第19話 誰があんたを許さないの?

電車が止まった。電光掲示板は動いていないし、駅のホームに看板はなかったから、あたしにはここがどこかわからない。

「行こうか」

あたしの手を取ったまま、その人は立ち上がった。あたしもつられて立ち上がり、電車から降りた。ここはどこなんだろう。ホームに降り立つと、ふわりと花の香りがした。

手を引かれてたどり着いた先は花畑だった。そういえばこんな景色も描いた、とぼんやり思い出した。あたしは本当にたくさんの絵をあの人のために描いていたんだと、他人事のように思った。

「綺麗な場所だよね、ここ」

描くの大変だったでしょ、と彼女が言った。大変だったような気もするけど、必死だったからよく覚えていない。

「あんた、なんかぼーっとしてるね。疲れちゃった?」

「いえ、そんなことは……」

「眠ってもいいんだよ、ここで」

水彩絵具で描かれた瞳があたしに向かって細められるのを見て、また目を逸らす。眠ったら、あたしは先生のことをまた忘れてしまうような気がした。眠らなくても、もうこんなに遠いのに。

「憎んでるんですよね、あたしのこと」

花畑にはほとんど風がなかった。時折吹いてくるそよ風が芳しい匂いを孕んでは、あたしの前髪を僅かに揺らした。

「うん?」

「あたしが描かなきゃ、苦しまずに済んだって言ってたじゃないですか」

「ああ。うん。言ったね。生み出されなければ、私に意識が芽生えなければ、こんなに苦しい思いをせずに済んだ。私のあらゆる苦しみの根源を辿れば、それは生まれた瞬間に始まっているし、だから全部あんたのせいだね、穂花さん」

穏やかに笑いながら彼女は言った。

「じゃあどうして、あたしのことを……」

「好きって言うのかって?あんた、何にも分かってないんだね」

どうしてわからないんだろう。あたしが描いたはずなのに。

「私はね、穂花さんのことが好きだから、穂花さんのことが憎いんだよ」

どうしてこの人はこんなにまっすぐで、少しの躊躇いもなくそんなことが言えるんだろう。あたしはまた、その人の身体と背景の間のあたりをじっと見て、そういえばここには季節がありませんね、と言った。

「あんたはいつもそうやって話を逸らして逃げるよね」

「え」

視線を上げると、またその人は怒っているのか泣き出しそうなのかわからない複雑な顔をしている。先生がこんな顔をしていたことがあっただろうか。

「あの女の時もそうだった?」

そうだった、とあたしは回顧する。悟られるのが怖くて、嘘をついた。あの時の自分の心のうちは手にとるように確かなのに、先生がどんな顔をしていたか、少しも思い出すことができないのはどうしてだろう。

「穂花さん、私はね、穂花さんが絵を描くのが少しも好きじゃないって知ってるんだ。あの日美術室にいたのがあの女じゃなくて私だったら、どうなっていただろうね?」


──じゃあ須藤さんは、どうして毎日ここへ来るの?

刹那、あたしの眼裏にあの日の美術室が蘇る。絵の具の匂いも空気の温度も明るさもあの日のままなのに、目の前にいる女性だけが、綺麗にすり替わってしまっている。

「迷惑ならやめます」

「迷惑なんて言ってないよ。でもつまんないでしょ」

先生はそんなこと言ってただろうか?

「そんなことありません」

「じゃあ、穂花さんは私といて楽しい?」

その人の目がまっすぐにあたしを貫く。あたしはそれを見ながら、違う、と思う。こんな風ではなかった。でもどんな風だっただろう。

「絵が、好きなので」

誤魔化すように立ち上がって出て行こうとするあたしの腕を、その人が掴む。

「嘘つき」

身を捩って振り解こうとするけれど、離してもらえない。先生がどんどん遠くなる。あたしは苦しくてたまらない。

「嘘じゃありません」

「じゃあ、自分で自分が分かってないんだ。教えてあげようか。あんたは私に会いに来てるんだよ。本当は昼夜問わず会いたくてたまらないくらい私に夢中だけど、誤魔化してるんだ。それは私が教師であんたが生徒だからかもしれないし、私が女であんたも女だからかもしれないし、あるいは私が……」

