根付く悪意と地の網目の話

空虚-1(芽吹きゆく睡蓮について)

眠りはぬるく胸を満たす。柔らかい夢の見せる景色はひとつ、戻ること叶わない故郷の空だ。



外から響くけたたましい打撃の音は質量をもって寝床を揺らしていた。カルロは眠りから覚め、乾いた目を擦る。眠気に抗って身を起こせば、板で延ばした寝台は普段より僅かに広い。シーツに沈む頭の数は想定よりも一つ少なく、そのことがカルロの悪態を引き出す。

「ああ、くそ、鍛冶屋か? 断りもなしに連れ出すとは……」

部屋まで来たなら起こしてくれれば良いものを。足先で靴をつっかけ、襟の開いたシャツに袖を通す。杖を握って廊下へ踏み出し、さて、どこへ行っただろうと見渡していると、音の止んだ作業部屋からチェイスが顔を覗かせた。手に持つ槌と真新しい剣にピンときて、カルロはうんざりしながら訊ねた。

「注文の剣か?」

「裏王宮からの依頼だ。急ぎだったので勝手に『潰した』、悪く思うなよ」

言いながら、チェイスは先ほどまで自分がいた寝室の扉を顎で指した。謝るというには棘のある、釘を刺すような口ぶりにカルロは僅かな反感を覚える。この男は日頃から、寝室で眠るあれらを一段劣るものとして扱うような向きがあった。だが、そんな事情と関係なく、今回ばかりはチェイスに理がある。

「迅速な対応に感謝する。依頼だというのなら仕方がない……」

そう答えるよりほかになかった。果たされた任務に不足はない。金銭獲得のためには現状チェイスが不可欠で、不満を言ったところで潰されたカルロが戻るわけもない。複製が物言わぬ剣になることへの無常こそ感じるが、現状どうあれ口は飯を欲するし、弱る身体も休めねばならない。身一つで生まれてきたカルロがそれを叶えるには金やツテが必要で、チェイスはその両方をもたらしていた。それでどうして異が唱えられようか。ほとほと嫌になるな、と思いながら眉間を揉み、目を開けたカルロは訊ねる。

「それ一つでいくらになる?」

「年間予算の三割ほど。半期の間にあと二本かそこら打つ予定だ。こっちはまだ期限まで猶予がある。相談はするさ、そのときはな」

「了解した……」

憂えど嘆けど、鍛冶屋に聞く気はないようだ。騒音に叩き起こされたことの不満も言いたかったが、それも間が悪いというだけのことで、本来チェイスに落ち度はなかった。朝も早くから対応してくれたことに感謝こそすれ、文句を言う筋合いはなかった。やるせない気持ちのまま欠伸をすれば、若い鍛冶屋は足を止めて気まずそうに頭を掻く。

「……まだ何か?」

「いいや……医者を動かす算段を立てていただけだ。じきに口減らしの季節だろう。今回減った分、新しいのを作らせる」

眼鏡をかけたチェイスが顔をしかめるのが見えた。思ってもいない事で話を逸らそうとしたのが伝わったか、と思ったが、続く言葉は不平ではなかった。

「もうそんな時期か? あいつには俺から言っておく、使ったのは俺だからな」

提案に、気が利く男だ、と思った。自分より長く人として暮らした男はなるほど、こういうところがしっかりしている。

「頼んだ。近年は不作が続くのか食い代も嵩む、今回は前より多くが捨てられるだろうな。仕事がしやすいのは結構な事だが、いや、連れてきただけ金銭負担が積み増されるのはデメリットか……? まあいい、とりなしの方は任せた。俺に技術的なことはわからんし、仕上りが型通りならこっちに不都合はない」

言えば、チェイスは簡潔に頷いた。

「了解した、伝えておこう」


チェイスは服の襟を几帳面に上まで止め、納品のために出掛けていった。端整な顔立ちに回りの良い舌、標準的な背丈といい、よくよく対人商売に向いた男だと思う。それを裏付けるかのように、チェイスが仲間に加わってから当座の金には困っていない。ただただ有り難いことだ、と思う。


