第四話 妹アイディア!

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 どうしてでしょう。

 どうして人は、人となかよくなることもあれば、人をきずつけることもあるのでしょう。

 それは、ある日のことでした。

 おとうさんは「この時期は『梅雨』といって、雨がよく降るから傘を持って行きなさい」といっていたので、わたしはいわれたとおり、かさをもってがくえんにいきました。でも、けっきょく、雨はふらずにじゅぎょうがおわって、いまは、かえりみちです。

 おとうさんのおしえてくれたことがはずれるなんて、とてもめずらしいことだなあ、とおもいながらあるいていたら、まえのほうから、だれかが、はしってくるのが見えました。

 男の子? それとも女の子? ……お年は、おなじくらいかな?

 とおくからだと、よくわからなかったのでしたが、ちかづくにつれ、うっすらと女の子なのではないかとおもいました。その子は、こわがって、なにかからにげているような、だけど、それをひっしにかくすような、かざりもののようなするどいしせんを、うしろ ――― わたしから見たら、その女の子のさらにおくのほうへとおくります。

 わたしは、すぐになにがおこっているのかは、わかりませんでした。しかしそのあとに、あの子のすぐうしろをおいかけてくる男の子を見て、はっときづきました。

 にげているような、ではなく、ほんとうににげているのです。

「おい、まてよ!」

「う、うるさい! おいかけてくるな!」

 なぜおいかけられているのか、そしていまのことばづかいから、にげているその子が、またも男の子なのか、女の子なのか、わからなくなってきましたが、ともかくその子がこまっていることにはまちがいないでしょう。

 わたしは、その子が、わたしとすれちがうタイミングで、あいだに、わりこみます。

 やめて。この子がいやがっているよ?

 そしてわたしは、この子をかばうように、りょうてをひろげ、おいかけてきていた男の子をとおせんぼして、そういいました。

「な、なんだよ、おまえ」

 おいかけていた男の子は、わたしをにらんでいいました。

 なに、ってきかれると、あいさつにこまってしまうけど……。この子がこまっているみたいだったから、声をかけたの。

 わたしはこたえます。

「困っている人には、手を差し伸べてあげなさい」 ――― おとうさんのことばです。

『手をさしのべる』って、なにをすればいいの? と、きくと「助けてあげることだよ」と、いわれました。つまりいま、わたしがこうしていることこそ『手をさしのべる』ということなのでしょうか。

「こ、こまってないよ、なあ『いち』?」

 男の子はあわてたようすで、わたしのうしろにひかえていた子 ――― 『いちよ』…………くん? ちゃん? ――― にそうききます。

 しかし。

「いいや ――― めいわくだ。もうわたしにつきまとわないでくれ!」

 その子は、男の子をつきはなすようにそういいました。

「なんで……、なんでなんだよ。ぼ、ぼくはこんなに、一夜のことが、大すきなのに……」

 すると、男の子は、かなしそうなかおをして、あとずさりしていきます。

 いまのおはなしからだいたいのことはわかりました。

 先ず、わたしのうしろにひかえている子は、女の子で『一夜』ちゃん、という名まえ。そして、この男の子は一夜ちゃんのことがすきだけど、一夜ちゃんは、この男の子をあまりよくおもっていない。そしてついに、そのおもいにがまんできなくなったふたりは、それぞれにげてはおいかけ、にげられてはおいかけられ、をくりかえしていた ――― そんなところでしょう。

「 ――― もういい」

 と。

 わたしがあたまの中で、いまおこっていることのせいりをしていたら、男の子がなにかを、つぶやきました。

「ぼくだけが、つらい気もちになるなんていやだから。だから」

 おまえもつらい気もちにさせてやる。

 わたしは、たしかに男の子のことばをききました。そして、見ました。

 男の子がその右手に、こうさくようのハサミをもって、はしってくるのを。

 それを見たわたしは、気がついたらじぶんの手にもっていたかさを、まえにひろげていました。

「えっ⁉」

 ざくっ。

 ハサミは、かさをつらぬいただけにおわり、きゅうにあらわれたそれに、男の子はおどろいていました。

 えいっ!

 わたしはそのまま、力いっぱいかさをおします。

「うわっ!」

 すると、たいせいをくずした男の子は、そのばでおもいきりしりもちをつきました。

 いまだよ! にげよう!

 わたしは、うしろの女の子にいいます。

「あ、ああ ――― って、おい、ちょっと⁉」

 女の子のへんじをきくのとどうじに、わたしは女の子の手をひいて、はしりだしました。


「はあ……、はあ……、なんとか……、にげきれたようだな……」

 はあ……、はあ……、そう……、みたい、だね……。

 わたしたちは、いきをあらくしながら、うしろをたしかめます。

 たしかに、さっきの男の子のすがたはありません。

「どうして……、たすけたんだ?」

 え? だって、こまっていそうで『たすけて』って目をしてたから。

 わたしはこたえます。

 ほんとうにこまっていそうに見えたし、たすけてほしそうな目をしていました。

「……わたしはたすけてほしいなんていっていない」

 こまっていたのは、ちがうっていわないんだ。

「うっ」

 女の子は、わたしのことばにたいして「ごほん」と、わざとらしいせきばらいをひとつして、いいました。

「い、いいか。わたしはあいつにつきまとわれるのを、たしかにめいわくだとおもっていたが、それにかかわってこようとする『ぶがいしゃ』は、もっとめいわくだ」

『ぶがいしゃ』?

「かんけいのないやつってことだ。おまえは、わたしたちにとって、かんけいのないやつだろう。だから、もうわたしといっしょにいるな。どこかへいってくれ」

 めいわくだ ――― 女の子は、かさねてそういいました。

 めいわく、か。

「自分では良いことをしたと思っていても、他の人からしたら必ずしも、それが良いことであるとは限らない」 ――― これはおとうさんではなく、おかあさんがいっていたことばです。

 おかあさんは、たまにむずかしいことをつぶやきます。これは、その中のうちのひとつです。そのことばのいみは、わたしにはやっぱりむずかしくて、わからなかったのですが、いまようやくすこしわかったような気がしました。

 そっか……、ごめんね。よけいなことをしちゃって。

「えっ? あ、ああ。わかってくれたならいいんだ」

 わたしは、とてもかなしいきもちになって、かたをおとします。

「い、いや、べつにめいわくといってもだな、あの、その……」

 …………?

「…………あり、がとう。たすかったよ」

 ……うん!

 わたしは、この子のかんがえていることは、よくわからなかったけど、ありがとうといわれて、とてもうれしかったです。

 あ、そういえば。

 まだわたし、名まえをいってなかったね。

 はじめましての人には、じこしょうかいをわすれてはいけません。

 そうおもってのことだったのですが。

「いや、いい。わたし、おまえのこと、しってるからさ」

 え?

「だから、わたしの名まえだけでいい。わたしは『佐々ささなが 一夜』。よく男にまちがわれるが、女だ ――― まあ、おまえのばあいは、さきほどのことがあるから、いわなくても、わかっていただろうが」

 う、うん。よろしくね、一夜ちゃん。

 わかっていました。

 でもわからないことがあります。

 どうして……、わたしのこと、しってるの?

