#29 斉藤さんの想い②

 末松さんは厨房へ向かい、斉藤さんは楽しそうにお客さんたちと話し込んでいる。

 そんななか、ありさがいつもの茶色いコロンとした丸い形のバッグから、B5サイズのメモ帳を取り出し、開きながら言った。

「今年の遥香の誕生会っていうけど、成瀬くんたちともやるんだよね?」

「うん。多分、今月の19日になるかと思う」

 吉沢さんや、松永さん。乙葉さんも参加予定だということや、成瀬くんから、二人だけの時間が欲しい。と、言われたことなどもそのまま伝えてみた。

「それって、完全に吹っ切れてないよね。遥香のこと……。この際、はっきり伝えたほうがいいんじゃない?」

「きっと、成瀬くんも割り切ってくれてると思う」

「そうならいいんだけどね。なんか、微妙な三角関係よね」

 ありさの、少し心配そうな瞳と目が合う。すぐに、「三角関係って?」と、末松さんの楽し気な声がして、私たちは少し動揺しながら誤魔化し笑いを返した。

「面白そうな話してるじゃない。俺も混ぜて」

 いつの間にカウンターのほうへ戻ってきていたのだろう。私たちの目前、末松さんが、にっと悪戯っぽく微笑んでいる。

 今の話はまた後日。ありさとは暗黙の了解である。

 それから、私たちは末松さんを交えた仕事の話。世間話や、恋バナで盛り上がった。

 末松さんと、この手の話をしたのは初めてだったのだけれど、これまで身近では聞いたことが無かった恋愛話に私とありさは、一瞬、固まってしまう。

「ちょっと待って。それって、マジな話?」

 末松さんは、困惑気味のありさと私を交互に見ながら、自慢気に肯定して見せた。

「そうだけど。あれぇ、なんか二人とも引いちゃってる?」

 笑顔で尋ねてくる末松さんに、ありさが呆れ顔を返す。

「いや、普通引くでしょ。肉体関係がなくたって、やっぱりマズいと思うわぁぁ」

 お互いの恋愛論を交わしているうちに知ることとなった末松さんの恋愛観。というか、実話に私たちはこの後、どう切り出していけばいいか考えあぐねてしまった。なぜなら、そのキーワードが『不倫』だったから……。

 末松さんが、まだアメリカのとあるバーで働いていた時のこと。プロのバーテンダーとなって一年が過ぎた夏の、とても蒸し暑い夜だった。

 お客さんの中に一際目立つ美麗な女性を見つけ、一目惚れをしたらしい。その人は同じ日本人だったそうで、どういうわけか、すぐに打ち解けたのだそうだ。

 間もなくして女性が二歳年上で、既婚者であることを知った末松さんは、これまで抱いて来た想いを一旦封じ込めようとした。けれど、そうしようとすればするほど、自分のものにしたくなっていったのだという。

「罪悪感はあったよ。やっぱ、相手がいたからね」

 普段はにこやかな末松さんの、少し寂しそうな顔を気にかけながらも、私とありさは顔を見合わせた。

「じゃあ、どうして強攻しちゃったの?」

 ありさからの問いかけに、末松さんは厳かに瞳を細めた。

「相手の男が独占欲が強くて、DV気味だった。って、言えば分かって貰える?」

「なるほど……。でも、やっぱりあたしとしては、どんな理由があるにせよ、共感は出来ないかな」

「俺もそれが正論だと思う。けど、好きな女が不幸せになっていくのを見ていられなかったんだよね」

 すぐに、末松さんから、水野っちだったらどうしてた?と、質問されて更に困ってしまう。

 人生で初めて、彼女という立場になったばかりの私にそれを聞くの?と、一瞬、そんなふうに動揺してしまったけれど、恋愛経験が少ないながらも、私なりの素直な気持ちを伝えてみることにした。

「私が末松さんの立場だったとしたら、同じように迷って悩み倒してしまうと思います……。でも、やっぱり───」

 その女性と心を求め合ってしまったということは、裏切られたご主人側からすれば、余計に気分の良いものではないわけで。

 当時のことを知らない私があれこれ言うのは違う。と、思うけれど、夫婦間で出来てしまった溝は、結局、二人にしか埋められないものだとも思った。

「今、お付き合いしている人に裏切られたらって考えると、そのご主人の気持ちも分かるから、最終的には諦めると思います」

 女性との縁を断ち切ってから五ヶ月後の夕刻。共通の友人から、深夜その女性がご主人から逃げるように車での移動中、トラックと接触事故を起こして亡くなられた。と、いう報せを受けた末松さんは、耳を疑うような内容に、死ぬほど後悔したのだという。

