夏が燻る

森陰五十鈴

取り残されたのは

 竜胆、鬼灯、菊にグラジオラス。畑の側で売っていたそれを、左右対称になるようにお墓の前に備える。

 水をあげて、線香をあげて、明菜たちは三人一緒になって墓に手を合わせた。

 青い空の下。古い住宅街の片隅のちょっとした丘を切り開いて作られた、新しくて小さな霊園。剥き出しの土の上の広葉樹の林から、蝉の鳴き声が降り注ぐ。

 お盆の真っ最中。どの家の墓も花を新しくしてある中で、現在墓参りに来ている人間は、舞に明菜と充希――幼馴染の三人だけだった。


「もう、一年になるんだね」


 下ろしたままの髪。ベージュ色のシャツワンピースに白いショルダーバッグを抱え、墓石の一番前でしゃがみ込んだ舞が呟く。縦よりも横幅のほうが長い御影石に、横書きで刻まれているのは、『武仲家』の文字。舞の家の墓だった。

 寺のように玉砂利もなく、すでに舞の父親が草むしりを終わらせて剥きだしになった土の上に置かれた墓石。線香台を退かした入口の下――骨壷も入らない小さな納骨用の穴には、彼女の双子の姉の骨が撒かれている。

 代々の、といったものとはあまりにかけ離れた小さなお墓。それがまた、舞の家の縁の薄さを思い知らされるようで、少し哀しい。


「こうして過ぎてみると、早いもんだなぁ」


 満足行くまで姉のお参りした舞は、立ち上がってうーん、と両手を上げて背伸びした。シャツワンピースの裾が持ち上がり、黒いサンダルを履いた脚が露わになった。熱い微風が白い肌を炙る。


「早かった?」


 Tシャツにショートパンツ姿でしゃがんだまま、眼鏡越しに隣の舞を見上げた明菜が尋ねてみれば、


「早かった。いろいろあったもん」


 明るい微笑が返ってきた。片割れを喪ったばかりの頃とは違う、さっぱりとした表情。彼女なりに折り合いがついているその証拠に、そっか、と明菜は口角を持ち上げた。


「いろいろ……ね」


 黒のタンクトップ姿にミリタリーなハーフパンツ姿で棒立ちになって墓を見下ろしていた充希の、ショートカットに縁どられた横顔に影が差す。そのまま黒子がチャームポイントの口元にニヤリと意地の悪い笑みが浮かんで、


「受験とか?」


 などと言うものだから、舞は渋面を作り出した。


「現在進行中じゃん。今日くらい忘れさせてよ」

うたが泣くぞ」

「泣かせません。これから本気出すもん」

「言ってらぁ」


 けたけた笑う充希に、明菜は黄色いTシャツの首元に風を送りながら頭を傾けた。


「他人のこと言えんの、あんた」

「……言えません」


 充希が気まずげに締め括ったところで、沈黙が下りた。


 午前中なのに、早くもジリジリと音がなりそうなほど強烈な夏の陽射しが開けた霊園に降り注ぐ。熱線に炙られて黒い頭がひどく熱い。動かなくても首筋に汗が浮かび、セミロングの髪の毛が肌に貼り付いて不愉快だ。

 充希みたいに帽子を被ってくれば良かった、と後悔しながら立ち上がると、立ち眩みが起きた。暗くなる目の前、しかし倒れるようなことはなく、すぐに治まりはしたが、脳が痺れる不快感がしばらくあった。

 振り払うように頭を振る。


「……一年か」


 元に戻った白い視界の中で、先程の会話を忘れたように充希が呟いた。全員の視線が、再び墓石に落とされる。


 舞の双子の姉、武仲詩が死んだのは、一年前のまさにお盆に差しかかるこの時期のことだった。

 交通事故。部活動の帰り道、横断歩道上で信号無視した自動車と接触したのだ。

 直撃を受けた詩は、意識が混濁したまま息絶えて。

 武仲家には、一人で二人の子供を養ってきた父と、片割れを喪った妹が残された。


 幼馴染の明菜たちも、家族ほどではないとはいえ、大きなショックを受けた。だが、自分の片割れを喪った舞の憔悴ぶりが凄く、すぐにそちらのほうに意識が行った。夏休みが明けて学校が再開すると、舞は心をどこかに置いてきたようにぼんやりと日々を過ごし、顔が窶れていったのだから。


