序章② 妹ディスタンス!


祝 1 也


 読者諸君には兄弟というものがいるだろうか。そして、兄弟がいる人も、はたまたいない人も、兄弟という存在に、どういうイメージを持っているだろうか。

 おそらくそれは兄弟がいる人といない人で、回答にバラつきがあるのだろうな、と思う。そもそも兄弟がいない人は、兄弟という存在に対して、明確なイメージを持つことができる人はあまりいないだろう。だから、ぼくのこの質問は、もしかするとあまり適していないのかもしれないわけだがしかし、それでも兄弟を持たぬ彼らはなぜか、得体の知れないその兄弟という存在を、「欲しい」と口を揃えて言うのだ。

 なぜか。

 人は無意識に持たざる物を欲するからである。

 それは人間の原理というか、心理というか、はたまた真理というか、勉強が苦手なぼくはそれを、具体的に何というのかは知らないけれども、ぼくの言わんとしていることは、わかってくれると思う。

 勿論、例外的に「自分には兄弟がいないけれどひとりっ子で幸せです」という人も、世界は広いのだし、きっといるだろう。ぼくはその存在を否定するつもりはないし、ましてや批判をしようなんてことも、勿論全くない。むしろ、批判したいのは例に漏れない連中のほうだ……、つまりは、「兄弟が欲しい」と、のたまっている連中のほうだ。

 中でも、昨今のライトノベルやアニメの影響なのか、「妹が欲しい」という連中が多いような気がする。

 所謂いわゆる『妹萌え』というやつだ。

 だが、ぼくが ――― 兄弟が、それも妹が三人もいるぼくが、『いる側』の人間として、そういう連中に忠告しておいてあげよう。

 妹なんてろくなもんじゃない、と。

 ぼくは、妹たちのことが嫌いだ。そして多分、妹たちもぼくのことが嫌いだ。

 笹久世 祝也は、笹久世 未千代のことが嫌いだし、笹久世 菜流未のことも嫌いだし、笹久世 兎怜未のことも嫌いで、笹久世 未千代と笹久世 菜流未と笹久世 兎怜未は、笹久世 祝也のことが嫌いだ。

 言うならぼくたちは、嫌いの両思いである。

 喧嘩だって、もううんざりする程してきた。互いに何も得ることはないとわかっていても、互いに一歩も譲らず、何回も、何十回も、何百回も、何千回もしてきた(いや、少し違う。未千代に限って言えば例外かもしれない……、あいつは、色々例外的だ)。

 まあそんなことを今言っても仕方がないし、奴らを嫌ったり憎んだり、はたまた喧嘩をした日々を思い返し、センチメンタルな気持ちになったりすることで、この状態が解消するでもない。そもそも奴らと、憎みあったり、喧嘩したりしている暇がぼくにはない。

 それどころではないのだ。

 ……とはいえ。

 のことだけは、やはり何度も思い返してしまう。

 たとえ、そうしてもこの状態が解消するわけではないとわかっていても、そのことを思い返して、センチメンタルな気持ちになったところで、まったく意味は無いのだと、わかっていたとしても、ぼくは何度も、何十度も、何百度も、何千度も思い返してしまう。

 おそらく、ぼくがこのような状態になってしまったきっかけであろう、を。

 ぼくは、今日も思い返す。


祝 2 也


 新学期。

 こんなぼくも、今学期からは高校三年生である。

 受験生である。

 高校三年生だから受験生 ――― しかしぼくは、こういう先入観が嫌いだ。

 いつからこのような学生を縛るしがらみのようなものができてしまったのだろうか。

 世の中には、空気を飛ぶちりのように、腐る程高校三年生という人種がいる、あるいはいたのだろうが、その多くが同時に、そして勝手に、受験生とも扱われることにぼくは異議を唱えずにはいられない。

 もっと砕けた言い方を許してもらえるのであれば、何だそりゃ、と言いたい。

 なぜ高校三年生は受験をしないといけません、と決められている。なぜ親やら先生らは、受験をさせたがる。人間一度きりの人生なのだから、当人の思うように生きたっていいじゃないか。それを望んだところで罰は当たらないだろう。むしろ他人の人生を阻む第三者こそが罰せられて然るべきだと思うのだ。

 ……そんな話を新学期の朝の登校中に『彼女』に振ってみた。

 すると彼女は、

「うわあ……、祝也、だいぶキモいよ」

 と眉をひそめていた。

 火殿 妹奈。ぼくの彼女である。

 新学期である今日も、変わらずに、ぼくがあげたアクセサリーを、身につけてくれている。

「然るべきというか、叱るよ、わたしがキモい祝也を」

「キモいとは心外だな。ぼくの言っていること、何かおかしいか?」

「うん」

「即答かよ」

「うん」

 そして、新学期である今日も、変わらずに、いつものやり取りを、繰り広げるのだった(読者諸君の前では初めて見せるけれど)。

 とはいえ、いつもは楽天的というか能天気な雰囲気を出しているくせに、学年一位の成績を誇っちゃっている妹奈に、こう毎度毎度そう言われてしまうと、普通に落ち込む。

「あのねえ、祝也くん。きみの意見には賛同できないけど、きみの言いたいことはわかるよ」

「ならぼくの彼女としてそこは賛同してくれよ」

「は、話を逸らさないのっ」

 彼女は、そう怒りながら少し顔を赤らめた ――― 怒っているのだろうか。そしてぼくは、そこまで話を逸らしていただろうか。

「でね、祝也の言い分は一見筋が通っているように見えても ――― というか仮に祝也の言い分が正しかったとしてもそれは認められないよ」

「どうして?」

「高校三年生は受験生だ、という概念が、既にグローバルスタンダード化してきているからだよ」

「ぐ、ぐろーば……?」

「グローバルスタンダード。まあとても簡単に言えば、世界的に当たり前、ってところかな」

 なら最初からそう言ってくれよ、と突っかかりたくなったが、これ以上の討論は只々、ぼくの無知を晒すだけなのでやめておいた。

 それにしてもそうか、言われてみればそうだ。

 昨今では世界的に勉強というものが普及していて、また世界的に受験というものがある。それは当たり前なことで、いち国民の、いち市民のぼくが、とやかくわめいたところで全くの無意味なのだ。

