第2話 不穏

 呆れと諦念が歩澄の瞳に燻っている。


「ええ、分かっています。貴女ならそういうだろうと思っていました。本当にお変わりないですね」

 眉尻を下げて歩澄が告げる。

「私が変わらない……?」

「はい。実に慈悲深く、私が聴いた話と照らし合わせても納得いきます。貴女だからこそあの時にが躊躇いなく出来たのだと」

「あの時……あの行動?」


 先程、断片的に脳に浮かんだ出来事を言っているのだとは思うが、一部始終が分からない。歩澄は全て知っているというのだろうか。訪ねようとして私はそのまま口を噤んだ。歩澄の横顔は悲痛に耐えるように憂いを帯びていて、とてもじゃないが聞ける雰囲気ではなかった。一抹の不安が私の胸に渦巻く。私は古に何があったのだろう。色々と疑問はあるが、私は素直に泉から離れることにした。


「歩澄は……本殿に戻らないの?」

「ええ。私はもう少しここに。気になることがあるので」


 一向に離れようとしない歩澄に疑問を抱いて訪ねると、案外すぐに答えが返ってきた。

茂みを抜けて離れの本殿へ戻る。途端に息苦しさから解放され、澄んだ冷気が身体中を巡った。朧月に照らされている本殿。手水舎の竹から滴る雫。漣のように広がり、揺れる水面。それらを眺めながら柄杓で神水を汲んで手にかけると、浄化されたように体が軽くなった。


「……水と相性がいいのかな?」


 思わず零れる声。歩澄が居ないことを確認して、私は再び手水舎を覗きこむ。あまり観察していると後から来た歩澄からお咎めを見舞いそうだ。


「今日は戻ろう」


 参道をぬけて丹塗の屋根の本殿に上がり、回路を渡る。神社全体を囲う回路は視界が開けていて、どの角度からも神社を見渡せるようになっている。時節吹き抜ける風が頬を撫で、髪を靡かせた。私が纏っている羽織に飾られている赤い紐は『幸福と純愛』を象徴しているのだとか。


「純愛……か」


 境内を見ると、夜闇が広がっている。灯篭はあるものの、狭い範囲にしか照らさず、ぼんやりとした影が点々とあった。その光景に得体の知れない何かが迫って来るような不穏な気配を感じ、思わず身震いした。

 そう言えば先程居た泉は何時もより瘴気が濃かった気がする。普段より息苦しさを感じたのは、気のせいでは無いかもしれない。歩澄は大丈夫だろうか。今心配して引き返した所で私に何かできる訳でも無い。悩んだ末、私は手水舎に向かった。竹筒に透き通った水を注ぎ、蓋を締める。この神水は浄化の力を持っている。役立つことは確かだろう。


 再び本殿内に戻り歩澄の部屋の前で待っていると、足音が近づいてきた。


「音羽様……?一体ここで何を?」

「今日の泉、瘴気が強かったから気になって大丈夫かなって……え?」


 竹筒を取り出そうと歩澄に視線を向けて咄嗟に声が漏れた。瘴気が充満している泉に居たというのに、何一つ黒い靄──邪気が付いていなかった。本来、玉響の時間でも死者を彼岸へ送る際に留まる泉にいれば、少なからず邪気がつき、体調や雰囲気に異変を来すはずなのに。


「ねぇ、泉に居たんだよね……?」

「はい。何か気になることでも──」


 そこまで言いかけて歩澄は口を噤んだ。私の疑問を汲み取ったのかもしれない。


「貴女の疑問は重々承知してします。私は少々瘴気や穢れに強い体質でして。ただ……それだけです。では貴女をお部屋に送りますね」


 微笑を浮かべ言葉を濁す歩澄は、それ以上は語ろうとしない。無言で回路を歩き、私の部屋の前で立ち止まる。そのまま歩澄と別れると思いきや、私が部屋に入る寸前に呼び止めた。月が雲隠れし始め、完全な闇と化す前に歩澄の背後を照らす。


「泉の瘴気が濃くなる時は必ず危機が訪れます。具体的な出来事は分かりませんが……それは時に残酷なものです。どうか心に留めておいて下さい、音羽様」

「どういうこと……?」


 一体何が起こるのだろう。起こる出来事が脅威のものだとは分かる。いつになく真剣な歩澄の声音に恐怖がじわりと胸の内を侵食していく。


「貴女に課せられた仕事は、貴女が思うように良い事ばかりでは無い、という事です。貴女は純粋で優し過ぎるのです」


 ため息混じりに言葉を零し、歩澄は袂から小さな青い勾玉を取り出した。丁寧に磨かれた艶のあるそれを私の手に置く。

「音羽様、これを。肌身離さず持っていて下さい……私が気づくように。何かあれば御守りします」


 踵を返し、奥へと姿を消す歩澄。残された私は勾玉を見つめた。勾玉は不思議な力が宿るとされ、魔除けや厄除け……といった呪的な意味を以ている。これがどう歩澄に関係してくるのだろうか。ふと、海の香りが風と共に流れてきた。時折この神社は海の香が漂うことがある。勿論近くに海などはないし、泉もそんな香りはしない。


 柵に身を乗り出し、境内を見渡す。闇に浮かぶ灯り。微かに残響する手水舎に流れる水音は、時を刻む唄のようだ。私はもう一度境内を一瞥して障子を開いた。

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