空虚-3(愉快な共同生活について)


光を感じて布団から頭を出せば、先に起きていたらしい複製の一体が振り向いた。カルロは片手をあげて寝台へ呼び、指輪を交えて記憶の同期を試みた。手を握り合えばコンマ五秒ごとに視界が二重写しになり、開けたままの目に見えるカルロの顔はひどく青ざめていた。カルロは顔を拭おうと指を伸ばし、どちらのかもわからない頬をしたたかに突く。

「痛い! 上手く動かせないのは俺が未熟だということか? ……入れ替わりが早いから馴染みきらないのか?」

考えたことは目の前にある口を通して聞こえてきた。目の前とはどこだ。どこが痛むのだかわからない。同じ用途の器官が複数あって、どれを使っているのかてんで区別がつかない。足はいくつだ? 指がばらばらに動く。ため息をついたつもりだったが、三つ目の耳から考えたことがそのまま聞こえた。カルロはもはやいくつあるのかもわからない目を見開いてみる。

「…………んん」

気分の悪くなったカルロは同時に手を離し、接続を切った。渾然とした皮膚感覚は小さくまとまったように感じられた。日が昇りつつある。襟の開いた服へと着替え、眠る三体の複製を起こして回る。食事の時間が近かった。庇護を必要としなくなった人間は身体の維持を自分で行うものだ。主導権を握るカルロが複製の世話を受け持つのは当然とも言えた。



いくつもある腹は常に満たしておかねばならず、その程度は均等でなければならない。たらふく食べた後に空腹のカルロと同期を取れば、実情とのずれから過食、あるいは偽の満腹感から絶食に陥る怖れがあった。同期のたびに記憶はまざり、どの腹にどれだけ食事が必要なのかがわからなくなる。カルロが管理者としてもっと有能であれば問題にもならなかったのかもしれないが、実態はこのザマだ。作ったスープを口に運びながら、カルロが得た自由と、そこに伴う責任について考える。


カルロには己の『空の底で穏やかに暮らす』という野望とは別に、複製達を生かす責務があった。ペタルが作り、カルロが保持した身体を、チェイスが時折剣へと代えた。食い扶持のためだ。目鼻を切り落とすのにも似た行為は、金さえあれば復元できるという一点で合理化される。いわばこれは脂肪のようなものだ。肥えふとった大きな身体は、飢餓がくれば分解されて口へ入る。


カルロの本能は拡大することを良しとした。だが、現状カルロの手腕では大きな身体は扱えない。難儀なものだ。増えるべきか減るべきか? 暮らしに適した規模とは別に、剣を打つための余剰も抱えておかねばならぬ。状況は複雑だった。空にいた頃はただ上に従うのみで、全てのことは滞りなく進んだ。思い返しながら、カルロは頭上に頂くもののない不自由を噛み締める。


◆◆◆


「ペタル……ペタル? この新しい本のことなんだが…… 今って手は空いてるか? ちょっとこっちに来てくれ」

名を呼ばれたペタルが声のする方へ目を向けると、寝間着じみた仕立てのシャツを着たカルロが手招くのが見えた。ペタルは棚を整理する手を止めて、カルロの元へ向かう。

「はい、何かありましたかー?」

「もらった本についてだ、持ってきてくれたことには感謝している。だが……何から言ったものか。ええと、中を見た。だが、内容に書いてあることがわからない。これは……これはなんなんだ? ペタルにはわかるのか?」

カルロの指は文字をなぞる。それはちょうど生理学についての記載だった。初学者向けに編まれた本のため、内容は比較的平易な表現で記されている。わかるのかと問われた言葉に対し、ペタルは少し変な顔をする。

「それは当然、自分の専門ですし…… 興味がおありのようだったので基礎をと思ったのですが、カルロにはまだ難しい内容でしたかー? ちょっと貸してもらって良いです? もう少し前のページにたしか、もっとかみ砕かれた解説が…… ああ、この辺りですねー」