「そういうこと。つまり、既に当たり前のようにある概念を捻じ曲げることは不可能というわけ。まあそれを、それすらを差し引いても、祝也の意見は滅茶苦茶だよね。別にすべての高校三年生が、必ず受験をしなくちゃいけないわけではないし、そんなに文句を言うなら、親や先生をどうにか言いくるめて、就職やら何やらすればいいし。というか祝也は、自分が勉強できないから、そんなこと言っているだけでしょ」

「そ、そんなわけないだろ」

 見透かされていた。

 それはもう、スッカスカに。

「んん? ホントかなあ」

 妹奈がぼくの隣を歩いていた足を少し早め、ぼくのほうへと振り返り、ぼくの顔を覗き込んできた。

「な、何だよ」

「いやいや別に何でもないよお」

 ただ、と妹奈。

「祝也って、時々おかしなこと言うけれど、だからこそ、わたしは祝也と一緒にいたら楽しいなって思うし、一緒にいたいんだな、って思っただけ」

「なっ ――― 」

 なんてこと言うんだこいつ。さてはさっきの仕返しだな。相変わらず負けず嫌いな奴である。

 落ち着けぼくこと笹久世 祝也。ここで動揺したら妹奈の思うつぼだ。ここは、いったん冷静に相手の次なる発言の対策を ―――

「ねえ、祝也」

 と、妹奈がニコニコしながら、再度話しかけてくる。

 ぼくは「何だ?」と、とても冷静に(なっている風を装って)、返事をした。

「顔、超赤いよ?」


祝 3 也


 始業式やらクラス替えの結果やらで、ひと通り盛り上がった後 ――― つまりいつもより早く終わった放課後。ぼくは妹奈と帰宅途中で、喫茶店やら、カラオケやら、その他諸々の施設に入って遊んだ。本当は校則により、帰宅前に何処どこかへ遊びに行くのは禁止されているのだが、ぼくは別に気にしないし、妹奈も成績は学年一位でも、別に校則を重んじる優等生とか委員長とかではないので、同じく気にする様子もなく、ぼくが誘ったら「いいね! 行こ行こ!」とむしろ乗り気なくらいだった。

 ぼくは彼女とまた同じクラスになり(去年も同じクラスだった。ちなみにそれまでは、なんと一度も同じクラスになったことがなかった。どころか、初中等部では、一度も顔を見たことが無かった。十二年間、学園は同じだったというのに)、しかも今回は隣の席という奇跡まで成し遂げたので(笹久世の『さ』と、火殿の『ひ』の間が、これでもかというくらい、居なかった。しかし、その間に位置する『田中』が驚くことに四人も居る)、久しぶりにハイテンションであった。そしてそんな態度が露骨に出ていたのか、カラオケの際に、この日二度目の、「祝也、だいぶキモいよ」発言を、頂いてしまった。

 さて、しかし時が過ぎるのは早いもので、気付けば時計の針は、もうすぐで、高校生なら補導対象となってしまう、午後十一時に差し掛かろうとしていた。

 本当は彼女とこのまま近くのホテルにでも入って、あんなことやこんなことをしたいのだが、意外や意外、ぼくの彼女は性に関するアプローチを大の苦手としているらしく、もう付き合って結構長いのに、未だにキスどころか、彼女に触れたことすら二、三度しかない。いや、彼女が嫌だというのなら仕方がない。そこは男たるもの、彼女を傷付けぬためにも、我慢である。ぼくはいくら妹奈が可愛いからって、それにハイテンションだからといって、獣になったりはしない、健全な男の子なのだ。

 だから、さりげなく「疲れたな。あそこのホテルで少し休憩しない?」と、誘ってみたところ、「は? するわけないでしょ。かなりキモいよ」と(三度目。しかも『かなり』とグレードが上がってしまった)、きっぱり断られてしまったことを、わざわざ告げる必要もあるまい。

 うーむ。性に関すること以外なら、基本何でも乗ってくれるのだけどな。楽しいことなら、その限りではなくなることもあるけど ――― まあそれはさておき。

 そんなこんなで、それでも結構気分が良かったぼくは、なんと帰る途中のコンビニで、妹たちにスナック菓子を買って帰った。本来そのようなことは天変地異が起きても、あり得ないことなのだが ――― それだけ、火殿 妹奈と一緒のクラスで隣の席ということと、彼女とのデートが、ぼくにとっては、嬉しいイベントだったのだ……、まあ、デートは結構な頻度でしているのだが。

 心の中で、そんなのろをしながら、「ただいま」と玄関を潜るとそこには。

 がいた。


祝 4 也


「おかえりなさい、祝也さん」

 妹その一 ――― 長女、笹久世 未千代。

「遅かったね、シュクにい

 妹その二 ――― 次女、笹久世 菜流未。

「こんな時間まで何をしていたの、祝也兄さん」

 妹その三 ――― 三女、笹久世 兎怜未。

 ぼくの三姉妹ならぬ、三愚妹は今の時間まで、ずっと玄関で待っていたらしい。

「な、なんだよ。揃いも揃って」

 その異様な、というか不気味な三人に対し、ついつい尻込みしてしまう。

「まあ、立ち話も何だし、先ずはリビングに移動しようよ」

 次女の菜流未がそう言って、リビングへと消えていくと、他のふたりもそそくさと後に続いて行ってしまった。

「本当に、何なんだよ……」

 ぼくは、結局奴らの考えていることが、何もわからないまま、最後にリビングへと入る。

 三人は既に、リビングの真ん中にある、大きな四角状のテーブルの周りを、囲むように座っていた。ぼくもそれに倣うように、残りの空いているところに座る。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 全員、黙っていた。

 なぜ黙る?

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 ぼくに何か話があるのだろう?

