8.だれもいない
――一方のオーレリアは、少しずつ床を這っていた。
「……い、いち、に、い、い、いち……」
震える声で一と二を繰り返しながら、ひそかに非常階段に向かっていく。
肉を裂く音と、壁を砕く音、液体の飛び散る音――背後で響く音に、白い手は何度も震えた。
それでも、オーレリアはどうにか非常階段へとたどり着く。
浮遊するクラゲの声なき応援を受け取りつつ、彼女はよろよろと立ち上がった。濡れているうえに傾斜している床に滑りそうになりつつ、なんとか黒い扉を開く。
途端――目の前に、暗闇が広がった。
蛍光灯の明かりはない。しかしクラゲ達の放つ光によって、かろうじて階段の輪郭は見える。
「ひ、い……」
鼓動が早まる。視界が揺れる。肌が粟立つ。冷や汗が滲む。
堪らずオーレリアは体を折り曲げ、吐いた。胃液とともに涙がぼろぼろと床に零れていく。
「えっ、く、うっ……」
これからこの暗闇をたった一人で登らなければいけない。
開いた扉に縋り付きつつ、オーレリアは悲鳴のような呼吸を繰り返す。
『得物』――キーラは、確かにそう言った。
キーラの部屋には、彼女本来の武器があるのではないか。恐らくは、今振るっている消防斧などよりも遥かに強力で――凶悪な武器が。
確証はない。ただ淡い期待だけがそこにある。
けれども、オーレリアはそのわずかな希望に縋り付くことにした。
「せ……先生……ナオミ……先生……」
不規則な呼吸に肩を揺らしつつ、オーレリアは震える手で月長石のブローチを握りしめた。
わななく体に力を込め、足を引きずるようにして一歩踏み出す。
「どうか……どうか、力を……」
重力の方向が垂直になる。オーレリアは全力で扉に縋り付き、どうにか転倒を逃れた。
どうやら、このあたりの角度は正常なようだ。
オーレリアはひいひいと呼吸を繰り返しながら、暗闇を見上げる。周囲を漂うクラゲはいつの間にか数を増やし、その燐光で階段の輪郭を浮き上がらせていた。
オーレリアは喘ぎつつ足を上げ、一段目に乗せた。
二段、三段、四段――非常灯さえない闇の中を、体を引きあげるように登っていく。
鼓動がうるさい。クラゲの光が脳に刺さる。空の胃がしくしくと泣く。
体はこんなに重かったか。重力は、こんなに暴力的だったか。
『浮かべばいいのに』――ぐらぐらと揺れる闇の中で、誰かが囁きかけてくる。
『メイジなら飛べるのに』
八段、九段、十段――震える指先で壁をたどり、八階への扉の輪郭を探す。
部屋番号は覚えている。ルームキーも、キーラから預けられた荷物の中にある。
「は、八〇三……八〇三号室……」
『本当に?』
闇の中で誰かが言った。
『それで本当に正しいと思っているのか?』『本当に物覚えが悪いものねぇ』
壁に縋り付き、オーレリアは体を折り曲げた。吐きたい。でも、もう胃にはなにもない。
こんなに体が震えているのに、肌は嫌な汗に濡れている。
その間も、見えない誰か達がざわめいていた。
『お前は感謝しなければいけないよ』『能なしを世話してやっているんだから』
『気を引きたいのか?』『バカげた真似はやめなさい』『みっともない子なんだから』――。
「だ、誰もいない……」
階段に這いつくばりながら、オーレリアは囁く。
クラゲがいる。階段は目の前にある。それ以外はなにもない。
「本当はここには誰もいない……本当はここには誰もいない……本当はここには……」
十一段。多分。登っている。きっとそうだ。
青い光に、次の段の輪郭がうっすらと浮かんでいる。
『六才になったのに飛べないの?』『スプーンも曲げられない?』『メイジなのに?』
『お前みたいな子をなんていうか知ってる?』『猿』『猿だよ』『なんでできないの?』『お前だけだよ』『一族始まって以来の無能』『なにもできないならせめて笑っていなさい』
「本当はここには誰もいない本当はここには誰もいない本当にここには誰もいない本当にここ
十蜊∽ 二段 コ梧ョオ。――本当に?
