4.虚体解剖

 階段には、今のところ目立った変異は見られなかった。

 相も変わらず、オレンジの明かりが粘膜のような壁をぬらぬらと光らせている。


「よかった。まだ階段は使えるね」

「しょ、正気じゃないわ……!」


 背後で、オーレリアが必死の様子で首を振る。

 相変わらず顔色こそ悪いものの、身支度は完璧だ。ダークブラウンの髪は綺麗にまとめられ、首元のリボンタイにはきっちりと月長石のブローチを着けていた。

 頭には、一匹のクラゲがぺちゃっと載っている。まるでレースの帽子のようだ。


「私は誰より正気だよ」


 前を歩くキーラは、オーレリアを見もせずに答えた。


「さっきも言ったとおり朝食というのは一日の中でも重要な食事だ。そして、私は最高の卵料理を朝に食べないと一日もやもやすることになる」

「だ、だだっ、だからって、この状況下で料理をするなんて!」

「この状況だからこそ、重要な事はできるだけ手を抜いちゃいけない」


 言いながら、キーラは二階のホールに降り立った。

 人の気配は感じない。

 ガラス張りの壁から、赤い天体の放つ光が禍々しく差し込んでくる。


「私の……殺しの師に当たる人はこう言った。『戦場において紅茶を一杯も飲まない上官は指揮を執るべきではない』と。そして友人の一人も、テロリストに占拠されたショッピングモールでドーナツを三十個作っていたことがある。大事なことだよ」

「……よくわからないけど、前者と後者は何かいろいろと大切なものが違う気がするわ」

「そうかな。本人達のイカレ具合は似たり寄ったりだけど。――さて」


 キーラはガラス張りの壁から、視線を室内へと戻した。

 昨日と変わらず、得体の知れない赤黒い液体が床に満ちている。ざっと見た限り、転がる椅子や倒れた観葉植物の配置に変化はない。

 そして捩れた柱の陰には、キーラが殺した錠剤男の死体がある。


「へぇ……一晩でこうなるのか」


 死後硬直の度合いについては、今のところ人間界との差異は見られない。

 異様なのは、男の顔面が明らかに腐敗のそれとは異なる崩れ方をしていることだ。皮膚は溶け、筋肉は赤く泡立ち、骨格そのものも歪んでいる。


「……興味深いな。なんだか別の生物になろうとしているように見える」

「……間違ってないわ」


 かすれた声に、キーラは唇に指を当てたまま視線を上げる。

 階段のところで、ぎゅっと目を閉じたオーレリアが壁に身を寄せていた。


「ハルキゲニアの空気はあらゆるものをおかしくする……歪め、狂わせ、変えてしまう……土を水に、水を火に、金を木に……灰を花に変え、花を鳥に変え……」

「死者を生者に変える?」

「……蘇るわけじゃないの。ただ、変わってしまう」


 オーレリアは目を閉じたまま、何度か深呼吸した。


「心は狂い、体は崩れ、霊魂の深奥を暴かれ、遺伝子の奥底を揺さぶられ……やがて、生物はまったく違った何かになってしまう……私達はこれを、虚体きょたいと呼んでいます……」

「……これ、襲ってくるのかい?」

「きょ、虚体自体は大きな脅威ではないの。時々、まだ自分は生きていると錯覚して動いたり、生物に反応して追いかけてくることはあるけど、殺すことができる……。でも、ここにヴィジターが入り込むと……」

