第十八話 玉砂利の庭に西の風が吹いて

 足首を押さえて道路に屈み込む利賀の様子に、その子は泣きそうな顔で。

「おにいちゃんっ」

「行けって。大丈夫だから。もう行けるだろッ!」

 また遠くで汽笛が鳴った。

「ほら! 列車きたぞ! 走れ!」

 たんっと軽く少年が尻を叩かれて。真っ赤な目で頷いて。

 そろそろと道を渡って。

 一気に駐輪場に駆け込む。日曜の午後には自転車の波もないその敷地を突っ切ればロータリー前だ。

 小さくなっていく彼の後ろ姿を目で追いながら利賀が立ち上がって。しかし。

「——いってええええ」

 また道端でしゃがみこんでしまった。

 どうして自分はここ一番で、こんなヘマばかりなんだ? と呆れながら。


 鉄柵の張られた向こうに二車両しかないローカル線がスピードを緩めながらホームへと入っていくのを少年が横目に見ながら。

 割れそうな胸を押さえて走って。走って。もう日が傾いて。

 駅前のひさしに沿った歩道の先。転びそうになりながら待合所に駆け込んだ。

 はっはっはっはっと大きく息を切らす。

 誰もいない。

 がらんとした改札に駅員さんだけがいた。

 誰もいないのだ。


 車両はすでに停まっていた。対面の、歩道橋の向こうの二番ホームだ。

「ぼく、どうしたのかな?」

 駅員さんが声をかける。改札のすぐそばまで少年が近づいて。


 おかあさんが、いない。

 こぼれる涙はそのままで、少年がホームの中を覗く。

 




 棒のペイジは逆位置だ。

 やっぱり光ったのだ。そう思って出した。

 だから。やることは決まっている。

 ぼおっと淡い色彩が滲む、逆さになったカードを碧が見つめたまま、右手を伸ばす。


 その時。

 少しだけ雲が陰って夕方の陽が隠れた。空にむらがる雲間より冷ややかな光の穂先ほさきが山裾に降りて。


「きゃっ」


 びょうッと強めに吹いた一陣の風に。

 八津坂が小さく叫ぶ。

 厚いはずのテントの裾端が、ふわりとまくれて。


 伸ばした右手の、その前で。

 碧はそんな仕草は初めて目にする。

 テーブルの上で小さな旋風つむじかぜが光るカードを巻いて浮かせたのだ。


 顔の側までくるくると。巻いて。

 はたっと落ちる。

 逆さのペイジが正しくなって。





「ぼく。列車が出るから危ない——ちょっと!」

 少年がホームに駆け込んだ。


「おかああああああさんんッ!」


 それはあらん限りの大声だ。思わず駅員がのけぞった。

 少年の声は止まない。

「おかあさんッ! おかあさんッ! どこッ! おかあさんッ! おかあさんッ! わあああああああッ!」

 対面ホームの窓からも中に座った乗客が何人かこちらを向いて。

「おかあさんッ! おかあさんッ! おかああああああさんんッ!」

 その声を搔き消すように発車のベルが鳴る。

 ばらばら涙をこぼした少年を残して夕方のローカル線が走り出す。

 動く列車が涙で滲んでよく見えない。


 が。


 その列車が過ぎ去って。開けた二番ホームに。

 まだ人が立っていたのだ。

 色あせたトートバックを両手で持って、こちらを見ている。

 

