第三話 妹リアライズ!


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 どうしてでしょう。

 一年生になって、またしばらくたったある雨上がりの『つゆ』のおわりごろでした。

 わたしはいま、学えんちかくのこうえんにいます。だけど、ここには、女の子のおともだちはひとりもいません ――― かわりにいるのは、いつも、わたしをいじめる男の子たちです。そう、わたしは男の子たちにむりやりここにつれてこられたのです。

 どうしてでしょう。

 わたしは、なにもわからず、男の子たちになにをするつもりなのかをききました。

「ははっ。きいたかよ、おまえら」

 そしたら、先ずさいしょに、男の子三人のうちのリーダーである、ごうがくんが、わらいながら、ほかの男の子ふたりにむかっていいました。

「うん……、『なにをするんですか』だってさ」

 次に、さすらくんが、わたしのいったことをもういちどいってみせました。

「なに、って……、いっしょにあそぶにきまってんだろ、いつもみたいに。ていうかこうえんは、あそぶとこなんだから、いちいちそんなこときいてくんなよな」

 あそ、ぶ……、いつもみたいに……?

 わたしは、からとくんのいったことばのいみがわかりませんでした。

 わたしは、いちどだって、この三人とあそんだことなんてありません。この三人には、いつもいじめられているとしかおもっていません。

 つまり、この三人は、わたしをいじめているという、じかくがないということなのでしょうか。

 ということは……。

 もしかしたら、こういうのはいじめなんだ、といえば、三人だって、りっぱな小学一年生です ――― わかってくれて、もうわたしをいじめることはなくなるのではないでしょうか。

 わたしはそうしんじて、いいます。

 三人とも! きみたちがしているのはいじめなんだよ! あそびじゃない。だからもうやめて、ね?

 しかし ――― わたしの、そのおねがいごとは、どうやらかなわなかったようです。

「は? おまえ、なにいってんの?」

「ぜーいん、たのしんでやってんだから、いじめなわけがないじゃん」

「おまえも、たのしいよな?」

 ごうがくんがわたしにそうきいてきました。

 たのしくない! もうこんなことしないで!

 わたしはしょうじきに、こたえます。

 おとうさんが「正直者には幸せが訪れる」といっていました。そして「嘘をつくことは駄目なことだ」ともいっていました。

 だからわたしは、おとうさんのいうとおりにしました。しょうじきにこたえました。

 それなのに……。

 わたしは、ごうがくんに、つきとばされました。わたしはとつぜんのことで、バランスをくずし、たおれてしまいました。

 いまは雨上がり。ついさっき雨がやんだばかりのこうえんの土はドロドロしていて、その土がわたしのせいふくを、そしてわたしを、どろだらけにしました。

「はははっ! ごうがくんやるぅ!」

「あいつ、ひょろっちいから、ふっとんでいったぞ!」

 ほかのふたりが、そんなことをいっていましたが、わたしは気になりませんでした。

 ただしくは、気にすることができませんでした。

 ごうがくんが、また、わたしのまえまできて、とてもこわいかおで、

「なあ、おまえも、た・の・し・い・よ・な?」

 といってきたからです。

 た……、たのしくなんか……。

「ああ?」

 た……、た……、たのしい、です……。

 うそをつきました。

 わたしはこわくて、うそをついてしまいました。

 おとうさんのいいつけをまもることができませんでした。

「ふん。さいしょからそういえばいいんだよ、ばかが」

 すると、ごうがくんはそういって、ふたりのもとへもどっていき、なにかていあんをしていました。

「よし。じゃあ、せっかくこんなに、じめんがぐちょぐちょなんだし、どろだんごでも作って、ストラックアウトでもやるか!」

「ごうがくん、『すとらっくあうと』ってなに?」

「さすら、おまえそんなこともしらないのかよ」

 わたしもしりませんでした。なんでしょう、『すとらっくあうと』って。

「ボールをまとにむかってなげてあそぶゲームだよ。それを、どろだんごでやるってわけ。ほんとうは、まとに、すうじがかかれていたりするんだけど、ざんねんながら、きょうのまとにはそんなのかいてない。そのへんはまあしかたないよな ――― てかおまえら、おれとおなじやきゅうのクラブにはいってるんだから、それくらいしっとけよ」

「ごめんごめん。で、ごうがくん。そのまとってのは?」

「そんなのきまってんだろ、からと」

 あいつだよ ――― と、ごうがくんは、わたしをゆびさしてきました。

 そ、そんな……、いやだよ!

 わたしはとっさにそういいました。

「いやいや、おまえのおねがいはきいてねーから」

 もうなにをいっても、ききいれてくれない ――― そうおもいました。

 にげるしかない。

 そうおもいました。

 わたしは、たおれたままだったからだをばっとおこして、出口のほうへはしりました。

 しかし ―――

 がしっ。

「おいおい。女の足でおれらから、にげられるとおもってたの?」

 いや! はなして!

 わたしはさけびます。

 そうです ――― ごうがくんのいうとおり、女の子のわたしが、男の子のごうがくんからにげるなんてとてもむりなことでした。

いち』ちゃんみたいな、すごい女の子でもないかぎりは。

「おい、さすら。おまえからやっていいぞ。おれとからとで、こいつをおさえるんだ」

「「おっけー」」

 わたしは、ごうがくんと、からとくんに、りょううでをおさえられて、みうごきをとれなくされてしまいました。

「よーし、じゃあはじめるぞー。さすら! おれらにあてたらまけだからな!」

「わかってるよ!」

 ごうがくんのことばにさすらくんがへんじをします。

 そして。

 さすらくんはちからいっぱいというかんじで、どろだんごをわたしめがけて、なげつけてきました。

 どすっ。

 うっ……。

「おー。いきなりはらにあてるとは。やるな、さすら」

 いたい。

 とても、いたい。

 どろというのは、けっこうやわらかいもののはずなのですが、おなかにあたったそれは、まるで、ほんとうのやきゅうのボールのように、かたくかんじました。

「よし、じゃあつぎはからと、おまえだ」

「よしきた!」

 どすっ。

 かはっ……。

「うわ、からとのやつ、おっぱいにあてやがったぞ」

「やーい。からとのへんたーい」

「う、うるさいな。わざとじゃねっての」

 いきをすうのが……、つらいです。

 むねに、なにかがつよくあたると、こんなにくるしくなるんだ……。

「じゃあ、おれのばんだな」

「おっ、ごうがエースのとうじょうだ」

「たのむぜ、エース!」

 おねがい……、もう、やめ、て……。

 わたしはくるしかったですが、このあとのことをかんがえると、たまらなくこわくなり、三人にそういいました。

「いやぁ、『やめて』っていわれたらもっとすごいことしたくなるんだよなあ……、お」

 と、ごうがくんがなにかをみつけ、それをひょい、とじぶんのてのうえで、かるくほおってみせました。

「い、いや。それはさすがにやばいよ、ごうがくん」

「そうだよ、だってそれ……」

「ああ? このがどうかしたって?」

 いし……⁉

「だから、それはさすがにかたすぎるし……」

「う、うん。ふつうにどろだんごでいいっしょ」

「うるせぇな。わるいのは『やめて』なんていうそいつがわるいんだ。なんかもんくあんのか?」

「「い、いや……」」

「いいか、しっかりおさえとけよ」

 あんなものが、あたったら、ひとたまりもありません。ちょっとしたけがなんかで、すむはずがありません。

 いや‼ はなして‼

 わたしは、りょううでをつかまれながらも、なんとかからだをうごかして、ていこうしますが、ごうがくんにおこられたふたりは、いじになったかのように、つよくちからがはいり、びくともしませんでした。

 そして、ついにわたしは、ていこうするちからも、きもちも、なくなってしまいました。

「よーし……、それでいいんだ」

 いや……。

「じゃあ、いくぜ……」

 だれか、たすけて……。

「ピッチャー、さかり ごうがくん……」

 たすけてよ……。

「ふりかぶって……」

 おとうさん……、おかあさん……、一夜ちゃん……、いや……、いや……。

「なげた!」


 いやあああああああ‼


 …………。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………どうしてでしょう。

 いつまでたっても、いたみはきません。

 ひょっとして、わたしは、いたみをかんじることもなく、そのままてんごくへいってしまったのでしょうか。

 ……ううん。ちがう。

 おとうさんは「良いことを沢山した人だけが天国へ逝けるんだ」といっていました。でもわたしはさっき、うそをついてしまいました。

 ということは、わたしはもうひとつの ――― じごくというところにきたのでしょうか。

 そうおもっていたのですが。

 ちがいました。

 ぜんぜん、ちがいました。

「ふう、あぶなかったー。妹が、本人はあそびのつもりだとはいえ、ぽかぽかとぼくをなぐってくるからという理ゆうで、とり上げておいてよかったぜ、このおたま。ああ、だけど今のでだいぶへこんじまったな。こりゃ、菜流未からのせっ教、間ちがいなしだな。まあそれがいやだから、こうしてとなりまちまで、にげてきたわけなんだけど、いやでもまてよ。ぼくはこの子に、今にも当たってしまいそうになっていた石ころをガードするためにこのおたまをつかったんだ、って正直に言えばゆるしてくれるかな。ゆるしてくれるよね、うん」

 わたしは、たんじゅんに、だれかにたすけられたのです。

 だけど、それは、おとうさんでも、おかあさんでも、このまえなかよくなった、一夜ちゃんでももちろんなく。

 なんていうか……。

 とてもへんな人でした。


祝 2 也


 ぼくが、こんな身体になってしまって、幾ら学園の情報に、著しく疎くなっているとしても、枝野えの なぎという男を知らないわけがない。

 啓舞学園に通う中学三年生で、頭が良くて、スポーツも出来て、野球部に所属していて、部長で、キャプテンで、イケメンで、人気者で、かといって、自分のその素質を、決して過信しない、謙虚で心優しい人間である。

 言うなら、完成された人間である。

 ……何だそいつ。

 もはや人間なのか、それ。

 ぼくは、そんな人間がいるということを、にわかには信じられなかった。

 しかし、奴は本物だった。

 同じ人気者でも、菜流未が、未完成な偽物なのだとしてみると、畝枝野 凪は、完成した本物だった ――― それは、奴の周辺捜査を、他でもない、このぼくが行ったのだから、間違いない。

 ぼくは、所謂、ハイスペックな人間というやつが、どうも好きになれなくて、ついついそういう奴の弱みやら、短所やらを探ってしまう。というのも、たとえぼくをはじめとした、ごく一般の人間たちだろうと、そういう恵まれたスペックを持っているように見える人間たちであろうと、同じ人間なわけなのだから、恵まれているように見える彼らでも、実は人に言えないような、決定的な弱みだったり、短所だったりが潜在せんざいしているかもしれない。

 事実、殆どの人間には、相応の、決定的な弱点というものがある。

 ――― まあ、いつも弱点しか晒していないぼくが言うと、如何せん、説得力に欠けているような感じもするが、しかし。

 あくまでそれは『殆どの人間』である。

 そう、つまり裏を返すと、ごく少数ではあるが、弱点の全くない人間というものが、この世の中には、存在している。或いは、潜在している。そして、その中のひとりが、畝枝野 凪であるということである。

 その清らかさを洗剤として販売して欲しいくらいだ。

 ではそういう存在を普通の、つまり一般の人間は、どう感じるのだろうか ――― もっと言うなら、そういう存在力を、毎日のように見せつけられる一般の人間は、どういう感情をはらむのだろう。

