欠乏-4(傾ぐ渇きの天秤について)

道具鞄を抱えたチェイスは座れる場所を探していた。あと二時間も寝れば朝だというのに冴えた目がやるせない。気まぐれに開いた茶箪笥は空で、棚板には薄く砂埃の膜が張る。

「……腹が減ったな」

火の消えたふいごの傍に膝をつき、使い慣れた槌を磨いた。減ったグリスを戸棚の瓶から継ぐ。自分の字で書かれた『使ったら元の場所に戻せ』の貼り紙には、読めない書き込みが増えている。どうせ文句だろう。ものを動かせば勝手には戻らず、自動調理器の一つもない。掃除は行き届いておらず、広間の黒板が伝令代わりときた。もはや手が足りないなどという段階の話ではない。何しろこの城の住人はあのネクロマンサーの城主と俺だけで、下働きはおろか家畜の一匹だっていないのだから。


全ての家政は城主が担っている。運営管理はともかく、食料の買い付けから給金計算、煮炊き、清掃、洗濯までもを己の手で行っているなど狂気の沙汰だ。人間を雇うか、さもなくば従えている死体共にでもやらせたらいいだろうに、当の本人にその気はないらしくいまだ全てが手作業だ。死体の作った飯はごめんこうむるが、それこそ尚更人を雇えばいい話だろう。セックスにしか使えないような人造シルクの豪奢な寝間着で昼も夜もなく働く様は、冗談抜きにいかれているとしかいいようがない。


城主ともなれば、普段は閨に人を招くなりして好き放題遊び暮らすものだ。年にいくつかある祭りの日にだけ顔を出して、料理のメインを振る舞うくらいで丁度良い。記念のスペシャリテなどは城主の趣向で出すものだが、調理のほとんどは炊事担当に任せ、やるのは仕上げと味付けばかり。城主と城に住む人員の距離感などそんなものだというのに、カルロはああだ。城の献立は普通、上層部の好みに合わせて洒落たものが供されるが、この小さな屋敷に並ぶのはありきたりな田舎料理ばかり。なんだってこんなしみったれた『城』に身を寄せたんだか。それは勿論、行く場所がここ以外なかったからだ。仕方ないとはいえ、鍛冶屋に営業をやらせるなよ、とチェイスは思う。



鍛冶屋は魔術の門弟だ。流通する魔術道具の多くは金細工の形を取り、鍛冶や彫金の職人にも魔術の素養が求められた。だが、素養があれど、城の術士たちは師弟の繋がりを持たぬ者を氏族へは迎えない。彫金魔術の師でもなければ、鍛冶屋の扱いは一般人だ。そこには個人の力では覆せない溝がある。城にいた頃の縁故を頼れば裏王宮の本殿で下っ端くらいはやれた身だが、首尾良く潜り込んだところで成り上がりは不可能だった。規模の大きい城は階層が固定化されているし、序列の低い鍛冶屋身分であれば尚更出世は狙えない。


その点、今の主であるカルロは訳ありだ。ネクロマンサーをしていながら、ほとんど面識もなかったようなチェイスを迎え入れ、あまつさえ城の運営の根幹へ関わらせている。二人しかいないのに根幹もなにもないが、常識外れというだけでは説明がつかないような横暴であることは確かだ。指輪の使い方もおぼつかず、学もなく、常識もない。死霊操作という特異な力を持ちながら、同胞がいないというのも変な話だった。内乱や虐殺でもない限り、根城に術士がひとりきりというのは考えづらい。だが、現にカルロはひとりだ。仮にあれが大量虐殺の主犯だとしても、普通下働きくらいは残すものだ。屋敷の規模を見るに出奔したか、新たな氏族を作るため一人で巣を分けたと考えるのが妥当だろう。無謀なのは若さか、あるいは表社会から追われて退路がないのか。もしくは更に、わけがあるのか。


子供の身体で一族皆殺しにできる道理もない。死体を弄りまわす中でなにかとびきりの失敗をして、氏族の城を追われたという筋も考えられる。ならば、ああして同じ顔の複製を増やすことにも一定の理由がつく。見た目で区別のつかない死体人形は有事のデコイになるだろう。そこまで考えてから、チェイスは城にいるのが自分とカルロだけではないのを思い出した。縁故も学も金もない術士が援助なしにやっていけるわけもなく、いつだってそこには補佐を務めるペタルがいた。螺鈿城のペタル。まっさらの反物を思わせる長い毛束を丸く結い、城主を補佐する医療従事者。ネクロマンサーの子供へ死体を貢ぐ大人の男。術士を祖に持つ学徒は一変し、何の因果か、寂れた城で顧問をやっていた。



見違えるほどに伸びた背も髪も、目に馴染む髪色の印象を覆すことはない。無染色の布地に似た毛の色は何年経っても変わらない。ペタルと再会したのは偶然だった。医者になったという男は記憶よりも日に焼けて、随分と柔らかく笑うようになっていた。


