空虚-6(交わす名の真贋について)

鉛筆を指にはさみ、カルロは資金繰りに頭を悩ませていた。チェイスへの給金こそ確保していたが、物価高騰で運営費は火の車だ。とうとう横領を疑われる所まで来たか、と思う。不当に消えていっているのは紛れもない事実だった。カルロの懐ではなく経済の隙間、あるいは構成員の腹へという違いはあれど。

「ちょっといいか、ペタル、本当ならこんなことは頼みたくないが……」

「んー、資金援助のご依頼ですか? ご期待に添えずすみません。自分も手持ちがありませんから、代わりにお砂糖をどうぞ。医院でくすぶっていた買い置きです。シュガーカッターはありましたよね?」

待合の備蓄ですのでお代は結構です、と言ってくれたペタルに頭を下げる。食糧事情はいよいよ厳しく、新しいカルロも満足に補充できない有様だ。空にいた頃のような、食わずに済む身体だったらどんなに良かっただろうと思ってしまう。それこそ、今更仕方のない事だというのに。

「こうなってしまっては仕方がない……なにか売りに出して食い代に充てるか。何があったかな……」

「必要なものを手放すのはやめてくださいねー? ここにあるものというと、余所で使われることのなかったものばかりですが」

ペタルはにこやかだが、それにしてはいやに含みのある言い方だった。カルロは頭を掻く。

「買い値が付かないってことか? まいったな……」



裏の山で採ってきた木の実をジャムにしていると、居間にチェイスが飛び込んでくる。一抱えもあるような布の包みを両腕に抱き、焦ったような足取りはドカドカと忙しない。火を止めたカルロが鍋に蓋をしたのと、チェイスが視界に入ってきたのはほとんど同時だった。

「戻ったか」

「この匂いは木苺か? 俺にも味見を……じゃない。割の良い仕事が取れたんだ! これで来月も飯が食える! それから大至急ペタルを呼んでくれ! 今日は居る日だよな、もう来てるか?」

「……医者をか? 怪我でも……いや、いい。おおい、ペタル! 今すぐ来てくれ、ご指名だ!」

よくやってくれたとカルロがねぎらえば、チェイスは聞いているのかいないのか、足先で気ぜわしく床を蹴る。カルロは心配になって、床を睨む目元を覗き込んだ。

「どこか痛むのか? 血は出ていないように見えるが、なにか別の……」

「俺に触るな、身体は無事だ! くそ、報酬の交渉で無理を飲まされた、時間も人手もカツカツだ…… ああもう先に行く、すぐ作業室に来るようペタルに言っておいてくれ!」

一度は降ろした包みをひっつかみ、チェイスは台所から出ていった。入れ替わりにペタルがぬっと現れる。

「どうかされましたか? 怪我であればまず流水で洗ってから……」

「ああ、いや、俺じゃなくチェイスが……」

「ようやく来たか! 時間がないぞ!」

飛ぶように戻ってきたチェイスはペタルの腕を掴み、廊下の方へ乱暴に引っ張った。驚いたカルロが止めようとすれば、蔑むような舌打ちが寄越された。

「後にしろ、急いでいる! 悠長に話してる暇もない…… ほら、ペタルも急げ! 砥石が扱えるのは俺とおまえだけで、期限までは三日しかないんだからな!」

「えー、えー? それは、困りましたね……?」

ばたばたと連れ立って駆けていく二人を呆然と見送り、遅れて飛んできたチェイスの絶叫で我に返る。遠い声は、俺の分もジャムを残しておけと言ったようだった。カルロは立ち止まり、詰め襟に身を包む己が手足を呼びつける。残りの頭は二つきり。それぞれに十分な量の食事を取らせ、簡単に同期を済ませてからチェイスの元へと向かわせた。弁当にジャムサンドを持たせたので、作業が終わるまで戻ってこないだろう。カルロはシャツを替え、先に行った二人のために外へ卵を探しに行った。