「それは、おまえが『ゆうめい』だからだ」

 よいいみでも、わるいいみでも、な。

 一夜ちゃんは、いおうかどうか、まようようなかおで、けれども、はっきりといいました。

「けいだいがくえんいちのびしょうじょでありながら、なぜかいろんなやつ ――― とくに男からいじめられている、と」

 

祝 2 也


 男には女の気持ちがわからない、という。

 ぼくは、それを耳にしたとき、とても的を射た表現だと思った。まあ基本的に妹たちと妹奈、それに縞依くらいの女子としか、ろくにコミュニケーションをとってこなかったぼくなので、あくまで個人の見解によるもの、というやつなのだがしかし、裏を返せば、ぼくが彼女たちとしか、ろくにコミュニケーションをとっていなかったからこそ、この言葉は却って説得力を持つ、といっても良いかもしれない。なぜなら、ごく少数の女子としか関わりのないぼくが、その女子たち全員の気持ちを、わからないからである。

 いつも嘘ばかりついてぼくを困らせる妹奈の気持ちも、ぼくを虐めて楽しそうにしている兎怜未の気持ちも、そもそもすべてがわからない未千代と縞依の気持ちも ――― そして。

 いつも何も考えていなさそうな菜流未の気持ちでさえも。

 笹久世 菜流未は、何を考えているのだろう。

 笹久世 菜流未は、何を思って、今日を生きているのだろう。

 笹久世 菜流未は、果たして笹久世 祝也のことをどう想っているのだろう……。

 さて、笹久世 菜流未という二番目の妹の話にそれではいよいよ本格的に入っていこうと思う。

 冒頭でも言ったように、奴の恋愛沙汰の話である。さらに、その後に言ったように、恋愛というものは概ね気持ちにるものがある。

 そして、ぼくは妹の気持ちをわかっていない ―――

 これは、そういう物語であり、そういう幸せな終わりハッピーエンドだ。


田 3 中

 

 畝枝野 凪くんは笹久世 菜流未さんのことが好きである。

 この噂が流れ始めたのは、先程、僕が言ったように、約二週間前のこと。

 とはいえ当時この件については、あくまで噂であり、信憑性が無く、信じるに値せず、悪く言うなら嘘くさく、わかりやすく言うなら『はっきりして』いなかった。しかし、問題はその噂の渦中にいる、ふたりの人物だった。

 畝枝野 凪と笹久世 菜流未。

 ともに啓舞学園の初等部から高等部のすべてにおいての人気者で、年下からは敬われ、同級生からは憧れられ、年上からは持てはやされる人物だった。

 そんなふたりの噂話なんて ――― どういうことになるのか、想像にかたくないよね。

 いかに、その噂に信憑性が無くとも、信じるに値しなくとも、嘘くさくとも、はっきりしなくとも、それはすべて度外視されて、爆発的に広まった。

 そして、そんな噂を聞きつけた人たちから ――― より具体的に言うなら、奔る閃光と呼ばれるさすけに、ふたりを尊敬している人たちから、ふたりをくっつけて欲しい、耀く鋼と呼ばれるごーどんに、ふたりの人気を妬む人たちから、ふたりの仲を引き裂いて欲しい、究極アルティメット情報通インテリジェンスと呼ばれる僕に、冷静な人たちから、噂の真偽を調査して欲しい ――― と、同時に、しかも大量に依頼された。

 無論、究極アルティメット情報通インテリジェンスと名乗り、そう呼ばれる僕だ。件の真偽は既に把握済みだったし、ふたりも、奔る閃光、耀く鋼の名に恥じることなく、それらの依頼をこなすこと自体は簡単だった。しかし、これも先程言ったのだけど、話が話だ。恋愛沙汰ともなると、それは、本人たちで解決する他ないからね。『他ない』というと、少し言い過ぎかもしれないのだけど、件の本人たちは、当時、僕たちに特に何かをして欲しい、と依頼してこなかったわけだし、僕たちの出した結論は、件のことについて、ひと先ず放置しておこう、というものに落ち着いた。

 そして、

 ――― そう。後は、僕が今ふたりに伝えた通りさ。

 噂は本当どころか、告白の手伝いを本人から依頼されたというわけだ。


祝 4 也


 がちゃ。

 玄関の戸が開く。

「……よう、遅かったな」

 ぼくは、腕組をして、奴が帰ってくるのを待っていた。

 仁王立ちで、である。

「……その様子じゃ、どうやら『はっきりした』みたいだな」

 菜流未。

 ぼくは言いながら、いつもより遅く帰ってきた次女の菜流未を見下ろす。

「雨、降ってるのか。まあ、この時期は、何かと天候が急変しやすいからな」 

 見ると、菜流未は、自身の制服をぐしょぐしょに濡らしていた。

 水色だった。

 てかこいつブラとか付けてんのかよ意味なくね ―――

「ごふっ」

 無言で殴られた。

 おたまで。

「おまっ……、いきなり何しやがる!」

「ちょっと悪意で手が滑っちゃって」

「悪意で、かよ」

「悪気はないよ。むしろ、悪い気を放っていたのは、シュク兄のほうじゃないのかな? ん?」

「悪い気など放っていない。むしろおれはお前の身、否、胸を案じてだな ――― 」

 無言で殴られた。

 麵棒で。

「おいわかったシュク兄が悪かった謝るから殴打だけはやめていやマジで死ぬ頭は駄目だってイタイイタイイタイイタイ」

 ていうかぼくは、こいつと戯れるために、ましてや麺棒で叩かれるために、ここでこいつを待っていたわけじゃない(そういうプレイは、兎怜未とだけで十分である)。

 ぼくは一時退却の意味も含め、菜流未のために、バスタオルと洗濯物を入れる籠を取ってきてやる。

「ほれ、これでとりあえず身体拭けよ。そんで、着てるもんはここに入れろ。今から急いで洗濯してドライヤーでも当てておけば、乾くだろ」

 ぼくは、バスタオルを菜流未に向かって放り投げ、籠を奴の足元に置いてやる。

「…………」

 しかし、折角ぼくが気を利かせてやったというのに、何を考えているのか、菜流未はその場に突っ立ったままで、一向に行動しようとしない ――― 放り投げたバスタオルが、ばさりと菜流未の頭を覆うように被さっている。

「…………ちっ。ったくよ」

 ぼくは、放り投げ、菜流未の頭に被さったバスタオルを、再度自分の手に取り、菜流未の頭を拭いてやる。

「…………畝枝野って奴のことだろ?」

 ぼくは手を休めずに、そっと呟くように訊いた。

 すると案の定、菜流未は驚いたように、突然顔を上げる。

「その情報、何処で……?」

「おれのクラスメイトに、究極アルティメット情報通インテリジェンスとかって呼ばれている奴がいてな。それなりに有名らしいから、お前も、その呼び名くらいは聞いたことがあるかもしれんが ――― まあ、そいつがご丁寧に、おれの机でべちゃくちゃしゃべってくれちゃってな」

 正直に言って、あの三人組から聞くまでは、本当に知らなかった。

 田中たちは、啓舞学園の生徒ならみんな知っている、みたいなことを宣っていたが、ぼくは知らなかった。

 なぜ、と訊かれてもわからない。

 未千代の授業を受けること(とは言っても、ほぼ眠っていたのだが)で頭がいっぱいだったからか、はたまたぼくが啓舞学園の生徒であるとは、とても言える状態ではないからか……、多分、その辺りの理由にはなってくると思うが。

 しかし今日、遂にそれを知ることが出来た。

 それが、菜流未を取り巻く恋愛沙汰の話であることと、恐らく菜流未の悩みというやつが、その件と繋がっていることを、知ることが出来た。

「とはいえ、それより先のことは、よく知らないんだけどな」

「そうなんだ……」

「……もう、告白されたのか?」

「こ、ここっこ、こっこっ、告白⁉」

 うわーなんちゅーウブな反応。

 にわとりもびっくりだよ。

「あたし、本当に告白、されちゃうのかな?」

 この様子じゃ、それはまだみたいだな。まあ田中の口振りからして、畝枝野 凪から告白の依頼を受けたのが今日なのだから、訊いておいてそれはないとぼくも思っていたが。

「そりゃあ、な。今までは、畝枝野って奴がお前を好きだという噂が蔓延っていただけだから、『はっきりしていなかった』けど、遂にそいつが行動に出るって言ってるんだ。わざわざ訊くこともないだろ」

 この件は『はっきりした』んだからよ、とぼく。

「そして『はっきりした』ところで、おれはお前の相談を聞くことになっていたよな」

 ぼくは、とりあえずひと通り菜流未の頭を拭き終わったところで、バスタオルを籠に入れる。

「ま、それよりも今は身体を温めるほうが先だろうな」

 ぼくは「風呂を沸かしてくるから、さっさと制服脱いじゃえよ」と菜流未に伝え、浴室へ向かった。


祝 5 也


 ………………で。

 なぜぼくは、またも菜流未と一緒にお風呂に入っているのだ?