上下がわからない。登っているのか。降りているのか。
脳がうるさい。鼓膜が震えていないのに声がする。幻が四肢に絡みついてくる。
『飛び降りた?』『そんなに苦しんでいたとは』『許してくれ』『許せよ』『謝っただろ』『猿め』
『お前も悪い』『いつまで泣いてる?』『親のせいだとでもいいたいのか?』
「誰もここにいないがいるも誰もない私が本当で私もない誰もいないのは本当に本当で本当の
『笑え』『空気を読め』『笑ってろ』『猿が』『親に感謝しなさい』『良いご家族ですね』
十 蜊∽ 三 ク画 段 ョオ。
『死なないで』『私達も辛いのよ』『死ぬな』『猿のくせに』『お前のせいなんだぞ』
『死にたいなんていわないで』『生きてて恥ずかしくないの?』
『素敵なご家庭ですね』『みんな優しくて』『お前は幸福だ』『お前は幸福だ』『お前は幸福だ』
本当はここには誰もいない。
本当はここには誰もいない。
本当はここには誰もいない。
わけのわからない声がする。どうやらそれは自分の喉から響いているらしい。
「うるさい!」――誰かが叫ぶ。不思議なことに、その声は何故だか自分の声に似ていた。
『ご両親は治療の継続を拒否した』『君には、このブローチをあげようね』
『……せめてもの贈り物に、ね』
動いている――何が? 自分だ。多分。
手は動いているのか。足はどうなっているのか。
手首の痛みが愛おしい。傷が開いたのだろうか。鉄のにおいがする。
『弱くていいじゃないか』『変わらないことは悪くないね』『君はそのままでいい』
立っているのだろうか。落ちているのだろうか。
それとも自分はもう死んだのか。
『――逃げないか、私と』
真冬の湖に飛び込んだ。躊躇もなかった。
最期に見た空は灰色だった。黒い鳥が鳴いていた。
今、自分はどこにいるのだろう。
階段なのか、湖なのか。
『……
氷。水。空。烏。泡。泡。泡。血。血。血。
闇。闇。闇。闇。闇――。
『絵のモデルになってほしい』
これは――誰だったか。
海に広がる血のような色をした髪の女。瞳の向こうに深海のある女。
異様に鋭い歯の女。シャチみたいな顔で笑う女。
『傷がない君も美しく描けるし、傷がある君も美しく描けるよ』
そうして――オーレリアは、まばたきをした。
頭の後ろに、硬い地面の感触がある。いつの間にか、平たい場所で仰向けになっていた。
階段から落下したのだろうか。後頭部に触れてみたが、傷みはなかった。
見えるのは、気遣うように周囲を漂うクラゲ達。
そして――線。
暗闇に走る細い線をオーレリアは見上げ、その根元を辿って首を動かした。
自分のすぐ横に、扉がある。どうにか腕を持ち上げ、オーレリアはそっとそれを押してみた。
音も無く開いた扉の先に、蛍光灯のまたたく廊下が見えた。
『八階』――歪んだ金色のプレートを見た瞬間、弾かれたように立ち上がる。
「は、八〇三! 八〇三号室――ッ!」
八階の廊下へと飛びだしたところで、オーレリアは思わず悲鳴を上げそうになった。
客室の扉の前に、カラスがいる。
目を白く光らせたカラス達が身じろぎもせず、整然と並んでいる。
そうして廊下の突き当たり――オーレリアに背中を向ける形で、誰かが振り返った。
薄く微笑む能面が、オーレリアを見た。
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