「ふぅん……ちょっとだけ、中を見てみるか」


 キーラは男の死体に視線を戻すと、持っていた包丁を躊躇なくその胸部に突き刺した。

 途端、死んだはずの男の肉体が大きく跳ね上がった。

 閉じていた瞼が開き、黒い血にまみれた眼球が赤い光に晒される。ばたばたと跳ねる体を強引に抑え込むと、キーラは肉に突き立てた包丁を押し進める。

 肉を裂く音にオーレリアが耳を塞ぎ、しゃがみ込む。


「肋骨の数が増えてるな……背骨も変な形だ……あと、潰したはずの心臓が再生している」


 簡単に錠剤男を解剖した後で、キーラはあっさりと心臓に包丁を突き立てる。

 途端、びくびくと震えていた男の体が一気に弛緩した。

 キーラは立ち上がると、包丁から滴る黒ずんだ血液をじっと見つめた。


「血の色が黒い……なるほど。ここにヴィジターが入り込むと血の色が蛍光色になって、そうして通常の手段では殺せない不死の生物になるわけだ」

「………………はい」


 オーレリアはしゃがみこんだまま、泣きそうな顔でうなずいた。

 キーラは包丁から血を振るい落とすと、震えるオーレリアの元に近づいた。


「……そんなに怖いのなら、部屋で留守番するかい? あの部屋なら、安全なんだろう?」

「…………ひ、一人で、いると駄目なの」


 オーレリアは目をきつくつむったまま、首を横に振った。


「一人でいると駄目……たまらなくなる……怖くて、不安で……苦しい……どうしようもなくなる……わかってる……わかってるの……わたし、わかってるの……」


 後半は、ほとんどうわごとと化していた。

 キーラはオーレリアの手に触れようとして、あるものを見て止めた。


「わかってる……わたし……わかってるのよ……でも……」


 頭を抱え込んで、オーレリアはか細い声で繰り返している。

 黒いワンピース――左腕の袖がわずかにめくれ、華奢な手首に巻かれた包帯が覗いている。

 そして、それでは隠しきれない数の刃の痕も。


「さて……」キーラは唇に指をあて、しばし考えた。


 たいていの場合、キーラは誰かを落ち着かせる時は何発か殴ることにしている。このやり方は非常に有効だが、高確率で相手の顔面を破壊してしまうのが難点だ。

 そこでキーラが思いだしたのは、先日バーで聞いたシドニーとレティシアの会話だった。


『ねぇレティ、僕を抱き締めてくれないか……』

『何よ突然。気持ち悪いわね』

『スロットで全部スッちゃったんだよ!』

『自業自得じゃない。それでなんであたしがあんたを抱き締めることになるわけ』

『ハグは人の心を癒やすんだよ! ちょっとくらい慰めてよ!』


 当時ボックス席で絵を描いていたキーラは、ただの馬鹿の喚きだと思って無視していた。

 しかし、まさか聞き流していた会話がここで役立つとは。

 キーラは無表情でうなずきつつ、震えるオーレリアに手を伸ばした。


「よいしょ」「ひゃっ……!」


 軽々と抱えあげられ、オーレリアが小さく悲鳴を上げる。とりあえずキーラはほどほどに両手に力を込めつつ、その背中を軽く撫でてみた。


「友人にさ、馬鹿でうるさくてコミュ力と行動力だけは無駄にあるサイコがいてね」

「……その人、本当に友達なの?」

「そいつがね、こうして抱き締めると人の心を癒やせるとか抜かしてたんだ」


 オーレリアのささやかな疑問は無視して、キーラは淡々と語る。

 石鹸作りで染みついてしまったのか、オーレリアからはほのかにメリッサの甘い香りがした。

 細い体は心配になるほどに軽く、そしてじんわりとあたたかい。


「どう? 癒やされる?」

「え、えっと……」

「まぁ、いいや。留守番したくないなら、悪いけどこのまま進むよ」

 そのまま歩き出すキーラの肩にしがみつき、オーレリアは青い顔を向けてくる。

「で、でも、こんな状態で襲われちゃったら……!」

「大丈夫。この状態でも問題ないよ」


 キーラは涼しい顔で言い切った。

 そうしてオーレリアを抱く手とは反対の手で、くるくると包丁を弄んでみせる。青く輝く切っ先が光の円を描くたび、オーレリアはびくりと身を震わせた。


「私に殺せないものなんて存在しないからね」

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