最終話 時を経て心に在り続けるもの

〜現代の現世にて〜

に聞いた、懐かしい声がの脳に響く。


『どうか弟橘媛と言う名は覚えていてください。きっと、現世に降り立った時、また私の名を目にすることがあると思うので』


 定期的に聴こえるその言葉に、俺は勢いよく体を起こした。目を開けるといつも通り見慣れた天井。外には煩い蝉時雨が聞こえ、道路には車が行き交っている。窓から差し込む日はまだ朝だというのに暑く、眩しい。もう俺は何年も1人で暮らしている。人並みの生活は送っているが、ただ1つ周りと決定的に異なっているのは、まだ心に決めた人が出来ていない所だった。

正確には自分に気がして、未だに前に進めていない。


「今日休日か……気分転換に散歩してみよう」


 着替えてリビングに向かい、ポツリと呟く。ガラスの机に黒いソファ、テレビ。必要最低限の家具が揃った部屋。ここ数日忙しい日々が続いていて、先月この自然の多い町に越してきたと言うのに、堪能出来てなければ、街のことも詳しく知らない。


「そういえばここは房総半島に面していて、海に関係する神社が多いとか言ってたな……」


 海、房総半島。神社。その言葉に何故か懐かしさが込み上げてくる。切なさと微かな温かさが入り交じっては俺の心を揺さぶる。以前から本やテレビで目にして引っ掛かりを覚える事はあったが、越してきた場所がその近くとなると、何か自分自身に関係している気がしてならない。

俺は思考を巡らしながら散歩の為に家を出た。急な坂道を上り、そこから数十分ほど歩くと遠方に小さな山が見えてくる。車に気をつけながら歩を進めると、やがて新緑に覆われた長い石段が見えてきた。木は風が吹く度、道標のように葉音を奏でる。


「……涼しいな」


 急な階段も日陰が多く涼しければ苦ではない。俺は着々と登りきると、来た道を見下ろした。遥か彼方に陽光を反射した青い海が見える。丹塗の鳥居をくぐると視界が開け、ひっそりと佇んでいる本堂を視界に捉えた。砂利を踏み、賽銭を入れて手を合わせたその時。


「この時間に参拝とは……珍しいですね」


 巫女服を纏った同じ20代半ばの女性が俺に声をかけてきた。清掃中だったのか、手には箒をもっている。落ち着いた雰囲気の女性はこの神社の娘かなにかだろう。


「少し、散歩がてら寄って見ようと来たんだ。実は最近仕事の関係でここに越してきたばかりで」


 俺がそう告げると女性は嬉しそうに微笑む。


「そうだったんですね。この時間に人が来るのは珍しいので、驚きました。この神社は弟橘媛比売命おとたちばなひめのみことを祀っているんですよ。逸話、有名ですよね!」

「弟橘媛……?」


 脈打つ鼓動が早くなる。それは今朝見た夢に出てきた名前ではないだろうか。聞いた事ある名に動揺しつつ、俺は女性に目を向ける。


「ご存知ですか?愛する倭建命を守るために自ら入水して、海の神の怒りを鎮めた、と。かっこいいですよね……私、とても好きなんですこの話。逸話でも実際に会った話でも、尊敬します」


 ああ、その話は聞いた事ある。否、俺が認識した直後、魂が共鳴し、震える気配がした。脳裏に数々の言葉が浮かび、それらは禅問答の如く駆け巡った。


『貴方をお慕いしております。この先もずっと』

『倭建命様が、再び現世で過ごす事があれば……幸せになってください。その世界で』

──』


「弟橘媛……」

「そうか……お前はここに」


 声が僅かに震える。名をやっと見つけることが出来た。気が遠くなるほど前。考えるのを放棄してしまうくらい前、最後に弟橘媛が告げた言葉。きっとどこかで''会おう''、と弟橘媛は言おうとしたのだろう。多分あの時彼女が最後まで言わなかったのは──


「俺に迷惑かけないように……そしてお前自身が想いを断ち切る為、なんだろうな」


 そうだ。ずっとそうだった。生前も、2度訪れた別れの時も、いつも自分以外の人を優先する。それが何より愛おしくて、時にはもどかしかった。本当に運命は残酷だ。最後──弟橘媛はその時代で幸せになれと言っていた。前世で何も出来なかった代わりにせめて今世では願いを叶えてやらなければ。


 そう思い、俺は中断した合掌を再開した。


(弟橘媛、俺はお前を忘れない。けどお前が言った通りこの時代できっと幸せになろう。その方がお前も安心するだろうからな)


 俺は強く内心で告げ、固く瞳を閉じる。思い出した過去に想いを馳せながら──


**************

 一方、黄泉と現世を繋ぐ泉界神社では、彼岸へ人を送ったばかりの弟橘媛が泉のほとりに腰を下ろしていた。不意に温かく柔らかな風が弟橘媛の頬を撫で、気づいた弟橘媛は辺りを見渡した。普段、泉界神社は温かい風は吹かない。

「なんだろう……?」

「どうかしましたか?弟橘媛様」

 不思議そうに尋ねる歩澄の声に弾かれたように弟橘媛は顔を上げる。

「温かい風が吹いた気がして……」

「きっと、倭建命様ではないでしょうか?あの方に良き変化があったのでは……?」


 穏やかな笑みを浮かべる歩澄に弟橘媛も自然と笑みが溢れる。

「そうかもしれない……ううん、きっとそう」


 例え逢うことが叶わなくとも、想いは在り続ける。そんな事を思いながら、弟橘媛は徐に立ち上がり、地に置いていた巫女鈴を手に取った。過去に想いを馳せて鈴を振ると、凛然とした鈴の音が天高く残響した。

それはまるで現世うつしよへ想いを届けるように──

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過去へ馳せる想い 東雲紗凪 @tutunome

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