夏の、気配。

織羽朔久

夏の、気配。


寒くて布団から一歩でも出たくない冬に比べたら、よっぽど今時期の方が朝起きるのは辛くない。

それでも、寝られるものなら一生寝ていたいと思う。

そうは言ってもどうやったって毎日朝はやってきて、私が学生である以上単位を落とすことはできる限り避けなければならない。

朝一の講義を取らなければいいと言われればそれまでだけど、どうせ単位をもらうなら自分が楽しいと思える講義を受けたいのだ。

それが偶然朝一に集中しているだけであって、好き好んで早起きしているわけでは断じてない。

6時30分ピッタリに家を出て、少し早足でバス停に向かう。


6時38分、バス停に到着。首筋にじっとりと汗が滲み、髪の毛が張り付く。


6時42分、予定より2分遅れてバス停にバスが来た。乗り込んで一番後ろの左端に座る。


6時46分、大通りの交差点で2回目の信号待ち。


6時49分、予定より4分ほど遅れている。

サイキンノワカモノオジサンが舌打ちしながら、やれ最近の若者はスマホがなきゃ何もできない、自分一人じゃ何もできない、どうせ葉書もろくに出せない、自分のことばっかりだ、ろくなもんじゃない、なんていつもの呪文を唱え始めた。

制服姿の高校生や私を睨みながらしばらく続けて、何も反応がないとみるやつまらなそうに鼻をほじり始めるのがお決まりだ。

バスの遅れと若者に一体なんの関係があるのか是非教えてもらいたい。

こうも毎日のように恨みつらみを吐き捨てるなんて、最近の若者に親でも殺されたのか。

自分だって若者だった頃があるはずなのに。

というか、駅にバスがついた途端に「停車まで今しばらくお待ちください」という運転手さんの声を無視して毎日無理に立ち上がり、フラつきながらも絶対に自分が1番に降りないと気が済まないあなたの方がろくなもんじゃない。

結局、自分より弱い何かに一方的に攻撃していい気分になりたいだけなんだろう。


7時2分、駅に着いた。サイキンノワカモノオジサンは珍しく居眠りをしていて、一番に降り損ねた。

降りて行く人の列にどうにか割り込もうとしては失敗し、座席に座り直す姿は正直滑稽だ。

そして捨て台詞のように本日だけでもう何度目かもわからないサイキンノワカモノハを繰り返していた。

道徳的にはそれでも譲ってあげるのが正解なんだろうけど、とてもそんな気にはなれなかった。

それどころか梅雨のせいで沈んでいた気分が心なしか少し晴れやかになった気がする。


7時3分、バスターミナルから改札へと歩き出した。

遠くで蝉の声がする。

久しぶりに傘を持たなくて済んだ。

確か天気予報では、来週には梅雨明けだと言っていたっけ。

テストが終われば夏休み。

ゼミ決めやらインターンシップやら就活準備やら、やらなきゃいけないことだらけ。

どこからか風鈴の音が聞こえる。

リュックを背負って走ってくる小学生は、きっともう夏休みで今からおじいちゃんやおばあちゃんに会いに行くのかな?

わたしだって遊びたいしやりたいこともたくさんあるのに、どんどん大人になることを強いられているようで嫌になる。

荷台にきゅうりやスイカを積んだトラックが走り去る。

透き通りそうな青い空に真っ白な雲。

家の近くの川は、太陽の光を弾いてキラキラしていたな。

ちょっとサンダルを脱ぎ捨てて足を浸したら、きっと冷たくて最高だ。

…最近胸の中に広がっていた灰色のモヤモヤは、あちこちで感じる夏の気配に追いやられて今はすっかり隅っこで縮こまっている。

なぜだか分からないけれど、小さな頃から夏の気配を感じるとどうしようもなく胸が熱くなるのだ。

今だって、講義なんかリュックごと放り投げて今すぐどこかへ走り出したい。

まあ、なんだかんだ真面目な私はそんなことできないんだけど。


7時9分、後2分で電車が出発してしまう。

夏に想いを馳せすっかり地面に根を張っていた足を慌てて動かして、改札を抜けホームに滑り込んだ。


7時11分、予定通りの電車に乗り込んだ。

なんだかんだ不満やら不安を持っていても結局時間は進んでいくし、足りない脳みそで難しいことを考えたって仕方がない。

夏の気配とワクワクを燃料にして、勢い任せに走ってしまおう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の、気配。 織羽朔久 @orisaku3939

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