第3話 現れた男

 褥に腰を下ろし、筆を手に取る。仄かな灯りがぼんやりと部屋に広がる中、今日の記録を紙に綴り、私は灯りを消して褥に横たわった。手元にある勾玉が、鈍い光を放つ。

「私は……何を望んでるんだろう?何を忘れているの?」


 不意に数日前、彼岸へ送った者との会話が蘇った。

 

『遥か先の時代にいる妻に逢いたい……?』

 泉が揺れてしばらくして現れたのはこしらえを差した男性だった。私が尋ねるとその人は力強く頷く。


『ああ。一瞬でもいい。あいつに言わなければならないことがあるんだ』

『それは何……ですか?』

『俺は約束を守れなかった。また桜を見ようと約束したのに…戦で散ったんだ。だから謝りたい。あいつは約束通り俺を待ち続けていたからな』


 悲痛な面持ちで告げる男性に、私は胸が痛むのを感じた。話によると、その男性が言う妻は数百年後にいるとの事。男性が力尽きた時に居た神社は運良く時を経ても残っていて、『妻』が実際いる土地にあるらしい。女性は春になると毎回その神社に来るとの事だ。


『見かけた時、ひと目でわかった……あいつの名は琴葉という』

『琴葉さん……素敵な名前ですね』

『本当に芯の強い人だ。叶うことなら一緒にいたかったけどな。あいつにはあいつの幸せがあるだろう』


 目を細める男性の口調は柔らかく、女性を愛していたことが伝わってきて胸がじわりと暖かくなっていく。愛というのはこんなにも儚く美しいものなのだろうか。私は鈴を持ち、泉に手を翳した。一振すると清らかな鈴音に応えるよう、霧の中で黄金の粒子が空を揺蕩う。


『わかりました。その願い叶えましょう。数時間なら私の力は持つと思います』


 会わせる上に数時間と言う力的にもきついのは理解していた。だが男性は何百年も悔み、未練に縛られていたのだ。私は心底から救いたいと思い、行動した。男性のいう妻──琴葉さんの記憶は恐らくないだろう。彼女が憶えていなければ意味はないが、私にはきっと思い出すという確信があった。2人なら大丈夫だろう、と──

 

 あれから数時間後、未練が消え彼岸へと渡った男性を見る限り、無事彼女と再会できたのだろう。

「嬉しかった……けど」


 寂しかった。矛盾する感情を無理やりおさえつける。自分自身にも愛する人が居たような気がしてならないのだ。顔も性格も思い出せないが、焦がれる気持ちだけは心に在り続けている。歩澄は私がある者を救い、業績が認められたからこの神社に来たといっていたが、私にはそんな記憶は一切ない。恐らく神社に来た時に記憶を抹消されたのだろう。


 そこまで考えた時、脳に水が滴る音が響いた。雫が跳ねるような、そんな音が。褥から体を起こして境内を覗く。手水舎の音ではない。だとしたら泉からだろうか。くすんだ光を放つ勾玉を握る。恐る恐る障子を開けて歩澄が居ないことを確認すると私は回路にでた。


 大蛇のように纏わりつく冷気が充満している。否、霧……だろうか。視界が白く烟って、先が見えない。天を見ると夜闇に呑まれている。

「何……これ」


 闇の中、勾玉の光を頼りに神社の裏にある泉へ向かう。袖で鼻を覆い茂みを突き進むと霧に霞んだ侍の姿があった。不穏にギラつく血濡れた刀。充満する禍々しい濃霧に主張する真紅。


「何を、しているのですか?」


 声をかけると、男がゆっくりと振り向く。男の生気のない虚ろな目。歪な笑みを口端に浮かべた男は、そのまま独り言のように呟いた。


「ああ……ここが黄泉と現世を繋ぐ神社か……未練を払ってくれる。言い伝えは本当だったんだなぁ」


 狂気に満ちた乾いた笑い。一瞬怯みそうになるものの、私は毅然とした態度を貫いた。

「はい。ここが……」

 男はどんな未練があるのだろう。ここに現れたと言うことは男自身も何かあるという事だ。いつものように救うため、事情を聞こうと口を開きかけたその時。


「なあ、巫女さん。俺はな皆を斬らないと行けないんだ。斬らないと……人を斬らないと死ねない」

「斬る……誰を?」

「あ?城下町の皆をに決まってんだろ?」


 次の瞬間、男の口から発せられた言葉に思考が停止する。愉しむように戯言のような狂言を吐く男。今までとは明らかに違う雰囲気を纏う男を目にすると悪寒が走った。焦燥。憤怒。畏怖。恐怖。それらが一気に押し寄せ、体温を奪っていく。男の正体で思い当たるのはただ一つ──人斬りだ。


「詳しく教えてください」

「ああ、そうか……知らないのか。俺はみんながひれ伏す……無駄な命乞いをするのが愉しくてな。けどそれはもう終わったよ。用心棒に命を奪われたんだ。なあ、俺の願い叶えてくれんだろ?」

「っ……それは受け入れられません」


 声が震える。この男を未練から解放する為に行動したら、罪のない人が危機に脅かされる。それは避けなくてはならない。握り締めた勾玉が一層輝きを増してるのを尻目に、男を見すえる。多少眩暈を催しているのは瘴気と男の悪行を聞いて、衝撃を覚えたせいだろう。


「へぇ、ならお前自身を……やるしかないなぁ……!」


 甲高い笑いと共に男が豹変する。刀を振り上げ、途端に間合いを詰めた。風を薙ぐ音。霧さえも断ち切るようなその速度に足が竦む。全身に呪縛を掛けられたように身動きが取れない。目を瞑ろうとした刹那。突如、葉の音と一陣の風が真横で駆け抜けた。

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