 要領が良く、勉強もスポーツも得意だった詩。よく部活の充希と走っていた姿が思い出される。対して舞は、器用ではあったが、姉に比べると月並みで。双子なのにどうして、と詩と比べられることが多かった。

 それだけに、舞はいつも自分を卑下して、目立つ分野で活躍する詩に憧れを抱いていた。詩が死んだ後も、自分のほうが死ぬべきだったのだ、と嘆き、その度に明菜と充希で叱咤したものだった。


 けれど、それももう半年も前のこと。

 いつの間にか彼女は、詩がいた頃のような明るさを取り戻していた。詩がいた頃にはなかったような自尊心も芽生えていた。

 悲劇はすでに遠ざかっている。



 ――少なくとも、舞からは。



 コンクリートで適当に作られた階段を下り、使った水桶を、これまた適当に設置された水道の傍らに返却する。

 それから霊園入口まで延びる、鉄板のように熱いアスファルトの坂を三人並んで下っていると、端にいた充希がこちらを振り返った。


「さて、これからどうします?」

「あ、ごめん。私、この後約束があるんだ」


 手櫛で髪を纏めてポニーテールにした舞が、明菜と充希を拝むように詫びた。


「……彼氏?」


 と尋ねれば、照れくさそうに笑って認める。

 道理で、と明菜は思った。この暑い中、ラフな格好の自分や充希と違って、舞は洒落っ気のある格好をしていた。その理由がここではっきりしたわけだ。


「つれてくればよかったのに」


 と言えば、だって二人がいるし、と舞は苦笑して、


「それに、ちょっと気まずくない?」

「……確かにね」


 ぼそり、とキャップの下で充希が同意する。舞は聴こえているのかいないのか、足どり軽く坂を下りていった。


「そういう訳で、今日はここで失礼します」


 霊園と住宅街の境目。霊園の名前が刻まれた石碑の傍で、スカートを翻してくるりと身体を反転させた舞に、明菜は笑みを作り、ひらひらと手を振ってみせた。


「楽しんでおいで」


 またね、と手を振って、舞はサンダルで駅の方へと真っ直ぐ目の前の通りを駆けていった。その彼氏とやらに会うのをどれだけ楽しみにしているのか、よく分かる。


 眩しい舞の後ろ姿を眺めて、充希はキャップの鍔を下ろした。


「……ホント、元気になったよね」

「……うん」


 半年前、憔悴した舞を救ったのは、明菜でも充希でもない。二人が顔を知らぬ第三者――舞の恋人だった。

 彼がなにをどうしたのか、明菜たちはまるで知らない。だが、その彼がきっかけで、舞は一夜にしてかつての調子を取り戻したのだ。


「良かった、んだよね」

「当たり前だろ」


 うん、ともう一度頷いた明菜を、吊り上がった充希の目が見下ろした。キャップの陰から不穏に光る目に怒りはない。けれど疎まし気な色はあって、明菜は自嘲した。

 さすが充希だ。察している。


「大事なのは、舞が元気になったこと。それが誰のお陰であっても関係ない。だろ?」

「うん。そうだね。そうなんだけどさぁ……」


 投げつけるような言葉に頷いて、少し逡巡し、結局自らの葛藤を吐き出さんと、明菜は重い溜め息を吐いた。

 見上げた青空には、白い絵の具を溶かしたように薄い雲が滲んでいる。入道雲はないけれど、清々しいとは言えない空だ。

 まるで現在の自分の心のよう。


「私はね、充希」


 キャップの下の暗い目を見上げた。充希の鼻に皺が寄り、明菜から逸らされた目が細まった。

 友人が拒絶するのも構わずに、明菜は打ち明ける。


「舞のこと、救ってあげたかったんだ」


 何処かから転がった小石を、スニーカーの爪先で蹴飛ばした。


 詩と舞、明菜と充希。小学生の頃から続く、おともだち。図らずも高校まで一緒になって、四人でいることが当たり前になっていた。だから、一年前に突然詩を喪ったことは、舞だけでなく、明菜や充希にとっても、人生がひっくり返るだけの衝撃的な出来事だ。

