第5話 海

 船は現在自動航行モードのため、タイガにも自由時間があった。自由時間は何に費やしても良いのだが、タイガは体が鈍らないように、船内をランニングする事にした。全長百メートルの船の中はそれなりに走り甲斐がある。トレーニングウェアに着替えたタイガは操舵室を出た通路から船尾までランニングを始めた。

 

 人工重力というのは有り難いものである。もし無かったら、こんな風にランニングすることは出来ないだろう。それどころか、皆宇宙酔いで具合が悪くなるに決まっている。船内を二往復し、再び船尾に向かって走っている途中で、アリッサがニライとヴァーチャルルームへ入って行く所を目撃した。ヴァーチャルルームはホログラムと音声で地球の風景を再現できるヒーリングルームである。タイガは何故アリッサがニライと? と怪訝に思い、そしてイライラし始めた。全く、俺達は人類を救うためにミッションに参加したんだぞ。それなのにあの女ときたら、ことごとく俺に楯突くばかりか男とヒーリングだと? タイガはイライラを解消すべくランニングのスピードを上げた。

 

「それで、どの風景にします?」

ニライはサンプル画像を見ながらアリッサに訊ねた。アリッサは円形の部屋の中央にセットされたソファーに座っていた。

「そうね。海が良いかな」

「海ね……何種類もありますよ」

「ハワイとか、タヒチとか、リゾート系が良いわ」

「じゃあハワイにしましょう」

ニライはコンピューターにハワイの海を再現するよう入力する。突然、部屋にハワイの海のホログラムが現れた。大きな波が音を立ててアリッサに迫る。

「音楽は?」

「音楽は無しで良いわ」

ニライは入力を完了すると、アリッサの隣に座った。紺碧こんぺきの大波が幾度も二人を襲う。遠くでサーフィンをしている男の姿が目に入った。白いビーチには色とりどりの水着を身に付けた人々が寝そべっている。

「やっぱり、地球の自然ていうのは癒されますね」

「そうね、宇宙生活する人も増えたとはいえ、私達人類は太古の昔から地球で過ごしてきたんだもの、きっと遺伝子に刻まれているのよ」

「ええ。こうしているとストレスから解放されていくようです」

ソファーに深く身体を沈めたニライが、ようやく安心できる、といった面持ちで言った。

「ストレス? 何かあったの?」

「い、いえ、別に……」

ニライは押し黙った。そもそもニライにストレスを与えているのはアリッサとタイガの度重なる喧嘩なのだが、それを口に出すのはかえって事態を悪化させるようで不味いような気がした。

 

「ニライはどうして航海士になったの?」

ニライの気持ちなど知りもしないアリッサが無邪気に訊く。

「え、ええ。僕は元々計算とか好きでしたし、宇宙航路とか算出して旅の妄想に浸るのが趣味だったんですよ」

「じゃあ、その妄想が叶った訳ね」

「アリッサは何故通信士に?」

「そうねえ、私はあんまり頭が良いタイプでは無いし、だけど宇宙には行ってみたくて、通信士位なら出来るかなと思って資格を取ったのよ」

「宇宙はどうです?」

「ワクワクするわね。でもやっぱりワープ中は退屈だわ」

「ここには地球のほぼ全ての地域を収録した映像がありますし、それで退屈しのぎをしたら良いですよ」

「そうね。そうするわ」

 

「お邪魔するよ」

ドアが開いてマムルが入って来た。白いトレイに赤と黄色と青のマグカップを乗せている。

「コーヒーの差し入れですよ」

「あら、有り難うございます」

「コーヒーなんて、この船にあったんですね」

ニライは驚いて言った。惑星探査の宇宙船に嗜好品など積み込んでいる筈が無いと思い込んでいたのだ。

「インスタントだけどね」

アリッサとニライはカップを受け取ると、コーヒーを啜った。香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

「結構いけるわね」

「コーヒーはストレス解消に良いし、健康効果も高いんだよ」

「それでこの船にも積んである訳ね? まあ理由はともかく、ドクターも座って海を見ない?」

「ええ。そうしましょうか」

 マムルはアマラの隣に座って海を眺めた。波の音と鳥達のさえずりが心地良い。美しい地球の風景を眺めていると、これから自分達が目にするであろう未知の惑星の事が心配になった。

「惑星タラゴンも、こんな風だったら良いね」 

「そうですね。まあ、地球みたいに条件の整った星は中々無いそうですが……」

「そんなに低い確率の中、私達は地球で生まれたんだと思うと、何だか神様の存在を信じたくなるねえ」

マムルがしみじみとした声を出す。彼の言う通り、一体誰の取り計らいで我々生命は生まれたのだろう? 条件さえ整えば自然に発生するものなのだろうか?

「ドクターは神様を信じているの?」

アリッサは、それは意外という表情で訊ねた。

「さあ……ただ、生命の存在がただの偶然だと思うことは余りに無機質な気がするよ。誰かの、何かの意志が働いていたって不思議じゃ無いとは思わんかね?」

「じゃあ、全ては神の計画だという考えですか?」

「いいや。そうは思っていないがね」

マムルはコーヒーに口を付けた。全てが計画通りなどとはとても思えなかった。もしそうなら、人類の長い間続いてきた争いも神の意志という事になってしまうではないか。

「私はただの偶然の積み重ねがここまで生命を進化させた、と思う方が生命のたくましさを感じてワクワクするわ。タラゴンだってきっと良い星よ!」

アリッサがガッツポーズをする。

「アリッサは前向きだね」

「そうよ。その姿勢こそが人間を進化させるのよ」

アリッサには神が居るかなど、どうでも良かった。この世に産まれた以上は常に前向きに生きる事こそが重要なのであって、その為に努力する事に価値があるのである。

「じゃあ、今はその進化を見守ってくれた地球に思いを馳せよう」


 それから三人は黙ってヴァーチャルなハワイの風景に浸った。生命は海から始まったという。太古の昔に海で発生した生命の、誰が後に宇宙にまで活動圏を拡げると予想しただろう? まさしく生命とは神秘以外の何者でも無かった。これが神の仕業なら、神とは途方もなく気の長いロマンチストに違いない。


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