 届いた。

「さとるっ!」

「おかあさんッ!」


 連絡の歩道橋に向かってもう夢中で走り出した少年を駅員はあえて止めることもせず、対面ホームからも駆け足で登っていくその女性に目をやった。

 母親と息子が西日射しこむ線路の上の連絡橋で抱き合った。





 結局、やっとのことで足の痛みを堪えながらひょこひょこ歩いてきた利賀をロータリーで待っていたのは今来たばかりの赤の軽自動車である。中には恭子が乗っていた。

 利賀と恭子が待合を抜ける。首を出してホームを覗けば親子はベンチに座ってずうっと話をしていた。

 経緯いきさつを聞いた母親が頭をさげる。子供の入場券は改めて駅員から買ったそうだ。

 こんな田舎のローカル線なので次の列車は一時間ほど後だ、親子水入らずでゆっくりさせる方がいいと思って。


 二人は降車場でのんびりと待つことにした。

「あああ痛え」

 助手席に座った利賀が足首をさする。


「どじだわあ。怪我したらどうするのバカ」

「うるさい、車だと間に合わなかったじゃないか」

「まあねえ。よくあんな道、覚えてたね」

 首を傾けた恭子が笑う。利賀が鼻を鳴らした。

「おまえ、いっつも怖がってたくせに」

「あんたがいっつもぐいぐい引っ張るからでしょ。……占い師くんに連絡入れたの? 心配してるんじゃない」

「電話した。なんか気の抜けたような返事してた」

 それだけ言って。少し言葉が止まって。

「なあ」「うん?」

「来月には会えるって、言ってたよな。あのふたり」


「子どもに一ヶ月は遠いよお。夏休みだって一ヶ月じゃん」

「ああ……そうか。そうだな」

「そうよ。会えんのは、一日だって、つらいもんよ」

「そうか」「そうよ」

 頷くばかりの利賀に、恭子が首を寄せる。

「子ども、かわいいよね」



◆ 



 もうしばらくすれば少年を乗せてみんなで帰って来るそうだと、碧から聞いた老婆は、そこまで表情を変えずに神社への階段を登って帰ったのだ。

 残る二人が港を見る。

 西日に染まった波止場の会場では、テントの片付けが始まっているのが遠目にもわかるのだ。あまり言葉を発しない碧に、八津坂も何も言わない。

 碧が鳥居から境内へと続く石段を見て、その上の暗くなり始めたこんもりと木々の繁る神社の山を見る。

 結局あの風がなんだったのか、碧にはわからない。


 もとは我らのやることだ あまりひとりで抱えるな


 誰かより。そう言われたような気がして。

 境内のあるべき逆光の山へ陽が差す風上かざかみに。

 碧が深く頭を下げた。



◆◇◆



 そろそろ駐車場側も係員がテントを畳み始めた夕暮れに、こそっと八津坂が碧に言う。ちゃんと彼女は覚えていたのだ。

「言ったじゃん。進路観てくれるって」

「お、おぼえてるって」「ホントに?」

 すっかり忘れてた碧が手元のカードをちゃっちゃっとカットして。

 片付ける前のテーブルに。一枚だしてオモテにめくる、と。


  女教皇


 うわあ。まただ。そんな碧の顔を。

 目ざとく八津坂が覗き込む。

「何? 悪いカード?」

「いやなんで。そんなことないって。女教皇はねえ」

 職業で読むなら。


「……どっちかというと、頭を使う仕事」

「えー。そおなの?」

「そうだよ。あと、記録とか、記憶とか。教育とか」

「たとえば?」

「先生。研究者。司書。秘書。会計。簿記」

「簿記あたりはなんとなく……」

 碧がさらに指を折って。

「医療系? 医療事務。カウンセラー。一般の会社なら総務? 営業は向かないかなあ」

 うーんと八津坂が首をかしげる。ピンとこないのだろうか。

 ただひとつ。碧が言っていない職業があって。

「まだある?」「え?」

 鋭い。やっぱり、そうなんだろうか。

 ちょっと困ったように碧が指でこめかみを掻いた。


「——占術家」


「せんじゅつか?」

「……占い師のこと」


 丸くなった彼女の黒目があまりに真っ直ぐ見つめてくるので。

 こめかみから頰に移った指先を動かす碧の顔が少し赤い。

 それは谷津坂も同じで。

 照れたようにだんだんと頰を染めて笑顔になって。

「ホントに?」「まあ、うん」

「やってほしくて、言ってない?」

「な。なんで。そんなホントだってば」

「うふふっ」「ホントだって」


 薄暗くなったテントの中で。

 慌てた顔の碧の前で。

 両手を口に当てた八津坂が嬉しそうに笑った。



         ——鑑定4 港祭りに西の風が吹いて 了——

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後の占い師 遊眞 @hiyokomura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