 羨ましい。

 先ず、はじめに出てくる感情は、概ねこれだろう。

 頭が良いのが羨ましい。

 スポーツ万能なのが羨ましい。

 顔が整っているのが羨ましい。

 自分の才能を謙虚に受け止められる、その度量が羨ましい。

 その感情だけなら、ぼくも幾度となく抱いたことだし、大した問題はないと言って良いだろう。しかし、その感情が、徐々にねたみやそねみ、さらには、恨みや憎しみに変わってしまってはいけない。

 頭が良いのが妬ましい。

 スポーツ万能なのが憎らしい。

 顔が整っているのが妬ましい。

 自分の才能を謙虚に受け止められる、その度量が憎らしい。

 とはいえ、その感情を孕んでしまってはいけないとは言っても、そういう気持ちになってしまうのもわかる。

 自分よりも上の存在というのは、羨ましいし、妬ましい。

 人間は、そう思ってしまう生き物だ。


夢祝 3 也夢


 高校一年、晩夏ばんか

 ぼくは、いつものように、部活終わりに、オレンジジュースを買い、それを飲み干してから、帰路についた。

 あれからすぐに、夏のコンクールがあったが、取り立てて記すような結果にも至らずに終わり、それからさらに少しが経った。

 言うまでもなく、『あれ』というのは、妹奈の告白である。


「わたしと、付き合ってくれない?」

「だから……、恋人になりましょ、って言ってるのっ。もうっ何度も言わせないでよ」


「はあ……」

 ぼくの口から、自然と溜息が出た。

 どうしてこんなに憂鬱な気分になっているのだろう。

 あれから、妹奈と一切口をきいていないからだろうか、それとも、どういうわけか、吹奏楽部内で『笹久世 祝也が火殿 妹奈の告白を拒絶した』という情報が出回り、ぼくが他の部員に距離をとられているからなのだろうか、或いはその両方か、それはわからない。

 他の部員に距離をとられる理由はわざわざ言う必要もないと思うが、一応大まかに、適当に、ざっくりと言っておくと『みんなの人気者である火殿 妹奈をフるなんて最低』みたいな考えがみんなの中にあるからであろう。

 なんともまあ、滅茶苦茶な理由ではあるのだが、この世は多数派が勝つようにできているので、吹奏楽部員が総じてぼくをそういう理由で避けているなら、それが正しいのだろう ――― そう滅茶苦茶な形で納得した。

 まあその件については、実を言うと、そこまで悲しくなったり、落ち込んだりはしていない。

 元々ぼくは、殆どといって差し支えない程、女子とは関わりが無かったのだし、数少ない男子も、そこまで仲良く話し合うような間柄になっていないからだ。

 では、と考えると、やはり妹奈のことしか頭に浮かんでこない。

 変なのだ。

 あの告白された日から、ぼくは変になってしまった(元々お前変というか、変態じゃん、とか言ったやつはとりあえずおたまで殴ってやるから、ちょっと来い)。

 変、というのは……、もともと下手だった楽器が、輪をかけて下手になったり、オレンジジュースを買おうとして間違って炭酸オレンジジュースを買ってしまう回数が増えたり(今日は大丈夫だったが)、妹たちの嫌がらせに何も反応できなかったり、課題などの作業がひと段落して、ふぅ、と息をつくと妹奈のことばかり考えてしまったり……。そのくせ、いざ妹奈と対面したら、意地になって一切口をきくまいと、頑張って視界に入らないようにしていたら、足元がお留守になり、バナナの皮を踏んですっこけるという偉業を成し遂げてしまうのだから、世話がない。

 ひと昔前の、ギャグマンガか。

 今時の小中学生辺りは知らない世界なんじゃないか?

 ともかく、そんな変な状態のまま、これ以上生活するわけにはいかないので、ぼくは、久しぶりに『あいつ』を頼ってみることにした。

「ふぅ~ん。それはまあ、何とも変な恋だね~」

「変な恋、か。ははっ、そりゃ面白いな。何が面白いって『変』と『恋』って、結構字が似てるから ――― はっ⁉」

 夜、リビングでの会話。

 笹久世 縞依 ――― ぼくの母親であり、幼馴染だ。

 勿論、こいつはぼくたちの本当の母親ではない。

 ぼくたちの本当の母親は ――― とある事情で死んでしまったのだ。

 詳しい話を今してしまうと話の脱線もいいところなので、やめておくが ――― 今こいつは、ぼくに何て言った?

「何て言ったも何も、それ、恋以外の何物でもないでしょ~」

 縞依は、自身の淡水色のショートカットで整えた髪を指で弄び、そのとろんとした銀色の瞳を、こちらに向けながら、言った。

「こ、って……、来いじゃなくて?」

「呼んでどうするのさ~」

「じゃあこいなのでは?」

「普通は、食べられないよね、鯉って。でもちゃんと調理すれば食べられなくもないんだよ~。だからワタシ故意に食べたことがあるんだけど、とても美味しかった~」

「それはそれは、なかなか濃い経験をしたんだな ――― じゃなくて!」

 ボケと突っ込みのバランスが取れていない(いや、そういうことでもなくて)。

 ああ駄目だ。頭が働かなくて慣れないボケをかましてしまった(いやだから、そうじゃなくて)。

「……恋?」

「そう、恋。つまるところ『来い』でも『鯉』でも『故意』でも『濃い』でもなくて、恋だよ」

「いや『故意』はお前が勝手に言ったんであって、ぼくは言ってないからな?」

 ぼくは、本業(突っ込み)に腰を落ち着けつつ、縞依の突拍子もない、というか、もはや何か、ちょっとしたサプライズみたいな言葉の意味を紐解こうと試みる。

「う~ん。何やら考え込んでいるみたいだけど、これってそこまで難しいことかな~」

 と、そんなぼくの姿を、甲斐甲斐しくといった様子で見ていた縞依が、そう言ってきた。

 いや、難しいことだろ。考えて込んでしまうことだろ。

 ぼくはあの日、確かに火殿 妹奈の告白を受け入れなかった。理由は明白で、ただ単に、あいつに対して恋愛感情というものを見出みいだせなかったからだ。

 はっきり言って、好きじゃなかったということだ。

 こういう言葉を男に、しかも自分に対して使うのもどうかと思うが、残念ながら、ぼくは顔が可愛いというアドバンテージだけの妹奈を好きになる程、尻の軽い男ではないのだ。

 ない筈、なのだ。

 その筈なのに、どうしてぼくが、その妹奈に恋をしていると、縞依は断言したんだ?

「いや~、だからそんなに難しく考えないでってば~」

 そんなこと言われてもなあ。

「ワタシとしては、キミが恋している女の子をフる、という変なことをしていることから『変な恋』と言ったけれど、別にそれ以外は何も難しくないよ~。キミがその女の子 ――― 『まいな』ちゃんだっけ? ――― に恋をしちゃっているという理由のほうが、明白だと思うんだけどな、しゅっくん……、と」

「と?」

 縞依がいつものように、ぼくをあだ名で呼んだと思ったら、何やら、縞依の視線が、ぼくの後ろへと移ったので、ぼくもそれにつられ、振り返ると。

「丁度良いところに来たね~、菜流未ちゃん」

 げっ。

 ――― とは流石に口に出さなかったが、恐らくぼくの顔は、一瞬大きく歪んだことであろう。だってそこには、妹たちの中でも、群を抜いて仲の悪い、笹久世 菜流未様がいらっしゃっていたからである。

「お母さん、どうしたの?」

 菜流未はそんなぼくに気付きもせず、縞依のことを『お母さん』と呼んだ。

 菜流未も縞依が本当の母親でないことは無論把握しているのだが、持ち前のさばさばしたものの考え方の影響からなのか、どうやら、ぼくよりは、縞依のことを母親だと認識することに、抵抗がないらしい。

 いやまあ、ぼくにはぼくで、縞依とは幼馴染でもある、という事情があるので、菜流未とその辺りの感情を比べるのは、少々筋違いな気もするのだが……、ちなみに菜流未、そして兎怜未は、ぼくと縞依が幼馴染ということは知らない(ふたりの前では取り繕って、縞依を『母さん』と呼んでいることから、既に察していた方もいたかもしれないが)。そういった事情を知っていたら、彼女らが縞依に抱く印象も、がらっと変わったのではないかと愚考せずにはいられない。

「ちょっと菜流未ちゃんの意見が聞きたいの~」

「おい、菜流未に相談するのだけは嫌だぞ」

 ぼくはひそひそと、縞依に耳打ちするが、この女は、何処吹く風、といった感じで「お話、聞いてくれるかな~?」と、続けやがった。

 ……仕方ない。どうやら、ここはぼくが自分で、この最悪な災厄を退けるしかないようだ。

「な、なあ菜流未!」

「わ。シュク兄、いたんだ」

「え⁉ ぼく ――― じゃなくておれ、今の今まで菜流未に認識されていなかったの⁉」

 ぼく、そんなに影薄いのかよ。

 まるで、人に存在を認識されない状態になってしまったかのようじゃないか。

 まあ、そんな非科学的なこと、起こるわけがないのだけど。

「で、何? シュク兄」

「いや、話っていうのはだな、菜流未。他でもないお前が嫌悪しているこのシュク兄の話なんだ。嫌いな奴の話を聞くのはとても苦痛だろ? だからいつまでもそこに突っ立ってないで、さっさと自分の部屋に行って、課題でもやってきなさい」

「……何よ、その聞かれたくないから無理やり説得しようみたいな言い回しは」

 頭が悪く、察しも悪い菜流未に、ここまで考えが筒抜けとは、もういよいよぼくは駄目なのかもしれない。

「つまり、あたしには話を聞かれたくないってことなのね」

「おう、そういうことだ。だからさっさと何処かに消えてくれ」

「消えるわけないでしょ?」

「ですよね」

 会話の勢いでいなくなってくれるかな、という希望的観測も儚く散ったところで、ぼくは早くも八方塞がりだった。

 八方に塞がるのは得意なくせに、口八丁な男にはなれないぼくである。

 ましてや嘘八百など、ぼくには一番縁遠い言葉である(被害は受けるけど)。

「大体、あたしが嫌いなシュク兄が、聞いて欲しくないと言っているんだから、聞かないわけにはいかないじゃない。たはは」

「お前、ホンットいい性格してるよな」

「たはは、褒めてくれてありがと、シュク兄!」

「いや、皮肉のつもりだったんだが」

 言いながら、こいつには皮肉なんて通用しないことを悟っていたのだが、言わずにはいられなかった。

「で、お母さん。どんな話なの?」

「しゅっくんがね、変になっちゃったみたいなの」

「元々じゃない? というか、変というより変態じゃない?」

「おたまで殴ったろうか、ああん?」

「おたまで殴るのはあたしの役目だから」

 役目って何だよ。

「使命だから」

 急にスケールが大きくなったな。

「で、シュク兄の何処が変態なの、お母さん」

「『態』を抜け『態』を」

「シュク兄の何処が変能なの」

「『心』だけ抜くな。心を射抜いてやろうか」

「たっはは! あたしの心をシュク兄が? そんなの千年経っても無理だけど、本当にやるの?」

 こいつ……、いつか山に埋めてやるからな。

 そういうわけで、縞依が、ぼくの異変を、菜流未に代弁し始めた。

 その間にぼくは、菜流未にはこういうこと ――― すなわち色恋沙汰、恋愛沙汰で思い悩むことはないのか、とふと思った。

 啓舞学園初等部(当時は小学六年生である)で、ぼくの不本意ながら一二を争う人気者である、笹久世 菜流未には、果たして、もう既に彼氏だったり何だったりがいるのだろうか。