 それを話さんことには、ぼくも何を言えばいいのか、わからんぞ。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 そして、黙っている割には、三人とも、こちらを凝視しているので、居心地悪いことこの上ない……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 ……おっと。

 危ない、危ない。

 あまりにも沈黙が長すぎて、ついに語り部でも沈黙が始まってしまうところだった。

 語り部が沈黙とか、いよいよ話が進まなくなるので(というかまだ序章なのだから『いよいよ』ではなく、『早くも』が正しいか)、仕方なく、ぼくから話を振ることにした。

「そ、そうだ。、今日お前らに土産を買ってきたんだぜ。ほら」

 そう言って、は妹たちにビニール袋に入ったスナック菓子を見せ、それを取り出し始めようとしたのだが(ちなみに、一人称が妹たちの前でだけ、『おれ』になっているのは、特に深い理由とかは無い。浅い理由として、妹たちに見栄を張りたい、というのがあるが)。

「やっぱり何かあったんだね? 祝也兄さん」

 その動作は妹の言葉で遮られる ――― 言ったのは、三女の兎怜未だった。いつもは眠そうにしていて、何を考えているのか、わからないことの多い、この未熟な妹であるが、今日は、その血色の瞳をギラつかせて、まっすぐと、こちらを見ていた。

「……どうしてそう思う?」

 ぼくは、嘘が苦手だ。というか極端な話、多分ぼくは、生まれて一度も嘘をつけたことがない。

 嘘のつき方がわからないからだ。

 だから、ぼくはなんとかその問いを、肯定することもなく、否定することもなく(つまり嘘をつくこともなく)、質問を質問で返す形で、間に合わせた ――― だが今度は、次女の菜流未に、

「シュク兄が、あたしたちにお菓子買ってくるとか、いつもならあり得ないし。てか、質問してるのはこっちだよ、シュク兄。何かあったんでしょ?」

 と、話を無理やり元に戻された。未完成な妹のくせに、完成されたカウンターである……そう、

 例えば、彼女との放課後のティータイムとか、カラオケとかである。

 しかしこの妹たちは、ぼくの彼女に関する話を、なぜか拒む ――― というか嫌うのだ。だからぼくとしては、火に油を注ぐではないが、そういう行為を、わざわざしたくないわけだ。

 わざわざしたくないのに、こいつらは、それを、追及してこようとするので、始末に負えない ――― もっというなら、たちが悪い。

「教えてください、祝也さん」

 挙句の果てには、いつもは冷静に物事を考えていそうな、長女の未千代ですら、今回は少々食い気味になっている始末である。

 まあ、この長女は、基本的に何を考えているのか、同系統と言える、三女の兎怜未に増してわからないので、これが本当の未千代なのかもしれないし、違うのかもしれないのだが、それでも、少なくとも、未知の妹こと、未千代をして、今までに見たことのない雰囲気であるのは、間違いなかった。

「妹奈と、ちょっと遊んでたんだよ」

 結局ぼくは、三人のそれぞれの剣幕に、押される形で、白状することとなった。

 勿論嘘偽りなく。

 今日、ぼくがしたことを。

 しかしそれでも、その詳細については言及せず。

 ぼくは白状した。

 それがいけなかったようだ。

 奴らの ――― 三愚妹の目の色が変わる。

「遊んでいた……?」

「こんな時間まで……?」

「それって……」

 ……ああこいつら。

 絶対変な勘違いしてやがる。

「なあ、おい。別におれは、別にこんな時間に帰ってきたからって、別に妹奈と何かしたとか、しようとか、そういうのは別に、ないからな、別に」

「かなり動揺していませんか、祝也さん」

「ね……、気付いてる? シュク兄。あんた今その台詞の中で五回も『別に』って言ってるからね」

「というか、今時そんなに嘘つくのが下手なのって、祝也兄さんくらいしかいないよね」

 そんな馬鹿なっ‼

 ぼくは今、嘘なんてついていない筈だぞ⁉

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 ……そうか、わかった。

 確かにぼくは妹奈とやましいことは、していない ――― それは本当に、嘘偽りなしの事実だ。

 しかし、それをしようと誘っていたのも、また同じくらいに嘘偽りなしの事実であり……。

 つまりどういうことかと言えば、先程のぼくの発言は、半分本当で、半分嘘であったのだ。

 してはいないが、しようと誘った。

 だから、こんな言い回しをしてしまった。

 ……ぼくって、半分の嘘すらつけないのかよ。

 しかも自覚のない嘘だったのに。

 絶対ぼくって、お芝居とかできないタイプの人だな。

「シたんですね」

「シたんだね」

「シたって何を?」

「おいお前らいいか。『した』って書くのと『シた』って書くので読者の皆々様が感じ取られるニュアンスが段違いだから是非やめろ。そもそもおれは決してシていない」

 女の子がそんなこと言うんじゃありません……、とか野暮なことは言わないが、流石に年端のいかない少女(言うまでもなく三女の兎怜未のことだ)の前でする話ではあるまい。

「ああ……、そうか、セックスのことだね、祝也兄さん」

「おい兎怜未。流石にそこまでド直球に言われちゃうと、兄さん対応に困っちゃうから、マジでやめちゃってくれ」

 幼いからか、三女が一番、言葉も、表情も濁さずにそう言ってきた。

 ここまではっきり言われたら、一周回って純粋無垢である。

「それで、シたの? セックス」

「純粋無垢だとか思ったおれが馬鹿だったわ」


祝 5 也


「……っああ! ったく、しつこいんだよお前ら!」

 ぼくは、遂にしびれを切らして、そう叫ぶようにして言った。

 それからも、あれやこれやと、三愚妹は、この日のぼくの私情に首を突っ込んできた。

 いつもは、少しでも妹奈の名前を出すと、三女の兎怜未とは、そのじょうぜつな口での、次女の菜流未とは、その細い腕から繰り出されるこぶしでの喧嘩に発展するのだが(ちなみに長女の未千代はと言えば、そもそも、殆どと言って差し支えない程、ぼくと妹奈の事情に首を突っ込んでこない。とても有りがたい)、今回ばかりは、何というか、とりあえず、とてもしつこかった。

 だから、ぼくは怒った。

 簡単な話である。

 誰だって、しつこい奴を相手にすると、イライラしてしまうであろう?

「お前らさっきから何なんだよ! 別に、おれが誰と遊ぼうが、お前らには何も関係ないだろう? そりゃあ確かに、今日は父さんも、かあ ――― 」

 ぼくは、を『母さん』と呼ぶことに、

「……母さんも、仕事で朝方まで帰ってこれないって言ってたから、少し調子に乗って、夜遅くまで遊んでしまったが、それでお前らに何か迷惑かけたか?」

「か、かけられたよ、迷惑!」

 ぼくの言い分に咄嗟に反応したのは、次女の菜流未だった。しかし、その桃色の瞳が、そう言った直後に、一瞬だけ泳いだのを、ぼくは見逃さなかった。

「ほう? なら言ってみろよ。おれがお前に、いやお前たちに、どういう迷惑をかけたって?」

「っ⁉ そ、それは……」

 今度は、菜流未の瞳がはっきりと泳ぐ。

 そう、こいつは本当に咄嗟に言葉が勢いで出てしまった ――― つまり、言われっぱなしが嫌で、大した考えもまとまっていないのに、迷惑をかけられた、と言ったのだ。

 菜流未は、三女の兎怜未程、口喧嘩の分野は得意ではない。だから今のような考えなしの、向こう見ずの反論しかできないから対処は余裕。その兎怜未も、黙ったままということは、今回の件は、ぼくの言い分に、全面的な説得力があるということで ―――

