背丈の違う平行線

ものろん

背丈の違う平行線

 そこにいるものをそこにいないものとして認識し始めたその瞬間、俺は変わった。


 確実に訪れるものとしてその一瞬を経験して、理解した。


 無論、幼稚な言葉であることは承知の上で、しかし、この言葉が一番俺の内を表していると思う。


 ——死ぬほど後悔した。




 俺は駅にいた。

 朝の六時半、月曜日。いつもならこんな時間に目を覚まして、慌てながら高校へ行くような、そんな時間。しかし、今日だけは違った。言うなれば、非日常であった。

 いつもとは違う、チャイムの音色。そもそもに、これがチャイムなのかどうかすら、実のところ定かではない。駅に来たのなんて、もう何年ぶりだろうか。見慣れぬ人たちに囲まれて、皆ケータイを触ったり、化粧をしたり。中には喫煙所で煙草に勤しむ人もいた。

 電車が駅のホームに入ってきた。大量の人が降りて、また乗り込んでいく。それなりに都会であるこの町は多くのビルが並んで、それなりの賑わいを見せる。様々な人とすれ違って、学生、サラリーマン、ラフな若者。驚いたのは、こんな時間に明らかに酔ったおっさんがホームにいたことだ。

 本当にいろいろな人がいて、なかなかに驚いた。モデルのような体型で人ごみの中でも頭一つ抜けている美人や絵に描いたような禿げた中年サラリーマン。サングラスにマスクと、まるで不審者のようななりの人もいたが、もしかするとあれは芸能人だったのかもしれない、なんて考えていると、少し楽しくなってきて妄想が膨らんだ。

 しかし、そんなことをしている内、俺の乗る電車がやって来た。6時46分発、在来線の普通車。よく日本の鉄道は優秀だ、なんて聞くが、俺の腕にある電波時計と数秒違わず電車がホームに着いたのは驚いた。偶々にしても、そんなこともあるものなんだなと、驚いた。

 乗り込んで少しして電車はすぐに駅を出た。少し揺れながら進み続け、なんとはなしに外を見た頃には都会の喧騒というか、高いビルやら変梃なパブリックアートなんかはなくなって、綺麗に並ぶ住宅街が見えた。俺が住んでいたような都会のマンションとは違って、何か唐突に羨望の念が沸いた。別に羨むほどのものではないと理解していたが、何故か、そんな情が沸き上がった。

 途中で席に座ることが出来たので、スマホでもいじろうかとポケットを探ったが、ここに来てスマホを忘れていたことに気が付いた。別に何の不便もなかったが、やはり現代人というか、ただスマホがないというだけで、何か不安な気持ちになった。

 目的地の駅にはすぐに着いた。駅に着くたび少しずつ減っていた乗客も今はもうほとんど乗っていない。腰の曲がったお婆ちゃんと、朝、駅で見た酔っ払いのおっさんだけだ。俺はさっさと降りて、改札口を出た。無人駅だったので、小さな駅舎が一つあるだけの錆びれた駅だった。

 駅舎に入ると、自販機があった。しかし、特に喉も乾いていなかったので、そのまま出ようかと思ったが、ふと、その隣にあった東京の遊園地のパンフレットに目がいった。おもむろに手に取って、俺はそれを1ぺ―ジ1ページ、丁寧に見ていった。すると不思議なことにどのページも何故か見覚えがあって、行ったことなかったよな、と不思議な気分になった。

 駅舎を出ると、それはもう見たことのないほどの田舎だった。田んぼがあって、古民家があって、トラクターや軽トラが止まっている。仲間内で、駅前集合、なんて言って駅は使わないままにいろいろなところで遊んだものだが、ここは駅に集合して駅を使わなければ視界の端に見える小さな公園ぐらいしか遊べそうな場所もない。それも小学生にも満たない子供が遊ぶような場所だ。高校生が行くような場所ではない。

 ただ、しかし。常に音にまみれ、目に映る悉くが休みなく動いている都会とは違って、ここはすべててが静かで、すべてが遅かった。ゆっくりだった。信じられないほどの暑さもここのそよ風に吹かれていると、自然と汗も引いた。