カルロの最終目的は生活の継続だ。身一つで辿り着いたこの空の底で、消滅の時まで居心地良い暮らしを続けること。それこそがカルロの望む全てだった。今は道半ばで足踏みをしているような有様だが、僅かながらも理想は叶えられつつある。寝室へ戻ったカルロは扉と窓を開け放ち、手にした牧杖でそこらに散らかる肩や手足を小突いてまわる。握るたび指輪が柄と擦れ、カチカチと鳴った。

「おい、起きる時間だぼんくらども。着替えて仕事にかかれ」

のろのろと起き出してくる身体はみな、杖をもつカルロと同じ造りをしている。耳を覆う短髪は夜空の黒色、目は水に濡れた土の色で、背丈は戸の上枠に背伸びして指先が届く程度。複製のカルロ達は簡素な造りの靴をつっかけ、襟元の詰まったシャツで縫合痕だらけの肌を覆う。顔を拭い、短い髪に櫛を通せば支度は終わりだ。チェイスを思わせる装いは無難そのもので、これこそ世間の、ひいてはここらへ暮らす人間の『標準』なのだと感じられる。目に見えるたった一つの逸脱は手に光る大きな指輪。輝く貴石と銀の輪は、古い時代の魔術道具。


カルロは装身具の並ぶ手と手を絡め、それぞれの持つ指輪に刻まれた特殊な魔術紋を経由して互いの記憶イメージを共有した。全ての複製を持ち場へ向かわせると、部屋にカルロは一人になった。ここに生まれる以前、空に居た頃のカルロは孤独とは縁遠い生き物だった。繋がりは全てに満ち、区別がための名前さえそこにはない。だが、カルロは分断され、名を授かった。己と他者を分ける境界を得た空の底で、こうして自身の在り方を取り戻せたことは僥倖という他にない。



手に並ぶ指と同じ数の大きな指輪も、長い牧杖シェパーズクルークも、鎖骨と首の見えるゆったりした服でさえ標準的な人間の装いからは程遠く、それらはある種のしるしとなる。空の底は人間の園だ。ここでは大多数の標準的な人間と、ほんの僅かな逸脱が危ういバランスで混じっている。前者を指す言葉は今のところないが、後者は『術士』と呼ばれていた。


術士。人として生まれながら、そうでないものへと成り変わる不条理の化身。由来を否定するいくつもの装備と、歪んだ在り方を示す身なりが侮蔑の対象なのだと知っている。同族である普通の人間たちは『最初に得た形(生まれ持った性質)』を失った術士の存在を、排斥の対象へと定めたようだ。自分だって近しいことで空を追われたのに、自ら弄って歪めたとあっては尚更だろう。それでもカルロは術士になった。チェイスが時折向ける視線の意味さえ知れたこと。人にあらざる身ながら市井へ混じり、転生した後は前世を求めた。なれば次、人でないものに戻るのだって道理となろう。集団の中、存在そのものが不調和であるカルロにとって、これは再度の変容だ。元よりカルロは生粋の人間ではないし、逸脱を選択した同族とあればどうあっても気持ちの悪い異物でしかない。それはたとえ、カルロ自身がそう思わなくとも。


手に並ぶ不揃いの指輪は紆余曲折の道筋だ。本来、人の身へ転じたカルロが元の姿を取り戻す道などなかった。術士という身分と、彼らの使う魔術道具は解決への足がかりとなったが、奇妙な効果をもたらすこれらが理に背いた物品であるのは明らかだった。有限の生には些か過ぎた力に、変容を求めた先達の熱意を思う。あるいはそれこそが渇望というものなのか。カルロは目を瞑り、横たわった。底で培われた力は空の中腹にあるカルロの母体にさえ届くのだろうか。抜け出たカルロに今更怖れる義理はなく、考えるだけ無駄なことだった。履いていた靴を寝台の下へ落とし、シーツへ足を引き上げる。何度眠ろうとも、目覚めを迎えるカルロに以前のようなともがらはない。



カルロの目が覚めたとき、既にペタルは来ていたようだった。処置室の扉をくぐれば僅かに外の匂いがして、薬棚の前には上着のままカルテを捲るペタルがいた。枯草色の長髪を後頭部で輪にくくる男は平均より背が高く、座っているときにだけ白いリボンの髪飾りが見える。

