第6話 自分の正体

「音羽様、大丈夫ですか?」

「あ……」

 歩澄の声に我に返ると、私は頬が濡れているのに気づいた。指を伝い、落ちる雫は温かい。私がずっと切なさを感じていたのも、彼岸に人を送りながらも寂寥を感じていた理由も全部わかった。泉で一瞬蘇ったあの出来事。初めは男性の顔が見えず、誰なのか、なんの記憶なのか分からなかったが、過去を視た今なら──


「歩澄が私に過去のことを教えないのも、調べようとした時止めたのも、この哀しい出来事を私が思い出した時の心中を案じて、だったんだね」

 私が呟くと、歩澄は気まずそうに視線を逸らす。

「……申し訳ありません」

 歩澄は1呼吸おいて言葉を紡ぐ。

「貴女は弟橘媛比売命おとたちばなひめのみことで海の女神。……生前は倭建命様の妻で、共に東征に赴いた時、命を落とされました。そしてこの神社にきたのです」

「うん……」


 つまり私の『業績』とは、倭建命様を助けた事となる。私が神とのも入水した当時、私を呑み込んだ海の神に認められたからかもしれない。時折神社に漂う海の香。水を手にかけると浄化されたように楽になった理由。それは私が海の女神だから、水と相性がいいと考えると筋が通る。

 記憶になくとも、体に刻まれた感覚や感情は少なからず残るものなのだろう。そこまで考えた時、私はふと、1つの違和感に近い疑問を覚えた。


「歩澄──じゃなくて、神直毘神かむなおびのかみ……」

 偽名と真名。どちらで呼ぶべきか思い悩んで言葉に詰まっていると、当人はふっと表情を和らげた。


「今まで歩澄と呼んでいたので、呼び名はそのままで結構ですよ。私もその方がしっくりと来ますので。何かありましたか?」

 暫し逡巡し、私はおもむろに口を開く。

「……私、この神社にいてもいいのかなって」


 今更感はあった。たが、この神社は彷徨う死者を未練から解き放ち、送る。歩澄が前に言った通り、誰もが純粋で穢れなき魂を持ってここに訪れる訳ではなく、先程の男性──人斬りのように罪や穢れを纏った者も来ることがある。勿論その時は穢れや瘴気が強くなる。伊邪那岐いざなぎ様が水底で禊をした事で生まれた底津綿津見そこつわたつみ様や歩澄のように穢れに強い者がこの神社にいるのは分かるが、私は特別瘴気に強い訳では無い。


「私が認められて、この神社に天ノ国から送り込まれた……それだけが私がここに居る理由なの?」


 深く思考すれば不可解だ。瘴気に強くない私が、何故1泉での仕事を任されているのだろう。それに、送るだけなら歩澄の方が適任だ。わざわざ私がやる必要が無い。となると、私が送り巫女をする理由がない。もし、他に理由があるのなら。そう思い歩澄を見ると、彼はただ黙り込んだ。代わりに静観していた底津綿津見そこつわたつみ様が私を見据える。


「中々、聡いようだな。なら過去を思い出した弟橘媛殿……に1つ問う。未練はあるか?」


 私を試すような声にぞくり、と体が震えた。歩澄を見ると目を伏せたまま、私の言葉を待っている。


「あ……」


 全て。私の中にあった疑問が点と点が線になるように繋がった。分かった。否、分かってしまった。歩澄が言っていた通り、私がここに来て仕事を任されているのは認められたから。それは紛れもない真実ではある。けれどそれはあくまでも記憶の無かった私を納得させる表向きの理由で、本当の理由は────


「未練は……あり、ます……」


 かすれる声。あの過去の記憶と想いを知り、思い出した今だからこそ断言できた。別れた倭建命様に''会いたい''。心の底から湧き上がる気持ちは入れ物が壊れたように外に溢れていく。


 未練を解く立場の私。記憶を封印されていたことで気づかなかっただけで、実はのだ。満たされぬ気持ち。寂寥。虚しさ。今まで湧いていた感情が私に未練がある事を示唆している。暫く固まっていると底津綿津見様は満足げに頷き──歩澄に視線を移す。


「歩澄、弟橘媛殿はもう全て思い出した。弟橘媛殿の未練の解放を……その後のことはお前に任せよう」

「その後のことですか。かしこまりました」

 それだけ告げると彼は姿を消した。あとは歩澄と私で何とかして欲しい、と言うことだろう。緩い沈黙が間に落ちる。


「それでは参りましょうか……」

「歩澄?どこに?」

「泉へ。貴女が普段行っている事を私がするのです。ここだけの話ですが、この神社に来た時に未練を解く力や送る力は身につくのですよ」

 歩澄は柔らかな微笑を湛える。境内を抜け、数刻前とは違う澄んだ空気が充満する泉へ向かうと歩澄は何かを唱えた。

私は巫女鈴を泉にかざして一振だが、歩澄は違うらしい。同じ力を持つとはいえ、やはりその神にあった方法があるのだろう。


『集い給へ光芒こうぼうの光 古に続く未練を解き放つ。対象、残影を浮ばせては一時の曙光しょこうの如き安らぎを与えよ』


 ありふれた唄のように頭の中に意味が落ちてくる。


 集まった光芒の光は古に抱いた未練を解き放つ。依頼したその者が望んだ人の面影、姿を浮かばせ、例え一時でも明け方の光のように、明るい希望と安らぎを与えよ────


歩澄から零れる言葉を私が脳内で反芻したその時、男の体躯を消した時のような眩い光が闇を貫いた。

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