 とかく気持ちのいい居場所だった。


 俺は再び歩みを進めた。それまでは駅でも電車でもズボンのポケットに手を入れていたが、何かここでそれをするのは勿体ない気がして手を抜いた。しかし、まあ特段何といって変わることもなく、俺は自分で自分を笑ってしまった。

 道中、驚くものを見つけた。コンビニがあったのだ。俺は持ち合わせのない身であったが、何か都会とは違う意味での物珍しさにそのコンビニに吸い寄せられた。中には客もおらず、よもや店員さえもいなかった。店内を少し見まわして、特段これといって珍しいものもなく、田舎といえどコンビニは平凡だった。まあ、最後まで店員が出て来なかったが。

 そうして、それからも歩き、時にあまりの解放感故、小走りやらスキップやらを交えながら、俺は目的地に着いた。正確にはその入り口に。


 俺は墓場にいた。


 なんとなく、心の内がざわついた。もしかすると、普段からこれぐらいだったのかもしれないが、少なくとも田舎の空気に慣れつつあった俺は突然の波にさらわれたような気分になった。

 平日の昼間ということもあって、人は見当たらなかった。俺は蛇口の近くに数個積みあがったバケツとひしゃくを持って、自分の家の墓に向かった。妙に浮足立って、何となく急ぎ足になった。

 そして、墓の前に着いて、驚いた。

 一人の女性がいたのだ。紛れもなく、我が家の墓の前に。それも俺と同じ高校の制服を着た女子生徒が。あまりに驚いて、一歩、二歩と後ずさりした。確か、今日は学校がある日のはずだ。当たり前に、月曜日。祝日でも何でもない、そう、それこそ、いつも通り日常の——————あれ、じゃあなんで、俺はここにいるんだ。


 瞬間、体が凍ったかのように固まって、指先一本、動かすことが出来なくなった。


 ——あれ、なんで俺、財布もないのに電車に乗れたんだ?

 ——あれ、なんで俺、スマホもないのにこんな場所まで来れたんだ?

 ——あれ、そう言えば俺、駅に来るまで今日一体何してた?


 動かない体、しかし、音を聞くことだけは出来た。


 状況故に、喋っているのが目の前の彼女だと理解できた。

「橘君、今日は学校をサボってしまいました。お母さんにも言ってないので多分帰ったら怒られると思います。けど、後悔なんて、そんなのはありません。今日は絶対来ようと思ってました」

 視界の端で、彼女の笑う横顔が見えた。

「どうして、ここが分かったのか気になりますか?実はお母さんに会いに行ったんです。あ、橘君のお母さんです。それでお墓の場所を聞いて、今日来たんです。橘君のお母さんとお父さんは今日のお昼に来るそうですよ」

 なんとなく、こんな状況なのに、彼女の声がどうしようもなく心地よくて、いつまでも聞いていたかった。暖かくて、やわらかで。その他人行儀な敬語に何処か安心感があって、自分でも驚くほど彼女の一言一言を俺は渇望していた。

「橘君、ここはいい所ですね。静かで、のどかで、涼しくて。きっと、冬は暖かいですよ。そんな気がします。それに見てください、今日は良い天気です。夏真っ盛り、淡い水色の空に斑に雲が散らばって、とても、とても————」

 瞬間、わずかに見える彼女の目元が光ったように見えた。

「あれ、なんで……今日は絶対に泣かないって決めてたのに……。あ、これは違うんですよ、橘君。これは、なんていうか……そう、太陽がまぶしかったんですよ。やっぱり今日は……いい……天気で……」

 今度は鮮明に分かった。彼女は泣いていた。その華奢な腕で何度も拭っていたが、その度に涙が大粒になって溢れ出していた。

「……今日は、泣かないって決めてたんです。……ねえ、橘君。なんで、なんで……」

 とうとう彼女は涙を拭うのを辞めた。——とても、つらそうだった。

「私、大変だったんですよ。橘君は転校したってことになってたから、本当は橘君が亡くなったって知ってるのは私だけだったから。周りの人に何度もどこに転校したのか聞かれて、その度に私も知らないって答えて。……その度にトイレで泣きました」