「……もういい」

 と。

 気付くと、顔を俯かせて、聞こえるか聞こえないか、そんなぎりぎりの声量で、菜流未が呟いていた。

「……は?」

「だから、もういい、って言ってんの」

 そう言って、菜流未は、ずかずかと、乱暴な足取りで、リビングを出て行ってしまった。

「兎怜未も、もういいや」

「お、おい……、ちょっと……」

「…………祝也兄さんの、わからず屋」

 そう言って兎怜未も、とてとてと、小さな足取りでリビングを出て行ってしまった。

「祝也さん……」

「何だよ……、が何をしたっていうんだよ……」

 ぼくはわけもわからずにそう呟くと、最後に残った未千代も、リビングの扉に手をかけ、少しこちらに振り返ってぼくの名を呼んだ。

「確かに私たちは、今回祝也さんに、何も迷惑をかけられていません。ですが……」

 そう言う未千代の緋色の瞳には ――― そして、リビングを出て行った時の、あのふたりの瞳にも ―――

 なぜか、涙が浮かんでいた。

「祝也さんが、連絡もなしに全然帰って来てくれなくて、とても心配していた ――― そんな理由では納得してくれませんか……?」

 そう呟いて遂には未千代も出て行ってしまった。バタン、と、最後に扉を閉める音だけがリビングに響く。

 …………こんなのは多分、生まれて初めてだった。

 今まで、取っ組み合いの喧嘩、そして火が飛び交うような口喧嘩の結果、誰かが泣いてしまうという小さい喧嘩なら、何回もあったのだが。

 しつこく追及されたとはいえ、大した口論もしていないのに、三愚妹全員が泣いて部屋を出て行ってしまうようなは、多分生まれて初めてだった。


祝 6 也


 これは夢であるとわかるのに、そこまで時間はかからなかった。

 いや、先程の大喧嘩が夢だった、というわけでは勿論ない ――― もしそうだったら、どれ程楽なことか。では、ぼくは今、どのような夢を見ているか、そして、なぜそれが夢だと、看破出来たのか ――― それはで、だったからだ。

「君、まだ入る部活とか、決めてない? それなら、吹奏楽部に入ってよ!」

 これは、所謂過去夢というやつだ。ぼくは今、高校三年生だが、これは高校一年生 ――― それも、かなり始めのほうの出来事である。吹奏楽部員(のちの先輩)がぼくに向けて、つたない出来の、チラシを押し付けてきている。

 高校三年生であるぼくが、卒業していった筈の吹奏楽部員に、なぜかまた、入部を求めるチラシを貰っている ――― これが夢でないとしたら、何だと言うのだ。

 そうか。あれから、妹たちの言っていた言葉の意味を ――― 特に長女の未千代が、最後に言っていた言葉の意味を二階の自室で考えているうちに、寝てしまったのか。

 ……それで、この夢?

 全く関連性が無いので、一瞬考えてしまいそうになったが、別に夢に対して、理屈やら整合性やら辻褄つじつまやらを問うても、不毛でしかないので、やめておいた。

 それよりふむ、どうしたものか。

 当時は正直、面倒くさかったので、確か「考えときます」と、考えのない返答をしていたような気がする。まあここは夢の中だし、何をしても自由なのだから、過去と違う対応をしてみよう、と思ったのだが、それでは過去夢にならないという理由からか、ぼくの口は勝手に、

「考えときます」

 と、当時と同じような考えのない返答をした。

 ちなみに、当たり前のことなのだが、当時のぼくは、この時全くと言って良い程、この吹奏楽部に興味が無かった。まあそれはぼくの態度から、わかって頂けると思うのだが、ではなぜぼくは、全く興味が無かった吹奏楽部に入ったと思う?

 ヒントとしては……、啓舞学園には、前述した部活動の強さが影響しているのか、部活動に所属していない生徒は、白い目で見られる風潮があること、そして、ぼくには特技が無いこと、後はこれも前述した、吹奏楽部の弱小さ、あたりだろうか。

 ……まあいつまでも隠していたら、話が進まないので、さっさと答えを言ってしまうと、他の部活動は、その強さゆえの活動の厳しさが垣間見えたのだが、弱小の吹奏楽部は、とても緩そうな活動をしていたからだ。今更何の特技もないぼくが、他の部活動に入ったところで、絞られるだけ絞られて疲れるだけ ――― だからと言って、部活動に入らないと白い目で見られてしまう。そういう点では、吹奏楽部は、ぼくにとって、有難い逃げ場所だった ――― そんな中途半端な、というかえらく不遜な気持ちで吹奏楽部に入部したわけだが、ぼくはそこで、運命の出会いをすることとなる。

 幾ら弱小とはいえ、最低学年のお決まりともいえる体力づくりは流石にあるらしく、それなりに絞られた数日後のある日、吹奏楽部に入った一年生は一度全員集められた。吹奏楽部、というと男子が少なく、女子が多い、というイメージがあるが、この学園も、そんなイメージを可視化したかのように、一年生は、女子十六人、男子四人、計二十人という、男子のぼくとしては如何いかんせん落ち着かない環境だった……、が、他の部に入るよりはマシだろうとそこは妥協した。

 そして、そういう環境は、他の男子たちも落ち着かないようで、集められた際に、早速男子だけで群れをつくっていた。暑苦しいのはあまり好きじゃないが、このままだと、取り残されて凍りつきそうだったので、ぼくもその輪に入ろうとしたのだが ―――

 その時、ぼくの目に、ある女の子が映った。

 その子は知らない女の子だった。恐らく別のクラスの女の子なのだろう。

 きれいに整った艶やかな朱色の髪に、少し大人らしい顔つきの割に、大きな碧色の瞳。整った鼻筋の下にある健康的な桃色の唇が、友達と話しているからであろう、ぱくぱくと活発に動いていた。

 身長は百六十センチメートル前半といったところか。その身体は、全体的にすらっとした印象を受けるが、胸は、大き過ぎず、小さ過ぎず、といったサイズであった……、って何処を見ているんだぼくは。