 だが、明菜にとっては、それからのことのほうが問題だった。

 詩のことは、意外に早く心の整理がついた。それよりも、憔悴しきった舞をどうにか元気づけなければという使命感が、明菜の胸中を支配した。

 ――否、支配なんていうものではない。舞を元気づけるのは自分たちの役目だと、そう強く決めつけていた。

 だから、半年ほど前、彼氏とやらの存在に、突然立ち直った舞を見て、明菜は安堵した以上にショックを受けた。


「なにがきっかけで立ち直ったのか、知らないのは寂しい――ううん、許せない。そんな馬鹿なこと、思っちゃってさ」


 自分が力になれなかったこともそうだし、舞を立ち直らせた誰か――その舞の彼氏だという人物に対して嫉妬を覚えた。役目を盗られた気分になったのだ。

 そうして明菜は、醜い自分の気持ちホンネに気付いた。


「私は舞を救いたかったんじゃない。舞を救いたかったんだ」


 救って感謝されたかったとか、そういうことではない。ただ、明菜が舞を救える存在――舞にとって〝舞を救ってくれる存在〟でありたかったという、ただそれだけ話だ。

 だが、とても身勝手な話。

 友情の名を借りているだけ、質が悪い。


「……私もだよ」


 届くか届かないかの小さな声で、充希もまた同意する。先程よりもキャップの鍔を下ろしているのは、認めたくなかったからだろう。

 そうだろうと思った。充希は明菜と同じく、舞を元気づけるのに奔走していた。明菜と同じだけの熱量で舞に尽くして来たのだ。

 そして、舞が立ち直ったと知ったとき、愕然とした表情で彼女の顔を見ていたのを、明菜は知っている。

 だから、明菜は卑怯にも、充希にこの気持ちを打ち明けたのだ。


「友だちが、聞いて呆れるよ」


 充希の自嘲は、彼女が自身に向けたナイフ以上の鋭さを持って明菜に突き刺さる。


 明菜も充希も、舞のことを素直に〝良かった〟と受け取るべきだった。明菜は自分一人でこの気持ちを抱えているべきだった。それが、正しい友情だろう。

 しかし、実際はそうできなかった。明菜は、そんな自分を恥じて後悔している。

 そして充希も、きっと明菜と似たような後悔をしているのだろう。

 舞と違い、明菜たちは詩を喪ったそのときから変われずにいる。まるで、詩を喪ったあの夏にまだ囚われたままであるかのようだった。


「ちゃんと、喜べるようにならなきゃね」


 ぽつり、と明菜は落とす。充希は無言で小さく頷いた。


 石碑の側の松の木からだろうか。沈黙を断ち切るように蝉時雨がジリジリと二人の上に降り注ぐ。その鳴き声に耳を傾けているうちに、先程の三人でいたときのことを振り返って、ふと明菜は漏らした。


「今日は彼氏、来なくて良かった」


 舞が言うような気まずいなんてものではない。現在のように心の整理がまだついていない状態では、きっと素直にその存在を喜べないだろうから。


「……そだね」


 ぶっきらぼうに、充希が同意する。


 霊園の入口、住宅街との境目。

 幼馴染が眠る場所を背後に、二人で立ち尽くす。

 自らの卑怯さを共有した二人は、まだしばらくそこで自らの居場所を燻らせていた。

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夏が燻る 森陰五十鈴 @morisuzu

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