きぬさめ。
どれほど水音を聞いていたのだろうか。
水音のミュージックの波紋の淵に佇んでいた私はようやく現世に意識を差し戻して、そして瞼を開く。張り付いたような瞼をゆっくりと開けると、夜だというのに周りの光は眩しい。
涙の水膜が周囲の明かりをぼやかして、まるで、ステンドグラスに降り注ぐ光のように光に彩りを添えている。
それもとっても、とっても、優しい色彩だった。
しばらくそれを眺め、そしてそれを拭うと視界は晴れて、元の世界へとようやく私は辿り着いたのだった。
目の前で先に目を閉じた三剣の姿は目の前にはなかった。
その姿は渡り切った先の近くにあるベンチで、あの柔らかい微笑みを浮かべて座っていた。側には少し湯気の出ている缶珈琲が2つ置かれているのが目に入る。思わず慌ててしまって対岸へと急ごうとすると、彼が首を振った。
そして両方のポケットにそれを入れると、立ち上がってその手でゆっくり来るようにジェスチャーをした。
声は出さず、ただ、優しく、ゆっくり、ゆっくりと手で示した。
ああ、そういうことか。
ゆっくりと一歩を踏み出そうとして私はようやくその意味を理解できた。
体が冷え切っていた。
鴨川の上を吹く風が私から熱を奪うように耳元にフォゥと音を鳴らして抜けていく。その音に少し身震いしてから、ゆっくり、ゆっくり、子供のように、一歩、また一歩、と飛び石の上を歩み進めて、私は川におちぬように岸辺まで辿り着いた。
私が歩みを進めている間に、対岸の飛び石の間近に寄った彼が、最後の一歩を渡り終えた私を安堵の表情で見ていた。
「冷えたでしょう、これ、どちらが好みです?」
そう言って缶珈琲が目の前に差し出された。
オジサン柄のプリントされた無糖の缶とミュシャの絵のプリントされた微糖の缶。
「あ、ありがとう・・・。えっと、じゃぁ、微糖で・・・。」
そうお礼を言って受け取った缶はほどよく暖かくて、冷え切って悴んだ両手の指先をじわりじわりと温めてゆく。
「ゆっくりと、どうぞ、今は暖まってください」
「はい・・・」
その言葉に甘えてしばらくその暖かさを握っていると、ふと、缶珈琲の温かみをこんなに感じた事もなかったなと思い浮かんだ。普段であればどこでも買えるありふれた飲み物、好んで買う事もしなかったけれど、この暖かさが愛おしく、また、ありがたかった。
これを買ってきてくれた彼はプルタブを起こして缶を開けた。クツッと缶詰を開けた土時のような音が聞こえて、そして珈琲の香りがふわりと漂う。
「こういう時の缶珈琲は美味いんですよ」
そう言って彼が口元へと運ぶのを見て、私もようやく感覚が戻りつつある指先でプルタブを捻った。先程の香りとは違う、少し甘さの薫る珈琲の香りがして私の固まった体をさらに緩める。
「美味い」
彼はそう言って川を見ている。私も同じように口元へと運ぶと、暖かい柔らかい甘味と程よい酸味と苦味が口に中に広がり、飲み込むとその暖かさを喉から体内へと流れて暖めていく。
「おいしい・・・」
缶珈琲と軽く見ていたことを恥じたほど、味と薫を豊かだった。飲み終えてほぅっと一息つくと白息があたりを漂って消えていった。
「落ち着かれましたか?」
彼が微笑みを浮かべてこちらを見た。
「あ・・・はい」
なんと答えて良いのか戸惑った。結局、なんのこともない言葉で落ち着いてしまう。
「ここ迄はとても話せそうにない表情でしたから、今は少しは良さそうです」
「そ、そんなに酷かったですか・・・」
「ええ、それはもう、話しかけるのを躊躇うほどでしたが、声をかけて結果は良かったと思ってます」
「それは・・・迷惑をかけました・・・」
頭を下げようとしてそれを手で止められた。
「迷惑なんて思ってませんよ。気にしないでください。あ、ひと雨来るかなぁ」
「え?」
空を見上げた彼がそういうと、細い雨粒が私の頬に触れた。
「絹雨かな・・・。川沿いはまずいですね。一旦、堤防の上まで上がりましょう。確か近くにコンビニがありましたから、まずは、そこへ行きましょうか」
頷くと2人で足速にその場から離れて歩いていく。歩みを進めるごとに降雨が増してゆくが、その雨は強く降ることはなかった。
絹糸のように、柔らかく、細い線のような雨糸が空から漂うように落ちてくる、そして街路灯の光を反射して白い線となり、光り輝きながらあたりを濡らしていった。
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