Ⅱ.スパイホッピング・イン・ホテル
1.メリッサの香りの魔術師
三〇四号室――レッドサン・パレスホテルが誇るパレスルームに、キーラはいた。
「……なるほど。さすがに高いだけはある」
部屋は六室――リビング、応接間、バスルーム、三つの寝室。
キーラの部屋よりもさらに広いうえに、最新の設備が整っている。
リビングにはミニバーがあり、携帯用ガスコンロや冷蔵庫などもあった。
キーラはひとまず手近にあったマグカップ二つを拝借して、ホットチョコレートを用意した。
湯気の立つマグカップを盆に載せ、キーラは寝室の一つに向かう。
「入るよ、オーレリア」
ノックをした後でドアを開ける。すると、ほのかにメリッサの香りが漂った。
広々とした寝室は、ぼんやりとしたオレンジのランプに照らされている。ベッドの他にはテーブルと椅子、そして最新の液晶テレビが用意されていた。
大きなベッドの上には白い毛布の塊があり、部屋に入るとそれがもぞりと動いた。
「気分はどう? 何か食べる?」
キーラの言葉に、毛布の塊は――座り込んだオーレリアは、答えなかった。
ただでさえ青白かった顔色は余計に悪くなっている。
ついさっきまで泣きじゃくっていたせいで、目は真っ赤に染まってしまっていた。
キーラはとりあえず、ベッドの近くに用意された椅子に腰掛けた。
「少しは落ち着いた?」
「…………はい」
オーレリアはぶるりと震えると、いっそう毛布の中に身を沈めた。
「……毛布は、好き。毛布の中には……わたしを脅かすものは、なにもいないから……」
「そうか。この世の真理だね」
もぞもぞと動く毛布の塊に、キーラは無表情でうなずいた。
そして、自分のマグカップを引き寄せる。
「ホットチョコレートを用意した。――かなりたくさんあったけど、誰かの好物なの?」
「わたし……わたしが、好きだから……先生が……」
毛布の塊がぶるぶると震えだした。どうやらナオミのことを思いだしたらしい。
およそ一時間ほど前――キーラは泣きじゃくるオーレリアを肩に担ぎ、二階から脱出した。
自室のある八階までは距離がある。
そこまでで、ヴィジターに出くわさないとも限らない。
キーラだけならどんなものでも皆殺しにできる自信と力量はあったが、『最弱』を自称するオーレリアを担いでいるとなれば話は別だ。
なのでナオミの死体から抜き取ったルームキーを手に、キーラは三階へと足を踏み入れた。
そして――現在に至る。
「……あいつら、部屋まで入ってくるかな」
テーブルに置いたルームキーをこつこつと叩いて、キーラは思考する。
すると毛布からオーレリアが顔を覗かせ、首を振った。
「この部屋は……大丈夫だと思います……加護があるから……せ、先生の……」
「加護とはなにかな?」
「玄関の……ドアノブに、お守りがかかっていたでしょう? あれ、です……」
その言葉に、キーラは記憶を探る。
確かに内側のドアノブに、小さなロザリオに似た奇妙なものが掛けられていた。十字架の代わりに、不可思議な模様を刻んだメダルが着いていた覚えがある。
「なにかの護符か。あれがあるから、ヴィジターとやらはここには入れないのかな?」
「はい……他にも、先生がたくさんおまじないを掛けたから……しばらくは、大丈夫です」
「ふぅん……このメリッサの香りも、そのおまじないの影響?」
「いえ……これは、わたしが作った石鹸のにおい……」
「へぇ。センスがいいね」
キーラの言葉に、オーレリアの顔から初めて憂いが消えた。
きょとんとした顔の彼女に、キーラはマグカップに口をつけながらうなずく。
「ホテルの使ってるムスクよりずっといい。趣味なの?」
「はい……石鹸とか、香油とか、レース編みとか……細かいものを作るの、好きです……」
数々の作業を思いだしたのが、一瞬だけオーレリアは嬉しそうにうなずく。
しかし、その青ざめた顔はすぐに悲痛に歪んだ。
「でも、でも……役に立たないの……メイジなのに、無駄なことばっかり……!」
「……そのメイジって、何?」
ぐしゃぐしゃと髪を掻くオーレリアに、キーラは静かに問いかけた。
「魔女、魔法使いといったね――君、何者なの?」
オーレリアは毛布に埋もれたまま、しばらく不規則に呼吸を繰り返した。
やがて、涙に濡れた声で彼女は語り出した。
「メイジは……わたし達は、魔法を使えるの……」
途切れ途切れにオーレリアが語ったことによると、メイジは種族名という。
彼らは自らが『マナ』と呼ぶ神秘の力で、様々な超常現象を引き起こすことができるらしい。
「へぇ、すごいな。空とか飛べるの?」
「ほんの少しだけなら……わたし達は魔法を使って……ヴィジターと戦っています……」
「ヴィジターってさっきの怪物だね。あれ、何?」
「異界……わたし達が、『ハルキゲニア』と呼ぶ世界の、住民です……」
