2.紅蓮の獅子が咆吼する

 九階から十階は、吹き抜けの構造になっていた。


 高級レストランやバーなどが集まる九階のホールから、音楽ホールの鎮座する十階に向かって緩やかなアーチ状の階段が伸びる。

 エレガントな装飾に彩られたそこにも変異が及び、怪物の体内のような有様となっていた。

 そして、思いがけない景色が広がっていた。


「ひ、人が……!」


 オーレリアが口元を押さえ、後ずさった。

 死体、死体、死体――床に、手すりに、あるいは天井に。かつて人間だったものの残骸が散乱している。一階の玄関ホールと似た有様だが、状況はあれよりも凄惨だ。

 床は赤い血に浸り、歩くたびに水音を立てた。

 青い顔のオーレリアの肩に触れつつ、キーラは歩く。

 そうしてホールの半ばほどに到達したところで、不意に彼女は視線を上に向けた。


「……そろそろ出てきたらどうだい?」

「――ほう、気付いていましたか。なるほど、流石キーラ・ウェルズといったところですな」


 満足げな男の声とともに、乾いた拍手の音が響いた。

 同時に、正面の大扉が蹴り開けられた。

 手に手に銃を携えた人間達が九階のホールへと雪崩れ込んでくる。彼らは皆一様に白いスーツに身を包み、体のどこかに鍵穴のタトゥーを刻んでいた。


「な、なに……? なんなの……!」


 オーレリアは縮み上がり、キーラへとしがみつく。

 その間に白スーツ達は二人の包囲を完了し、一斉に銃口を向けてきた。

 動作こそ整然としていた。しかし皆一様に口には泡が浮かび、眼球は真っ赤に染まっている。

 そして、ふわりと影が揺れた。


「……それとも、嗤う殺人鯨グリニング・オルカと呼んだ方がいいですかな?」


 ロバート・シンプソン。

 先ほどまでは影も形もなかったはずの彼の体が、バルコニーの上に浮遊していた。

 ロバートは優雅に拍手をしながら、ゆっくりと下降してくる。相も変わらず上質なスーツ姿で、シャツからネクタイに至るまで血のシミ一つない。


「貴方もメイジだったんだね」

「如何にも。何、大した腕ではありませんよ」


 謙遜しつつも、ロバートはキーラ達の前に軽やかに着地する。

 ロバートはネクタイを整えると、葉巻を一本咥えた。うつろな目をした白スーツがすぐさま近づき、ライターで葉巻に火を付ける。


「ところで……ずいぶん滞在を愉しんだようですなぁ、殺人鬼殿?」


 白い歯を剥き出して笑うロバートをよそに、キーラはざっと周囲を確認する。

 三六〇度、明らかにまともな精神をしていない人間達に囲まれている。自分だけならともかく、オーレリアを無傷で包囲から脱出させるにはどうするか――。


「初めてですよ、我々と異なる進化を辿った人類に出会うのは」


 沈黙するキーラをよそに、ロバートは朗々とした声で語る。


「実に面白い……貴女は我々と同じように、異界の空気への耐性を持ち合わせているようだ。ヴィジター達も、貴女の存在には興味津々ですよ。メイジ以外の存在が彼らを殺すなんて、未だかつて例のないことだったようだ」

