2 十時の電話

 幼少の頃、私はムツに対して、

『気の良いオバサン』

 という認識しか持っていなかった。


 ムツが越したのは、常磐線じょうばんせんの真横に建てられたあばらで、普通電車が通るだけで柱を震わせる賃貸だった。家の造りが高床だったので、幼少の私には玄関を上がるだけでも一苦労だったのを覚えている。

 間取りは居間、台所、風呂、和式便所――格安物件らしく余計な部屋はなく、エクステリア、インテリアともに全体がくすんでいた。また、すぐ隣にも同じ様相の家が建っており、そこでは極貧の子沢山一家が毎日かしましく生活していた。


 私が思春期を迎える頃、ムツはより鬱屈うっくつした日々を送っており、睡眠薬が手放せなくなっていた。また、聞き慣れない新興宗教にも入信していたので、よりどころを求めていた背景が窺える。

 ムツの両眼にはどのような浮世が映っていたのか想像もつかなかったが、

『家の外で知らない人が叫んでる!』

 なんて与太よたを真面目な顔で言うのだから、私のような凡庸ぼんような人間とは、到底見えているモノが違ったようだ。

 歳を重ねるにつれて、私とムツとの交流は減っていった。


 私がハタチを過ぎると、ムツは近所の八百屋から黒ネコを譲り受け、ふたりで暮らすようになった。ハッピーと名づけられた黒ネコは大人しい性格だったが、悲惨なことにムツには動物を飼うスキルが備わっていなかった。

『ハッピーが悪さばっかりして全然言うこと聞かない。家の中でオシッコばかりして困る。捨てちゃおうと思ってる』

 挙句、数ヶ月もしないで非道な発言をするので、

『あんたの飼い方が悪いだけでしょ! ふざけたこと言ってんじゃない!』

 カズの怒りが爆発し、ハッピーは実家で引き取られることになった。ムツはそんな叱咤に対しても悪びれた様子はなく、愛猫を簡単に手放していた。

 ほどなく実家にやってきたハッピーは、『ピー』の部分だけが引用され、ピースケと改名された。


 歳を重ねるにつれてムツは、より実母のヨシに依存いそんしていった。それが顕著けんちょだったのは、一日一回の電話だ。

 朝の十時になると、ヨシの部屋にコールが鳴り響く。

 東から日が昇り、ふたたび十時に電子音が鳴る。

 雨が降っても、雲が棚引いても、朝の十時に近況報告。

 風が吹いても、桶屋おけやが儲からなくてもトゥルルルル。

 用件なんて本当はなくて、そこにある声が目当てだったのだ。それでもヨシは文句も言わず、我が子のおしゃべりに耳を傾けた。唯一、時代劇の視聴を邪魔された時ばかりは怒りを露にしていたが。

 ヨシにとっては、暴れん坊将軍の再放送のほうがよほど大事だったようだ。趣味を邪魔された者にとっては、あまりにも至当な対応だろう。


 無駄電話こそがムツのライフラインだったが、ヨシだって常に在宅しているわけではない。外出している際は、ムツの欲求は解消されなかった。

 その場合どうなるかというと、場末の映画館で放映されていたB級ホラーさながらに、誰かが受話器を取るまでコールが続くのだ。

 強硬手段として電話線を抜くこともあったが、そうすると今度は居間の電話機がコールを吐き出すのだから、たまったものではない。

 渋々、ヨシの代わりに対応してみると、

『どーして電話出てくんないのよぉ! ずっとかけてんのにぃ!』

 なんて、語尾を強めた茨城弁が始まるのだ。

 ただ感情を吐露するだけの恨み言が。

 鬱蒼うっそうと茂る雑草は、刈ってもはらっても、ふたたび伸びてくる。一度、名もなき種が蒔かれてしまえば、根が張り続ける限りイタチごっこが続く。


 曖昧な時間が流れ、剃刀の刃を渡るような均衡きんこうが日常に溶けこんだ某朝あるあさ。実家では、いつものように電話が鳴いていたが、ヨシは不在だった。

 たまたま在宅していたカズが溜息交じりに電話に出ると、

『睡眠薬いっぱい飲んじゃった! 助けて!』

 呂律の回らない口調で、衝撃の一言が放たれたのだ。

 ムツの事後報告はあまりにもシンプルで、あまりにも非現実的で、また向こうの世界への入口さえ覗かせていた。

 カズは躊躇ちゅうちょ焦慮しょうりょの狭間、速やかな119番のあと、消防職員に事情を説明し、ムツの住所を伝えた。間もなく、自宅で中毒症状を起こしていたムツは救急車に放りこまれるようにして搬送、および病院で胃洗浄が行われた。

『もう、こんなことしません……』

 おぼつかない口約は、夢か現か。一命を取り留めたムツは退院後、けろっとした様子であばら家へと戻っていった。

 けれど、助かって良かった――で終わるなんて、家族は誰ひとりとして思っていなかった。一度でも自傷じしょう行為に走ると、それ相応の『評価』を下してしまうもので。必要以上に神経をぴりつかせながらムツへの警戒、不信を強めてゆくことになった。

 ――悲しいかな、騒動が終わった翌日からヨシへの電話は再開された。

 家族の誰もが非日常を嚥下えんげしきれず、喉に引っかかる気持ち悪さを残し、それぞれの平穏を望み、それぞれの数ヶ月を過ごした。

 馴れ馴れしく肌にまとわりついてきた熱気はどこへやら。頼んでもいないのに冷たく接してくる秋風によって、国民も心模様を変えてゆく。ひとつ前の気候を希求ききゅうし、また寂寥せきりょうさえ覚えながらも、あすへと向かって。

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