毛布に体を埋めたまま、オーレリアは細い声で語った。
「ふぅん、ハルキゲニア……『幻覚』か。確かに現実のものとは思えない存在だね」
「はい……あれは、ずっと、わたし達の世界を狙ってるの……」
ヴィジターは、明確な悪意を抱いて人間界に現われるのだという。
そうして不可解な現象を引き起こし、歴史上様々な場面で人類に困難をもたらしたらしい。
「ヴィジターは……普通の方法では、殺せません」
ベッドの上で、オーレリアはもぞりと体を起こす。
毛布をしっかりと肩に巻き付けながら、彼女は何度か深呼吸した。ようやく落ち着いてきたのか、その声には先ほどに比べればいくらか力があった。
「彼らは本来、肉体を持たない存在。本当の姿は……炎に似ているとか。肉体を持たない彼らは、普段は人間の精神を苛む形で害をもたらします……」
「でも、私が戦った連中は血肉があったよ」
キーラの指摘に、オーレリアは「はい……」と小さくうなずいた。
「あれは……人間に対し、物理的に干渉するために作った体です。彼らは……なんらかの形で肉体を入手したら、それを調整して……憑依して、動かす……」
「ふぅん……なるほど。だから心臓や脳を破壊しても、通常は無意味ってことか」
キーラは唇をほんの少しだけ歪め、ホットチョコレートを飲んだ。
「メイジはヴィジターを殺せるの?」
「はい……霊体で生きるヴィジターは、精神の力であるマナに弱いの。だから、メイジはずっと戦っていました……長い、本当に長い間……誰にも知られずに……」
「なんで人間にヴィジターの存在を伝えない? 一緒に戦えばいいんじゃないか」
「……と、遠い昔には、魔法の使えない人間とメイジが協力して、ヴィジターと戦ったこともあったそうです。でも、ヴィジターは狡猾で……ひ、ひどい災いが起きたとか……」
「だから、メイジは隠れるようになったわけだ」
恐らく、中世に起きた魔女狩りも影響しているのだろう。
力無くうなずくオーレリアを見つめつつ、キーラはそう推測した。
そして――どう考えても地雷だと思われるが、必要な質問を慎重に口にした。
「……あのナオミという女もメイジ?」
「はい……とても強い人。強くて、賢くて……わ、わたしとは、大違い……」
オーレリアは毛布をぎゅっと握りしめ、大粒の涙を零した。
光が揺れた。オーレリアの涙が零れたところから、数匹のクラゲがぽこぽこと湧き出す。
「……さっきから気になってたけど、そのクラゲは何?」
「わたしの……使い魔達です。これはオマモリミズクラゲといいます……」
オーレリアはすんと鼻を鳴らした。
その間もクラゲは彼女の体から次々に現われ、周囲をふよふよと漂っている。
「メイジには必ず、魂と結びついた精霊達がいるの……霊魂の奥底に、魂の泉というものがあって……そこからこの子達を呼んで、助けとする……人によって種類が違うけど……」
オーレリアの目に、また涙が浮かぶ。
やがて彼女は両手で顔を覆い、激しく首を横に振った。
「クラゲなんて……ッ! 爪もない、牙もない、脳も神経すらもない! こんなの……ッ!」
「……脳も神経もないわりには、君のこと気にしてるみたいだよ」
組んだ指の上に顎を乗せ、キーラはさめざめと泣くオーレリアを眺めた。
ミズクラゲに似たものの他に、様々な色に発光する別の種類のクラゲも現われだした。
どうやらどうにかして、主の気を慰めようとしているようだ。
「……わたしは、弱いの」
毛布に顔を埋めて、細い声でオーレリアは言った。
「わたしの家はメイジの名門で……みんな、強い使い魔を使えます。象、ライオン、鷲……でも、わたしはクラゲで……なにより魔法が……弱くて……」
オーレリアはゆるゆると両手を持ち上げ、泣きはらした目でそれを見つめた。
「浮遊も、発火も……皆ができるようなことが、下手なの……」
「別に良くない? 普通の人間は浮かべないし、火だって道具を――」
「メイジは駄目なの!」
引き絞るような声でオーレリアは叫び、顔を覆った。
「メイジは、才能が全て。努力しても才能がなかったら……さ、猿と同じ、と言われるの」
「……ははあ」
では、メイジは魔法の使えない人間を猿と認識しているのではないか。
一瞬キーラはそんなことを考えたものの、黙っていた。
「なのに……なのに、わたし……生き残ってしまった」
その間も、オーレリアの嘆きは続いていた。
周囲には彼女の気を紛らわそうと、多種多様なクラゲが漂っている。クラゲの大水槽の只中にいるような状態で、オーレリアは膝を抱え込んだ。
「弱くて、なんにもできないのに……こんな場所で、生き残ってしまった……」
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