 ちゃぽん。

「いやあ……、その、ほら、あまり聞かれたくない話だからさ」

「気持ちはわかるが、別に赤の他人が聞いてるわけじゃないだろ。ここには笹久世家の奴しかいないんだし」

 もっと言うなら、夕刻である現在においては、この家には、他に兎怜未しかいない。

 兎怜未さん、今は自室にいるんだろうか。ぼくと菜流未の入浴に気付いて、面倒な気を起こさなければ良いのだが……。

 はあ、とぼくは溜息を漏らす。そして、ふと見慣れぬ橙色のシャンプーとトリートメント、それに薄緑色のボディソープを見つけた。さては、縞依のやつ。また無駄に高いものを買ったな。後で説教してやる ――― って、出来ないんだった。

 それより今は、菜流未である。

「それに今度の話も、前回同様に、もうみんなに知れ渡ってるんじゃないのか?」

「それはないよ」

 ほう、えらくはっきりとした物言いだな。

 はっきりというか、きっぱりとした物言いだな。

「根拠は?」

「妹の勘」

「女の勘ではないのか。というか、説得力の欠片もねえ」

 女の勘程、滅茶苦茶な根拠はないだろう ――― ましてや、妹の勘など。

 ところで、女の勘というのは、いつ頃に生まれた言葉なのだろう ――― そういうことを考えると、この言葉は、その言葉は、あの言葉は、どの言葉は、と、キリが無くなってしまうわけだが、しかし最近は、なんだか不可解なことばかりを考察している気がするのでたまには、というより久しぶりに、一般論というやつに、意見をしたい気分になった。

 しかし、ぼくはすぐにやめようと思った。

 今、ぼくの目の前には、前回と同様、ぼくの身体に身を預けている笹久世 菜流未がいるわけで、『彼女』がいるわけではない。ぼくの一般論への反抗を、的確な意見を使って、説き伏せにかかってくる、『彼女』がいるわけではない。

『彼女』ではなく、菜流未がいるわけだ。

 つまり、馬鹿がいるわけだ。

 つまりつまり、馬鹿にはぼくの反抗論に、ついていけないだろうというわけだ。

 というわけで、早々に話を戻す。

「まあでも、今回に限っては、恐らくお前のその妹の勘というやつは、当たっていると言って良いだろうな」

「どうして?」

「言っていて思い出したんだが、その話をしていたのが、さっき言ったクラスメイトとその仲間ふたりしかいなかったんだ。仮に、みんなに知れ渡っているのだとしたら、学園中の人が噂していてもおかしくないのに、その様子は一切無かった」

 前回の噂と違って、意識的に他の人たちの会話も聞いて回っていたのだが、そういった噂をしていたグループは田中らを除いて、ひとつも無かった。

「相談、するんだろ? おれに」

 もう風呂ここまで連れ込まれてしまったら、物はついでなので、ここは、菜流未の要求通り、風呂ここで話を聞いてしまったほうが、手っ取り早いだろう。

「う、うん……」

 菜流未はぼくの足と足の間で、もじもじと居心地の悪そうな様子で、歯切れ悪く言う ――― 出来ればぼくも、現在進行形で居心地が悪いので、早々に離れて欲しいのだが。

「あたし、どうすればいいのかな?」

「……またえらく回答しにくい、漠然とした質問の仕方だな」

 どうすればいい、と訊かれてもねえ。

「お前には、妹奈の件で借りがあるし、こんな状態じゃなかったとしても、お前の悩みについては、解決してやりたい気持ちはあるんだが、如何せん、こういう件については、先ずお前の気持ちというのが、はっきりしていないと、おれとしても何も言えない」

「あたしの、気持ち?」

「そうだ」

 笹久世 菜流未は、畝枝野 凪のことが好きなのか。

「そんなの……、わからないよ」

「ふむ」

 気持ち、というものは、そういうものだよな。

 当時のぼくも、妹奈のことは好きではないと、口では言っていたものの、蓋を開けてみれば、今のような関係になっているわけだし。気持ちがわからないということは、一種の絶望だ、なんていう啖呵たんかを切ったぼくなわけだが、それはつまり、この世の人間殆どが絶望しているようなものである。

 だが……。

「うぅ……」

 菜流未の様子を窺う限り……、絶望というか、普通に何かとても思い悩んでいるようだ。

 いつもは何も考えていない菜流未のそんな姿を目の当たりにしたぼくは、

「……ははっ」

 つい、笑ってしまう。

「な、何よ。悩んでるあたしを見るのがそんなに愉快なの?」

 菜流未は心外だと言わんばかりに、横目でぼくを睨む。

「いやいや、そうじゃない。お前、一応人気者で、みんなの悩み事や相談事も聞いてあげてるんだよな?」

「『一応』って……、まあ、ね」

「そういう中には、勿論恋愛絡みの話もあって、それをまあ良いとは言い難いような適当なアドバイスで、一応解決してきてはいたみたいだが」

「どんだけ『一応』って言うのよ……。事実だから否定できないけど」

「自分がいざそういう局面に立たされると、てんで駄目になるんだな、お前。何だ、菜流未にも可愛らしいとこがあるじゃんか、って思ったら笑えてきちまって」

「か、可愛い⁉」

 横目だった菜流未が、ざばっ、と突然真っ赤になった顔をこちらに向けてきた ――― そこに反応するのか。

「い、いきなり、そういうことを言うのは………………、ずっこいよ」

 なぜ方言。

『ずっこい』って、どんな意味だっけ?

 あと、方言を使うキャラが、可愛く見えるみたいな風潮を、ぼくは決して良しとしない。

 大体、ぼくたちのいるこの町は、標準語だったと思うのだが。

「大事な、話で、茶化すのは、駄目」

 途切れ途切れ、といった感じで菜流未が言う。

「別に、茶化しているつもりはないんだがなあ。正確には『茶化す』って行為は『嘘をつく』の遠い親戚みたいなものだから、おれには人を茶化すことが困難である、と言ったほうが正しい」

「人を茶化すことすらままならないんだ、あたしのにいって」

「そう。だからさっきのは、紛れもなく本当で本音だぜ」

「シュク兄は何なの? あたしを攻略するつもりなの?」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

「何で何言ってるかわかんないのよ」

 あたしは、シュク兄とコントするために、こうして一緒にお風呂に入ってるんじゃないんだけど、と菜流未。ぼくだってそうだわ。コントするために、いい年した兄妹ふたりが一緒に風呂に入るって、普通に狂気の沙汰である。

「でも……、確かにそうかも」

 菜流未は言う。

「と、言うと?」

「あたし、今、何もわからないの。自分が何を言っているのかとか、この先、何をすればいいのかとか、畝枝野センパイの告白を受け入れればいいのか、断ればいいのかとか」

 でも、これだけは言える。

「こんなわけのわからない気持ち ――― 初めて」

「そう、か……」

 ぼくは、何も良い台詞が思いつかず、結局そう呟いて、俯いた。ぼくとしても、ここまで思いつめた菜流未を見るのは初めてであった。

 しかし、菜流未がこうなってしまうのも無理はないと、ぼくは思い直す。

 色恋沙汰の話になると、人間というものは、どうも浮足立ってしまうものだ ――― あの頃までそういう話とは無縁で、むしろ周りから孤立気味であったぼくは勿論のこと、同じくそういう話とは無縁でありながらも、ぼくと違って、沢山の人から慕われ、羨望の眼差しを一身に受けている菜流未ですら、その例に漏れていない。

 何処かの本で『恋は人を駄目にする』という一節を見たことがあるが、良く言ったものである。

 ただでさえダメダメなぼくたちを、これ以上駄目にしないでくれよ。

「だから、ね? シュク兄」

「な、何だ」

 菜流未は、ひとつ大きく深呼吸(或いは溜息)をしてから、言った。

「あたし、どうすればいいのかなって」

 結局、相談の内容が、振出しに戻った。

 うーん。

 …………。

 どうすればいいか ――― ではなく。

「お前はどうしたいんだ」

「どう、したい」

「ああ。どうするべきかを考えるんじゃない。お前はどうしたいのか ――― それを考えるんだ」

「…………」

 訊いておいてあれなのだが、今の菜流未の調子では、この質問も『わからない』と言い出しそうで(というか『お前の気持ちはどうなんだ』という質問と、意味合い的には大差ない。ぼくとしてもかなり難しい話で、どう質問すれば、菜流未にとって良い方向に導けるかわからず、迷走していると思ってくれて構わない)、この無意味な循環を脱するのは、このまま困難を極めるかと思ったのだが。