 もしかしたら、自分に頼ろうとしてくれていたのかもしれない。なのにどうして、想いを閉じ込めた。何で奪ってやらなかったんだ、と。

「人って、いつかは好きな人と別れなければならないわけじゃない? どんなに想い合ってたって、いつかはさ」

 笑顔だけれど、それが逆に悲しく感じられた。確かに、永遠に一緒にいられる人なんていないわけで、生まれてきたからには必ず死と向き合わなければならない。

「だから、決めたんだよね。これからは絶対に自分の気持ちを誤魔化さずに生きていこうって。たとえ、それが間違った選択だとしても」

 と、末松さんが悲し気に微笑みながら、斉藤さんを見つめた。

 現在、末松さんには、その女性との思い出を完全に封印出来ないまま、結婚を前提にお付き合いをしている女性がいるらしい。

「俺なりにだけど、今の彼女との時間を大切にしていくつもり」

 末松さんがおどけたように苦笑いを零した。と、その時だった。

 カランッ。と、いう音と共に勢い良く開いたドア付近、先ほどの沢木さんが息を切らせながら悲痛な表情を浮かべ、全身を竦ませるようにしゃがみ込んでいる。

 沢木さんは、逸早く駆け寄ってきた斉藤さんの腕を取ると、開け放たれたままのドア方面を指さしながら、声を押し殺すように言った。

「誰かに……つ、着けられて……」

 末松さんが走るようにしてドア付近まで行き、外を見遣る。そして、「ちと、その辺見てくるわ」と、早口で言って外へ飛び出して行った。

「すみません……ここしか思いつかなくて」

 沢木さんは、消え入りそうな声でそう言うと、斉藤さんに寄り添って貰いながら、近くのテーブル席に腰を下ろした。

「全然気にしないで。落ち着くまでここにいて貰って構わないから」

「……ありがとう、ございますっ」

 俯く沢木さんの隣、斉藤さんは、息を弾ませ戻ってきた末松さんから、それらしき怪しげな人物は見当たらなかった。との報告を受け、神妙な面持ちで眉間に皺を寄せた。

 気になった私たちも、グラスはそのままに、斉藤さんたちのいるテーブルへと同席させて貰うことにした。

 聞けば、最近誰かにつけられているような気がしていたらしく、今度こそ間違いないと思った。途端、怖くなって引き返して来たのだそうだ。

「ストーカーってやつか。こういうのって、案外見知った奴の犯行だったりするんだよな」

 末松さんが呆れたようにぼそりと呟く。と、沢木さんは顔を歪めながら首を振った。

「知り合いに、そんなことする人はいないと思います……」

「推理小説とかでもよくあるじゃない。普段は絶対に見せない、裏の顔を持つ身近な人間が犯人っていうケースが。例えば、元カレとかさ」

 末松さんは、きっと腹に溜めない。いや、溜められないタイプなのだろう。ありさと顔を見合わせて、また苦笑し合う。

「とにかく、これが続くようなら警察に届けたほうがいいと思います。まぁ、警察がどこまで動いてくれるかは分からないけど……」

 ありさも、心配そうにそう言うと、沢木さんは「そうします」と、言ってぎこちなく微笑んだ。

 話し合いの結果、沢木さんが落ち着くまでMIRAここにいて貰って、斉藤さんが沢木さんを家まで送り届ける。と、いうことになった。

 沢木さんを着けていた人の性別や年齢、常習性などもはっきりと分からないことから、しばらくは独りにならずに誰かと一緒にいること。他にもいくつか防御策が練られたのだけれど、それらは全て斉藤さんの案だった。

 なんとなく、相手が沢木さんだから余計に熱が入っているのかもしれない。などと、勝手ながら思っていた。

 その後、私は先に帰るというありさと別れ、引き続き沢木さんを傍で見守っていた。

 そして、常連客を見送った斉藤さんや、末松さんも加わって話すことといえば、仕事のことやさっきの続きとばかりに末松さんが話し始めた恋バナであり、沢木さんがフリーであることを知った末松さんが、即座に斉藤さんを薦めたことで、なんとなく微妙な雰囲気になりつつあった。

「祥ちゃんは少し黙ってたほうがいいと思う。そんなこと言われたら、沢木さんが困るでしょ」

 斉藤さんから、少し嫌悪感を抱いたような目で窘められても、末松さんはお構いなしといった感じで、沢木さんに斉藤さんを推しまくっている。それに対して沢木さんは、恥ずかしそうに首を横に振る。