「間に合って良かったです…… カルロもありがとうございました、手を貸してもらって随分と助かりましたー」

三日の後。シャツの袖を金属粉で波模様にしたまま、ペタルは逞しい腕を放り出して居間の椅子に沈んでいた。顔は疲労の色が濃く、水の跳ねたらしい髪はぼそぼそだ。向かいの机には納品から戻ってきたチェイスがだらしのない格好で伏せている。外出時こそ糊のきいた上着を着ていたが、帰って来るなり脱ぎ捨ててこれだ。カルロは上着をハンガーにつるし、グラスに水を入れて出してやった。

「置いておく。飲むとき倒さないように気をつけてくれ」

「礼を言う…… カルロの連れているあいつらのこともだ。あんなにキビキビ働くんだな…… 知らなかった……」

「……自分より上がいれば命令へ従うようにできている。うまく使えたなら、ブレインが秀でているということだ」

同じようにぐったりしているカルロの二体を座らせ、水を飲ませてから記憶の同期を行った。丸二日分の記憶と疲労感は重く、小さな身体で受け止められるようなものではなかった。だが、カルロは歯を食いしばってどうにか耐えた。どんなに気が進まないとしても、カルロには頂くもの、管理者としての責任があった。

「カルロ、大丈夫ですかー? 顔色が悪いようですよ」

「平気だ…… それより二人とも腹は減っていないか。卵を焼いてある」

「食う…… パンも厚く切ってくれ」


もそもそと遅い昼食を取りながら、閑散とした食卓を眺める。残る身体は二体のみだが、食料状況のことを思えばこれ以上は増やせない。どうしたら良いかを考えていると、向かいに座るチェイスと目が合った。そのまま数秒見つめあう。

「……他のカルロのことを考えていた。なにかあったか?」

「いや、じっと見てくるから何か用かと…… 前から気になっていたんだが、なんで『カルロ』なんだ? ここらじゃあまり聞かない名前だよな?」

チェイスの質問に、カルロは首をひねる。自分がまだ生まれた家にいた頃、何度か聞かれた質問だった。

「名前の由来ということか? ひとからつけられた。何か意味があるんだろうが、俺は知らない」

「驚いた、カルロにも先生がいたんだな」

チェイスが目を瞬かせながらもどこか納得したように頷くので、どういうことだと聞くのも憚られた。だから、カルロは知っていることだけを答える。普段と同じように。

「先生がどうして名をくれる。つけたのは俺の親にあたる人間だ。ゲオルグといった」

言えば、チェイスは椅子をがたつかせ、急に立ち上がろうとしたのかそのまま転んだ。大人とは思えないようなひどい転び方だった。ペタルが起き上がるのに手を貸し、チェイスはようやく元の椅子の上に戻ってきた。ぱくぱくと言葉もなく口が動き、動揺が抑えられないとでも言うように立てた指がこちらを向く。

「な、は? え……? 親って言ったか? 本名なのか? ネクロマンサーなのに?」

不躾な問い掛けに、カルロは憮然として言い返した。

「名に真贋があるものか。人間として生を受けてずっとこれでやっている。チェイスは違うのか?」

チェイスは答えず、ペタルへ助けを求めるような目を向けた。自然、カルロの目も答えを求めて追従する。二つの異なる方向から視線を受けたペタルは、困ったように微笑んだ。

「事情があるんですよ、お互いに」

ほら、もっとお茶を飲んでください、といってペタルは話を終わらせた。カルロは勧められるままカップを取り、話題に上がった偽の名前という概念について考えた。カルロが人間になる前は名も個体の区別もなかった。個体という輪郭を得て、識別のために名が必要になった。呼ばれるために名付けられるなら、偽の名を持つことに何の意味がある? 非合理だとカルロは思ったが、思うだけに留めておいた。もしこれが的外れなことであれば、チェイスは嫌悪を超え、失望の眼差しを向けてくるのかもしれなかった。カルロはそのことを恐ろしいと思う。湯気の向こうを盗み見れば、曇った眼鏡をしきりに拭うチェイスは先ほどまでの会話をもう気にしてはいないようだった。カルロは少しほっとして、甘い味のする茶をもう一口啜った。

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