 最近の小学生の男女交際事情を、詳しく把握しているわけではないので(というか、仮に把握していたら、それこそ変態である。或いは変能かもしれない。『変な能力』という意味で)、ぼくとしては、憶測で考えるしかないのだが、そこまでの人気を誇っている菜流未ならば、小学生といっても、彼氏のひとりやふたり、居そうなものではあるのだが。

 ……ふたりはいないか、倫理的に。

 ともかく、その辺りの話に普通に興味を持ったぼくは、菜流未に訊いてみようと、口を開きかけたのだが、

「あれ~? 菜流未ちゃん、どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

 縞依の、わざと声を張っているかのような音量で放たれたその言葉に、ぼくはそれを切り出すチャンスを見失った。

「えっ……、い、いやあ、なんでもないよ、お母さん。たはは。あたしとしたことが、一瞬、魂が抜けちゃってたみたい」

「それは結構忌々ゆゆしき事態なのでは~……?」

 忌々しき事態である。

 縞依の話の何処に、魂が抜けるようなエピソードがあったのだろう……。まさか、縞依のやつ、菜流未にあることないこと吹き込んだんじゃないだろうな。

「ん~? なあに、しゅっくん。ワタシに熱い視線を送っちゃって。まさかしゅっくん、可愛い女の子なら、手当たり次第に……、みたいな男の子だったのかな~?」

「おれはそんな尻軽男じゃない。あとおま ――― 『母さん』をそんな目で見た覚えもないし、その言い方だと、自分が可愛いって言ってるのと同義だからな」

 流石に菜流未の前で、縞依を『お前』呼ばわりするわけにもいかず、ぼくは奴をすんでのところで『母さん』と呼んだ。

 というか、本当にぼくは、そんな尻軽男ではない。顔と性格とその他諸々が悪い分、そういうことに関しては、きちんとラインが引ける男だと自負している。ましてや、幼馴染とくっつくなんていう王道にして、道化染みた愚行を、ぼくがする筈ない……、と言いたいが、昨今のアニメとかでは幼馴染って、所謂『負けヒロイン』枠扱いされている作品が多いように感じなくもないので、幼馴染とくっつく作品は、今では王道ではなく、逆に斬新と言えるのかもしれない、ぼくは絶対しないけどね、縞依とゴールインなんて。

 そんなハッピーエンドは、是非とも御免被りたい。

 そんなハッピーエンドは、父親にでも任せておく。

 幼馴染が自分の父親と籍を入れた、という事実は、普通に受け入れ難い事実ではあるけれど、何と言うか、彼らの入籍は、半ばその場の流れというか、致し方ない、みたいな事情でしたものであり、冷たいことを言うと、現代では(多分)もうあまり見なくなった形だけの籍、といった感じで ――― もうそこしか空いていないから仕方なくその席に座った、といった感じで、では結局のところ、彼らの間に愛があるかと言えば、ない、と二文字で結論付けるしかない。

 仕事では良きパートナー同士らしいけれど。

 まあ、そういうことを考慮した上で、言わせてもらえるのであれば、ぼくが送っていたのは、熱い視線ではなく、奇異の視線だったのかもしれない。

「『熱い』と『奇異』じゃあ、あまり言葉がかかっていないけれど~。そもそも文字数も違うし、最後の『い』しかかかってないよ~」

「おれにいつもダジャレ言ってるみたいなキャラ付けをするな。今のは言葉遊びでも何でもなく、ただ単に言い換えただけだ」

「冗談冗談、諸々全部冗談。というかしゅっくんこそ、ワタシに対して跳弾ちょうだんを飛ばすが如くの攻撃的態度だけれど、それが母親に対する態度~?」

「ここぞとばかりに母親面しやがって……、あとで覚えとけよ縞依……。というか母さんこそ言葉遊びに興じているじゃないか!」

 跳弾なんて意図的に飛ばせるもんでもあるまいに。

「ワタシが菜流未ちゃんに嘘をついたと疑っているんでしょ~。それなら安心して。ちゃんと本当のことしか言っていないから」

「本当かあ?」

 それこそ嘘なのではないかと、嘘に疎いぼくは疑ってしまう。

 だって、菜流未さん、魂抜けたって言ってたんだぞ?

 どうしても信じられず、なおも縞依と口論を続けようとしたら、他でもない、先程、魂が抜けたと言っていた菜流未が「シュク兄」と、ぼくを呼んだ。

「お、おう。何だよ」

「大丈夫、多分お母さんの言ったことに嘘はないと思う。あたしがびっくりしちゃっただけ」

「そ、そうなのか?」

 それはそれで謎だ。

 ぼくの話の何処に、びっくりするエピソードがあったのだろう……。

「お母さん」

 と。

 ぼくの疑問が解消される前に、菜流未が縞依に話しかけていた。

「教えてもらったところ悪いんだけど、今から少しシュク兄を借りていいかな」

 え?

「別にいいよ~。ワタシからとり急いで話すことは特にないからね~」

 縞依はその後に、所詮ワタシはサブ的な扱いだし ――― と、少し意味のわからないことを呟きながら、早急にリビングから出て行こうとする。

「ちょ、ちょっと待てよ、しま ――― 母さん」

「安心して~。忠さんは今日出ているし、あとはワタシから話しておくよ~。キミたちの気が済むまで、このリビングを使いなさ~い」

「いやそういう問題じゃなくて ――― 」

 ばたん。

 と、縞依はそう言い残して、そそくさとリビングを出て行ってしまった。


夢祝 4 也夢


「ったく。何だよ、縞依の奴……」

 笹久世 縞依。

 相変わらずトリッキーな女で、それはぼくが、あいつと関わりあった時から、ずっと変わっていないことだった。

「シュク兄」

「…………」

 いつの間にか菜流未は、リビングにある、大きな四角状のテーブルのほうへと移動していた。

「こっち、来て」

「……ああ」

 ぼくは菜流未に促されるまま、大きな四角状のテーブルに菜流未と対面するように座った。

「恋だね」

「結論言うの早くない?」

 こういう場面って、もうちょいためるもんではないのか。

 つくづく思うのだが、菜流未との会話は、テンポというか、歯車というか、波長が全く合わない。まあとはいえ、この発言から、縞依が菜流未にあることないこと吹き込んだという疑いは、晴れたことになる(多分)。

「いやいやいや、恋以外の何物でもないよ、それ」

「そ、そうか? お前の勘違いってこともあるだろうが」

「いや、少し自信をもって言わせてもらうけど、それはないよ」

 ほう。

 それはもう、本当に自信たっぷりというような感じで、菜流未は言った。

「あたし、学園でも屈指の人気を誇っているんだけど」

「ああ、それは知ってるけど、自分で言うか」

 縞依と違って、冗談で言っていないのが腹立たしいが、事実だからまあ良いのか。

 ……良いのか?

「それで、そこまでの人気にもなると、色んな迷える人から色んな迷える相談を受けるのね」

「ああ……、なるほど。つまりこれと同じような相談を、お前は既にその色んな迷える人とやらからされているのか」

「ま、そういうこと。で、シュク兄と同じような相談をしてきた人の、ほぼすべてが恋だった、ってワケ。とは言っても、仮にそんな経験譚があたしに無かったとしても、それは恋だって断言してただろうね。それくらいに簡単な話だよ」

 人気者な菜流未というより、馬鹿な菜流未が言うからこそ、説得力のある言葉だった。

 うーん。それにしても、縞依も同じようなことを言っていたような気がするが、そんなにこの話って簡単なのか?

「すごく簡単、至極簡単」

「お前も母さんも、そうやって簡単簡単と言うが、おれにはどうしてもそう思えないんだよな。そんなに言うなら、感嘆符を交えながら説明して欲しいものだ」

「『かんたんふ』って何?」

 ダジャレが通じない!

「ビックリマークのことだよ。そんなのも知らないのかよ、馬鹿だな」

「『びっくりまーく』って何?」

「今まさに使うけれど、流石にそれはもう、馬鹿とかで片付けられる頭の悪さじゃないぞ!」

「ああ、なーんだ。エクスクラメーションマークのことか」

「何でそっちの呼び方は知ってるんだよ⁉」

 妹奈が教えてくれていたので、かろうじてぼくも知っていたが、言っても、ぼくは最近まで知らなかったぞ、エクスクラメーションマークなんて呼び方。

 こいつは、頭が良いのでも悪いのでもなく、頭がおかしいのかもしれない。

「話を戻すが……、なんて言うか、素直に『恋だ!』と受け入れ難いって感じなのかな」

「うん、あたしのところに恋の相談をしに来る人の中に、同じような人がいたから、その気持ちはなんとなくわかるかな」

「ふーん……」

「恋っていう自覚がないんだよ、って言ってあげると、そのまま素直に受け入れる人もいれば、シュク兄みたいに、その逆の人もいるんだよ」

 だからこそ、人の気持ちとか心って、難しいよね。勉強なんかよりももっと ――― 菜流未は、そう言った。

 ……え。

「難しいって……、お前、じゃあその相談してくる人には何てアドバイスしてんだよ」

 勉強が苦手な菜流未が、その勉強よりも難しいと言っている、人の気持ちとか心を、どのように解決に導いているのか。

 人の恋をどのように導いているのか。

「『告白しちゃいなよ!』って言う」

「それ一番やっちゃいけないやつだろ!」

 そして一番適当なアドバイスだ。

 何ならアドバイスですらない ――― 突き放しもいいところである。

「ま、それで実際結構解決できているんだし、良いでしょ」

「解決できているんだ……」

 それで解決できるなら、実は人の気持ちや心というものは、そこまで難しいものではないのかもしれないと思ってしまうが。

 まあ、そういうわけではやはりなく。

「でも今回、相手がシュク兄なわけだし、兄妹のよしみってことで、真面目に聞いたげる」

「お、おう。そりゃ、どうも」

「うん」

 個人的にシュク兄が、その人のことをどれくらい想っているのかも気になるし ――― 菜流未は、後に続き、そんなことを小さく呟いた。

 うむ、やっぱり、人の気持ちってやつはわからんな。

 なぜ、いつもはぼくのことを嫌悪し、避けている筈の菜流未が、ぼくの相談にここまで真摯になって聞こうとしているのだろう。

 紳士でも、嫌いな奴には、ここまで親身になってくれまい。

 勿論、そんなことを考えても、やはりわからないので、とりあえずぼくは、改めて渦中の火殿 妹奈について、ぼくが感じていることを、菜流未に話してみることにするのだった。

 夏に告白されたこと、それを断ったこと、それからというもの、頭の中から、妹奈のことが離れないこと云々(ちなみに、吹奏楽部内でハブられ始めていることは、先程言った通り、気にしていないので、説明を省略した)。