 まあ一言でいえば、てつもなく可愛い女の子がいた。

 そんな途轍もなく可愛い女の子を、途轍もない勢いで凝視していたらしいぼくに―――ぼくに突然、

「ねえ、そこの……、くん? 話聞いてる?」

 と、声がかかった。ハッとして気付くと、みんながぼくのほうを見ている。どうやらぼくがくだんの女の子を凝視していたのが、一年生の指導係である先輩にバレたらしい。そして『みんながぼくのほうを見ている』ということは、当然、件の女の子もぼくを見ているわけで……。

「あの、ぼくの名前、ささくせ しゅくやなんですけど」

 普通はこういう時、先ずは話を聞いていなかったことについて、謝罪をするべきなのだが、先輩(多分、とても頭の悪いかただ)が、あまりにおかしい名前の間違え方をしていたのと、あの途轍もなく可愛い女の子が、ぼくを見ていると考えてしまって、パニックになったのだろう、名前の間違いをいち早く訂正するような、そんな愚かしい返答をしてしまった。

 ……この展開を、既に知っている今のぼくからしたら、この時の黒歴史はあまり思い出したくないものなのだが、相変わらずぼくの口は、勝手に動いてしまう(というかもはや、身体全体と言ってもいい。今日のこのイベントを回避しようと自宅で布団に籠っていたのだが、強制的に謎の力に追い出された)。

 このぼくの切り返しに、先輩からは、「そ、そう。ごめんね」と平謝りされ、周りからは、抑えめな、うふふ、という笑い声が漏れる。

 無論、嘲笑だ。

 しかしその中で、ひとりだけ、ぽかんとした表情を浮かべている人物がいた。

 無論、あの女の子だ。

 絶対、何こいつって目をしていた ――― と思う。その感想は、今のぼくでも変わることは無い。

 さて、そんな醜態を晒した後の ――― 部活動終了後の出来事である。

 意外にも、なかなかの運動をさせられた吹奏楽部一年生は、夕日が沈む前に、そそくさと帰る連中が多かったので、ぼくもその橙色の夕日を見ながら、同じくそそくさと帰ろうとしたら、

「ささきゅうせくん!」

 そんな声がかかった。

 そう呼ばれると、早くも癖になってしまったのか、

「いやぼくの名前、ささくせなんですけど」

 と、またも咄嗟にそう切り返してしまう。

 ぼくは振り返る。

 ぼくを呼び止めたのが、あの女の子であるとも知らずに(当然、今のぼくは知っている)。

「……はぇ⁉」

 はぇ⁉ って何だよ。

 いや、言わなくてもわかると思うが、この驚き(という名の気持ち悪い反応)は、ぼくが発したものだが、これは流石に、自分で自分の発言に突っ込まざるを得なかった。

 それはともかく、そこには。

 橙色というか、朱色の髪をした、あの女の子がいた。

 なぜなのか、橙色の夕日に当たったそのボブカットは、かえってその朱色が、際立って見えた。

「ふふ、知ってるよ。わざと言ってみただけ。ささくせ しゅくやくん、でしょ?」

「…………」

「パンダがよく食べる『笹』って字に、『久世くぜ』って書くのに『くせ』って読んで、『祝』うに、『なり』って書いて『しゅくや』って読む、笹久世 祝也くん」

「な、何できみ、ぼくの名前知ってるの。というか何で漢字まで知ってるの」

 当時のぼくは、突然ぼくの名前を間違えて、それを訂正するだけでなく、その漢字の成り立ちまで披露してきた彼女に、素直に驚き、そう訊く。

「ほら、わたしこんな感じだけど、先輩に一年の責任者に推薦されちゃったんだよね。それで、一年生の名簿をサラッと見たから、かな。あれ、覚えてない?」

 そうだった。この女の子にしては、柄の無いことをするなあ、と責任者決めの時に、思っていた記憶が……、あるような気がするし、ないような気もする。

 多分当時のぼくにはあった。当時知り合ったばかりで、彼女のことを何も知らなかったくせに。

 今のぼくは、と訊かれても、同じような心理状況なのだが。

「いや、覚えているよ、勿論。へ、へえ。だとしても、サラッと見ただけで、普通人の名前なんて覚えられるかな。凄いなきみ、二十人はいたと思うけど」

 ここで、「全員は覚えてないよ。さ、笹久世くんはちょっと特別だから覚えたんだよっ」なんて言われたら、とてもライトノベルみたいな展開で、ぼくとしても、かなりテンションが上がるのだが、現実は、非常に非情でありまして。

「ほら、わたしこんな感じだけど、結構頭良くて、物覚えとかも良いからさ」

「…………」

 自分でそういうこと言うのか、こいつ。

「ああ! 今『自分で言うな』みたいな顔した!」

「そんなことある」

「あるんだ……、せめて嘘ついてよ。少し寂しい気持ちになったよ」

 女の子はそう言うと、本当に寂しそうな顔をする。

 そんな様子を見て、マズい、と思ったぼくは、あわてて嘘をつかなかった理由を言う。

 ぼくは嘘がとても下手で、どういう嘘をついても、どうせバレてしまうから、それならいっそもう嘘をつかないようにしている ――― そう言えばいいだけだったのに。

「嘘というのは、人を傷付ける、刃物みたいなものだ。嘘をつかれたほうは、勿論傷付くし、嘘をついたほうだって、ああ、何であの時、嘘をついてしまったのだろう、と後悔して傷付く。『優しい嘘』なんて言葉を、時々耳にするけど、そんなの、嘘つくほうの勝手なきれいごとだ。ぼくとしては、嘘に優しいも厳しいも綺麗も汚いも無い。嘘というのは恐ろしく禍々まがまがしい刃物だ。それも、包丁とかのこぎりなんかよりも、もっとむごいものだ」

 何で刃物のたとえが具体的なのだろう。それも、どこかで聞いたような組み合わせだった。

 というか、この発言こそ、今のぼくには当時のぼくの心理を汲み取れないのだが ―――

「うわあ……」

「…………」

「笹久世くん、だいぶキモいよ」

「ぐはっ!」

「いや『ぐはっ!』じゃないでしょ」

「で、でもキモいとは心外だな。ぼくの言っていること、何かおかしいか?」

「うん」

「即答かよ」

「うん」

 容赦がなかった。

「あのねえ、笹久世くん。わたしは今、きみに対して、嘘をつかずに、本当のことをぶっちゃけたわけだけれど、どう? 本当のことを言われたら、スッキリした?」

「いや、傷付いた」

 訂正しよう。本当のことを言われると、時には傷付く。

「うん、そうだよね。確かに嘘をつくのは良くないけれど、時には本当のことを言われたほうが傷付く。そういう時は、やっぱり、笹久世くんの言うところの『優しい嘘』も大切ってこと。要するに、状況によって、本当と噓のプライオリティを変えていかないといけないんだよ」

