第20話 一緒に逃げてください

喫茶店だろうが路地裏だろうが、どこか異国の街角だろうが、どこへ行っても同じことだ。この世界にはあたしとこの人しかいないんだから。どこへ行っても同じなはずなのに、どうしてあたしは世界の隅から隅まで、この人と一緒に行ってみたい心地がするのだろう。

あたしの世界はいつの間にか、あたしの描いたその人との思い出でいっぱいになっている。中学校の美術室を描かなくてよかった、とあたしはひとりごちた。

「あんたの描いた絵は、これで全部だね」

その人が穏やかにそう言うのを聞いて、ずいぶんたくさん描いたんだなと他人事のように思った。あたしは本当にずいぶんたくさん描いたけれど、そのどれもこれも、先生には届いていなかった。

「どうする?」

先生はこの景色を見たら、なんて言うんだろうか。絵、上手になったね、とかかな。

「少し、一人にしてもらえませんか」

彼女は、じゃああんたの部屋にいるね、と言ってあたしの前からいなくなる。考える時間が欲しくてそう言ったのに、あたしはその人の背中から目を離すことができない。あたしはあの花畑を出てからずっと、細心の注意を払ってこの人のそばにいた。ほんの少し、何か一つでも間違えたら、全ての答えがぼろぼろとこぼれ落ちてしまいそうだった。

先生を忘れるのが許されないような気がすると思っていたけれど、違うと分かった。あたしはただ、変わるのが怖いのだ。得体の知れないあの人に惹かれることで、先生を好きだったあたしがいなくなり、あの人の手によって、あたしという人間が内側から作り替えられていくのが怖いのだ。

あたしは無意識に自分の首の後ろ側に触れる。もう誰もあたしの背骨を掴んではいない。先生は本当にいなくなってしまったんだと思う。本当に、一体誰があたしを許さないんだろうか。

あたしは気がつくとまたあの海岸にいる。あの人は、やっぱりあたしの作り上げた、あたしの想像の中の人間なのだろうか。あんなに緻密で、あんなに鮮やかなのに?ここはある種の現実であると彼女は言っていたけれど、そんなことがありうるだろうか。靴を脱いで裸足になって海に入ると、足先が海水に触れて冷たくなった。本当に、気が狂ったんだろうか。でも、気が狂ったままでいられるなら、それならそれでいいような気もする。海に触れた指先を舐めると、潮の味がした。おかしなことだと思う。あの日からずっとおかしなことしか起こっていない。

じゃぶじゃぶと目の前の海水をかき回していると、目の前に広がる景色の全てが、ほんの一瞬ぐらっと揺らいだ。ラジオを聴いていたら違う電波が混線してきたときみたいな、奇妙な世界の揺らぎだった。潮の匂いがほんの一瞬絵の具の匂いにすり替わって、またすぐに元に戻った。

一体今のはなんだろう。胸騒ぎを感じて海から上がると、遠くから彼女がやってくるのが見えた。

「ねえ」

彼女は珍しく息が上がっていた。複雑な表情をしているのは相変わらずだけれど、今はそれ以上になんだか焦っているようだった。あたしはさっきの景色のことを考えていた。彼女をあたしが描いたのだとしたら、あの海に起こったようなことが、彼女にも、さっきの一瞬の間、起こったのではないだろうか。

「あんたの絵、全部あんたの部屋にあるの?」

「いいえ?どうかしたんですか?」

彼女の表情は深刻そのものだった。来た方向を一瞥してから、小さな声で、でもあたしに届くような声で言った。

「誰かが、あんたの世界を壊してる」

あたしはその言葉の意味を理解した時、ほとんど無意識に、彼女の手を取っていた。描いた絵のうちのどれかがなくなった。それがどういう意味を持つのか、考えなくても何となくわかってしまった。

「あたしの部屋の、あの絵ですか?」

「うん」

「じゃあきっと、ここなら大丈夫です、この絵は石崎先生が持ってるはずだから」

あたしはそう言った。その言葉を聞いてもなお、彼女は不安そうだった。他の絵もそうなったら、この人はどうなるんだろう。それからあたしは。ううん、あたしはどうでもいいけれど、もしこの人が目の前から消えてしまったらどうしよう。あの日の美術室がふと思い起こされた。この人のことを失いたくないと、はっきり思った。はっきり思った瞬間に、ずっと喉の奥で留めておいたはずの言葉が、口の隙間からこぼれ落ちてしまった。

「好きです」

彼女が虚を突かれたように、え、と息を漏らすのが聞こえた。一度口に出して仕舞えば、それは疑いようもなく確かな感情だった。こんなときに言うべきじゃなかったかもしれないと思ったけれど、こんなときでなければあたしは一生言えなかったかもしれない。そうやってずっと誤魔化して、だからあの時先生のことも守れなかった。もう二度とあんな思いはしたくない。

あたしは彼女の手を握る力を強めて、もう一度口を開いた。

「あたしと一緒に逃げてください」

水彩画で描いたはずの彼女の目はわずかに潤んで見えた。複雑な感情を湛えた瞳が一瞬閉じて、また開いた。彼女はそっと頷いた。逃げられる場所は限られていて、あたしたちには打つ手がほとんどないけれど、だけどどうしても彼女のそばにいたかった。

もうこの人が誰でもいい、人間じゃなくてもいい。あたしは気が狂っていると思われたっていい。この先どうなっても構わない。

「全部なくなったら、どうするの」

答えようとしたあたしの鼻を煙の匂いがついた。見るとあたしの部屋に続いていたはずのドアが燃えている。全部なくなったら、この人もいなくなったら、あたしはこのドアと同じになる。そういう予感を抱えたまま、あたしは曖昧に笑った。絵も人間も燃やせば灰になって戻らない。それはこの人を好きなあたしにとっては、慰めであるように思えてならなかった。

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