「シュク兄は……、あたしにどうなって欲しい?」

「……は?」

「あたしがどうしたいのかを考えろって、シュク兄言ったじゃない。だから今、咄嗟に思い浮かんだことを言ってみたんだけど」

 わからない。

 なぜ考えた結果が、兄に自分がどうなって欲しいか訊くことになったのだ。

 …………ふむ。しかし。

 ぼくは、菜流未が自分の恋愛相談に乗ってくれた際のことを思い出す。

 こいつはあの時の最後、自分の思いを、我儘を、ぼくにぶつけてきた。

 

「あたしは……、シュク兄が誰かと付き合っちゃうのは、嫌だなって思うの」

 

 結局あの時、なぜ菜流未があんなことを言ったのか、それは現在もわからないままだったのだが、もしかしたら、当時の菜流未は、アドバイスだけではなく、個人の意見も取り入れることで、解決の糸口を拡げようとしたのかもしれない、とたった今思い至る。そこまで考えていたとしたら、こいつのことを、もう二度と馬鹿だと言えないじゃないか。というかこいつ、ひょっとしたら、滅茶苦茶、頭がよろしいんじゃあないだろうか。

 だとしたら、である。

 立場が逆転しているといえる今この状況で、ぼくが出来ることと言えば、それを今度はぼくが、菜流未にしてあげることなのではないだろうか。

 しかし ――― それがわかったところで、ぼくは菜流未のそれに即答することが出来ない。

「え……、シュク兄?」

「身体、洗うから」

 ぼくは自分に寄り掛かったままであった菜流未をどかして、立ち上がる。ざばーん、とお湯が踊るように波打つ。

 ぼくは、菜流未にどうなって欲しいのか。

 ……まあ、それについては、以前に少し意見している。

 二週間程前に、菜流未と一緒に風呂に入った際、ぼくは菜流未に ――― というか妹に彼氏ができることを拒むような旨を、告げていた。

 我が妹を、何処の馬の骨かもわからぬ輩に渡すなど、出来るわけが無かろう、と。

 しかし、そのような暴論を藪から棒に振り回すことが、果たして妹の ――― 菜流未のためになるだろうか。

 それが果たして、菜流未の求めている意見なのだろうか。

 否だ。

 あの時、ぼくの悩みに、真剣に答えてくれた菜流未 ――― ぼくは、その恩返しを、彼女にしなければいけない。

 それがそんな粗末なもので良い筈がない。

「菜流未」

「え?」

 だからぼくは。

「少し、時間をくれないか」

 菜流未への恩返しの準備を、始めることにしたのだった。


祝 6 也

 

 がらっ。

 突然、浴室のスライド式の扉が開けられた。

「祝也兄さん。それに菜流未姉さん。なにふたりでコソコソと、そしてイチャイチャとお風呂に入っているの」

 空気の読めない奴が現れた。

 空気の読めない妹が現れた。

 笹久世 兎怜未。

 いつもは、兎の耳のように見える、白いリボンで、やたら長い銀髪ツインテールを結っている兎怜未だが、今はそれが解かれており、代わりに透き通るように白い裸体が露わになっていた。

 白いリボンに銀髪に白い肌。

 もしも兎怜未をモデルに絵を描くとしたら、かなりのレベルを要求されるような気がした。

 唯一、アクセントになるのは、大きな血色の瞳くらいだ ――― じゃなくて。

「お前、何だその恰好」

「兎怜未もお風呂入る」

「駄目だ」

「何で」

「狭いから」

「兎怜未、そんな場所をとる程大きくない」

「…………」

 ちゃぽーん。

 はあ。

 何なのだろう。

 何が悲しくて、妹ふたりと風呂に入らにゃならんのだ。

「で、祝也兄さん」

 ぼくが、ひと通り身体を洗い終わり、菜流未と交代し、菜流未も身体を洗い終え、そそくさと浴室から退場してしまった後 ――― だから思いの外三人での入浴は短かった ――― 湯船で、暖かそうに真っ白な肌を所々桃色に染めた兎怜未が、ぼくに話しかけてきた。

「兎怜未のさっきの質問、まだ答えてもらっていないのだけど」

「そのことなら別にコソコソもイチャイチャもしていない。ただ、菜流未と小気味の良いトークを交わしていただけだ」

「前半は本当のようだけど、後半は完全に嘘だね」

 なぜバレた。

「後半になってから、祝也兄さんがぶるぶる震えて、お湯が、超音波並みの振動数を誇っていたから」

「マジすか」

「ま、兎怜未には言えない話なんでしょ、どうせ」

「…………」

「…………祝也、兄さん?」

 ふむ。

 ぼくは考える。

 ……兎怜未から、助言をもらうのはどうだろうか。

 いや、先程菜流未への恩返しの準備を始めるとは言ってみたものの、実際何をすれば良いのか、何から準備すれば良いのか、全くもってわからないのだ。単に、ぼくの頭の回転が絶望的なのだと言われてしまうと、それはそうだと言わざるを得ないのだが、対照的に頭も、その回転も良い兎怜未なら、何かしらの突破口を開いてくれるかもしれない。しかしそれを、菜流未の色恋沙汰である、と丸々兎怜未に言ってしまうのも、やはり憚られる ――― 大体、他の人には聞かれたくないと、あいつ自身が言っていたじゃないか。だからぼくは菜流未との久しぶりでもない入浴を楽しみ、もとい強いられ、成り行きで兎怜未とも入浴を楽しみ、もとい強いられているのではないか。

 いや別に兎怜未に至っては、強いられてはいないが。多分。

「……ねえってば、クソ豚兄さん」

「はい! ありがとうございます!」

「良かった。ちゃんと反応してくれた」

「おいお前。今、実の兄であるおれを何て呼んだ?」

「クソ豚兄さん」

「ありがとうございます ――― じゃなくて!」

 ぼくは、握り拳を作って、兎怜未のこめかみにそれを当て、グリグリする。

「お前はまだ小学生なんだから、そういう汚い言葉を使っちゃいけません」

「痛い。痛いよ~、祝也兄さん」

 そう言う割に、あまり抵抗しないな ――― 実はあまり痛くないのか?

「別に、今時の小学生なんてこんなものだと思うけど。クソ豚とかセックスとか余裕で話題に出ると思うけど」

「やめてえ! リアルの今時の小学生、というか、教育委員会が動き出してしまいそうなことを、言わないでえ!」

 幾らこの作品が、ごく一部の方しか閲覧していないからと言って、何でも自由に発言していいわけではないのだぞ!

 さておき。

「相談があるんだ、兎怜未」

「菜流未姉さんの恋バナについてでしょ?」

「おお、何だ、お前も知ってるのか ――― って、何で知ってるんだよ⁉」

 恋愛トークというか、色恋沙汰のお話は、しばしば恋バナという括りで纏められるが、何か改めてその単語を聞くと、何処か懐かしく感じる ――― ぼくも齢を取ったものである。というか普通に、久しぶりに聞いた、といった表現のほうが近いかな。

 で、何で知っているんだ?

「何でって言われても……、菜流未姉さんと相手の男の人との噂が学園中に広まっているの、知らないの」

 でしたね。

 すっかり忘れていた。

 告白云々の話は恐らく、本人たちと田中たち、そしてぼくしか知らないだろうが、畝枝野 凪は、笹久世 菜流未のことが好きらしい、という噂自体は、学年問わず ――― 初等部、中等部、高等部問わず、広まっているわけであり、当然それは、学園の生徒のひとりである、兎怜未のところにも、届いたのだろう ――― そして、頭の切れる兎怜未のことだ。ぼくと菜流未が、風呂で何やら話をしているのに気付き、続けてその直後に、ぼくが兎怜未に、相談を持ち掛けたところで、それが菜流未の恋バナについてであると、確信したのだろう。

 まあ、でもうん。そうだな。どちらにしても、誰の話か教えないまま状況説明とか、ぼくには多分無理だったし、それはそれで都合が良かったということにするか。

「よし、知っているなら話は早い ――― 兎怜未。我が三番目の妹よ。おれは一体、どうすればいい?」

「丸投げ過ぎない、流石に」

 兎怜未は、あくまである程度の指針を立てて、予想を立てて発言しただけであって、祝也兄さんと菜流未姉さんが、具体的に何を話していたのかは知らないのだから、先ずはもう少し詳しい話を聞かせてもらえないかな、と兎怜未。