「ぷ、ぷらい……?」

 何か急に難しい話をしだしたぞ、こいつ。

「プライオリティ。まあとても簡単に言えば、優先度、ってところかな」

 なら最初からそう言ってくれよ、と突っかかりたくなったが、これ以上の討論は只々、ぼくの無知を晒すだけなのでやめておいた。

「ま、笹久世くんのことだから、大方嘘をつかない、というより嘘をつけないから、嘘をつくのを諦めている、って感じなのかな」

「そ、そんなわけないだろ」

 見透かされていた。

 それはもう、スッカスカに。

 ほぼ初絡みなのに、『笹久世くんのことだから』っておかしくないですかね?

「あ、ホントだ」

「……何が」

「嘘、バレバレだよ」

「うっ」

 やはり、ぼくは嘘がつけない。

「そんなことよりさ」

 ぼくをからかうだけからかって、それを『そんなこと』で片付けられたらこちらは嫌な気持ちになるということを理解できないのだろうか、この女は。

「さっきから笹久世くん、わたしのこと、『きみ』って呼んでいるけれど、わたしにもちゃんと名前があるんだよ?」

「そりゃあ、あるんだろうけど、ぼく、きみの名前知らないし」

 そういえば、訊いていなかったな、この女の子の名前。

 まあ、今のぼくには ――― そしておそらく読者諸君にも、今更訊かなくても、わかっていることなのだが。

「火殿 妹奈っていうの。わたしの名前」

「ひとの まいな……、へえ。何かいい響きだな」

 素直にそう思った。

 今のぼくからしたら ――― 彼女の名の漢字の成り立ちを知った、今のぼくからしたら、決して良い名前だとは言えないのだが……、『妹』奈、ねえ。

「そ、そう? ありがと」

「じゃあ、これからよろしく。

「にゃっ⁉」

「にゃ?」

 何だ、その反応。猫なのかお前。

 ぼく、何か変なこと言ったか?

「いやあ……、ほぼ初対面の男の子に、いきなり下の名前で呼ばれて、少し驚いたというか、照れくさいというかですね……、あはは」

「……あ」

 しまった。今までろくに異性と関わらなかったせいで、男子の友達感覚で女の子(しかもほぼ初対面)を下の名前で呼んでしまった。

 なんというアクシデント。

 というか、ツケが回ってきたって感じだ。

 こんなことになるのだったら、もっと女の子と、おしゃべりしておけば良かった。

 しかし、そんな後悔は、この後すぐに、払拭されることになる。

「ううん、そうだなあ。笹久世くんが、わたしを『妹奈』って呼んでくれるというのに、わたしが『笹久世くん』じゃあ、何か変だから、わ、わたしも笹久世くんのこと『祝也』って呼んじゃおうかなあ」

「ええ⁉」

 言いながら、妹奈はぼくのすぐ近くまで接近してくる。

 近い、とても。

 流石に「にゃっ⁉」とまでは言わなかったが(そして「はぇ⁉」とも言わなかったが)、予想外の展開につい大声で驚いてしまう。

「あ、あれ? 駄目?」

 妹奈は、首を小さくかしげ、上目遣いでぼくの顔を見ている。

 あああああ‼ とても可愛い‼

 可愛い女の子の上目遣いは反則だからしてはいけません、ってお母さんに習わなかったのだろうか⁉ もしそうなのなら、いまからぼくが、その辺りを手取り足取り教えてあげようか⁉

 ……そんなことしないけど。

「だ、駄目じゃない。駄目じゃないから、その目で見ないでくれ。凍てつく」

「?」

 何処が凍てつくのかは、わざわざ言うまい。

 男は、女の子の可愛い姿を見ると、特定箇所が凍てつくように固まるのだ。凝固するのだ。

 ……まあむしろ温度的には、熱くなると言うほうが正しい気もするが。

 さておき(おけない?)、しかしぼくの意図が伝わったのか、伝わっていないのか知らないが、妹奈はなおも不思議そうに、小首を傾げ、上目遣いで、こちらを見ている。

 死ぬ。

 純粋にそう思った。

 てか、絶対伝わってねーな、この様子じゃ。

「もしかしてわたし、嫌われた?」

 むしろ、最悪の伝わり方をしていた。

 それはそれで、死にたくなる誤解だった。

「いや違うって! それだけはホントに!」

「そ、そう。良かった。危うくほぼ初対面の男の子に、名前で呼ばれた直後に嫌われるという、二冠を達成しちゃうところだったよ」

「それだけ聞くと、すごい状況だな……」

 というかどういう状況だよ。

「じゃ、じゃあ、改めまして……」

 にもかくにも。

 これがぼくこと、笹久世 祝也と、彼女こと、火殿 妹奈の初めての出会いだった。

「これからよろしくねっ、祝也!」


祝 7 也


 ……。

 …………。

 ………………。

「…………やっぱりちょっと恥ずかしいから、『祝也くん』でいい?」

「そこはお好きにどうぞ」

 それを言うのに、わざわざ一場面使うなよ。


祝 8 也


 ……く…………。

 しゅ……おき…。

 声が、聞こえる。

 この騒がしい声は、次女の菜流未だ。

 シュク……、きてってば……。

 ああそうか。もう、朝なのか。

 でも昨夜は考えすぎて疲れたんだ。もう少し休ませてほしい ―――

「起きろって言ってるでしょーがあああ‼」

「痛えっ⁉」

 殴られた。

 腹部をおたまで殴られた。

 ズシンとくる痛みと違って、こういう鋭い痛みというのは、なかなかどうして、慣れないものである。鈍い痛みというものを味わったことのない、ぼくの個人的見解だが。

「な、なんだなんだ?」

「良かった! !」

『生きてた』とは失礼な。まあおたま攻撃は確かに痛かったけれども、死ぬ程の威力ではない。

 それはそうと、妹が兄を起こしに来る、だなんて二次元の世界だけのイベントだと思っていたので、少々面食らったが、どうやら、そういうシスコンようたしラブコメ的な状況ではなく、何かしらの問題が発生したと取れる。なぜそう取れるのか、と訊かれれば、今までに、妹がぼくを起こしに来ることなど、なかったからである。