「うん、やっぱり本人から改めて聞くと、恋だって確信できるね」

「そうなのか……」

「いい? その人のことが、頭から離れないっていう時点で、それは十分過ぎる程、恋なの」

「ふーん……」

「しかもシュク兄の語りぶりからして、かなり重度と見えるよ」

「なるほどなあ……」

「……少しその人が羨ましく思えちゃうくらい」

「へぇ……」

「……ねえ、人が真面目に相談に乗ってあげてるのに、その腑抜けた返事は何なのよ」

「え、あ、わ、悪い」

 ぼくが、思いの外、真面目に話を聞いてくれる菜流未に改めて感動していたら、返事が疎かになってしまった。

「わ、わかった。じゃあこの気持ちが恋だと仮定してみよう」

「いやもう確定で恋でしょ」

「でもそれって、好きとは違う感情ってことでいいんだよな?」

「はい?」

 何言ってんのこの兄、みたいな顔をしながら聞き返してくる菜流未。

「いやだって、そうだろ。恋ってのは要するに異性に強く惹かれるってことであって、好きという感情ではない筈だ」

「いやいや違うよ。惹かれてるってことは、それはもう好きなんだよ」

「いやいや違うよ。おれ、別にあいつのこと、好きだと思ってないし」

「はあ?」

 驚きというよりは、呆れたような顔をされた。

「どうしよう、あたしのにいが、色んな意味で重症過ぎる」

「重症とは失礼な。おれは生まれてこのかた数えるくらいしか病気にかかってないぞ」

「そういう話をしてんじゃないの!」

「うおお、何だよ、突然大声上げて。或いは感嘆符を使って」

 何かがしゃくさわったらしい。

「も! う! ひっ! さ! び! さ! に! 頭! き! た! シュク兄!」

「は、はい⁉」

 怖い怖い怖い。

 目が、顔が、圧力が、感嘆符の数が、ものすごいことになっている。

「あたしは今、珍しくシュク兄の相談に真面目に乗ってあげてる。そうだよね⁉」

「はい、その通りです」

「それなのにシュク兄はあーだこーだと屁理屈ばかり! あたしが恋だと言ったら、それは恋だし、好きって感情だって言ったらそれは好きって感情なの!」

「えぇ……」

「何⁉ この期に及んでまだ屁理屈言うつもり⁉」

「いえ、とんでもありません」

 とても強引な理論である。

 支離滅裂である。

 それなのにぼく、なぜ妹の言い分に、へこへこしているんだろう。

「わかりました。わたしは、火殿 妹奈さんに恋をして、好きになりました」

 そんなの、暴走して手の付けられない状態になる前に、菜流未の怒りをできるだけ買わないようにするために決まっている。

「うむ、それでよろしい」

 腹立つなあ、それにしてもこの大仰な振る舞い。

「じゃあ、結局のところ、ぼくはこれからどうすればいいんだ?」

「告白しちゃいなよ!」

「急に投げやりになったな、おい」

 それ、いつもお前のところに来る人たちに贈ってる言葉なんだろ?

 何か、いざ面と向かって言われると、無性にその面を殴りたくなったんだが、よくみんな我慢できるな。

「ウソウソ冗談だって。ちゃんと相談に乗るって言ったもんね」

 どんなに馬鹿でも自分の言ったことに関しては、記憶に残っているらしくて、ぼくは安心した。

「先ずは、相手のことをもっとよく知ることだね。さっき強引に、恋をしたとか、好きとか言わせちゃったけど、多分、それはやっぱり、シュク兄の本心じゃないんだよね」

 わかっているなら無理やり言わせるな、と言いたいところだったが、今ぼくが欲しいものは、これからどうするかの指針であって、菜流未の逆鱗ではないので、やめておいた。

「だから、とりあえずは、その妹奈さんって人のことをもっとよく知るべきだと思う。今よりもずっとよく、ね。そうすれば、自分の本当の気持ちに気付けるかもしれないし」

「…………」

「しゅ、シュク兄? だから聞いてる?」

「あ、ああ、聞いてるとも」

 今日、本当にどうしちまったんだ、こいつ。

 いつもだったら、相談に乗るどころか、口を利くかすらわからないくらいだというのに。

「何で……、こんなに親身になって相談を聞いてくれるんだ?」

 ぼくは、純粋に気になって、つい訊いてしまった。

「か、勘違いしないで! これは……、そう、貸しよ、貸し! 兄妹だからという口実で、親身になってあげることで、あたしはシュク兄の無意識のうちに貸しを作ったのよ! だから別に、シュク兄の中で多分最下位のあたしの好感度を回復させようなんて魂胆はぜんっぜんないから!」

 …………。

「……シュク兄?」

「そうだよな! そもそもお前、おれのこと嫌いなんだから、好感度とかどうでもいいもんな!」

「ホントに嘘に疎いなあ……、でも今回は好都合だったみたい」

「ん? 嘘?」

「ううん、なんでもない」

 ? 何が嘘だったって言うんだ、今の。

「……まあ、いいや。そっか、貸しね。わかったよ」

「う、うん」

 ぼくは席を立ち、菜流未に近寄り、

「ま、それでも嬉しかったよ。ありがとな菜流未。おれの中でお前の好感度、だいぶ上がったぜ」

 そう言って、頭を撫でてやった。

「ふわっ⁉」

 ふわっ⁉ って何だよ。

 なんだか浮きそうだな。

「ふわあああ…………」

 本当に浮き上がってしまいそうな表情をしてるな。

 妹たちの中で、頭なでなでは、結構評価が高いのを、ぼくは知っていたので、今回特別にやってあげたのだが、本当に気持ち良さそうだな。

「ねえ……、シュク兄」

「何だ?」

 ぼくは、撫でる手を止め、菜流未の言葉を待った。

「あたし個人の我儘、言ってもいいかな?」

「? 何に対する我儘か、よくわからんが、まあ、言うだけ言ってみろよ」

 ぼくは、菜流未に先を言うように促した。

「あたしは……、シュク兄が誰かと付き合っちゃうのは、嫌だなって思うの」

 …………。

 その我儘が、果たして叶うのか否か。

 それを、この時のぼくたちは知らない。


祝 5 也


 ジリリリリリ ―――

 パチン。

 目覚まし時計を乱暴に叩いて、ぼくは起き上がった。

 ――― こんな表現をすると、まるで物語の冒頭部分に見えてしまい、今までのことは全部無かったかのような、リセットしたかのような気分になる。

 がしかし、勿論そんなことは一切ないわけで。

 ぼくは部屋を出て、兎怜未の部屋へと向かう。

 あの日 ――― ぼくの存在力に変化が及んだ日から、約二週間が経った。

 最近の新しい日課である。

 ぼくはこんこんこん、と、部屋の扉をノックする。

「兎怜未。今日は学園、行けそうか?」

「……うん、大丈夫」

 あの日から、兎怜未は、三日に一回くらいの頻度で学園を休むようになった。

 本人はずる休みだと言っているが、小学生からそんなサボり癖がつくのは正直良くないので、ある程度無理をさせてでも、学園へ向かわせるべきなのだろうが、ぼくにはそれが憚られた。

 噓に疎いぼくだから確証はなく、ほぼ当てずっぽうなのだが、多分兎怜未は嘘をついている。

 もっと言うなら、学園で何かあったと、睨んでいる。

 そうでもないと、ある日突然いきなり学園をサボり始めるようなことをするだろうか。

 だから、ぼくは『この状態の解消』のためにも、兎怜未の悩みから解決をしていこうと思ったのだが、しかしそれも同じように憚られた。

 兎怜未からは今、誰にも深く踏み込んで欲しくないという障壁のようなものを感じる。たとえそれが、家族だろうと、兄妹だろうと、それは多分、打ち破ることができないだろう。勿論、そんなもの知るか、と無理やり話を訊き出すことも出来るのだろうが、それが果たして『この状態の解消』に繋がるかといえば、正直微妙だ。

 この障壁を破ることが出来るのは、時間だけだと、ぼくはそう判断した。

 だから、兎怜未への干渉は、現時点ではこの程度に留めている。

「ちゃんと朝飯食えよ。今日は菜流未が作ってる筈だよな。ちゃんと食わないと、祝也兄さんが食べちゃうからな」

「食べられないくせに」

「はは、冗談だよ、冗談」

「…………」

 そう、冗談だ。

 前までは、そういう強奪も出来たのだろうが、今はもう無理だ。

 ぼくの起こした自然現象、物理現象が認知されるようになった。

 つまりぼくがご飯を食べようとするのを、妹たち以外に見られると、ご飯が浮いているように見え、主観的には普通に自然現象、物理現象のそれなのだが、客観的には超自然現象、怪奇現象に捉えられてしまうだろう。

 はじめは ――― 存在が認知されなくなった直後は、ぼくもパニックになっていて、怪奇現象になってもいいから、せめて、自然現象は認知して欲しいと懇願したものだが、今なら ――― 存在が認知されなくなった直後よりは幾分か落ち着いた今なら、わかる。そんなことをしたら、ぼくよりも何倍ものパニックが不特定多数の人間に襲いかかるだけで、何の解決にもならない、ということを。

 だから、ぼくは存在力が中途半端に回復した結果、却って生きにくくなったという次第である。

 まあ、食事に関しては、今までと変わらない体制で問題ないだろうが ――― ぼくはそう思いながら、次に未千代の部屋へと、足を運んだ。そして、先程と同じように、こんこんこん、と部屋の扉をノックする。

「はーい」

「ぼくだ、入るぞ」

「合言葉は?」

「結婚」

「はい、どうぞ~」

 ぼくは通常運転で頭のおかしい未千代に、頭を抱えながら部屋へと入る。

「お待ちしていましたよ、祝也さん。既に朝食は用意しましたので」

「ああ、悪いな」

「いえいえ。私がしたいからしているだけです。お礼なんていいんですよ」

「それでも、やっぱ助かってるのは事実だしな」

 ちなみに、この食事を実際に用意しているのは、未千代本人ではなく、未千代の幼馴染であるマネージャーである。ある日突然、詳しい理由も訊かされずに(というか言えない)、毎日三食分の食事を用意するように未千代から言われ、困惑していたそうだが、何とか未千代が言い包めたらしい。まあそうでなくとも、あのマネージャーが、未千代の頼みを無下にできるとは思わない。昔にあった出来事にかんがみると、そうなるのも無理はないが ―――

「祝也さん?」

「あ、ああ、どうした?」

「いえ、祝也さんが、何だか上の空なご様子でしたので」

「ああ、悪いな。なんでもない」

 いけない、いけない。物思いにふけり過ぎたようだ。

「てっきり、兄妹間でのイケない行為の妄想をして、悦に浸っているのかと」

「それはお前だ」

「な、なぜそれを⁉」

「お前の普段の行いを見れば、余裕で見当つくわ。てかそんな妄想すんなや」

「流石は祝也さん。私の考えていることなどお見通し、というわけですね。それが出来るのは、ひとえに祝也さんが私を思ってくれているからなのですよね。私は幸せ者です」

「何でぼくの妹たちって、こんなに頭の中がお花畑なんだろう」

 それにしても『私は幸せ者です』か。

 少し前の未千代だったら、そんなこと、冗談でも絶対に言わなかっただろうに。

「後は、私と結婚をしていただければ、この上ない喜びと幸せに溢れるのですが」

「しないから」

「ぶう」

 くそ! ちょっと可愛い!

 後、触れるのがだいぶ遅れたが、未千代の部屋に入る際のあの合言葉、いい加減辞めたいんですけど。

「あれあれ? どうかしましたか? 祝也さん。急に顔を逸らしたりなんかして」

「別に何でもねーよ、ちょっと女のあざとさってやつに恐怖を抱いてただけだ」

「? はあ。何を仰っているのか、よくわかりませんが……」

「そんなことよりも、だ」

 ぼくは、未千代の机の上に置いてある食べ物を指さす。

「無駄話をしてたら飯が冷めちまう。お前ももうすぐ仕事だろ?」

「む、無駄話って。いいですか、祝也さん。私は本気で結婚を考えて ――― ん? 祝也さん、違いますよ」

 ん? 何が違うってんだ?