 さしもの兎怜未さんでも、全知全能ではない、ということらしく、ぼくは兎怜未さんに相談するに至った経緯を、ひと通り説明した。

「なるほど……、まさかそこまで話が進んでいたなんて思わなかった。大体、その噂自体兎怜未は嘘だと思っていたし。祝也兄さんたちが、何やらコソコソイチャイチャ話しているのに気付いて、もしかすると噂は本当だったのかも、ってついさっき思ったくらい」

 コソコソイチャイチャ、まだ引っ張るんだな。

 してねっての。

「ま、噂が真実の可能性も勿論ゼロじゃなかったわけだし、兎怜未はそれを、嘘だと丸投げはしなかったけどね」

「嘘だと思いつつも、それで『はい終わり』と片付けもしなかったってところか……、で、丸投げ祝也兄さんが、偉大(嘘)で尊大(嘘)で寛大(嘘)な兎怜未さんに、改めて相談するけれど」

「(嘘)って思ってもいいけど、口に出さないでくれない?」

「特に寛大は大嘘と言ってもいい」

「兎怜未の兄さんは、皮肉を言うこともままならないのね」

「おれは、どうすればいい」

 …………。

 …………。

「……はあ」

 と。

 やれやれ、といった感じで兎怜未が首を振る。

「祝也兄さん。何やら、兎怜未に期待に満ちた視線を送ってきているけど、別に兎怜未が助言できることなんてないよ」

「……え?」

「それよりも祝也兄さん。ううん、兎怜未の下僕の祝也兄さん。今から兎怜未の、綺麗で真っ白な肌に触れることを許してあげるから、兎怜未の身体をそので洗いなさい」

「え、あ、はい…………、え?」

 ぼくは、言われるがまま、湯船から立ち上がって、兎怜未の身体に手をやり ――― え?

 あれ?

 こういう事態に陥った時、即座に対応して突っ込むのがぼくなのだが、果たしてぼくにはそれが出来なかった。

 どうして、出来なかったのか。

 それは、頼りにしていた兎怜未の、そのずば抜けた頭脳を持ってした回答が、思うような結果を導き出してくれなかったからでも、兎怜未がぼくを下僕と罵り、小学四年生である自分の身体を、高校三年生である自分の兄に、手で洗わせようとするという都条令アウトな要求をしてきたからでもない。

 もっと単純な、簡単な、当たり前な理由である。

 ぼやける。

 視界が、白くなっていく。

 元々、浴室が暖かく、白く半透明な湯気で溢れかえってはいるのだが、そういう白さではなく ――― 何というか、湯気だけではなく、浴室の物すべてが白くなっていくような……。

 橙色のシャンプーとトリートメント、薄緑色のボディソープ、そして、自他ともに認める、真っ白な、しかし今は、所々火照った桃色をした兎怜未の肌も白くなっていく。

「祝也、兄さん?」

「あ、れ……」

 立ち上がった筈の身体が、激しく揺れ動くのを感じる。

 そして。

「祝也兄さん!」

 兎怜未のその呼びかけと同時に、ぼくの視界は、白から一転して、黒へと移ろったのだった。

 

夢祝 7 也夢

 

 高校一年、菜流未のアドバイスを受けたその翌日。

「はあ」

 早朝、登校中にて。

 晩夏、つまり、夏の終わりということで、早くも朝は少し涼しい気候へと、移ろいつつあった ――― そんな気候故か、互いの身体を寄せ合うように歩く二匹の猫がいた。

「……仲のよろしいこって」 

 ぼくは、そんな仲睦まじい猫たちの横を追い越すように、早足になる。

 近頃、この国では温暖化の影響なのか、春と秋の期間がえらく短く感じる(というか世界的に、といったほうが正しいのか? ぼくは海外に出たことがないので、実際のところはわからないけれど。妹奈辺りはたとえ海外に行ったことがあろうがなかろうが、「そんな話は知っていて当然のグローバルスタンダードだよ、二重の意味でね」と知識マウントを取ってきそうな話題である)。『晩夏』と言っても、もしかしたらもう秋を通り越して、冬に差し掛かろうとしているんじゃないか、と思わせる気候だ。

「冬、ねえ」


「ふぅ~ん。それはまあ、何とも変な恋だね~」


 こんなことで、まさか昨日のことを再び思い出すとは、自分でも驚いたが、そういえば、『変』という字の部首は、下部分で『ふゆがしら(夂)』というらしい。まあ何と言うかそれは、今のぼくの心象(縞依曰く『変な恋』)としても、決して的外れではないように思う。

 夏のイメージを何となく想像してみると、明るい、快活といったものであるのに対し、冬のイメージは(良い意味では、幻想的や神秘的といったものもあるだろうが)静か、暗いなどのどちらかと言えばネガティブな方向を想起しがちな気がする……、とだけ言うと共感を中々得られないかもしれないが、実際に物語の描写として考えてみると、ぼくの言い分を、多少はわかって頂けるかと思う。小説などの創作物において、登場人物たちが明るく楽しく生活している、といったような展開では夏、シリアスや鬱屈とした展開では冬、といった舞台で描写されることがしばしばあるが、それはやはり、前述した、みんなの季節に関するイメージが、何となく一致しているからなのだろう。

 そしてそれは、ぼくの『変な恋』においても、どうやら例外ではないらしく、リアルな季節は晩夏と言っているように、まだまだ夏ではあるものの、ぼくのこの件に関する、何かが煮え切らないもやもやと、そこに『ふゆがしら』という知識を統合してみるに、こじつけのように思うかもしれないが、なんだか物語の因縁のようなものを感じてしまうのは、当事者であるぼくだけだろうか(ちなみに『夏』という漢字の部首も下部分の『ふゆがしら』らしい。しかし肝心の『冬』はこれまた下部分の『にすい(冫)』……、何だか色々と矛盾を感じる漢字の世界だ)。

 早くこのよくわからない冬が空けて、春になって欲しいものだが、しかしそう簡単にこの季節はめぐらない……、『あいつ』の発言のせいで。


「あたし個人の我儘、言ってもいいかな?」

「あたしは……、シュク兄が誰かと付き合っちゃうのは、嫌だなって思うの」

 

 昨日の菜流未の発言……、あれはどういう意味なんだ?

 いや、どういう意味なのかというのは、発言そのものの意味を問うているわけでは勿論なく、どうしてぼくが誰かと付き合うことを、菜流未が嫌がるのか、である。つまるところ、そのような発言をした菜流未の意図がわからない、である。いつもは、馬鹿なことしか言わない菜流未だから、今回のその発言も、それに付随した発言のたぐいなのだろう、と片付けてしまっても良いのかもしれないが、ぼくにはそれが出来なかった。

 あいつの必死に訴えかけるような眼を見てしまっては、いかに妹のことを好いていないことで有名なぼくでも、ぞんざいに扱うことが出来ない。しかし、かといって奴の考えを看破することなど、察しの良いくらいにしかできない所業な気がするのも、また事実であり ―――

「…………はああ」

 結局ぼくは、無意味な溜息を漏らすことしかできなかった。

「あれ、そこにいるのは……、笹久世くん?」

 と。

 漢字の成り立ちに、そして菜流未のことに気を取られていたぼくは、突然前方から何者かの声で、自分の名を呼ばれたことに少し驚き、目線を前方へと向けた。

「ああ、やっぱり笹久世くんか。間違っていたらどうしようかと思ったよ」

「……鈴木?」

「田中だけれど」

 田中だった。

 田中。

 初等部から、現在の高校一年生までのすべてにおいて、ぼくと同じクラスになったという、ある種の運命すら感じる間柄であるが、しかし、それだけと言ってしまえばそれだけで、別にこいつとは、唯一無二の親友とか、物量の多い課題を協力してクリアする悪友とか、そういうものではなく、本当にただの『無駄に一緒のクラスになるクラスメイト』というだけである。事実、ぼくはこいつに、そこまで興味がないため、こいつのフルネームを知らなかったりする。もっと言うと、こいつの、その持ち前の中性的な顔立ちから、時々こいつが男だったか女だったかわからなくなったりさえする ――― って。

 田中って、男だっけ? 女だっけ?