 しかし、妹関係では名探偵と呼ばれている(言うまでもなく自称)ぼくでも、その問題の内容までは、推理することはできない。だから、ぼくを起こしに来て、そして今は、何やら慌てふためいている菜流未に訊いてみたのだが、

「細かいことはあと! とりあえず、一階したに行こ!」

 と、詳しい事情を訊くのは後回しにされてしまい、

「お、おう」

 と、ぼくは菜流未に言われるがまま、一階へと移動する。

 その移動途中の階段でのこと。

「……なあ、菜流未」

「……なに」

「昨日の、ことだけど ――― 」

「話したくない」

「よ……」

 先行する菜流未は、振り向きもせず、ぼくのアプローチを一刀両断した。

 なぜか、この会話だけだったのに、そして、別にいつもと変わらない筈なのに、階段が、とても長く感じた。

「……なにを言って……」

「……兎怜未たちには祝也兄さんが……」

 ん?

 やはり何かあったのか、朝から騒がしいな。言うまでもなく、今の声は未千代と兎怜未のものだろうが……。

 先程の菜流未の「生きてた!」発言が、もしかしたら、問題のカギを握っているのか?

 長く感じた階段を下り切り、足早にリビングへ入っていった菜流未の後に続くように、リビングに入る。

「ほら、連れてきたよ! これが、あたしたちのにいの、シュク兄 ――― 笹久世 祝也だよ! どう? 思い出した⁉」

「は?」

 どういうことだ?

 突然、菜流未が、ぼくを誰かに紹介するように言った。始めは、こんな朝早くから、何かのお客さんとかお偉いさんとかが、ぼくらの家に来たのかと思ったのだが、そうではなかった。

 

 ……やはり、どういうことだ?

 もし、この時のぼくの心情を訊かれたら、わからない、と答えるしかない。というか、逆にこのような状況で、冷静にものを考えられる人がいるのなら、是非色々訊きたいところだ。だって、朝早くに、乱暴で未完成な妹に、おたまで叩き起こされて、リビングに行くように言われたと思ったら、いきなりその妹が、両親に自分のことを紹介し始めたんだぜ?

 そんな思考の整理をしていたら(出来ていない)、さらに意味のわからない言葉が、両親から飛び出る。

「……何を言っているんだ、菜流未」

 と、父。

「そうだよ~、菜流未ちゃん。だってそこには ――― 」

 

 そう、の『あいつ』は、言った。

 話し方こそ、いつもののんびりとした感じだったが、決してふざけているようには聞こえなかったし、冗談を言っている風でもなかった。

 そして、両親のその衝撃的な言葉は、その場にいる妹たちをも、凍りつかせた。勿論、特定箇所が凍ったわけではないし、熱くなったわけでも決してない。ぼくと妹たちの周りの空気が、一気に氷点下へ落ちた感覚だ。

 ぼくの頭が、頭脳が、急激に、はたらき始める。

「………………なに、言ってんだよ」

 ぼくは、磁石に引かれる砂のように、父さんに、一気に近付いた。

「おい、父さん」

 そして、父さんの肩に触れようとするが……。

「「「「⁉」」」」

 手が。

 ぼくの、手が。

 父さんの肩を、すり抜けた。


祝 9 也


「いったい、どうしちまったんだ……、ぼくの身体」

 数分後。夜勤明けだった両親は、朝食をとった後、さっさと寝てしまった。

 三愚妹に「今日は三人とも、疲れているみたいだし、学校を休みなさい」と言い残して。

 そして、取り残されたぼくと妹たちは、昨日のように、大きな四角状のテーブルを囲むように座っていた。

「とりあえず、どういうことなのか、説明してくれないか? 少なくとも三人は、おれよりもこの状況を把握出来ていると思うのだが」

 しかし、ぼくのこの質問に、三人は顔を背けてしまう。

 ……ぼくは多分、今この三愚妹の考えていることがわかっている。

 なぜなら、ぼくも同じことを考えているから。

「昨日の……、喧嘩が原因だと、思うか?」

「断定はできません……。それに私たちも、何が起こっているのか、全くと言って良い程、把握できていません。ですが」

 その線は、やはり十分考えられるでしょう……、と言ったのは、長女の未千代だ。

「とりあえず、あたしたちにも、何が何だかって感じだから、先ずはシュク兄が寝ていた時に、何があったのかを、ありのまま言うよ」


 次女の菜流未の証言は、このようなものだった。

 我が家 ――― 笹久世家では、基本は母親が家族の料理を作るのだが、母親が夜勤だったときは、菜流未が料理を作る、というシステムになっている。菜流未は、ああ見えてお節介焼きな面があるため、母親もそのシステムを、有難く思っているらしい……、で、今日はその母親と父さんが夜勤だったので、菜流未は早起きして、ぼくを含めた家族全員分の朝食を作った。

 そのタイミングで、両親がちょうど帰宅。そして同時に長女の未千代も起床したという。

 未千代が両親に「お仕事、お疲れ様です」と挨拶をし、菜流未が作った朝食を、例の大きな四角状のテーブルに並べていると、父さんがこう言ったらしい。

「おお、美味しそうな蒸しパンとスクランブルエッグ ――― あれ、料理が得意な菜流未が失敗なんて、珍しいな」

 続けて母親も、

「あらホント。でも、そういう日もあるよね~、菜流未ちゃん」

 と言ったらしい。

 菜流未はその時、不思議に思ったという。味見をした際には美味しかったし(大体まだ、両親は朝食に手を付けていない)、では見た目かと思ったが、別にそれもおかしくなかったし、第一父親は、蒸しパンとスクランブルエッグを「美味しそう」と褒めてくれている。それはつまり、見た目が「美味しそう」だから、そう言ってくれているのだ。