 何度も何度も、彼女の鼻をすする音が聞こえて、その度に胸を殴られているような衝撃に襲われた。

「一回だけ、言っちゃったんです。毎日毎日聞かれて、その度に知らないと言ってるのに、何度も何度も聞いてくる人がいて、言っちゃったんです。『うるさい』って。初めてそんな強い言葉を人に言いました。橘君は知ってると思いますけど、私の家は母が厳しくて、今はマシになったけど、その名残で今もこの敬語が取れないんです。だから、うるさいなんて、言ったことなかったのに。おかげで、その子には嫌われました。多分橘君が好きだったんだと思います。モテますね、本当に。私が彼女だったのが不思議なくらい」

 俺は耳を疑った。彼女?……目の前の女の子が?

「付き合い始めの頃は橘君に地味専の噂とか流れてましたね。まあ、実際そうだったのかもしれないけど。……実は、私、その噂を信じ切って、はじめの頃は嫌われないように必死だったんですよ。絶対に誘いは断らないようにしたり、出来もしない化粧をしてみたり。でも、段々と橘君といる時間が増えて来て、その度に橘君は私の内面を見てくれてるって気づいて……私はあなたのことが大好きになりました」

 本当に、信じられなかった。寝耳に水なんて、そんな程度は優に超えて、まるで自分にとって都合のいい物語を聞いているようだった。

「……そろそろ、橘君のご家族が来るかもしれませんから、最後に一つだけ、言っておきますね」

 彼女は立ち上がり、しかし、涙の勢いはどんどんと強くなっていくままに言った。


「私は一生あなたを想い続けます。いつまでも、あなたのことを愛しています」


 その刹那。俺は思い出した。俺の名前は橘志賀。ちょうど一年前、朝、6時46分の電車に乗ろうとした時、朝から酔っぱらったおっさんがお婆さんを線路に突きとばそうとしているのを見て、思わず体が動き、お婆さんをかばって死んだ男だ。




 すべてを思い出した。

 俺は今日、彼女が来るのを知っていた。俺の眠る墓の下へ来るのを知っていた。それは俺の葬式で、何度も聞いたからだ。「命日は必ずお墓参りに行く。たとえ何があろうと、絶対に」。涙を押し殺しながらそう口にする彼女の姿を見ていたからだ。

 そうして、一年が過ぎて、今日。何故俺が幽霊となって駅にいたのか、何故電車に乗ってここへ来たのか、それらはすべて分からないが、一つだけ断言できることがある。俺は今日、この時、この瞬間の為に、この墓に留まっていた。成仏もせず、ここにいたのだ。

 おそらく、俺がここに留まれたのは、俺が若くして死に、人が生きるために必要なエネルギーのようなものをほとんど使わないままこの墓に来てしまったからだ。だから、俺はここに留まれた。そして、こうしてここに残ったのは、彼女の訪れるのを待ち、そして、一言だけ、伝えたいことがあったからだ。


 目の前の彼女、柳美鈴は俺の初めての彼女だった。

 自慢でも何でもなく、俺はモテた。面が良かったのだ。毎年のように告白はあったし、美鈴と付き合い始めてからも何度かそういうことはあった。しかし、俺は誰とも付き合うことのないまま、美鈴と付き合い始めた。はじめのうちはそれこそ美鈴の言うように俺が地味専だとか、美鈴が俺の弱みを握っているだとか、そんなくだらない話が沸いて出た。ただ、俺や美鈴、それぞれの親友と呼べる友人以外、おそらくは知らない。俺がどれだけ美鈴にベタ惚れして、どれだけ美鈴の前で自分をさらけ出していたのかを。