「私なんかより素敵な女性ひとが沢山いると思いますし、何より斉藤さんに彼女がいないってびっくりです」

「そうなんだよね。一翔かずっち目当ての客なら沢山いるんだけどね」

 末松さんと、沢木さんからの視線を受けて、斉藤さんは呆れたように溜息をついた。

「なんでいつまでも独りなの? もしかして、未だに元カノのこと引きずってたりするとか?」

「そういうわけじゃ……」

 またもや末松さんからの一言に、斉藤さんはまず私を、次に沢木さんを見て苦笑した。

「俺のことよりも、沢木さんのほうこそ、そんなに可愛いのに彼氏がいないって……っ……」

 多分、うっかり口にしてしまって気づいたパターンだろう。斉藤さんは、薄っすらと頬を赤くさせながら、言い淀んでしまう。

 そんなに可愛いのに。と、いう斉藤さんの本音ともいえる一言に私も末松さんも、何も言わないけれど、同じことを考えていたと思う。

 やっちゃいましたね、と。

 こんなに慌てふためいた斉藤さんを見るのは初めてだった。

「えっと……なんでかな? とか、思うよね。ねっ?」

 斉藤さんからの、必死に同意を求めるような視線と口調に、私は笑いが込み上げてくるのを堪えながらも、すぐに頷き返した。

「はい。可愛いっていうところは得に」

 沢木さんは、現在フリーの理由を尋ねてくる末松さんに、「じつは、限局性恐怖症なんです」と、ぎこちない笑顔で呟いた。

 その返答に、私たちは一瞬、固まってしまった。

「その限局性恐怖症って? 初めて聞くんだけど」と、末松さんが眉を潜めながら言う。と、沢木さんは俯き静かに口を開いた。

「あることがきっかけで、男性から触れられることが怖くなってしまったんです。あれは、高校三年の夏でした」

 実家が小料理屋で、夏休みの間だけ、夕方から三時間ほどバイトをしていた沢木さん。その帰り道、普段は避けていた裏道をうっかり通ってしまったことがあったのだという。

 いつものコンビニで買い物を済ませた後、自転車で裏道に入ってすぐだった。隣にピタリとついたバイクを避けようとした。次の瞬間、ヘルメットを被った男にカッターナイフを突きつけられてしまい、怖くて動けなくなってしまったらしい。

 そうしながらも、倒れた自転車をそのままに、さらに人気の少ない細い路地裏へと連れて行かれてしまう。もうだめだと、諦めかけた。その時、運よく同じクラスの男友達が自転車で通りかかり、大惨事は免れたのだそうだ。

「その時のことが原因で、お付き合いしていた人と別れ……そのあと、好きな人が出来たとしても、その先は無理だから。ずっと恋愛出来ないままで……」

「そりゃあ、男嫌いにもなるよな。しっかし、許せねーな。そういう奴は」

 末松さんが、微かに怒りを露わにしている。その隣で、ずっと黙って話を聞いていた斉藤さんも、真顔で言う。

「彼氏も違うと思う。本当に好きなら、そんなことで───」

「そうじゃないんです」

「え……?」

「別れを切り出したのは、私のほうからなんです。これ以上、我慢させたくなかったから……」

 斉藤さんの戸惑いの息を間近に、沢木さんはさらに俯くとたどたどしくも続きを話してくれた。

 自分もだけれど、身近に沢木さんのような経験をした人もいなかったから、これまた生々しい実話にどう接していけば良いのか迷ってしまった。けれど、自分が同じ経験をしたと想像してみた結果、人間の欲がもたらす恐怖を改めて感じた。

 そうしてみたことで、沢木さんの、これ以上我慢させたくない。と、いう一言に私は、ほんの少しだけれど理解出来たような気がした。

「……私から触れることは出来ても、相手から触れられると怖くて。酷い時にはパニックを起こしそうになってしまったこともあるんです。フラッシュバックしてしまって」

 また沈黙が落ちる。それを破ったのは、末松さんだった。

「なんか、ごめんね。知らなかったとはいえ、辛い過去を思い出させちゃって」

「こちらこそ。初対面なのに、こんな重い話をしてしまってすみませんでした」

 沢木さんが話してくれている間、斉藤さんは終始、無言で何かを考えるかのように難しい顔をしていた。

 それからしばらくして、今度は末松さんの常連客を迎え入れたことで、沢木さんを送って来るという斉藤さんを見送り、私もすぐに帰宅したのだけれど、家までの道程、末松さんと沢木さんの過去話を思い返さずにはいられなかった。

 家について間もなく、成瀬くんとLIMEでやり取りをした結果、例の私と成瀬くんとの誕生会は19日の午後7時半から、吉沢さんの自宅で行われることとなった。

 成瀬くんも主役のはずなのに、すっかり幹事役を引き受けてくれていたことに感謝を伝える。

 松永さんや乙葉さん以外にも、今回の作品の関係者が数名加わるかもしれないとのこと。音響班にも声をかけて、参加したい人がいれば何人でも構わない。とのメッセージの後、松永さんからの希望で、中村さんにも声をかけるように半ば命令されてしまったという内容文に、思わず苦笑してしまう。


(なんとなく、そうなるんじゃないかと思ってた……)


 中村さんが行けるか分からないし、行きたいと言うかどうかは別として、私はいつものメンバーにも声をかけることにした。


(むぅ。なんか、また一波乱ありそうだなぁ……)


 それにしても、今日は本当に濃い一日だった。

 末松さんの想い。沢木さんの悩み。そして、斉藤さんの葛藤。どれも、私の中には無い感情ばかりだ。

 彼らの想いに寄り添って改めて、気づかされたり、考えさせられたことがある。それは、この先私が中村さんとの時間をどのように過ごしていきたいのか。そして、いつの日も、人は人によって生かされているのだ。と、いうことだった。




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