「どうしたの、笹久世くん。何やら考え込んでいるみたいだけど……、そう言えば、僕が声をかける前にも、溜息なんてついていたよね」

「よくわかったな」

「『溜息をつくと、幸せが逃げる』なんてよく言うから、迂闊に溜息なんてつくもんじゃないよ」

「そうは言ってもなあ、加藤。溜息なんて、気付いたら自然に出てしまっていた、みたいなことが殆どだし、溜息を全くつかないようにするってのは、無理があるんじゃないか?」

「まあ、それは御尤もだけどね。加藤じゃなくて、田中だけれど」

 田中だった。

 そんなやり取りを、ひと通り終えたぼくたちは、そのままふたりで連れ立って、学園に向かうことにした。

「それにしても笹久世くんが、こんな早い時間に登校するなんて珍しいね。いつもは、予鈴ギリギリで教室に入ってくるくらい遅いと記憶していたけれど」

「……まあ、色々あるんだよ」

「おや? もしかして、火殿 妹奈さんの件についてかな?」

「それもあるが、今はどちらかと言うと、家族の問題のほうが ――― って何でお前、ぼくと妹奈のこと、知ってるんだよ?」

 確かに、妹奈は、学年でもそれなりに有名人らしく、だから彼女の色恋沙汰の話など、すぐに広まってしまいそうな気もしたのだが、あくまでそれはそれなりであり、学年だけでなく、学園屈指の人気者である菜流未や、畝枝野 ――― なにがしに比べると、その人気は結構な差で劣っているため、その噂が広まったのは精々、吹奏楽部内が関の山だった……、筈だ。おまけに、その吹奏楽部の連中は、件の情報を部内だけで留めているらしいので、尚更部外者にこの話が漏れることなどあり得ない筈なのだが……(ちなみに、一応ここで、しなくても良いような注釈をさせてもらうと、田中は吹奏楽部員ではない)。

「ふふん。どうやら、僕の特技を知らないようだね、笹久世くん」

 まあ、お前の下の名前すら知らないからな、ぼく。

 だから勿論、ぼくは田中の特技なんて知る筈もなかった。

「そして、その様子から察するに、僕の通り名も知らないでしょ」

 だからぼく、お前の本名フルネームすら知らねーから。

 逆に、何でそんな状態のぼくが、お前の通り名は知ってるんだよ。

究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえす ――― 学園のいかなる機密情報も掌握している僕を、いつ頃からか、みんなはそう呼ぶようになったんだ」

究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえす、ねえ」

「略して『あいいい』」

「ダセえ!」

 勇者によくつける名前を、ちょっと捻くれた奴が、他の人との違いを見せつけようとした結果みたいな名前だ。

「ちょっと恰好つけて『AIII』にしてみる? AIの進化系みたいだね」

 その感性、付いてけねえなあ。

「てかアルティメットは『Ultimate』だし、いえすは『Yes』だから『AIII』ですらないじゃないかよ」

「おお、よくわかったね、笹久世くん。君は頭が悪いと記憶していたけど、或いは記録していたけど、これは情報を更新したほうが良いのかな?」

「馬鹿にしてんのか」

 まあ、しているのだろう。真っ向から「頭が悪い」って言われたんだから。

「しかし惜しいね、笹久世くん。君は、アルティメットの頭文字が『U』で、いえすの頭文字が『Y』だから、『UIIY』と言いたいのだろうけど、それは違うよ」

 正しくは『UIIJ』だ、と田中 ――― 『J』?

「アルティメットの考えは笹久世くんの言う通りで間違っていないんだけど、僕の通り名の最後を彩っている『いえす』は肯定の意ではない ――― 肯定の『Yes』ではない」

「じゃあ何だって言うんだよ」

「『Jesus』のイエスさ」

 じーざす? 何だっけ、それ。

「イエス・キリストの英訳って言えば良いのかな」

「お前、自分が神だとでも言いたいの?」

 もしかして、相手にしちゃいけないヤバい奴なのこいつ。

「いやいや、流石にそこまでは思っちゃいないよ。僕は自分が神なんて思ってない。むしろこんな通り名を司っていることにおこがましさを抱いているくらいさ」

 その割に、自信満々と言った感じで自身の通り名をプレゼンしていたような気がするんだが。

「『田』の字の『中』に十字が ――― 十字架があるだろう? イエス・キリストと言えば、十字架の他に右に出る者や物はいないし、ない。だから『いん=いえす』なのさ。それ以上の理由も裏もないよ」

 僕自身、キリスト教には興味がないしね ――― と田中。

 それにしてもふむ。

 始めにその通り名を聞いた際には、アイタタタな奴だとばかり思っていたが、その名の由来を聞いてみると、思ったより考えられているんだな、と感心してしまった。

 確かに、『田』という字を、『□』と『十』で分けて考えると、『□』という枠の中に『十』が ――― 田中が言うところの『十字架』が収まっているように見える。

「まあとはいえ、あまり宗教的な話に言及し過ぎると、何処かのお偉いさんに目をつけられる可能性があるので、とりあえず笹久世くんの言ったイエス=『Yes』(肯定)という意味で捉えておいてもらっても構わないよ。むしろそう思っておいてくれたまえ。元より僕の通り名自体を知っている人は学園中にいるが、通り名の真の由来を知っているのは、君と僕を含めても四人しかいないのだから」

 なんでそんなトップシークレットの情報を、ちょっとクラスが十二年間同じだっただけの赤の他人にべらべら喋ってるのこいつ。

 究極アルティメット情報通インテリジェンスってのは、存外、口が軽いのか?

「ちなみにあとのふたりは、僕と同じような活動をしている仲間たちだよ」

「そうなのか」

 それに関しては、とてもどうでもいい。

「じゃあ、その究極アルティメット情報通インテリジェンス様は、ぼくのもうひとつの悩みでもある家族のことについても、知っているのか?」

「まさか。君の妹さんが学園にいることくらいしか、僕は知らないよ。さっきも言ったでしょ。僕は、学園に関与した情報を掌握しているのであって、他人のプライバシーを侵害してしまうような個人情報は、掌握していないよ」

「掌握」

「そう……、だから君が、妹さんのことで悩んでいるって聞いたのも、今ここで初めてだし、だから当たり前だけど、その悩みの内容も、僕は知らないよ」

 まあやろうと思えば、個人情報含め、掌握出来ないこともないけど、と田中。出来るのかよ。

「ま、言ってくれれば、アドバイスくらいなら、出来るかもしれない。こう見えても僕は、情報関係のこと以外にも、普通に学園の人たちの悩みを聞いて、解決したこともあるんだよ」

 この時のぼくは、知らなかったが ――― この田中という、ぼくのクラスメイトは、実は妹奈と同等かそれ以上の人気を誇る人物らしい(それでもやはり、啓舞学園一、二を争う人気者である菜流未や畝枝野某とは比べるべくもないらしいが)。中性的で、美しい顔立ちも、勿論それの要因ではあるのだろうが、大きな要因としては、誰にでも分け隔てなく接し、相談を聞いてあげるという、その器の広さと。

「……妹が」

 こいつには話しても大丈夫だろうという、謎の安心感だろうか。

「ぼくと妹奈が結ばれることを邪険に思っているらしい」

「……ふむふむ」

「邪険、というと少し大袈裟かもしれないけど……何でだろう、ってな」

「……それは、菜流未さんが言ったのかな」

「……よくわかったな」

 正直驚いた。

 だって、どう考えても菜流未のほうが、そういうことを言わなさそうだと、ぼくなら思うからである。ぼくが、田中の立場だったら、菜流未は間違いなく後手に名前を挙げていただろう。

「ま、そうじゃないかってなんとなく思っただけだよ」

 菜流未さんみたいなタイプが、実は一番甘えん坊だったりするんだよ、と田中は続けて言った。

 いやそれはないと思うんだが。

「そうかなあ。だって今菜流未さんって六年生でしょう? 女の子が一番素直になれない時期に差し掛かろうとしてるじゃない。成長の早い子は、五年生でもそういう子、いると思うし」

「ただ単に、自分が憎いと思っている兄が、幸せになることを嫌がっているだけじゃないか?」

「ん? 菜流未さんは君のことが嫌いなの?」

「ああ」

 それは知らなかったなあ、と少し笑いながら言う、究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすこと、田中(なぜ笑う?)。