「今日、私は久しぶりに学園に行くことになっているのです」

「あれ、そうだったのか」

 ですからこの話はまた夜に、とか何とか言いながら、未千代はそそくさと部屋を出て行った。

 …………。

 急に、ひとりになった。

 とりあえず、妹のとはいえ、いつまでも異性の部屋にいるのは落ち着かないので、ぼくは食事の乗ったお盆を持ち上げ、自室に持って行く。

 その途中、あいつが ――― 縞依が、寝室から出てくるのを目撃した。

 縞依は、向かいの窓に立ち、

「ん~。今日も良い天気だな~」

 と言いながら、ひとつ、大きな伸びをしていた。

 ぼくは、そんな縞依を、『あの日』のことを思い出していた。


祝 6 也


「おい! 待てよ!」

 ぼくは、自分の名を、あだ名を久しく呼んだ縞依が、立ち去ろうとするのを呼び止めた。

 すると、縞依はゆっくりと

「お前には……、ぼくの声が聞こえるのか?」

「…………」

「お前は…………、何者なんだ?」

 笹久世 縞依。いや ――― 片樹内かたきうち 縞依。

 ぼくは、奴を、旧姓で呼んだ。

 片樹内 縞依。ぼくとこいつが、親子供の関係になる前 ――― すなわち、純粋に幼馴染という関係だけであった時の、奴の姓。

 幼馴染と聞くと、幼稚園や小学校低学年なんかからの知り合いみたいに思われるかもしれないが、ぼくと縞依の場合はさらに少し前 ――― 物心つく前から、既に知り合いだったと、父さんから聞いた。

「まるで、生まれた瞬間から ――― もっと言うなら、生まれる前から、既に知り合っていた仲のように見えた」

 そんなことを、父さんは何処か、複雑な面持ちで言っていた。

 生まれる前から、というのは流石に言い過ぎの感が否めないが、やはり、笹久世 縞依という女が、謎に包まれ続けているこの現状は、どうにも釈然としないものがある。

 なぜ、幼馴染でありながら、ここまで奴の素性が見えてこない?

「そういうところ、なんだよな~」

「縞依……、どういうことだ?」

 やれやれ、といった感じで、縞依は続ける。

「今、しゅっくんの中では、色々な考えや疑問が渦巻いているんだろうね~。なぜワタシはキミのすべてを認知できているのか、ワタシとしゅっくんは、厳密にはいつから幼馴染という関係になったのか、そして今、しゅっくんが口にしたように、ワタシは一体何者なのか……、他にもあるだろうけど、大きく纏めると、そんなことを考えて、そして疑問に思ったんじゃない?」

「……ああ、そんなところだ」

 実は、目下もっかの最大の謎である筈の『なぜ縞依はぼくのすべてを認知できているのか』を疑問に思うのを、怠っていたということを、わざわざ縞依に告げることもないだろうと思い、ぼくは、そのまま頷いた。

「そう、そういうところなんだよ~」

「だから、何を伝えたいのか、わかるように言ってくれよ」

「そういう難しく考えるところだよ~」

 縞依は、ぼくを指さして言った。

「それに、わかるように言っちゃったら、つまらないじゃない」

 お話にならないじゃない ――― 縞依は続ける。

「でもそうだね。ヒントくらいは言ってあげる~」

 縞依は意地の悪い、しかしいつものふわふわした奇妙な口調で言う。

「人には、表の顔、裏の顔ってあるじゃない?」

「……? まあ、あるだろうな」

 何の話だ?

「よくある例は、善良な一般市民が、実は、その辺り一帯で有名な、犯罪グループのボスだった、みたいな感じかな」

「いや全くないと思うわ。そんな例」

 お前はこの国を何だと思ってるんだ。

 これでも他国に比べれば、かなり治安の良い国だと思うのだが。

「こういう油断をしている人が、通り魔とかにスパッとやられちゃうんだよね~」

「お前……、おっとりしているように見えて、考えてることが残忍だな」

「今に始まったことじゃないでしょ~。むしろ今更そんなことを言われるなんて残念だよ~」

 恐ろしい限りである。

「で、それの何処がヒントなんだ? てか、そもそもどの謎に関するヒントなんだよそれ」

「あら、ワタシとしたことが。それについて言うのを忘れていたよ~」

 縞依は、握り拳をつくった右手で、自分の頭をこつんと当てた。

「じゃあ、会話の主導権はお前に委ねるから、ちゃっちゃと話しちゃってくれ」

「うん、わかった~。ワタシはね、実はキミの母親でもなければ、幼馴染でもないんだよ~」

「ほーそうだったのか。なるほどなるほど」

 …………。

 ………………。

 ……………………。




「はああああああああああああああああああああ⁉」




「しゅっくん、うるさい。改行してまで叫ばないで」

「いやいやいや、だってさ! 場面転換の直前で発言するとか、とか一切なしで、突然爆弾発言ブチかまされたんだぞ⁉」

「だって、しゅっくんが、ちゃっちゃと言えって言うから」

「まさか、そんな衝撃的なことを言われるとは思わなかったんだよ! え、何、ぼくが悪いの? ぼくの責任なの⁉」

「全面的に、そうかな~?」

「畜生! すみませんでしたあああ‼」


 時間経過。


「どう? 頭の整理はできた?」

「おう、落ち着いたら何とか。それでもわからないことだらけだが……」

 要するに、この笹久世 縞依という女は、笹久世家の大黒柱である、笹久世 忠の妻という顔を持ち、ぼくら兄妹にとっての義理の母親という顔を持っていて、なおかつ、ぼくの幼馴染という顔も持ち合わせていると思っていたが、さらに別の顔 ――― 縞依の言い方を借りるならば、裏の顔を持っていて、幼馴染と母親というのは所謂仮面 ――― 表の顔ということか?

「ま、そういうことだから、何のヒントだと問われれば『ワタシの正体』について、だね~」

「……じゃあ本当にお前は何者なんだ?」

 ぼくは、最初にした質問を、改めてぶつけてみた。

「だからそれを言っちゃったら面白くないでしょ~が」

 ぼくはこの話に面白さなんて求めていないのだが……。まあそこは、ぼくの都合には合わせられないのだろう。

 そういうことなら仕方ないか。

「それに、このヒントを教えてあげたことで答えがわかれば、ワタシがしゅっくんを認知している理由もわかるし、先ずこの時点で、ひとつの謎が解決したじゃない」

「え? …………あっ」

 なぜ答えがわかれば、縞依がぼくを認知している理由もわかるのかは、理解に苦しむが、後者のほうは、低能なぼくでも、流石に思い当たった。

 笹久世 祝也と笹久世 縞依は、いつから幼馴染だったのか。

 答え:幼馴染ではない。

「いや、母親でも幼馴染でも、一応あるんだけどね ――― あくまで表の顔ってだけで。語弊を生む言い方だったね。ゴメンね~」

 今までのぼくは、精々、笹久世家のお母さんという立場が表の顔で、ぼくの幼馴染であるという立場が、裏の顔だと思っていたのだが、まさかそれすらも、表の顔であったというわけなのか。

 にしても、そういう意味になってくるなら、語弊があるってレベルじゃねーだろ。

 先程の謎も、なし崩し的に再び答えがわからなくなってくるし。

 もしかしてぼく、縞依に遊ばれているのか?

「ま、その辺りのハテナは、自分で解決してもらうとして、最後にひとつ、忠告をしておくね」

 忠告というか、ただの報告かな~? と縞依。

 正直、これ以上新しい情報が入るのは、忠告だろうと報告だろうと何だろうと、頭の中が追い付かずにショートしてしまうので、やめて欲しいのだが。

「ワタシ、これ以降は、他の人たちと同じ振る舞いをするから~」

「……というと?」

「ほら、今のところ、妹ちゃんたちにしかしゅっくんの存在って認知されていない筈でしょ~? それなのに、ワタシがしゅっくんを認知していたとなったら、色々とややこしくなるからさ~」

 既に色々と、派手にややこしくなっていると思うのは、きっとぼくだけではないと信じたい。

「だからワタシはとりあえず、他の人たち ――― 忠さんみたいな立場に落ち着かせてもらうよ」

「そうか……」

 大した返事を返すことも出来ずに、ぼくはただ、頷いた。

「だから、キミも先ず、ワタシのことは一旦忘れなさいな」

「いや……、それは無理だろ」

「う~ん、まあ、しゅっくんのことだから、そう言うとは思ったけど。ほら、人の心配をするより先に自分の心配をしろ、って言うじゃない?」

 別に、ぼくは縞依の心配をしたつもりはないのだが……。どちらかというと、疑っている、といった感じだ。

 しかしまあ、縞依の言いたいことも、わからなくはなかった。

 縞依の驚きの発言の数々で、すっかり薄れてしまったぼく自身の問題というものがある。

「じゃあ、そろそろワタシは、連れていかれた忠さんを連れ戻して、仕事に行かないと ――― 」

「待て。最後にひとつだけ」

 ぼくの起こした自然現象、物理現象が、妹以外の人間 ――― 縞依はおろか、父さんまでもが認知したという件について ――― すなわち、自分の心配について。

「ぼくの存在力が若干回復したこと……、そして、さらにぼくの存在力を回復させる方法……、縞依は何か知っているんじゃないか?」

 ぼくの最後の質問に、縞依は、

「さあ~? キミの愛する妹たちにでも、訊いてみればいいんじゃないかな~?」

 と、最後までとぼけるような素振りで、そしてやはりふわふわとした口調でそう言うのだった。


祝 7 也


 と、いうわけで。

 その日の夜のことである。

 両親は夜遅くまで仕事とのことで、早速いつものように、リビングの大きな四角状のテーブルを四兄妹で囲んで、会議を行った。

「よし。じゃあ今回は、各々で手に入れた情報の交換とおれの存在力の回復について、話し合いたいと思うのだが」

「ちょっと待って、祝也兄さん」

 と、いきなり進行の妨害を入れてきたのは、頭の切れる三女の兎怜未だった。

 まだ話、始まってもないんですが。

「兎怜未はてっきり、兎怜未たちの情報を祝也兄さんに開示するだけだと思っていたのだけど、祝也兄さんの言い方から察するに、祝也兄さんは祝也兄さんで、何か兎怜未たちに開示するような情報があるの?」

 しまった。

 いきなり地雷を踏んでしまったらしい。

「あ、確かに。ウレミンの言う通りだ。シュク兄にも何かあったから『情報の交換』なんて言い方をしたんだ。そうなんだね? シュク兄」

 菜流未も、なるほど、といった感じでそう訊いてきた。

 マズいな。

 縞依は最後に、自分がぼくを認知しているということが、周りに(というか、主に妹たちに)知られた時の混乱を危惧して、いつも通りの振る舞いをあえてすると言っていた。つまりそれは、ぼくが妹たちに、今朝あったことを言ってはいけない、と遠回しに言われているのと同義であることに、遅まきながら気付く。

