブに参戦した。ライブはいつも通り楽しめた。というより、よく知った三人での参戦は、互いが触媒になったかのように感化し合いながら、感動をいつも以上に増幅させた。

 感情の昂まりを抑えることができず、興奮は永遠に続くかのように思えた。会場から出たあと、手の震えと、耳の奥に清澄な声がしばらく残っていた。


「やばかったね……」


「うん、やばかった……」


「うん……」


 咀嚼し切るのに時間がかかる。

 女にしろ、友人の二人にしろ、ライブ後の感動を言葉にする手段を持たなかった。

 などという軽薄な言葉だからこそ、伝わるものもある。

 三人は三人とも、あまりに膨らみ過ぎた感動が一度に破裂して漏れ出してしまわぬように、慎重に、ゆっくりとそれを飲み込んだ。

 ロッカーに預けてあった着替えを取りに行き、トイレで着替え、戦いのあとの乱れ切った化粧をなおした。

 戦闘態勢から余所行きに変わると、わずかに冷静さを取り戻したのか、ここでまたスイッチが切り替わった。


「レストラン、行こっか。まだ少し時間あるけど」


 友人がいった。


「そだね」


「うん」


 残りの二人が答えた。


 タクシーを呼んだ。

 三人で乗るなら、電車とそう値段はかわらない。数百円をけちってわざわざ時間をかけるより、最初から最短距離で直線的に進んだほうがはるかに良い。女の提案を、二人は快く受け入れた。

 ライブで散財したあとで、気持ちも大きくなっていた。

 贅沢、というほどの贅沢ではない。なにせ既に推しに数万は費やしたあとのことだ。普段は行かない高級レストランの予約までしてある。数百円などはした金だ、となるのも三人にとっては自然だった。

 三人で後部座席に詰めるように乗り込むと、揃ってふーっとため息をついた。腰を落ち着けた瞬間、張り詰めた糸が切れるのがわかった。

 言葉がなくとも通じ合える、女はそう思った。

 そして順々に左右の友人の顔をみる合わせ、三人同時にぷふっと吹き出した。

 溢れ出しそうな感情が右往左往していた。運転手までもがなんだかそわそわしている。三人の空気にあてられたのかもしれない。


 不安定な天気のように、いつどこから雷鳴が轟いてもおかしくないような心許なさを伴いながら、タクシーは夜の街をひた走った。

 三人はレストランに到着した。



「さいっこうだったね」


「最高なんてもんじゃない」


「……うん」


 レストランでは三人とも静かだった。

 アペリティフにはじまり、メインやデザートに至るまで、コースに沿って順々に料理が運ばれてきた。

 派手さはないながらも高級感のある調度品の数々に囲まれるだけでも落ち着かないのに、次々と運ばれる料理の小ささに一々驚かされなければならなかった。

 自然と口数は減った。料理の味など大してわからなかった。

 どうせこうなら、ファストフードやファミレスで十分だったかもしれない、と女が食後に出されたワインに口をつけると、他の二人も同じことを思ったのか、声をひそめて笑った。

 そして、店を出て最初に出た言葉がそれだった。


「味もなにも、全然わかんなかったよ」


「そんだけあたしたちの推しが尊いってことで」


「レストランに罪はないよ。ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでしたが食に対してなのかライブに対してなのかわからんよ」


「それな」


 強い酒は飲んでいないのに、三人とも酩酊していた。

 咀嚼して体内に落ちた思いが吸収されて、血管を経てものすごい速さで全身を巡っていた。推しが、推しの記憶がからだを巡るのだ。

 静かな興奮。からだの内側が煮え滾るかのように、ふつふつと熱を発している。熱い。熱い。熱い。


「ちょっと待った。一度、トイレに寄らせて」


「あたしも」


「うん」


 三人は駅に到着すると、それぞれ化粧室の個室に入り、しばらく出なかった。


 女は一人で考えていた。感じていた。歓楽極まりて哀情多し。自分の中で生じている感動と喪失感。止めどなく溢れる興奮の連続と、既にそこにない喜びが徐々に遠ざかっていく感覚。

 化粧を直したのに、もう一度泣きそうだった。

 推しが今後、何度同じような感動を与えてくれるだろうか。いつまで活動を続けてくれるだろうか。いつまで生きていてくれるのだろうか。いつまで自分が生きられるだろうか。

 だめだだめだだめだ深い深いふかい落ちる落ちるおちるーっと女が思った瞬間、ドアを叩く音が聞こえた。


「ねえ、大丈夫」


「ごめん、また化粧直す」


「あははは、うちらも直し中だよ」


 やっぱり、同じだったのだ。そう思うと、すっと心が落ち着いた。



 駅のトイレで化粧を直し、あとは帰るだけなのに、三人はすっかりなにかから解き放たれたような気分になっていた。


「お酒、飲みながら帰ろうか」


「賛成!」


「うん、今日だけ!」


 駅のコンビニがまだ開いていた。

 ストロング系の五百ミリリットルを三本買って、つまみはなし。

 ホームで電車を待ちながら、徐々に出来上がっていった。

 到着した電車はさほど混んではいないし、多少うるさくても構わない。それが三人の気の緩みを生んだ。


 座席は空いていた。

 三人は並んで座ると、さっそくプルタブを上げた。プシュッと炭酸の抜ける音とともに車内にアルコールのにおいが漏れた。


「今回のライブって、まじで神がかってたと思うの。ファンに語り継がれる系のさ」


「わかる。神回。推しが輝いていたこともそうなんだけどさ、演出も完璧に近かったし、なによりファンとの一体感が、これまでとは比べ物にならないくらいすごかった。数万人が一つになるって感動を久々に味わったよ」