螺鈿の城にいた頃のペタルは夢想家だった。勉学へ励む様は勤勉というより狂気じみていて、理想的な世界のあり方を論じる舌の鋭さは苛烈ですらあった。これは術士の縁者にはままあることで、彼の特異な点はその主張内容にあった。ペタルは子供を毛嫌いしており、少年といっていいような歳のころから小さな子供を極端に嫌って近づけないようにしていた。同期と比べて小柄だったチェイスが彼に遠ざけられず、あまつさえ友人といえるような親しさを得られたのは結果論でしかない。学生身分だったペタルは、同い年だというのに城の労働力に数えられていたチェイスを対等なものとみた。いってみればそれだけのことだ。


いつもの踊り場や中庭で、ペタルは時折ラセンの城への憧れを口にした。北にある螺旋城は医療技術の中心地で、そこには最新の知識、治療技法、症例、様々なものが、通常のやり方と魔術的アプローチの両方の視座で集積されているのだという。そこで学び、知見を生かすことができれば、自分たちは一つ上のステージに行ける。それがペタルの望む最終目的であり、希望であるようだった。取り憑かれたような勢いで教本とにらみ合う彼の姿を、今もチェイスは覚えている。


螺鈿の城を離れた自分にペタルのその後を知る由は無い。だが、カルロは今のペタルを『医者』と呼んだ。ならば希望は叶ったか、あるいはこれから叶えようというのだろう。長じたペタルがああして死体を刻むのも道理といえた。元より医者は生者を刻み、病んだ在りようを正す仕事なのだから。


それにしても、とチェイスは思う。刻んで組んで縫いあげた死体をカルロに捧げるのがどうにも解せない。傅くことに異議はない。城主への貢ぎ物など城の住人であれば誰もがやることだ。しかし、少年だったペタルの子供嫌いは隣で見ていても酷いもので、それは城に住みながら内心で術士を非難していたチェイスにとってもいくらか過ぎたる主張であったほどだ。城に来た人間が全員怠惰な魔法使いになるわけでないが、どんな人間にも必ず子供の時期がある。言えばペタルは反論した。主張は難解で理解できなかったが、ペタルにはその事実を持ってしても引き下がれないわけがあったのだろう。そうだ、ペタルは本気だった。なのに現状はこうなっている。


自分たちの雇い主であるカルロは、いくらか幼さも残るような容姿の青二才。十代半ばにしては頭が回る方だとは思うが、それでも子供に変わりはなく、ペタルはそんな蔑みの対象であったはずの相手へかいがいしく仕えている。長い身の丈が屈められるたび二人の間には言い表しがたい空気が漂い、振る舞いには忠誠さえ感じられた。



初めこそ生活を握られているのかとも思ったが『通い』の身分ならそれもない。寝床と働き口を与えられている自分はおいそれと逃げられないが、ペタルは違う。住家と職が余所にあるなら離脱だって簡単で、慣例として表社会に出た構成員はその時点で放免だ。慣例に詳しいペタルがカルロの元へ出向くなら、そうするだけの理由があるのだろう。だが、チェイスにはそれがわからない。否、一つだけ思いつく。金より信義より先に立つ、アンフェアな切り札。


すなわちそれは恋情、ありていに言えば肉体快楽だ。チェイスは悪態をつき、浮かんだ疑心を振り払った。術士の纏う寝間着じみたローブは、人体を消費して走る秘匿魔術の付属品だ。前開きのシャツは滑らかで緩く、時代錯誤な腰巻きは進物の包みに似て簡単に解ける。情と欲とが腰を抱けば、利己の牙ははらわたへ食らいつくだろう。術士という生き方は背理の道だ。部屋へ撒くポプリの影に隠れて、起こる行為を知っている。闇に潜む身が何を成し、取引がどういう性質を持つのか、正しくチェイスは理解している。城主ともなればそれはもう、思い通りにならないことを厭い、怠惰に、賢しく、横暴に暮らす。享楽的で、散漫で、軽薄で狡猾。長くを生きた自己こそを最上とし、他者から奪うことをためらわない。


考えただけでうんざりした。夢想家で潔癖だったペタルがそう易々と身体を許すわけもない。しかも相手はペタルの胸へ頭頂部がようやく届くかそこらの、精通もしているか怪しいような寸足らずのちびだ。だが、おかしなことばかり起きるこの状況では、チェイスも楽観的にはなれなかった。


魔術を生業にするなら、高位の術士は避けて通れぬ障害だった。幾ばくかの対価と引き換えにペタルが抱き込まれた可能性だってある。連中の持つ有用な技術が野に放たれることは稀だ。だからこそ城主は恩恵に対価を求め、怠惰な暮らしが継続される。しかし、契約が不当ならああも嬉しそうにしているのは妙だ。洗脳されたようなそぶりもなく、狂ったようにも見えなかった。チェイスは問答が袋小路に入りつつあることを悟り、槌を降ろす。ウエスを畳み、ついで道具入れにも鍵をかけた。気が塞げども夜は明けて、そろそろ食事の時間がきていた。

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