 あれは、忠告でも報告でもない ――― 警告だったのだ。

 そして今、この状況がどのようにマズいのか、というのは、今更わざわざ説明する必要もないとは思うが、一応言っておくと、ぼくは絶望的に嘘が下手だ。

 それだけ言えば、何がマズいのか、わからないわけがあるまい。

「あー、あの、だな」

 ぼくは何とか逃げ道はないものかと、頭の中で必死に言い訳を模索するが…………。

 無理だ。どう足掻いても、嘘がバレる未来しか見えない。

「すまん! 今のは、無かったことにさせてくれ!」

 結局ぼくは、何も思いつかずに、ただ素直に、安直に、妹たちに頭を下げるのだった。

「無かったことにって言われても……、ねえ、ウレミン」

「うん、そういうわけにはいかないよ、祝也兄さん」

「すまん、お前たちの言い分は痛い程わかるさ。だけどこれを言うことはできない。少なくとも、今は待ってくれないか」

 ぼくは再度妹たちに頭を下げる。

「シュク兄……」

「祝也兄さん……」

 声色を窺う限り、菜流未と兎怜未はまだ納得がいっていないような、そんな雰囲気を醸し出していた。

「わかりました」

 と。

 ここで、沈黙を貫いていた未千代が口を開いた。

「祝也さんが、私たちにここまですることなど、滅多にありません。つまり、それ程に私たちには言えないことなのですよね?」

「……そうだ」

「なら、私は何も訊きません。私はいつでも、祝也さんが望むままにします」

 祝也さんのことを、一番に考えていますから ――― 未千代はそんなことを言った。照れる。

「菜流未さんと兎怜未さんは、どうしますか?」

 そして、下の妹ふたりにそう訊いた。

「……言い方がウマいんだよなあ、ミチ姉」

「本当、未千代姉さんには敵わないなあ」

 菜流未が、わかった、わかりました! と、頭を掻きながら言い、兎怜未も、本当しょうがないなあ、兎怜未の兄さんは、と、溜息交じりに言う。

「あたしたちもシュク兄からは何も訊かない」

「それでいいんでしょ?」

「お前ら……」

 ありがとう。

 ぼくは、三度、妹たちに頭を下げた。

 しかし、今度は、謝罪の言葉でなく、感謝の言葉を口にして。

「ふ、ふん! 別にシュク兄のためじゃないし? ミチ姉が潔く引いてるのに、あたしたちがいつまでも駄々をこねてるのが、恥ずかしかっただけで ――― 」

「あれ、そうだったの? 兎怜未は、普通に祝也兄さんが困ってそうだったから、引いただけなんだけど」

「あー! ウレミン、裏切ったな~!」

「……はは」

 ぼくは、珍しく勃発した、次女VS三女の喧嘩に苦笑しつつ、今のアクシデントから助けてくれた未千代へと視線を移し、

「ありがとうな、未千代。助けて貰っちまったな」

 と、声をかけた。

「いえいえ。これくらいのこと、何でもありません。夫婦というものは助け合って生きていくものなのですよ?」

「兄妹ですよ?」

 やれやれ。

 それでは改めて、始めるとしよう。

「それでは、おれの尊き妹たちよ。父さんから得た情報をおれに伝えてくれたまえ」

「それが……」

「何の情報も……」

「得られなかったんですよね……」

「「「「…………」」」」

 会議、終了。


祝 8 也


「ええ⁉」

 嘘だろ⁉

 ぼくが地雷を踏んだ際に、あたかも自分たちには収穫がありましたみたいな雰囲気出しておいて、それはちょっと酷くないか⁉

 まあ、だからと言って、流石に会議を終了したりはしないのだが。

「いや~、勿論、あたしたちもすぐに諦めたわけじゃないよ?」

「うん。パパに色々訊いたけど、どの質問も『わからない』の一点張りで」

「仕方ないと言えば、仕方ないとは思いますが……。それ以上に、祝也さんのお役に立てずに、申し訳なく思います」

 確かに、仕方ないのかもしれない。

 父さんは ――― 笹久世 忠は、笹久世 縞依と違って、普通の人だ。普通に某有名企業で働いて、普通に家族と平和に生活をし、普通にぼくを認識していない。そんな人が、いきなり意味のわからないことを訊かれ続けたら、そりゃあ『わからない』と答えるしかないだろう。

「だからお前らが負い目を感じることねえって」

 ……今思うと、菜流未や兎怜未が、ぼくの情報をあそこまで食い下がって引き出そうとしたのも、成果がないといった事情があったからと考えるなら、さもありなんという感じである。

 あれ、でも待てよ。てことは、つまり……。

「交換する情報、全くない?」

「そうなりますね」

「そうなっちゃうね」

「それしかないね」

 この会議の意味が、本格的になくなってきちゃったんだけど。

 てか、それしかないって何だよ、兎怜未。

「えと……、で、でも祝也さん! 大事なお話がまだあるじゃないですか!」

 ぼくが、会議の意味を見失いかけていたその時、未千代が、ぼくを斟酌しんしゃくするように口を開いた。それに続き、下ふたりも、

「そうだよ! 何でシュク兄の存在が少し回復したのか、情報が無くても、あたしたちで考えようよ!」

「菜流未姉さんの言う通り、たとえ交換する情報が無くても、それを兎怜未たち自身が考察することは出来るからね」

 と続けて言う。

 そうだ。

 これくらいでへこたれてはいけない。

 むしろこの話が、今回の主な議題であっても良いだろうに、なぜ勝手に意気消沈していたのだろう……、ぼくの引き起こした自然現象、そして物理現象が、事情を知っていそうな様子の縞依だけでなく、一般人である父さんにも認知されたことについて。

 ぼくの存在力の回復について。

「それで……、今日の学園ではどうでしたか?」

「ああ、確認したけど、やっぱりぼくの存在力の回復は、父さんに対してだけじゃなかった」

 今日、噂好きの田中に、ちょっかいをかけてみた(大きな音を出してみたり、耳元にフーってしたりした)ところ、普通に驚いていたので、間違いないだろう。

「その他にもいろいろ試したけど、やっぱり同じ結果だったよ。自然現象、物理現象までは認知されるようになったけど、それ以上のことはなかったな。相変わらず、ぼくそのものの存在については、からっきし認知されていないし」

 だから、この状態で妹たちが、父さんに、笹久世 祝也の存在について語っても、相も変わらず、自分の娘がおかしくなったと誤解されてしまうだけということである。

 それを踏まえると、おのずと次なる議題が定まってくる。

「どうしたら、或いは何が基準で、祝也さんの存在力が戻るのか ――― ですね」

「ああ。何の前触れもなく、おれの存在力が戻ったとは、やっぱりどうしても思えないよな」

 そこで「じゃあ」と口を開いたのは、次女の菜流未だった。

「今日、シュク兄の存在力がちょっとだけ戻ったのも、その前にシュク兄が、何かそうなるようなことをしたからってこと?」

「そういうことだな。ふん、馬鹿なくせに今日は冴えてるじゃないか。何だお前、ひょっとして馬鹿なのか」

「馬鹿じゃないやい! ていうか、馬鹿なあたしでも、流石にその文脈はおかしいと気付いたんだけど⁉」

「お前のその発言も、矛盾しているけどな」

 やっぱ馬鹿だな、こいつ。

「とりあえず、昨日祝也兄さんが何をしたのか、一緒に思い出していこうよ」

「そうだな。馬鹿は放っておこう」

「流石に傷付くんだけど」

 ぼくは悪かった悪かった、と言いながら今にも泣き出しそうな菜流未の頭を撫でながら(この時、なぜかその様子を長女と三女が凝視していた)兎怜未の言うままに、昨日起こったことを慎重に思い出してみる。

「………………あ、わかった!」

 ぼくのその言葉に、三愚妹は一斉にぼくを見る。

「昨日おれはお前たち三人の裸を見た! てことは、これから毎日のようにお前たちの裸を見れば ――― 」

 ええ、言うまでもなく、次女と三女にボコボコにされましたとも。

「シュク兄、ホンットサイテー!」

「流石にドン引きだよ、祝也兄さん」

 あれえ、兎怜未くらいならノってきてくれると思ったのに。

「だ、大丈夫ですか? 祝也さん」

 おお、そうは言ってもやはり、未千代だけはぼくの味方をしてくれるのか。

 流石はマイスウィートエンジェル、未千代さん ―――

「でも、流石にちょっと今のは、気持ち悪かったです」

 がーん。

 除夜の鐘を思いっきり頭にぶつけられるような感覚だった(ごーん)。

 屈指の変態こと、未千代にそこまで言われるのは、正直言ってかなり凹む。というか不服だ。

「私は、奥手な祝也さんが好きです。私からの求婚を断りつつも、頬を赤くして、まんざらでもない、といった表情を浮かべる祝也さんが」

「シュク兄……」

「祝也兄さん……」

 下ふたりの視線がさらに鋭くなるのを、全身で感じる。目で殺されそうだ。

「いや、お前たち、おれは普通に断っているぞ? まんざらでもないわけがないじゃないか」

「「どーだか」」

 え、きみたち、ぼくが嘘つけないの知ってるよね? 何で疑うの?

 まあ、冗談はこれくらいにして。

 実を言うと、ぼくは、存在力の回復方法について、ある程度の目処が立っていた。正直な話、この三愚妹の裸を毎日見るという説も、あながち冗談ではなく、本気で言っていたことだったりするのだが、それはこいつらだって嫌だろうし、ぼくだって御免である。

 というわけで、その説を一旦蚊帳の外へと持って行くと、残った昨日のぼくの行動など、限られてくる。

 そう、妹たちの頼み事の解決だ。

 ぼくは昨日、妹たちから小さな頼み事(未千代のは結構危なかった気もするが)を、連続で引き受けていたのだった。

 三女の兎怜未には、膝枕&頭なでなで、次女の菜流未には、一緒に風呂に入る&身体を洗う、長女の未千代には、抱擁&一緒に寝る、と、改めて頼まれ事をざっくりと纏めてみると、このような感じだが……、特に統一性が見出せないことから、恐らく頼み事の内容は、基本的に何でも良いのだろう。

 肝要なのは、にある。

 それが多分、鍵だ。

「お前たち、ちょっといいか」

 ぼくは即興でたてた仮説を、妹たちに論じた。

 まあ、ぼくが妹たちの悩み事を解決すればいいんじゃないか、なんてことを、その本人たちに提案するのは、少し気が引けたのだが、これ以上意見を出し渋っていると、本格的に会議にならないので、やむを得なかった。

 毎日裸を見せてくれ、というよりかは、だいぶマシだろう。

「なるほど……、それはありそうですね」

「おー、シュク兄が頭良く見える」

「それより、昨日、兎怜未の後に菜流未姉さんと未千代姉さんとも楽しいことしてたんだ……」

 兎怜未さん、別にぼくとしては何にも楽しくなかったからね? 大体、未千代の件はお前も朝、目撃しただろうに。

「はあ、ま、いいや。というわけで、おれはこの仮説を早速検証していきたいわけだが……、お前たち、何か困っていることはないかね?」

「「…………」」

 あれ?

 下ふたりの顔が、今少しピクついたような ―――

「申し訳ないです、祝也さん。引き続き、授業の出席代行を続けてくださるならば、私は現在、他に困ったことはありません」

「あ? ああ、そうかそうか、いや別にないなら仕方ないよな。ははは……」

「あ、でもでも、祝也さんが私との結婚に中々踏み切ってくれないのは少し困ってます」

「あー! ミチ姉! またそんなこと言って!」

「未千代姉さん。兄妹というのはそういう ――― 」

 ……ぼくは、改めて昨日の出来事を思い出す。

 三女の兎怜未のサボりだという早退、次女の菜流未の明かされることがなかった相談事……。

「あの、祝也さん? 放置プレイは私の範疇ではないのですが」

「プレイしてねーし、そこまで放置もしてねーよ。考え事くらいさせろ」

 未千代はさておき、下の妹ふたりは、何かしらの悩みがある筈だ。特に次女の菜流未は『相談がある』と、はっきり言っていたしな。

 しかし、紳士代表、笹久世 祝也。ここであえて、次女と三女に何も声をかけない。

 菜流未は『はっきりしたら言う』と言っていたんだし、兎怜未も、もしかしたらぼくの思い違いで、本当にただのサボりなのかもしれない。

 大体、菜流未の問題だって、自己解決できる可能性があるじゃないか。つまりぼくの助力がなくても、解決できてしまうかもしれないじゃないか。

 そうだ、あまりにも馬鹿なキャラのせいで、曇りがちになってしまうのだが、笹久世 菜流未という、ぼくの二番目の妹は、我が啓舞学園において、屈指の人気を誇る女の子である。だから、ぼくがこいつに手を差し伸べる前に、他の取り巻きが解決してしまうということもありそうだ。

 なかなかどうして、これじゃあ、ぼくの入る隙間がないじゃないか。

 …………。

 どうして、そんなことを急に言い始めるのかって?