パラパラと捲って目的のページを探し出す。目の前に戻して文を指さすと、カルロは曰く言い難い顔でこちらを見た。

「ペタル、俺は『書いてあることがわからない』と言ったんだ、難解だと言ったつもりはない。これがなにかわからないんだ。扱い方を見るに、文字なのか?」

文字以外、何に見えるのだと訊ねたくなるような質問だった。ペタルは驚きもそのまま、考えられる可能性を頭の中でなぞっていった。

「どういうことです? ……字が読めないんですか?」

まさかと思いつつ問えば、カルロは憤然として言い返した。

「見くびってもらっては困る。俺を無学だと言いたいのか? 確かにあまり得意とは言えまいが、だいたいの文は読んで意味が取れるし、書くほうだってできる…… 手紙だって出しただろう、ペタル宛てに」

それもそうだ、とペタルは思った。最初にここへ呼び寄せられたのは、彼から来た手紙が切っ掛けだった。でも、それなら何故、とペタルは思う。


苛々と杖を引っ掻くカルロを見ながら、失言だったなとぼんやり思う。だが、それにしては様子がおかしい。字を書くことができるのに、平易な文を指して文字かどうかも分からないと言い出したのは奇妙というほかにない。ペタルは考え、とっかかりになりそうなことを探す。

「うーんと、えーっと、そうですね? えーと、えーと…… カルロ、ここにちょっとなにか……書いてもらっていいですか?」

「俺の言葉を疑っているのか? ……仕方ない、それで、何を書けばいいんだ」

「……それでは、ええと『夜空け、いと高きに炸裂す。死せる地のほむら、不変、和をみゆ。蝋燃えぬ、閨は真名、澱秘めてこそ』と」

「いっぺんに言わないでくれ。なんて言った、ええと、日の出は高みに閃光をあげ? 死せる大地に火は上がり、永久なる和平は成る? 檻は燃え、寝室に正体……よどみ隠すべし……」

手元をのぞき見る。直線的に引っ掻くような筆致は医学書で見るような北の字だ。しかもかなり古い。ペタルは膝を打つ。なるほど、アスターで字を学んだのなら、手元の本が読めなくとも不思議はない。自分の用意した本は初学者向けだが、それ故に本文は通常使うような中央文化圏現代文の書式で統一されている。

「ああ、ああ、納得しましたー……少し気になったのですがカルロの故郷って、どちらかといえば中央区か東部の文化圏でしたよね? 本当はもっとずっと北の方に住んでいらっしゃったのですか?」

「きたのほう? ってなんだ? ここに来る前は浅い層にいたが、そのことか?」

「え? えーっと、どうでしょうね? そういうことになるんだと思います。筆記のやり方は誰かから教えてもらったんですか?」

鉛筆を握る手を止め、カルロは少しの間深い思案に沈んだようだった。

「誰と言われても困るな、あちこちで見て覚えたんだ。何年もかかったが、情報収集には役立った……ああそうだ、当所の目的を忘れていた」

それで、俺の代わりに読んでくれるか、と表紙を指してカルロは訊ねた。ペタルは眉を上げ、内容をざっと確かめてから、時間の許す限り読み聞かせてやった。


「ありがとう、助かった。しかし、ペタルは良い声をしているな。おまえ、指揮官に向いてるよ」

「それは褒められているんですか? この時間で簡単にでも字を教えた方が良かったのかもしれませんねー? ……あと、急に思ったことを訊くんですが、もしかしてチェイスの貼り紙も単純に読めていなかったってことですか?」

「貼り紙? 紙……もしかして、紋を描いた紙を戸棚に貼るやつか? その言い方だとあれにも同じ……文字が書いてあったんだな? 呪術の類いだと思っていたが、確かに人の身に効かないというのは変だな……」

またしても理解できないようなことを言い出したカルロから目を離し、ペタルは隠れて眉間を抑えた。ともあれ、カルロの示した答えは『はい』である。

「なるほどー、承知しました…… 今度からはカルロにもわかるようにしておきますねー?」

「て、手間をかける…… ペタルは親切だな、いつも世話になっている…… 助かるよ、本当に……」

しおらしい態度で言われた礼に、ペタルは困ったような顔をした。

「お言葉は嬉しいのですがー。カルロ、あなたちょっと前に棚を触ったでしょう? 自分宛でクレームが来てたんですよ、使った瓶が元の位置にないって……」

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