「ん~、やっぱり知らないことを知らないままでアドバイスをする、というのは難しいし、依頼主にも失礼だよね」

 田中は、やれやれといった感じで首を振る ――― いや別に依頼したつもりは無かったんだが。

「だから、僕が君に教えてあげられる情報は、やはり火殿さんのことになっちゃうんだけど」

 火殿さん、と言うより吹奏楽部についてと言ったほうが正しいかな。

「何か、情報を持っているというのか」

「そういうこと ――― 聞きたい?」

 正直、少し悩んだ。

 情報というものは多いに越したことはないとは思うのだが、一度に沢山持ち込まれても、手に収まり切らない。だからより正確を期して言うなら、『情報は多いに越したことは確かにないのだが、少ないに越したこともない』である。現にぼくは、先ず火殿 妹奈に告白されるという、既に手に余りまくる巨大な情報を持っており、さらにそれが、吹奏楽部内で広がったという情報、そのせいでぼくは、部内で孤立しつつあるという情報、母親兼幼馴染と妹に妹奈のことについてそれは恋だと背中を押され、かと思いきや、妹に個人的には付き合って欲しくないと言われた、という情報を持っている。

 既にぼくの脳内では処理も整理も出来ない数の情報量だった。

 だが……。

「……ああ、聞かせてくれ」

 ぼくは、そう答えた。

 幾ら処理し切れない、整理し切れないとしても、人間は知らないことを知りたがるものである。

 情報を求め続けてしまうものである ――― 究極アルティメット情報通インテリジェンスがそうであるように。

 ぼくも、そのひとりに過ぎなかったというだけだ。


夢祝 8 也夢


「笹久世くん……、その……、ごめんね」

 田中が言っていた通りだった。

 その日の放課後である。つまり、部活動の時間である。

 吹奏楽部のみんなが、ぼくに謝罪してきた。

「うちらのエースである妹奈さんをフったって聞いて、みんな少し頭に血が上っちゃってたみたい」

「そ、そうですか。いや、ぼくは別に気にしてないんで、大丈夫ですよ」

 今日、問題のひとつが解決する。

 田中は先ず、そんなことを言った。

 始めは、何のことかさっぱりだったが、いざその場面に出くわしてみると、喉に詰まっていた食べ物が一気に流れ出すような感覚へと変わった。

 ぼく個人としては、部員に無視されることに関しては、何度も言っているように、そこまで問題として捉えていなかったのだが、しかし全くの無害というわけでもなかったので、みんながそれをやめてくれることについては、普通にぼくにとって好都合であった。

 そして田中はこんなことも言った。

 あとは君の動き次第で、もうひとつの問題も解決できるかもね。

「それよりも、火殿さんが何処にいるか、知りませんか」

 ぼくは部員たちに訊いた。

 もうひとつの問題 ――― 妹奈とのちぐはぐな距離の解消。

「えっと……、多分屋上とかじゃないかな。最近はよくあそこで個人練してるよね、火殿さん」

「う、うん。確かそうだった気がする」

「わかりました、ありがとうございます」

「あ、でも待って笹久世くん ――― って、行っちゃった」

 ぼくはお礼もそこそこに、学園の校舎の屋上へと走り出した。

 

「も、問題が解決する? どういう意味だよ、田中」

「どうもこうもそのままの意味だよ、笹久世くん。そしてそれは、火殿さんのお陰であることも、伝えておくね」

「はあ?」

「そしてもうひとつの問題は、他でもない、君自身が解決するんだ」

 君が君のお陰で解決するんだ。

 

 屋上。

 ぼくは見渡す限りの青空の中に佇む、妹奈の姿を視認した。

「……練習、してねーじゃねーかよ」

 ぼくは、妹奈に歩み寄りながら言った。

「先輩によると、ここで黙々と個人練してる、って話だったんだがな」

「…………」

 妹奈は、口を開かない。

 ただまっすぐに、その大きな碧色の瞳をぼくに向けているだけであった。

 彼女の沈黙が、ぼくの足を、停止させた。

「まあ、何だ、その……」

 うまく言葉が出てこない。

 先ず、ぼくなんかが、妹奈にかける言葉など、あるのだろうか。

 そもそも、ぼくはなぜ、この屋上へと向かったのだろう。

 今まで、余所余所しい態度を取ってすまなかった、と謝罪したかったのだろうか。それとも、今回のことで礼を言いたかったのだろうか。

 ……妹奈との距離間を元に戻したかったからだろうか。

 そう悩んでいると、今度は妹奈が少しずつ、ぼくに近付いてくる。

「……やっと、話しかけてくれた」

 ぼくは、久し振りに自分に向けられた妹奈の言葉に、はっとして、彼女を見る。

 笑顔……、だった。

 今にも崩れてしまいそうな、メッキのような笑顔だった。

「もう、みんな酷いよね。別にわたしたちの問題なのに、それに笹久世くんがわたしをフっただけなのに、それだけで除け者にするなんてさ。だからわたしからガツンって言ってあげたよ。わたしが勝手に笹久世くんにフラれただけだよ、笹久世くんは何も悪くないんだよ、って」

 妹奈の、ぼくの呼び方が『祝也くん』から『笹久世くん』に戻っていた。

 尤も、妹奈がぼくを『笹久世くん』と呼んでいた時期は、かなり短かったりするので……、というか、初めてまともに会話をして以降、ずっと『祝也くん』呼びだったので、ひと口に『戻った』といっても、むしろ、余計に距離を感じた。

は…………、ごめん」

 あの時。

 ここで妹奈が発した『あの時』というのは勿論、ぼくたちが初めて出会った時のことではなく。

 妹奈がぼくを、嘘でからかった時。

 しかし、同時にあの時は、ぼくも妹奈に、酷いことを言わせた。

 よく考えてみれば、おかしい話である。否、考えなくとも、おかしい話だ。

 事の発端を辿れば、ぼくが妹奈に、酷いことを言わせたから、こんなことになってしまったのだ ――― それなのにぼくは、自分のしたことを棚に上げ、妹奈の嘘だけを糾弾していた。

 そう考えると、

「違う! きみは悪くない! 悪いのはぼくだ……、ごめん」

 謝罪の言葉が、自然に出ていた。

「ううん。違うよ、笹久世くん」

 妹奈は言う。

「お互い様、じゃない?」

「お互い様……、って」

『笹久世くんは何も悪くない』んじゃなかったのかよ、と先程の妹奈の発言を思い出したが、

「わたしがフラれたことに関しては、笹久世くんは何も悪くないけれど、それとこれとは話が別。そうでしょう?」

 妹奈がそんなぼくの思考を先回りするように、そう言った。

 返す言葉もない ――― むしろやはり、全面的にぼくが悪いと思う。

「だから、わたしは罪滅ぼしに ――― 罪滅ぼしになっていないかもしれないけれど ――― 部員のみんなに笹久世くんを責めるのをやめてって言ったの」

「罪滅ぼし、か」

「勿論こんなことで許してもらおうなんて思っていないよ」

 でも……。

「どうか、前みたいに楽しくお話が出来るくらいには、関係を戻せないかなあ……」

 妹奈が……、何かの糸がぷっつり切れたように、或いはメッキが剥がれ落ちるように、言った後に突然泣き始めた。

「ま、妹奈……」

「ひっく……、無視は、辛いよお……、えぐっ。悲しいよお……、ひっく」

「妹奈!」

 咄嗟にぼくは、妹奈に駆け寄り、その身体を抱きしめた。

「さ、笹久世くん⁉」

「本当にごめん……、あれから、妹奈のことを見たり、考えたりすると、ぼくは変になっちまってたんだ。だから妹奈のことを避けていたわけで、別にきみと話したくないとか、きみを困らせてやろうとか、ましてやきみのことが嫌いになったとか、そういう感情は一切無かったんだ」

 むしろ妹奈のことを考えれば考える程その『変』は大きく、大きく、膨れ上がっていっていた。

 だが、結果的にその行為は、妹奈の心を深く抉っていただけであったのだ。

 始めは ――― というか今の今まで、この変な心ってやつが何者なのか、全くわからなかった。だが、妹奈の泣き顔を見て、そして咄嗟に妹奈を抱きしめるという己の行動から、すべてを把握した。