 まるで、菜流未を助けてやることに抵抗を感じているような、そんな素振りを、どうして見せているのかって?

 だって、面倒くさいじゃん!

 え、何でぼくが、こいつらの悩みを聞いてやらないとならないの⁉

 始めは、元に戻れる可能性が見えてきたという喜びがまさって、咄嗟に、妹たちに悩みはないかと訊いてみたが、よくよく考えると、とても嫌になってきたぞ。

 今まで、妹たちとの仲の良さげな描写ばかりを提供してきたから、もしかしたら菜流未の人気よりも、さらに曇りがちになってしまっていたかもしれないが、ぼくは妹たちが嫌いなのだ。

 隙あらば、結婚をせがんでくる未千代のことも、ぼくを虐めてくる兎怜未のことも、勿論、菜流未のことも。

 嫌いだ。

 …………。

 ………………。

 ……………………でも。

 ぼくは、ひとりの女の子のことを思い出す。

 火殿 妹奈。

 ぼくの彼女だ。

 現在、彼女は『その他の人間』の例に漏れず、ぼくの存在を認知していない。前述したように今日、学園に赴き存在力の確認をしてきたのだが、勿論それは、田中だけでなく、妹奈にも確認をとった。結果はやはり他と同じで、自然現象、物理現象しか認知してもらえなかったが(具体的な確認方法については、各々のご想像にお任せします、うふふ)、それだけでも、ぼくは死ぬ程嬉しかった。

 そしてぼくは。

 もう一度、妹奈と喋りたい。

 ぼくがくだらない持論を持ち上げ、それに妹奈が茶々を入れるというあのお約束をもう一度やりたい。

 そう思ったのだった。

「……頼む。おれのために、お前たちを助けさせてくれ」

 もう今日だけで何度目か、既に数えるのをやめたが、とにかく、ぼくはまたも、妹たちに頭を下げるのだった。

 しかし、謝罪でも感謝でもなく、それは依頼だった。


無 9 無


 その日の真夜中 ――― 日をとっくに跨いでいるので、正確には、翌日の真夜中。

 妹が、玄関の前で、人を待っていた。

 他の妹、より先に帰ってきた父親、そして最愛の兄は、既に夢の中であろう ――― だから、彼女の待っている人間はただひとり。

 玄関の扉がゆっくりと開く。

「あれ~、未千代ちゃん。こんな時間までわざわざ、ワタシのことを待っていたの~? 珍しいこともあるもんだね~」

「……縞依さんこそ、忠さんより遅く帰宅なさるなんて、何かあったのですか? 今までそのようなことはなかったと記憶していますが」

 彼女 ――― 笹久世 未千代は、ずっと待っていた筈の人 ――― 笹久世 縞依が現れたというのに、少し動揺してしまう。

 縞依は ――― 謎に包まれ過ぎている。

 姿を見せただけで、未千代の心を大きく揺れ動かした。

「ははあ、わかった。さてはしゅっくん、ワタシの『警告』を無視して、みんなに告げ口したな。は~、まったく。元々おつむの良いタイプではないと思っていたけれど、まさかここまでだとはね~。幼馴染じゃなかったら、とっくに見限っていたところだよ」

「いいえ」

 未千代は大好きな兄のことを、無実の罪で侮辱する縞依に、多少の苛立ちを覚えながら、反論する。

「祝也さんは私たちに、何も仰らなかったです。確かに、少し口を滑らせていましたが、私たちのことを、決して好いてはいないでしょうに『どうか今は何も訊かないで欲しい』と頭まで下げて、何も仰らなかったんですよ」

 未千代がそう言うと、縞依は、にこにこと楽しそうな表情を浮かべながら、言う。

「ふ~ん……、じゃ、とりあえずその件はそういうことにしておいて、ではなぜ未千代ちゃんがワタシの帰りをこんな時間まで待っていたのかな?」

「それは……」

 この人のことだ。少し考えれば ――― 否、考えなくとも、わかるようなことである。

 それをあえて訊いてくる辺り、縞依さんも意地が悪いな、と未千代は思った。

「私たちは朝、忠さんの事情聴取のために、三人とも席を外しました。そうなると、祝也さんの部屋に残るのは、必然的に祝也さんと縞依さんだけ。あの時私は、縞依さんも祝也さんの出した音の認識は出来ても、祝也さんそのものの認識までは出来ないだろう、と勝手に思っていました……、高を括っていました。しかし、夜の話し合いでの祝也さんの様子から、気付きました。確信しました」

 事情聴取をすべきは貴方でした ――― 縞依さん。

 未千代は、出来るだけ隙を見せずに、自分が縞依の前に立つまでに至った経緯を説明する。

「流石は未千代ちゃん。ワタシたちと長い付き合いなだけはある」

 感心した、というように縞依は、うんうんと頷く。

「でも、ワタシとしては ――― 彼の幼馴染であるワタシとしては、やはりここで擁護するような言葉ではなく、辛辣な言葉を選ぶけど、その辺りが、しゅっくんの詰めの甘さだよね~」

 現にこうやって、未千代ちゃんにバレちゃってるんだし。

 また……。

 また……、あの人を侮辱するのか。

「それは祝也さんのせいじゃない! 私が、悪いんです。気付いてしまった、私が ――― 」

「あれ~? 未千代ちゃんにしては、随分と滅茶苦茶な意見だな~。いや、それを通り越して、支離滅裂 ――― いやいや、もういっそ混沌カオスと言ってしまっても過言じゃないね~」

 理解している ――― 今の発言は、あまりにもどうかしていた。

 彼が好きで、大好きで、その人を幼馴染という立場でありながら罵倒し続ける彼女に、未千代は珍しく憤り、ついおかしなことを言ってしまった。

 いけない。

 この人の前で、隙を見せてはならない。

 冷静に、ならねば。

「う~ん。そんなに警戒、というより畏怖の対象として見ないで欲しいんだけどな……、しゅっくんとワタシ、どうしてここまで態度が違うのさ~。縞依さん、悲しいよ~」

「……確かに、縞依さんには、祝也さんと同じくらいの恩を感じていますし、私の大切な人の内のひとりです」

 ですが。

「ですが……、誠に申し訳ありませんが、私は貴方を、どうしても信頼することが出来ません」

「……そっか」

 無理な話だった。

 何度も言うように、笹久世 縞依という女は、未知の妹であるところの笹久世 未千代すら凌ぐ程の未知に包まれている。

 そんな縞依を、未千代はまるで存在しない ――― 否、のように感じていて、当然そんな不気味な存在には、信頼を寄せることが出来ないでいるのだった。

 そういう面で考えてみると笹久世 縞依はある意味、笹久世 祝也よりも、存在力がないと言っても良いかもしれない。

「今回の騒動……」

「ん~?」

 未千代は、ここで本題を切り出すことにした。

「縞依さんの仕業……、なんですか?」

「…………」

 縞依は、いつもののんびりとした雰囲気に、ほんの少しだけ不気味さを足し合わせたような、複雑な表情をしていた。

「……しゅっくんには、そんなこと、訊かれもしなかったから、ちょっと驚いちゃった~」

 ……未千代からは、決してそのような表情に見えなかったのだが。

「そうだと言ったら、未千代ちゃんはどうする気なの?」

「すぐにこんなことはやめてください、と言います」

 即答した。

 兄は、病に罹ってしまったような現在の状態を、表面上では受け入れているように見えても、本当は苦痛に満ちている筈である。

 彼の嫌いな妹たちにしか、存在を認知されないのだから。

「本当に、それでいいの~?」

 しかし、縞依は ――― 義理の母親は、挑発のような、煽りのような、そんな口調で言いながら、近付いてくる。

「……どういう、意味ですか」

「しゅっくんの存在力が回復するということは、当然だけどキミたち妹以外にも、しゅっくんの存在が認知されるようになる。そうなったら、少なくともしゅっくんは今よりキミたちから、距離をとるようになるだろうね~」

「…………」

「思い出してみなよ。こうなる前の、キミたち妹としゅっくんの距離を、或いは関係を」

 未千代は、言われるがまま、思い出してしまう。

 どれだけ話しかけても、いつものノリで好きだと、結婚して欲しいと言っても、何となく適当にあしらわれていた、当時のことを。

 思い出すと、連鎖的に、ここ最近の兄との会話も、思い出される。

「もしここで、いきなり治ったりしたら、反動で前よりもキミたちの相手を、しなくなるかもしれないね~」

「そんなことっ ――― 」

「特に彼女ちゃん ――― え~っと、妹奈ちゃんだっけ? あの子のところに真っ先に行くだろうね。そうなったらもう、キミたちは用済み。ごみ箱にポイッ、だよ」

「そんな……、こと」

 火殿 妹奈。

 未千代が最も聞きたくない名前だった。

 未千代が最も記憶から抹消したい名前だった。

 未千代が最も記憶から抹消したい人だった。

 火殿 妹奈は、彼の彼女であり、恋人であり、彼が人間として、一番好意を抱いている人。

 羨ましい。そして、恨めしい。

 どうして、兄は、私ではなく、あの人のことばかり見ているのだろう。

 どうして、兄は、私ではなく、あの人が好きなのだろう。

 どうして、私は、そんなあの人を羨ましく思っているのだろう。

 どうして、私は…………そんなあの人を恨めしく思っているのだろう。

 それは、筋違いだ。

 兄が好いている相手を、恨めしく思うのは筋違いだ。

 そうだ ――― 私は、彼の妹なのだ。だから、彼が幸せなら、それでいいのだ。

 私は、彼の幸せを願わねばならない立場なのだ。

 私は、彼が幸せに戻れるのなら、笑顔にならないといけないのだ。

 それなのに ―――

 どうして、私は…………。

 泣いて、いるのだろう。

「ひっく……、私は…………、どうしたら…………、いいの……?」

「あらあら、少しいじめ過ぎちゃったかな~」

 ワタシとしては、そこまで刺激した自覚は無かったんだけど。

 縞依は、少し困ったような表情を浮かべながら、言う。

「今は何もしなくていい。ワタシも何もしないよ。しゅっくんともそんな約束したし」

「ひっく……、そう……、なんですか?」

「うん。ワタシは今まで通り、『普通』に振舞うよ、って。だから、未千代ちゃんもそれでいいよね?」

 まだ、祝也お兄ちゃんと、一緒にいたいよね?