「……何故、メイジである貴方がヴィジターと手を組んでいる?」


 キーラが問うと、ロバートは「ほう」と感嘆の声を漏らした。


「なるほど、我々と彼らの関係をご存知のようだ……そこの出来損ないの入れ知恵かな?」


 瞬間、空気が張り詰めた気がした。

 ロバートの冷やかな視線に晒されて、オーレリアが一気に身を固くする。彼女を自分の背後へと庇いつつ、キーラはあくまでも淡々と問いかける。


「ドアーズとはどういう関係だ? どうしてホテルを異界に落とした?」


 ガラス球のような群青の瞳が、ロバートを映す。


「――何が目的だ?」


 その深淵に一瞬気圧されたのか、ロバートはわずかに息を飲んだ。が、すぐに不敵な笑みを唇に戻すと、仰々しい所作で一礼してみせた。


「私は『狩人ハンター』ロバート・シンプソン……ドアーズ第二階梯に所属している」

「……なるほど。要するに、組織の幹部というわけだ」


 キーラは無表情のまま視線を巡らせ、白スーツの顔を確認する。


「メイジは常人が嫌いなんだろう? ここの連中はおおよそメイジには見えないが」

「ふふ……メイジでも常人でも、如何なる者も受け入れる。我々は常日頃から人類の幸福と未来のために奉仕を行っている組織ですからな」


 ロバートは笑い、葉巻をたっぷりと吸った。

 そして天井に向かって煙の輪を吐くと、ゆっくりと消えていくそれを見上げた。


「……我々人類はここ数世紀、どん詰まりの中にいる」

「はあ……」キーラは気のない声を漏らした。

「繰り返される戦争、虐殺、汚染……何度繰り返す? 『平和』だの『未来』だの、大層な目的を掲げて何度過ちを繰り返した?」

「興味がないな」キーラは淡々と肩をすくめた。

「我々は迷い、考えた……一体どうすれば、人類は救われるのか?」


 すげない反応も気にせず、ロバートは芝居がかった所作でゆっくりと手を広げた。


「そして結論に至った……まずは間引きだ。人類はあまりにも増えすぎた。社会が誤った方向に複雑化しすぎてしまったのだ。そして、進化を促す必要がある」

「……そのためにヴィジターと手を結んだの?」


 決然とした面持ちで拳を握りしめるロバートに、淡泊な口調でキーラは問いかける。


「人間の数を減らし、進化を促すために?」

「いかにも! いかにも! 脅威の存在こそが、進化の起爆剤となる!」


 ロバートは叫び、白い歯を剥き出して笑った。

 握りしめた拳を振るい、感極まった有様でホールへと咆吼を響かせた。


「そして我々は今、まさに扉を開きつつある! 二つの世界を結ぶ扉を、我々が!」

「万歳!」「今こそ扉は開かれん!」「我ら第七の天に至る者也――!」


 ロバートの叫びに、白スーツ達は口々に歓声を上げた。

 どの顔も最高の喜びに輝いているものの、相変わらずまなざしは淀んでいた。そして、その手に握られた銃器はいずれもキーラ達を淡々と狙っている。

 キーラは黙って、空虚な歓声を響かせる人々を硝子球のような瞳で眺めた。


「と、扉を……開く……?」


 か細い声に、キーラは視線を落とす。

 ライダースジャケットの裾を握りしめ、オーレリアが大きく目を見開いていた。


「扉を開く、二つの世界を結ぶ……ハルキゲニアは、人間界と重なり合うようにして存在していて、このホテルは今、その狭間にある……」


 眼を見開いたまま、オーレリアは自分の髪を噛む。

 オマモリミズクラゲ達が集まり、触手を振るう。どうやらエールを送っているらしき彼らの存在は眼にも入っていない様子で、オーレリアはぶつぶつと呟き続けた。


「通常、別の世界の異物は、境界の作用によって元の世界に押し出される……全体を見なくちゃいけなかったんだわ……ホテルは『落ちている』んじゃなくて『降りている』……」