「やめてください」

うわずった声でそう言った瞬間に、あの美術室が遠ざかって、あたしはまたもとの花畑にいる。

「あるいは私が人間じゃないからかもね」

その人が寂しそうに言った。あたしは塗り替えられた記憶を前に泣き出しそうになっていた。あの日、本当は何を話したのか、先生はどんな顔をしていたのか、あたしはもう少しも思い出すことができなくなってしまった。

「……忘れたくないんです、あたしは」

絞り出すようにそう言った。

「どうして?」

優しい声だった。

「許されないと思うから」

彼女の眉毛がピクリと動くのが見えた。なんとなく、苛立っている感じがした。

「誰があんたを許さないの?」

誰だろうか。わからなかった。わからないけれどあたしは許されない気がするのだ。先生のことを忘れて、先生にそっくりな彼女を好きだと認めるのは、なんだかひどく冒涜的なことのように思えて仕方がない。だいたいこの人は、あたしが描いたんじゃないのか。だとしたらあたしは自分が描いたものに感情を掻き乱されているだけで、すべて虚しい自己完結に過ぎないのではないだろうか。

でもそうならどうして、この人はこんなにあたしと違うんだろう。

「忘れたいとか忘れたくないとか関係なく、あんたはいつか忘れるし、それは別に悪いことじゃないよ」

彼女はあたしを慰めようとしているのだろうか。この人は結局あたしの何なのだろう。本当にあたしの頭の中の人なんだろうか。

「だいたいあの記憶だって、どのくらい正しい記憶なのかわからない。ずっとそう言ってたでしょ、穂花さん」

「……あなたは、絵ですよね、それでここは絵の中」

確認するようにあたしは尋ねる。

「だったら何?」

「あたしがあなたを描いたなら、どうしてあなたはあたしみたいじゃないんだろうって思っただけです」

彼女は花畑を振り返り、あたしに背を向けたまま話し始めた。

「描いてる間、穂花さんはいつも、思い通りに描けないって嘆いてるよね」

「そうですけど……」

それが何だって言うんだろう、と思っているあたしをよそに、その人は言葉を続ける。

「絵を描かない人間はさ、あんたの絵を見て思い通りに描けてうらやましいとか、絵ばっか描いて現実から逃げてるとか言うけど、私はあんたの頭の中とこの景色との間には、まだ齟齬があると思うんだ。っていうより、どんなに上手くなっても頭の中と描き出された景色が完全に一致することはないと思うんだよね。現実の絵は古びるけど、頭の中の景色はいつまでも鮮やかなままだしさ。そういう意味では、屁理屈かもしれないけど、絵っていうのは頭の中じゃなくて外にあって、ここはもう一つの現実なんじゃないかと思うんだ」

強い風が吹いて、花びらがいくつも巻き上げられた。黒いワンピースの裾を揺らしながら、その人が振り返って笑った。

「ここはあんたの虚しい自己完結の世界でもないし、私はもう一人のあんたじゃない。だから安心してよ」

あたしはその景色を前に立ち尽くして、こんなに緻密に描くべきではなかった、とまた考えている。本当に、こんなに緻密に描くべきではなかった。この花畑も、この人のことも。あたしが好きでもない絵を描き始めたのは、先生を忘れないためだったはずなのに。

どんどん朧げに遠くなっていく先生のことを、だけどもう悲しいとも思えなくなってきている。目の前の彼女の言葉や笑顔に、あたしはどんどん絡め取られていく。

「疲れたでしょ?横になりなよ、気持ちいいから」

曖昧に頷いて、花と花の間に寝っ転がると、花びらの間から陽光がさしているのが見えた。この絵を描いた時は、こうやって寝そべったらこんな景色が見えるなんて少しも考えていなかった。


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