 ではあたしは何を失敗したのだろう。

 両親は何がお気に召さなかったのだろう。

 料理の腕に関しては、少なくとも、父親には勿論、母親にもまさっているという自負がある、あたしには気付けず、その両親が気付く程の失敗とは果たしていったい。

 元々考えることが苦手な菜流未には、見当がつかず、早々に諦めて「あれ? あたし、何か失敗しちゃった? 何がダメだったかな」と両親に訊いたらしい。

 すると、父さんは、少し驚いた顔をして言ったそうだ。

「何って……、見ればわかるだろう。量だよ。ひとり分多く作ってあるじゃないか」

「え?」

 そんなことはない。

 だって。

「お父さんの分にお母さんの分。それにミチねえにあたしにウレミンの分。そしてシュク兄の分……、ちゃんと六人分だよ? 余ってなんて ――― 」

「『……、?」


「……それで、口論になって、その口論でウレミンも起きてきて、シュク兄を除いての、終わらない口論に突入した……、って感じ」

「私たち、祝也さんがどのような人かを必死に説明したのですが、聞く耳を持ってくれませんでした」

「ごめんね、祝也兄さん」

「……いや、お前らは悪くないだろ。変なことで謝るな」

 変なこと、か。

 つまり、あの大喧嘩の後、どういうわけか、ぼくは両親に存在を忘れ去られ、それどころか、触れも出来なくなったってことか。

 これ程の変なこともあるまい。

「そう考えるのはまだ早いよ、祝也兄さん」

 そう言ったのは、三女の兎怜未だった。

「どういうことだ?」

「恐ろしいことを言っちゃうかもしれないけど、パパとママだけだとは限らないよね、それ」

 兎怜未のその冷静な分析は。

 しかし、ぼくの冷静さを失わせるだけだった。

「ちょ、ちょっとシュク兄! 何処行くの!」

「学園だ! 確かめてくる!」

「し、しかし祝也さん! 情報の少ないこのような状況では ――― 」

「うるさい! こんな状況だからこそ、じっとできねーんだよ!」

 ぼくは、準備もそこそこに、家を飛び出す。

「そんな……、そんな馬鹿なことがあってたまるもんかよ!」

 ぼくは曇り空の中を、必死に走った。まだ四月だというのに、そして曇りだというのに、妙に暑いのは、ぼくが焦りに焦っているからだろうか。

 先ずは、登校の際に、いつも妹奈と待ち合わせている場所へ辿り着く。そこにはまだ早かったからか、妹奈の姿は無かった。早かったのだから、待っていれば、その内彼女はここへ来る、とは考えなかった。

 考えるような余裕が無かったというべきか。

 ぼくは彼女がいないことを確認した後、その足を止めることなく、今度は学園へと向かった。

 その途中。

「あれは……」

 確か、田中とかいう、地味にぼくと十二年間一緒のクラスの奴だ。ぼくからしたら、その何処にでもある苗字から、ただのクラスメイトにしては、逆に印象のある奴だった。

「よ、よう田中!」

 ぼくは、考えるより先に身体が動いた、という感じで田中に駆け寄り、声をかける。

 頼む。返事をしてくれ……!

「…………」

 き、聞こえなかっただけだよな……、そうだ、そうに違いない。

「おはよう、田中! 今日、曇ってる割に暑くないか⁉」

 ぼくはもう、話しかけるというよりは、脅すような言い方で、声を出した。

 しかし。

「…………」

「嘘だろ……」

 返事は、なかった。

 ぼくは、また走る。

 何も考えたくなくなった。

「くそっ! くそっ‼」

 走れば、考えなくていい。

 運動は、勉強以上に嫌いだったが、今、この時に至っては、走ることが何よりも良いことのように思えた。そのくらい、ぼくの思考は、考えることを拒否したかったのだ。

 考えたくなかったのだ。

 信じたくなかったのだ。

 両親だけでなく、妹たち以外のすべての人間から、ぼくの存在というものが消え去ってしまっている可能性を……!

 ――― 学園についた。

 途中で雨が降り始めていたが、それにぼくは気付かず、そのまま校舎へと入った。どうやら、雨粒はぼくに干渉することが出来るらしく、普通にぼくはずぶ濡れとなった。そのせいで、廊下の床がびしょびしょになってしまっている。

 

「まさか……」

 多分そういうことだろう。

 今のぼくには、恐らく存在というものが無い。それは残念ながら、もう確定事項になってしまったようだが、その存在のないぼくが、廊下を雨水で濡らしても、誰も気にしていない。普通(既に十分普通ではないが)、存在のないぼくが廊下の床を濡らしたら、それは何もない所が、ひとりでに濡れているように見えている筈で、周りの人間は怪奇現象だ何だと言って、騒ぎ立てるというものだろう。

 しかし、そうではない。

 そうですらない。

 まるでそこが、元々濡れているところであったかのように。

 みんな、普通に濡れた廊下を歩いている。

 それはすなわち、存在のないぼくの起こした現象は、さながら宇宙の摂理のように ――― つまりそれが当然のルールであるかのように、他の人間からスルーされてしまうということだ。

「ははっ……、これじゃ本格的に、誰にも気付いてもらえねえじゃねえか」

 いっそ、ぼくが起こした現象を、それこそ怪奇現象でも何でもいいから気付いてくれれば、手の打ちようがあったのかもしれないのだが、それすらも出来ない。

 誰にも気付いてもらえず、触れることも出来ず、自然現象や物理現象を味方にすることも出来ない。

「うわああああああああああああああああああああ‼」

 叫んでも、誰も気にしない。

 もう駄目だ ――― ぼくは絶望する。

 ……しかし、その直後に、彼女が現れた。

 火殿 妹奈。

 彼女は、周りの人たちに「おはよう!」と元気よく挨拶しながら、こちらに向かってくる。

 今のぼくからしたら、彼女はぼくが叫んだ直後に姿を現したのだから、彼女だけは例外なのではないかと、そう思ってしまう。

 ぼくの妹たちのように、ぼくが愛している妹奈も、また例外なのではないか、と。

「妹奈! ぼくのことが見えるか⁉」

 もしそうだったら、男のぼくが思うのもどうかと思うが、物語性に富んでいて、感動をいざなうおとぎ話のようで、とてもロマンチックで、それこそライトノベルみたいな展開だなと思った。

「…………」

 そんなこと、あるわけがないのに。

 そもそも、ぼくが嫌っている妹たちと、ぼくが好いている妹奈では、決定的に条件が違うのだから、結果なんて、火を見るより明らかだったのに。

 火殿 妹奈を見るより明らかだったのに。

「なあ……、おい……」

 既に当たり前のようにある概念を捻じ曲げることは不可能。

 そんなことを言っていたのは、他でもない妹奈だった。

 

 それは、既に当たり前のようにある概念であり、グローバルスタンダードであり、最高ランクのプライオリティであり、それを捻じ曲げることは、なるほど、毛頭不可能のようだった。

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