「そっか、あたしははじめて人と一緒に来たからわからなかったけど、やっぱり今日はすごかったんだね。二人と一緒だからそう感じるだけかと思ってた。近くの二人との共感が心をざわざわさせるんだって。でも、それだけじゃなかったんだね」


「うん。それもあるかもしれない。けど、それだけじゃない」


「いろんな要素があるんだろうけど、そんなのもどうでもよくなるくらい最高だった」


「そう、最高だった」


「やばかった」


「うん」


 感動を反芻するように、何度も舞台中央の、輝かしい照明のしたに立つ推しの姿を思い出した。

 あんな感動を人生で何度味わうことができるのだ。同じ思いが脳裏をかすめる。夜が唐突に更けてくるような気がする。女は恐怖を掻き消すように、声を高く張り上げた。


「どこが一番好き? 今日の演出のなかでさ」


「私は『夢の終わり』の最後のところ。ライトと音が消えて、舞台の上もあたしたちも一瞬、静寂と闇に包まれるあの瞬間がすっごく好き」


「わかりみ。そして光のなかにぽつんと立つその姿はもはや神」


「あまりの美しさに神の存在を確信する。うち、一神教信者かもって思ったくらい」


「推し、というたった一つの神、ね」


「それ」


「まじそれ」


 車両には三人のほかに、数人が彼女たちを避けるように遠くに座っているだけだった。明日は平日。となれば、こうして人が少ないのも頷けた。


「さいっこうだった!」


 SNSで出会った友人が、今日いちばんの大きな声で叫んだ。抑えていた何かが、少しずつ漏れ出していた何かが、ついに堰を切って溢れ出したのだ。共鳴するように、地元の友人が高い声を上げた。


「まじでさいっこうだった!」


 遠くの席の男がスマホの画面をじっと見つめて、まるで興味がないかのようにぐったりと角の席にからだを投げ出していた。

 変な体の向きだった。

 スマホで顔を隠すようにして、へらへらと笑っているようだった。全身はこちらを向いているが、彼女たちを見ているわけではないらしい。画面に見入り、いやらしい笑みを浮かべていた。


「さいっこう、さいっこうだよぉううううう」


 女は視界の端に映る男のことなど気にかけなかった。いや、気にかけないようにした。その男に、たった今感じている興奮や歓喜を害されると思った。

 女は二人に続いて大声を張り上げた。

 友人たちへの同意を示すために、推しへの忠誠を宣言するために。

 そして泣いた。飲んだ。電車に乗っていることなど忘れた。二人と別れて、帰り道のコンビニで追加の酎ハイを買った。酩酊し、前後不覚となった。目を覚ました頃にはすでに翌日、部屋のベッドに横たわっていた。



『やばいよアップされてる』


 最初はバズる程度だった。SNS経由の友人からDMが届き、リンクを開くと、電車内で酒を飲み騒ぐ自分と友人の二人が映っているのを見出した。

 すぐに炎上した。

 SNS経由の友人は『ごめん、離脱する』という言葉を残して消えた。離脱がファンを、という意味なのか、友人を、という意味なのか、人生から、という意味なのか、女にはわからなかった。

 地元の友人は『身バレはきついから切る。すまぬ』とショートメールで送ってきてから、一切の連絡はなくなった。

 女にとって友人二人との絶縁以上に辛かったのが、SNS上のファン同士のコミュニティから完全に排除されたことだった。

 制裁が必要だと判断されたのだ。「〜のファンは品が悪い」とみなされるのを嫌った人たちが一斉に活動を始めた。


 炎上した動画の大半は、女が最後に電車に一人残され、そこで声を上げながら泣く姿だったからだ。友人たちは最初に数分、わずかに映っているだけだった。常に女にフォーカスされていた。


 ——どうして私なの?


 完全な孤独だ。

 宇宙にぽんと放り出されたような気分だった。なんて、そんな経験は一度もないのに、静かな部屋でそんな自分を想像した。

 ISSから弾き飛ばされ、第三宇宙速度で太陽系の外へと永遠の旅行へ赴く。行き先もなく、自らの排泄物と太陽光だけをエネルギーにして循環しながら、老いて死ぬまでなにも起こらず、寝て、起きて、寝て、起きての繰り返しの生。

 それがこれから先、五十年以上も続く。だらだらと、変化なく、退屈に、つまらない時間が、どうでもいい時間が、無意味な時間が。


 ——なら、今日で終わりでも。


 炎上ひとつで人生がこうも様変わりするとは思わなかった。

 今までどこで生きていた。女は、SNSで生き、たまに現実で生きた。中間的な地点として友人がいた。

 今は現実しか残されていなかった。暗い、単調な、長く続く現実。


 ——暗すぎる。


 SNSは続けられなくなった。推しのグッズに囲まれながら、それらを通じて心を通わせる人々がいなくなった。

 女は、なにを頼りに生きればいいのかわからない。光がない。希望がない。そこには、なにもない宇宙が、茫漠とした星々の死が、孤独な煌めきだけがあった。


「だれか、助けてよ。夢が終わっちゃったよ。声を聞かせてよ……」


 と、暗いなかでテレビに語りかけた。ピロンとテレビが鳴った。


「わかりました。『夢の終わり』を再生します」


 テレビから推しの声が聞こえた。涙で視界が閉ざされていても、暗い部屋でそこだけが光っていることがわかった。

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