人に与えられた肉体

和泉茉樹

人に与えられた肉体

八月二十三日


 来るべき任務のために、手術を受けた。

 体を丸ごと交換するとなると、大手術になるはずが、非外科手術だった。

 生身の脳と肉体を一度、切り離しての脳のスキャニングが大半だ。私は「眠って」いるだけだし、医療技師も自動化された装置が処理していくのを眺めているだけだっただろう。

 早朝から手術は始まり、夕方には終わった。

 目を覚ました私は、自分自身の掌を見る。

 何の変哲も無い、生身の肉体だ。

 拳を作り、開いて、また握る。

 動きはスムーズで、違和感は無い。

 測定装置に囲まれた寝台から、足をゆっくりと床へ下ろした。

 足裏が床に直接に触れ、ひんやりとした温度が伝わってきた。スリッパを履けば、肌触りの良い布の感触。

 なるほど、よくできている。

 両足で立ってもふらつくことすら無い。まるで体を置き換えたとは思えない自然さ。

 最初からの自分の肉体であるようだ。

 足を踏み出し、私は病室にある姿見の前に立った。

 これが新しい私だと思うと、不思議だった。前の肉体とは面影が共通しているが、髪型はまるで違う。短かったのが今は長く、黒髪の先が入院着の肩に触れている。

 姿勢を変えて、体を念入りに確認していると、扉がノックされた。

「はい、どうぞ」

 入ってきたのは若い看護師だ。

 世間では外見的な年齢と実際的な年齢の乖離は激しい。ただ、さすがに百歳の老人が二十歳の肉体を使うような、極端な差を作ることは法律で禁止された。外見適正ゾーンなどと呼ばれる範囲でしか、外見は取り繕えない。

 その法律に照らし合わせれば、看護師の実際年齢は二十歳から三十歳程度か。

「お加減は良さそうですね」

 慌てているようではないから、私の肉体に、私の気づいていない不具合がある、ということはない。

 看護師はいくつかの確認をして、腰に下げている小型の測定装置で私の新しい体のチェックした。そのうちに白衣を着た初老の男性がやってきて、人工的な笑みを見せた。一世代前の代替肉体に特有の、完璧ではない表情制御である。

 看護師が出て行くと、私は寝台に腰掛け、医者は立ったまま話し始めた。

「肉体は計画通り、完全に置き換えられた。脳だけはこちらで保存してある。脳情報の転写は完璧なはずだ。不具合があれば二日か三日のうちに、手足のしびれや吐き気、目眩などが起こる」

 そんな不具合など起きて欲しくはないが、とにかく、私はこれで一つのハードルをクリアした。

「新しい肉体はどうだね」

 不意に医者が真面目な顔で言ったので、私は思案し始めていたことから離れ、彼の顔をまっすぐに見た。

「どういう意味ですか」

「しっくりくるかな、その肉体は」

「ええ、事前のお話の通り、まったく、自然です」

 そうか、と医者が例の強張っているような笑みを見せる。

「こういう仕事をしていると、肉体というものが唯一無二ではなく、いくらでもデザインできることが、どこか恐ろしくもなる。新しい肉体という器が受け入れられないのだな」

「私もですよ、先生」

 微笑みを返したが、果たしてそれがどういう笑みか、私自身にもすぐにはわからなかった。

 新しい私は、どう笑うのだろう。

 医者は無言で頷き、作りものである笑みを少し深めた。

 それは少し、不気味だった。



八月二十五日


 作戦担当官が会いに来た時、私は古着屋で調達したという服を試着していて、病室の姿見の前に立っていた。

 十年ほど前に流行った古風な服で、開襟シャツは襟が大きく、スカートの裾は短く、細かなプリーツになっている。ちょうどストライプ柄のネクタイを手に取ったところでドアがノックされた。

 返事をすると、背広で禿頭の男性が入ってくる。手には花束を持っていた。

 彼はその花束を寝台に放ると、すぐに話し始めた。

「ペルーシャ神聖王国への潜入に必要な書類は用意できている。もちろん、書類などいくらでも偽造できるし、それは我々の性質上、相手も警戒しているだろう」

「ペルーシャの情報機関は優秀ですしね」

 手渡してくる書類を受け取る私の指は、年相応に細い。

 実年齢は二十代後半だが、今の肉体はおおよそ十八歳に設定されている。わずかに法律に抵触するが、情報部の一員であるため、逮捕されることもないし、告発されることもない。

 いつの間にかどこの国でも、諜報組織というものがあり、内に対しても大きな顔をするようになった。

「国際線の民間旅客機でペルーシャの首都にあるウルズ空港までは行けるが、入国審査がある。そこが最大の関門だ」

「ええ、わかっています。そのためにこうして、体を変えたわけですから」

 肉体を変える手術の後、例の医師が危惧した身体の不調はなかった。私の肉体は万全に機能し、脳機能にも問題はないということだ。

「おそらく彼らもきみの肉体については見抜けないだろう」

 無言で頷く私に、彼も頷くだけ。何かを警戒しているそぶり。

 この病院は私の属する組織の御用達で、万全の防諜対策が施されている。盗聴どころか、入館したものは顔認証その他の個人情報の照合がリアルタイムで行われ、前科のあるもの、他国の情報機関と関係のあるもの、フリージャーナリストなどは、館内での追跡を受ける。館内各所に仕込まれた隠しマイクが彼らの言葉を逐一、録音することもある。