「ぼくは……、妹奈が好きだ。妹奈の泣いた顔なんて、見たくない。楽しそうに笑った顔が見たいんだ」

「祝也、くん……」

 妹奈の、ぼくの呼び方が、再び『祝也くん』に戻った。

 それだけでぼくは、変わる。

『変な心』の中の『冬』が消えて、終わって、『恋』になる。

「罪滅ぼし」

「え?」

 ぼくは言う。

「どちらも悪かったというのが、お前の言い分だろ? ぼくはやっぱり妹奈に非はないと思うし、その妹奈が負い目を感じて、罪滅ぼしとやらをしてくれたんだから、ぼくにもそれをする義務が当然あるってもんだ」

 ほら、ギブ&テイクってやつだ、と言うと、ぼくの右肩辺りにある妹奈の頭が、何やらふるふると震え出した。

「ギブ&テイクとは少し違う気もするけれど……」

 どうやら、笑われたらしい。

「うっ……、いいんだよ、細かいことは。いいか、妹奈。人は、新しい言葉を学んだら、使ってみたくなるもんなんだよ。だけどそれが、必ずしも適した状況下で使われるとは限らない。自分にとっては新しい言葉なんだからな。だから、人が少し言葉のチョイスを間違えたからって、それだけで馬鹿にしてはいけないんだぞ。そこは、優しく訂正するのが大人の ――― 」

「祝也くん」

「ん、何だよ」

 ぼくは、身体を妹奈から離し、その表情を窺いながら、訊いた。

「キモいよっ!」

 とびっきりの、笑顔だった。

「元気に酷いこと言うな! そんなにキモかったか?」

「うん」

「即答かよ」

「うん♪」

 妹奈は久しぶりのやり取りを、少し上機嫌でやったと思ったら、ぼくを抱き返してきた。

「じゃあ、祝也くん。改めて、わたしと付き合ってください!」

「ゴメンそれは無理」

「ええええええええええ⁉」

 こうして、ぼくは、なし崩し的に、妹奈と和解したのだった。


祝 9 也


「……ん」

 見慣れた天井。

 目を開けた直後というのと、外がもう暗くなってしまっていることから、視界がぼんやりとして中々回復してくれないが、それでもこの天井は、何回も見たことがある。ぼくが一日を始めるときにお目にかかる天井と、それは同じだった。

 つまり、ここは、ぼくの部屋である。

「あれ……、ぼく、どうしてここで寝てんだ?」

 場所は考えなくともわかった……、がしかし、なぜぼくが自室で寝ていたのかが理解できない。

 確かぼくは、下ふたりの妹と、ほぼそれぞれ別々に風呂に入っていた筈なのだが。

「しゅ、祝也兄さん!」

 突然、何者かに、ものすごい勢いで抱きつかれた。

 何者なのか、一瞬判然としなかったが、ぼくを呼ぶその声と呼び方で、すぐに三女の兎怜未だということに気付いた。いつもの趣味の悪い兎の部屋着を着込んでいる。

「良かった……、本当に良かったよぉ……」

「ど、どうしたって言うんだ、兎怜未」

 胸部に冷たい感覚を覚え、ようやく回復してきた視界で、ぼくの胸元に、うずまるようにした兎怜未を見ると、彼女が号泣していることに気付いた。

「とりあえず落ち着こう、な?」

 ぼくは、枕元にあった照明リモコンをいじり、明かりを灯した。

 視界が一気に白に染まったかと思いきや、すぐに自室の全貌が視認できるようになった。ぼくを除いたら、どうやらここには、兎怜未ひとりだけしかいないようだ。

「ええっと……、どうしておれがここで寝ているのか、説明を求めてもいいか?」

「ひっく……、祝也兄さん、お風呂でのぼせて倒れちゃったんだよ。それで兎怜未、もう心配で心配で、おかしくなっちゃいそうだったよ……。もしかしたらもう、目を覚まさないんじゃないかって思っちゃったよ」

「そうか。おれ、のぼせちまったんだな……、って、普通は、のぼせたくらいで人は死なねーから安心しろ。頭の悪いおれでもわかることで、余計な心配するなって」

「そんな突き放すようなこと言わないでよ、馬鹿」

「御尤も」

 ぼくは言いながら、兎怜未の頭を撫でてやり、抱きついてきたその身体を抱きしめ返す。

「心配、かけたな」

 笹久世 兎怜未。

 いつもは、小学四年生とは思えない程に冷静で、頭が切れ、そしてぼくを虐めることを生きがいとしている、仕方のないぼくの未熟な三女の妹だが、たまにこのような年相応の一面を見せる。そういう所を見せられてしまうと、たとえ妹嫌いのぼくでも、やはり保護欲を掻き立てられてしまう。

 そう。幾ら頭が良く、冷静に物事に当たることが出来ると言っても、まだ小学四年生。高学年ですらないのだ。

 精神力があまりにも欠落している。

 いや、やっぱり普通の小学四年生と比べると、精神力も多少はあるのかもしれないが、それでもたかが知れている。

 本来ならば、のぼせただけで人が死ぬなんてことは、そのままずっと放置をしない限り、先ずない、ということなど、兎怜未の頭ならば、考えなくともわかるだろう。ましてや兎怜未のことだ、のぼせたぼくを適切に看てくれていたことだろう、尚更死ぬ要素など皆無なのだがしかし、たったそれだけで、兎怜未は冷静さを欠いた。というか失った。

 そういう意味では、兎怜未は三愚妹の中で一番不安定で、やっぱり未熟で、放っておけない妹であった。

「う……、えっく……、祝也、兄さぁん」

 頭を撫でられて、少し元気を取り戻し始めた兎怜未を抱きしめたまま、時刻を確認した。

 午後九時半。いつもなら、そろそろ兎怜未は寝ている時間である。

「ずっと起きていて、おれが目を覚ますまで、看病してくれていたのか」

「うん」

「そっか……、他のみんなは?」

「パパとママはまだお仕事から帰ってきてないよ。未千代姉さんも一回学園から帰ってきて、お仕事に行ったきり、まだ帰ってきてない。菜流未姉さんは……、リ、リビングでテレビでも見ているんじゃないかな」

 嗚咽が酷くて、所々聞き取れなかったが、簡潔にまとめると、多分兎怜未はそう言った。

 にしても、ぼくが風呂でのぼせたというのだから、最近また交流が増え始めた菜流未も、ぼくを気遣ってくれてもいいのに、と思ったが流石にそれは思い上がり過ぎなのだろうか。

 或いは、直球的に傲慢と言ったほうが当てはまっているだろうか。

 奴はまだ、そこまではぼくに心を許していないのか。

「別に、祝也兄さんを独占したいからって、一緒に居たがった菜流未姉さんに大丈夫だと押し切って、ふたりきりになろうとしたわけじゃないから」

「なるほど! そりゃあそうだろうな!」

「ここまで嘘に疎いと、張り合いが無くなって飽きてきたなあ」

 本当、ひでえことを平気で言うな、こいつ。

「それより、もう落ち着いたか?」

「あ、うん。ゴメンね」

 兎怜未は言うと、ぼくからそっと離れた。

「じゃあ、兎怜未はもう寝なさい。おれは菜流未の件で、もう少し考えてみることにするから」

 そうだ、言いながら思い出した。ぼくは兎怜未に、風呂でその件を相談して、最終的に良い収穫を得ることが出来ずにいたのだった。あの時は完全に、思考回路が破綻してしまって、それどころではなかったが、いざこうして落ち着いてみると、笹久世家の頭脳ともいえる兎怜未から、何も得ることが出来なかったのは、やはりかなりの痛手である。

「そのことだけど、兎怜未、少し考えてみたの」

「えっ、マジか」

 兎怜未の予想外の発言に、ぼくは少し驚いた。

「確認なのだけど祝也兄さんは、菜流未姉さんへの恩返しとして、菜流未姉さんの質問 ――― 菜流未姉さんに、どうなってほしいのか、その答えを考えている。けど、それの整理に戸惑っているんだよね?」

「ああ、まあそれで概ね間違っていない」

「あのね」

 兎怜未は言う。

 何というか、その考えというやつが、二年前、菜流未から聞いたアドバイスとそっくりだったため、ああ、やっぱりこいつらは姉妹なのだなあ、と、今更というか、当然のことを思ったのだった。

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