 ただ、何をするにも美鈴と一緒が良かった。

 ただ、何処に行くのも美鈴と一緒が良かった。


 出来るならば、美鈴と一緒に残りの高校生活を歩みたかった。

 出来るならば、美鈴と一緒に大学に行きたかった。


 叶うならば、美鈴と生涯を共にしたかった。


 しかし、それが叶うことはもうない。


 文字通り、死ぬほど後悔した。


 美鈴を待つ一年間、信じられないほどの苦痛だった。予想以上にこの世に留まるというのは辛かった。言うなれば、燃えるほどの暑さの砂漠の中でひたすらに正座し続けるような、そんな辛さがあった。

 しかし。そんな辛さももう一度だけ美鈴に会えると思ったらどこ吹く風だった。


 美鈴に会った時、どんな言葉をかけるか考えるだけで何日もの時が過ぎた。


 そうして、美鈴、俺の想う女性に掛ける言葉は、今決めた。


 俺は氷のように固まった体を強引に動かした。




「美鈴!」

 声が出た。いや、声は出た。

「美鈴、美鈴!」

 しかし、それは彼女の耳まで届かない。

「美鈴、美鈴、美鈴!」

 彼女はもうすっかり涙も引いて、片付けを始めていた。

「美鈴、頼む、届いてくれ!」

 俺は叫んだ。叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、叫んで、理解した。

「届かないのか……」

 絶望だった。真っ暗だった。あたり一面が黒くなって、何も見えなくなった。それに、とにかくうるさかった。一昔前のテレビの砂嵐のような、大きすぎる耳鳴りのような、そんな音がひたすらに俺の耳を壊そうとしていた。

 しかし、瞬間。本当に、唐突に。何故か、こんな記憶が掘り起こされた。

 それは美鈴と街中でデートをしていた時。偶々、どこかの新郎新婦が写真撮影をしているのを見て、俺がぽろっと口にした、その一言。自分でも理解できなかったし、その直後に恥ずかしさやら、困惑やらが襲って、最早自分で自分を気持ち悪いと思いかけて、しかし、美鈴は照れながら、にっこりと笑った、その一言。


「橘、橘美鈴……」


 瞬間、俺を囲うようにして光が差した。他の真っ黒い何かを押しのけるように、光が差した。ただ、何処までも暖かい、そんな光が差した。

「橘君……?」

 美鈴の声が聞こえた。俺の声が美鈴に聞こえたのも分かった。しかし、今度はまぶしすぎて美鈴の姿は俺の瞳には映らなかった。真っ白い閃光が今度はどんどんと強くなって思わず目を細めた。美鈴の姿はどれだけ目を凝らしても見えそうにはなく——だが、しかし。その程度のことに何の影響がある。美鈴の姿なんて、もう見尽した。 

 全て、鮮明に、覚えている。

「橘君!いるの?どこ!」

 美鈴の声が聞こえる。姿は見えないが、美鈴の温かくやわらかな声が聞こえる。しかし同時に、今この時間はおそらくあと数秒も持たないということが今はもう白い靄のようなものになった俺の肌感覚で分かった。それどころか、もう手の感覚も、足の感覚もない。


 伝えられる時間はほとんどない。


 悠長に話している暇なんて、存在しない。


 ならば、であるならば。言おう。決めていた、あの言葉を。


 ——本当は、違う言葉の方がいいのかもしれない。彼女のことを思うなら、それこそ、幸せになれとか、ありがとうとか、愛しているだとか。


 でも、嫌だ。


 俺は叫んだ。


「美鈴!今度一緒に遊園地に行こう!それで、田舎に一軒家を建てて、そこに住もう、一緒に!」


 言い終えて、俺はもうその口ですら自分のもとにはないことに気が付いた。しかし、何故か分からない、分からないが、最後まで耳だけは残っていた。真っ白い靄のようになってしまった体に、何故か耳だけが残って、そして、聞こえたのだ。


「絶対!一緒に!」


 最後に聞こえたのは、声を挙げて泣く彼女の声だった。


 


 俺はもし世界に神様がいるなら、まずはこんなに早死させた罪で一発ぶん殴ってやろうと思う。そして、その後、彼女にもう一度会わせてくれたことを感謝するために、まあハグでもしてやろうかなと、心の底から、そう思った。

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