「入国さえすれば、それほど困難な任務ではない」

 男が低い声で言う。

「愚かな四半世紀以上前からの宗教紛争もあって、首都機能もかろうじて維持されているだけだ。その代わり、暴力が意味を持つ」

 私が黙っているからだろう、彼は口を一度、閉じるとちょっと顔を歪めた。

「つまらぬ私見だったな」

 その一言が謝罪だったのか、誤魔化しだったのか、冗談だったのかは、私にはよくわからなかった。

 どこまでいっても人間の言葉は、感情を十全に表現し、少しの誤差もなく他人にそれを伝達するのは不可能だ。

 男が帰ってから、何度か受け取った書類を確認した。

 これがあれが、ペルーシャへ入国する書類審査は通過できる。

 さて、次はどうなるだろう。



八月三十一日


 私は飛行機に乗ってヒマラヤ山脈を東から西へ超えていくところだったが、窓の外は見えない。夜でもあった。

 旅客機の中は静まり返っている。明かりは小さく、大半の乗客は眠っている。私の手元にもキャビンアテンダントから受け取った毛布があった。

 シートに体を預けていても、どこか落ち着かない。

 緊張しているのかもしれない。

 世界でも有数の紛争地帯に潜入する、というこれから自分が行う作戦よりも、ペルーシャの空港での肉体検査が気になる。

 ペルーシャ神聖王国は古くからある三大宗教のうちの一つを、より先鋭化させた国で、様々なことが教義に反するとして徹底的に弾圧されている。この時代において女性に対する差別が是とされる、後進的な発想さえまかり通っていた。

 私は女性の肉体に入っているため、それだけでもハードルが高い。飛行機を降りてからは教義に則り、肌の露出を最小限にすることになるだろう。そして持ち物も限られる。

 ただ、それよりも大きなハードルとなるのが、人造の肉体に脳を移し替えている、ということにある。

 ペルーシャの国教の定めるところでは、神に与られた肉体を捨てることは許されず、人は神の作りたもうた肉体によってのみ存在を許される、とされている。

 そのため、ペルーシャでは人造の機械や有機物の義手や義足が認められず、人造臓器などは当然のように禁忌だ。

 これは国外からの入国者の大半が拒絶されるという問題以前に、国内において救えるはずの命が救われず、義肢がないために不自由な生活をするものが、数多く存在することを意味していた。

 地球規模では平均寿命は九十歳を超えているにも関わらず、ペルーシャは最低のさらに下を行く医療水準と、終わらない激しい内戦で、平均寿命は五十に達するかどうかである。

 はっきり言って、国を運営しているものは狂気に支配されている。

 そんな国を変えるための一石が、私の任務だった。

 旅客機はあと数時間でウルズ空港に降りる。

 緊張を意識しないように、毛布を首元まで引き上げ、目を閉じた。

 この体に入ってから、不思議とまぶたの裏にかすかな明暗が浮かぶようになり、それを見ていると、不安になり、落ち着くのだった。

 そういう矛盾こそが、肉体というものの原理なんだろうか。



九月一日


 ウルズ空港で、空港職員も兼ねる兵士に別室に連れて行かれた。

 彼らは自分たちの言語以外を知らないので、自動翻訳装置を使ってやりとりした。

 書類に不備はないが、念のために肉体を確認する。そのために一日、拘束する。それが不当と思うのであれば、このまま帰国してもらう。発生する費用はあなたが負担する。

 私は無言で頷いた。国際情勢の研究目的で入国する大学生という身分なので、緊張し、怯えていると演出したほうがいい。

 空港併設な粗末なホテルに部屋を与えられたが、そこへ入る前に検体を大量に採られた。唾液、血液、尿と毛髪、皮膚片、爪といったものまで採取された。血液は片腕だけではなく、もう一方の腕からも採血されたし、足からも採血する念の入りようだった。爪も手足のそれ、皮膚片も体の各所からいくつも採取されていた。

 それらを一晩かけて、彼らは念入りに調べるのだ。

 危険なのは、相手にこちらの肉体の秘密が露見し、泳がされることだった。

 緊張の一夜が明け、早朝、再び空港に出向くと、提出していた書類が返却された。

 昔ながらの手帳型のパスポートにスタンプが押される。今ではどの国でも電子パスポートだが、一部の旅行客を喜ばせるために、この手のスタンプもまだ生きている。

 この紛争地帯に好んで観光客が来るとも思えないが。

 良い旅を、と笑顔で見送られ、私は全身を黒い布で覆って、トランクを手に表に出た。すぐに男たちが駆け寄ってきて、宿がどうこう、車がどうこう、荷物を持ってやる、などと口々に言う。私はトランクを抱えて、足早に彼らの間を突っ切った。

 事前に設定していた安宿に入り、与えられた部屋でやっと息苦しい服を緩めることができた。

 空港では、私の肉体は生身と判断されたのだろう。

 この、脳情報移植型代替身体は、彼らからすればどういう位置付けになるのか、私は少し考えた。

 機械部品も人造臓器もない、純粋な生身で、唯一の肉体だが、頭の中は別人だ。

 私という意識、私という自我は、本来的な肉体を捨てている。

 仮初めの肉体ということは、やはりこの国で優先される教義とは、相反するだろう。

 私は軋む窓を開けた。

 吹き込む砂混じりの熱風を感じているのは、私の肉体だ。

 しかし、その風に異国の匂いを感じているのは、私自身だろう。

 でも、どこからどこまでが私の認識なのかは、何も教えてくれなかった。



(了)

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人に与えられた肉体 和泉茉樹 @idumimaki

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