「おや、こんにちは、カルロ?」

「……話はチェイスから聞いているな? 例によってあまり用意もできなかったが。頼めるか」

隣の部屋を指せば、理解したらしいペタルはなめらかに微笑んだ。

「任せてくださいよー、ちょうど別でやっていた仕事の余りがあるんです。お困りかと思って持ってきたんですよー?」

机に散る消しくずを払い落としたペタルは、台の上に置かれた見知らぬ子供の両腕を掴んで、こちらへ見せるようにぶらぶらと揺らした。術士と呼ばれる部類の人間にありがちの、同族を軽んじるような振る舞いはカルロを嫌な気分にさせた。出会った頃のペタルはこんなふうではなかった。ならば、カルロと過ごした二年がペタルを変えたのだろう。浮かぶ渋面にどんな勘違いをしたのか、ペタルは笑顔のまま気遣うように首を傾げた。

「カルロはこういった『小さい人間』はあんまりですかー?」

答えに窮し、口ごもる。見上げるほどの上背は、ほとんど全ての人間を『彼より小さいもの』へ押し込める。カルロは首をひねり、迂遠な言い回しからペタルの真意を読み取ろうとした。

「……子供のことを言っているのか? 別に、いうほどじゃない。ちょっと……嫌なことを思い出すだけだ」

「そうなんですねー? カルロ、希望を持ってください。彼らはこの先どんなものにだってなれる、これってすごいことだと思いませんか? 嫌うことはないんですよー」

死体は成長しない。ペタルの言葉は慰めに過ぎない。ぐたりと項垂れた身体が鼻歌と共に揺らされるのを見て、カルロはしばし言葉を探した。人間が完成するのは発生のずっとあとだ。時間をかけ、死に向かう途上のどこかで生まれ持った不足が埋まる。そこへ到る過程を成長と呼ぶのだと今は知っている。人間の生態は非合理極まりなく、幼少期というのは必然、欠落で溢れている。


成熟へ到るまでが長すぎるというのがカルロの所感だった。環境の厳しい中で未完成のまま事切れる個体も多いというのに、全滅しないのが不思議なくらいだ。生殖と呼ばれる再生産の特権こそ彼ら自身が持っているが、実際にそれが許される期間は短い命のたった三割程度でしかなく、発生した個体の多くはこうして完成を迎えられず無為に死ぬ。こんなのは存在に対する冒涜だと今でも思う。だが。

「……ペタルがいうなら、正しいのかもな」

カルロは人間になった。現地には相応のやりかたがあり、特殊な出自を持つカルロの精神は人間社会に馴染まない。だから、つまり、この空の底でずっと暮らしてきたペタルがいうなら『そう』なのだろう。多分、おそらくは。

「そうですよー? カルロ、余っている肉をいくらかもらっても? 縫合の時に足そうと思うんです」

髪だって混ぜますよとペタルは言って、輪の形に結った長髪を揺らす。持ち込まれた素体は異物を混ぜて縫い閉じられ、カルロのものになる。見知らぬ子供を哀れとも思わないが、完成を見ず死ぬ命には憐憫の情がわいた。ペタルの言葉は軽薄で、悪い冗談のような色があった。

「それは……」

「んー?」

降ろせば足までかかるほどの長髪はカルロと過ごした時間の重みだ。同族を軽んじるような振る舞いも、医者の役割に反した行いも、知らずカルロが押しつけたのだろう。お門違いの感傷だとわかっている。だが、罪悪感は沈黙を怖れさせた。

「……何をするのかまでは知らんが、動かなきゃ廃棄だからな。妙な事はしてくれるなよ」

「それならやめておきますね? 残念ですがまたの機会に」

あっさりと手を引いたペタルの口ぶりと、なにかしようとしていたらしい事実に驚き、カルロは唇を舐めた。

「それは……動かないのか?」

「どうでしょうねー? でも、そうなったら勿体ないでしょう? 治療法のない未知の病であるならともかく、分の悪い賭けはお医者の領分ではありませんよ」

「そうか…… まあ、ほどほどにな」

それだけ答えて話を終える。部屋を出たカルロは先ほどまでの会話を思い出す。ペタルは医者だ。折り目正しく、専門知識を持っていて、確かな実力がある。わからないことだらけで教えを乞い続けた二年の中で、これだけは疑いようもないことだった。だからこそ、あの同族を軽視するような振る舞いが気に障った。どうにか元に戻す手立てはないものかと考えたが、一つきりの頭では答えは出そうになかった。

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