「降りている?」


 キーラが問うと、オーレリアは震えながらうなずいた。


「もし……湖底に穴が開いたら……湖は、どうなるか……」

「……なるほど、そういうことか」


 キーラは無表情のままうなずいた。そして、ドアーズへと視線を向ける。

 歓声はやんでいた。ロバートは、冷やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。


「人間界は湖の水で、ハルキゲニアは湖の地下。二つを隔てる湖底に陥没穴が生じれば、水は地下へと流れ込む……恐らくは人間界が、ハルキゲニアに流れ込む」


 キーラは緩く手を広げ、周囲を示した。


「このホテルはいわば穿孔機。……太陽の名前をつけたホテルが、地底への鍵となるわけだ」

「お見事、ウェルズ殿」


 ロバートは満足げにうなずき、ゆったりとした所作で拍手した。そして拍手を終えたその手は、ごく自然な動きで腕時計へと滑った。


「――そして当然、ここまでを知ったからには生かすわけにはいかない」


 咆吼――爆炎。

 閃光を見た瞬間、キーラは反射的にオーレリアを抱えて跳んだ。オレンジ色の火球がその靴裏を掠め、それまで二人がいた場所へと命中する。

 人間を大きく上回る跳躍で後退し、キーラは十階に続く階段の上に着地する。


「ひ、ぇ、ええ……」


 へたり込むオーレリアを背後に庇いつつ、キーラはロバートを見つめた。


「……ふぅん、それが貴方の使い魔か」

「いかにも。――そこでふらふらしているクラゲとは別格ですぞ」


 腕時計を嵌めた手をキーラ達に向けたまま、ロバートはにやりと笑う。

 彼の左手に、炎の体を持つ雄獅子が額をすり寄せた。紅蓮の鬣がごうごうと燃え盛っている。

 規則的な靴音が響いた。

 包囲を抜けられた黒スーツ達が、機械的な所作で銃口を向けてくる。何人かは顔面に火傷を負っているものの、皆一様に笑みを浮かべていた。


「彼らには改良型のアンクを投与している」


 ロバートはスーツのポケットに手を入れると、そこから小さな紙箱を取り出して見せた。

 箱には錠剤のイラストと、『UNchanger』の文字があった。


「文字通りの不変剤……しかし、こいつは特別でね。感覚鈍磨を強化した上に、メイジである人間のみが放つ特殊な音を聞けば即座にトランス状態に陥る」

「……結局メイジ以外救う気がないんじゃないか」

「とんでもない。我々は選別しているだけだ。常人であっても素養があれば救い――」


 淡々としたキーラの言葉に、ロバートは大仰な所作で首を振る。そして表情を消し、床にへたり込むオーレリアに心底退屈そうなまなざしを向けた。


「メイジであっても素養がなければ殺す。――そこの恥さらしのようにね」


 オーレリアの体が、びくりと震えた。

 ロバートは鼻で笑うと、これ見よがしに炎の獅子の背中を撫でた。燃え盛る毛並みを波打たせ、獅子は威風堂々と彼の周囲をぐるりと回る。


「見たまえ、この威容を。これこそが魔法、これこそが使い魔だ。――一目見ただけでわかったさ。君がろくに魔法を使えない出来損ないだということはね」

「わ、わたし……」

「使い魔の素質はメイジの素質だ。爪もない、牙もない、ただ流されるだけ……能無しに実にふさわしい使い魔だ、オーレリア・ティアフォード。あの御方の気まぐれか? 無能の君が何故いまだ殺されていないのか、私には不思議でならない」

「う、うぅ……っく…………!」


 歪んだ唇が吐く悪意に、オーレリアは頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。

 呼吸は浅く、荒い。足元の影は荒れ狂う海の如く波打ち、小さなクラゲを放出し続けている。

 完全にパニックだ。そんな彼女を背後に庇いつつ、キーラは小さく歯を鳴らす。

 ロバートを直ちに殺したい。しかし、ここから迂闊に動けばオーレリアが危険だ。

 どう動くか。どう殺すか。冷え切った殺意が思考を研ぎ澄ませていく。

 そして――キーラは、ふと首を傾げた。


「…………あの御方? 首謀者は、君じゃないのか?」


 瞬間、ロバートは表情を消した。しかし、すぐに口角をつり上げ、腕時計に触れる。

 炎が来る。実際、炎の獅子が咆哮の姿勢を取るのが見えた。

 キーラはすかさずオーレリアを守ろうとした。

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