 縞依の、その甘い囁きに。

「はい…………」

 未千代は、頷く他に、選択肢を持っていなかった。

 そして、そのまま玄関で泣き崩れてしまう。

 そんな儚い愛娘を見て、そして愛娘の追及をあっさりかわして、縞依はにっこりと微笑むのだった。


祝 1 0 也


 回想終了。

 今回の回想は、随分とまた長々としてしまったが、この物語の最重要事項と言っても過言ではなく、だから致し方ないということで、大目に見て欲しい。

 さて、現在である。

『あの日』から、さらに約二週間が経った現在である。正確には、縞依を素通りした後 ――― 自室での食事中である。

 もぐもぐ。

 それにしても、はて、どうしたものか。

 未千代が学園に行くことを、先程聞いたばかりで、つまりいつものぼくの仕事である、未千代のクラスの授業への参加が突如中止になってしまって、正直なところ、少し困っている。

 やることが、ない。

 そりゃあ、真にやることがないわけではない。元の状態に戻る目処が立った今、一刻も早く、何かしらの行動をとるべきなのだろうが、前述の通り、兎怜未に無理やり聞き出すのは気が引けるし、未千代も今のところ悩みという悩みはなさそうにしているし……。

 もぐもぐ。

 となると、やはり始めは、次女の菜流未から、ということになるわけだが、その菜流未も、未だに事態がはっきりしていないのか、ぼくに相談を持ち掛けてこない。だから、正確には、やることは山程あるが、出来ないというのが正しい。

 もぐもぐ……ごくん。

 美味い。

 

 …………で。

 結局、ぼくは普通に学園に向かったのだった。最近は、未千代のクラスの授業ばかり受けていたが、たまには自分のクラスの授業を受けてみてもいいかな、と思った次第だ。

 退屈は人を殺す、とはよく言ったものである……、まさか勉強嫌いなぼくが、自ら学園に行くとは、自分のことなのに、驚きが隠せない。

 ……いや、そうでもないか。

 学園に行けば、ぼくの大好きな妹奈に会える。多分それを目的にぼくは学園に来たのだろう。たとえ、妹奈にぼくが見えなくても、ぼくには妹奈がはっきり見える。

 今はそれで十分である。

 していると、どうやら妹奈が登校してきたようだった。周りの人たちに「おはよう!」と元気よく挨拶しながら、教室に入ってくる。

「妹奈……、おはよう」

 ぼくは、届かないとわかっていて、隣の席に座った妹奈に声をかける。

「…………」

 当然、届くことはない。

 いや、自然現象、物理現象が認知されたというのなら、声は『音』なのだから、物理的に説明できる現象なのだが、どういうわけか、それの干渉は不可能のようだった。その辺り、この病は結構適当である。まるで、中途半端な存在が、中途半端に作り出したウイルスのようだ。

 ……中途半端な存在、ねえ。

 奇しくも、そんな存在を、ぼくはふたり程認知していた。

 ひとりは自身 ――― つまり笹久世 祝也で、もうひとりは、母親であり、幼馴染の笹久世 縞依だ。ぼくのことは、もうみなさんご存知の通り、そのままの意味であるので、考察は割愛するが、もうひとりの笹久世 縞依のほうは、どうしても、考察せざるを得ない。いや、あの母親兼幼馴染のことも、もう既に、何度も何度もしつこく考察を重ねている気がするが、それくらい考えなければ、縞依のこと、そして今回の騒動は解決できないような気がするのだ。

 現に、こんなに考えているのに、あいつのことは何もわからないままだし。

 まあ、この体たらくでは、またぞろあいつに「考え過ぎなんだよ、しゅっくん」と諭されてしまいそうなのだが。だから、ここはあえて難しく考えずに、なんなら何も考えずに、考えなしの、突拍子もない、愚の骨頂みたいなことを言ってみよう。

 今回の騒動、縞依が引き起こしたんじゃね?

 ……はは。

 まさか、そんなこと、あるわけないよな。

 大体、中途半端な存在であると言っても、縞依はただの人間であることには、違いないのだろうし、ただの人間に、他人の存在を消し去るなんて、そんな超常現象を引き起こせるわけがない。

 そんなの、異世界チート転生者とか幽霊とか妖怪くらいしか、出来ないのではないだろうか。

 流石に考えなし過ぎたな。

 まあ、考え過ぎの反動でこんな馬鹿みたいなことを考えてしまったのだろうけど ――― と。

 もうすぐで予鈴が鳴る、というタイミングで、駆け込むように教室へと入ってくる生徒がいた。騒がしい奴だ、と、ぼくは教室へ駈け込んできたその生徒を、訝しんで遠目で見るが……、それが、大の噂好きで、十二年間同じクラスで、ぼくとの関係は、ただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもなく、ぼくの知る限り、十二年間、一度も休まず、むしろ毎日余裕をもって登校してくる田中だと気付き、ぼくは少し驚いた。

 あいつが予鈴ギリギリとは珍しい……、というか、ぼくの知る限りでは、初めてのことである。

「大変だ! ビッグニュース、ビッグニュース!」

 そんなことを思っていたら、田中が、いつもつるんでいるグループのほうへと駆けていた。

「おお~、『いえす』殿。遅かったでござるな」

 グループメンバーその一 ――― 眼鏡をかけた痩せ型の奴が、田中にそう呼びかける。

「いえすくんが、こんな時間に来るなんて、いったいどうしたのさぁ」

 グループメンバーその二 ――― のっそり口調の太り気味の奴も、田中に声をかける。

「うん、ゴメンね『さすけ』。それに『ごーどん』も。でも僕だって、こんなに余裕のない登校はしたくなかったさ。仕方なかったんだよ」

 そして、グループメンバーその三 ――― 中性的な美顔で、初対面では男か女か判別がつかない田中が、受け答えをした。

 ……またも新しい固有名詞がちらほらと出始めているので、それを含めてぼくが、色々説明しよう。

 今出てきた三つの固有名詞についてだが、こいつらは、変なものに憧れを抱いているらしく、それぞれを、本名とは全く異なる呼び名(通り名?)で、呼称し合っているようだ。

 とはいえ、三人のその呼び名は、所謂略称であり、正式なものは次の通りだ。

 痩せていて、機動力に長けていることから、痩せ型は『はしる閃光 さすけ』、鋼のボディを持って、いつもテカテカしていることから、太り気味は『耀かがやく鋼 ごーどん』、そして、あらゆるルートを駆使して、何処よりも早く、そして、正確な情報を調達してくることから、田中は『究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえす』 ―――

 ……とまあ、紹介の限りでは、如何にも痛々しい、根暗厨二病グループにしか見えない彼らだが、意外や意外、周りからの評判は結構良い。事実、互いが互いをそう呼び合っている呼び名に相応しい行動力で、みんなの悩みを解決しているとかいないとか。特に、天才的な情報収集能力を持ち、かつ見た目もかなり良い田中は、男女問わずの小規模ファンクラブが出来ているらしい。

 ……なぜ、そんなに詳しいことまでぼくが知っているのかと言うと、こいつらの話し合いが、いつも、ぼくの机を囲んで行われるからである。どうやら、ぼくの存在が無き今、この机は、こいつらのアジトのような役割を果たしているようだ。

 しかし、そうは言ったものの、ぼくは、こいつらについて、肝心な部分を知らない。

 そう、名前だ。

 田中は十二年間の内で、どうにか苗字だけはわかったのだが、未だに名前は知らないし、他のふたりに至っては、苗字も名前も、一文字だって知らない。おかしいな。十二年間も一緒にいれば、教師が名前を呼んだりするのを聞いて、わかりそうなものなのに。

 教室に貼っている名簿を見ても『田中』は、このクラスに四人もいるし、他のふたりは、前述の理由から、どの名前なのかさっぱりだ。

 せめて、中学辺りから名簿を見ていればなあ。

 馬鹿なぼくは、名簿から田中のフルネームを当てればいいじゃない、と気付いたのが、去年だったのだ。まあそれでも一応、去年もぼくと同じクラスだった『田中 きょう』と『田中 』と『田中 やり』の三人に絞れるには絞れるのだが……、なぜひとりしか除外できない。

 ぼくのいたクラス、田中が集い過ぎだろ。

 そしてご丁寧というか何というか、そのみっつすべてが、男か女かわからない名前だしよ。せめてそれがはっきりしていれば、さらなる絞り込みも見込めたのに ――― ん?

 ちょっと待て。

 田中って、男だっけ? 女だっけ?

「で、いったいどうしたのさぁ」

 していたとき、ごーどんの声で、ぼくは我に返る。

 いけないいけない、モブキャラの説明に約千文字も使ってしまったぜ。

 まあ、昨今では、モブだと思っていた奴が、思わぬはたらきをする、なんていう展開も、しばしば見かけるので、そういう奴らの説明も、やはり手を抜いてはいけないだろう。いや、それを抜きにしても、つまり手を抜こうとしても、今のぼくからしたら、こいつらのことは、どうしても、看過できない。

 そう、こいつらは人の悩みを解決している。

 妹たちの悩みを、これから解決していかなければならなくなるのであろう、ぼくからしたら、こいつらは、お手本のような奴らになるかもしれない。だからこそ、この三人の存在を、詳しく説明したかったのかもしれない。

「ここではあまり話せないな。いつものところに行こう」

 田中がそう言って、ぼくのほうへと来る ――― 正確には、ぼくの机のほうへと来る。

 ぼくは少し慌てて、出来るだけ椅子が動かないように、音が出ないようにして立つ。

 ぼくが引き起こした自然現象、物理現象が認知されるようになったとはいえ、ぼくが人に触れることはどうやらまだ無理らしいので、わざわざ(少しとはいえ)リスクを冒して立つ意味もないのだが、そうすると、恐らくここに座るであろう田中と重なることになる。

 勿論、深い意味はないのだが、ぼくは何となく、その感覚が好きではない。

 なんていうか、むずむずするのだ。

 そんなことを考えていたら、田中が、案の定ぼくの椅子に座り「さて」と、ひとつ呟いてから話を切り出した。

「話というのは他でもない。今現在、僕たちの通う啓舞学園にて、最もホットな情報のひとつと言われている『あの件』についてだ」

「「『あの件』?」」

『あの件』?

「むむ、わかったでござるよ、いえす殿。『あの件』ですな」

「あぁ、ボクもわかったよぉ。でも『あの件』は、いえすちゃんだけじゃなく、もう啓舞学園みんなが知っている話だってことで、終わったんじゃないっけ?」

 だから『あの件』って何だよ。

 啓舞学園みんなが知っている? ここに知らない奴がいるんだが。

 あとごーどん(改めて、というか今更ながら言わせてもらうが、ごーどんって何だよ。それ以上に田中のいえすも『前』に本人から由来を教えてもらったとはいえ、気になるが)が、田中を呼ぶその二人称(という表現で合っている?)が安定しないせいで、より田中の性別が不確定になっていくんですが。

「そう……、『あの件』が噂されるようになったのは、今から約二週間前だった。当時から、既にかなりの規模で出回っていたし、話が話だったので、僕たちは今回の件については、見送るつもりだった……」

 二週間前、か。結構最近の話なんだな。口ぶりから頑張って察してみようと思ったのだが、早速当てが外れた。もっと、昔からの話で、今は冷戦状態である……、みたいなものを予想していたのだが。

 それにしても、『話が話だった』というのはどういう意味なのだろう。

「うむ、いえす殿とごーどん殿の言う通りであったな。何せ『恋』の話ともなると、拙者たちにはどうすることも出来やせんからな」

『こい』?

 こいって、来いでも鯉でも故意でも濃いでもなく、こっちのこいで合ってるよな?

 それが、ごーどんの言っていた『話が話だった』ってやつか。

「そうだね。そうだった。だけど、どうやら、そうもいかなくなっちゃったらしい」

「と、言うと?」

 田中は「うん」とひとつ、間をとってから、告げた。

「この度、僕は、中等部三年の畝枝野 凪くんから、中等部二年の笹久世 菜流未さんへの、告白を手伝って欲しい、という依頼を、正式に受け取ったんだ」

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