第11話 邪魔しないでください

チャイムを鳴らしても、須藤は出てこなかった。

家にいないはずがない。さっき魅入られたような表情でここへ入っていくのを俺は見た。

あの時、黒板にあの女性がいるのを見た時、須藤は動揺しているように見えたし、怖がっているようにも見えた。でも同時に瞳に妙な光が宿ってもいた。

どうするべきだろうか。俺は玄関先で二の足を踏んでいた。常識的に考えたら、別に何も危ないことなんてないはずだ。家に帰っただけなのだから。本当に家に帰っただけなのだとすればの話だが。

何かが起こっている。でもそれが何なのか俺にはわからない。俺は須藤に背景を描かせるべきではなかったのかもしれない。もう一度チャイムを鳴らした。

「須藤さん、いるんですよね?」

反応はない。ノブに手をかけると、鍵がかかっていなかった。俺は躊躇ってから、ドアを開けて中へ入った。電気はついていなかった。薄暗い玄関で、俺はもう一度声をかけた。

「須藤さん?いるなら返事を…」

「ダメですよ。勝手に入ってきたら」

声がした方を振り返ると、あの女性が立っていた。陶器のような肌と片えくぼで、こちらに微笑みかけている。固まり切った絵の具のような目線だった。

「あなたは……」

「いま、描いてるんです。邪魔しないでくださいね」

「何なんですか、あなたは」

「…よくわからないんです」

女性は虚ろにこちらを見てそう言った。目の焦点が合っていない。

「よくわからないけど、邪魔しないでください」

「須藤は何を描いているんですか」

邪魔しないでください、彼女はそう繰り返すだけだった。壊れかけの人形みたいだと俺は思った。こちらに話しかけているのに、意識がどこか遠くにあるみたいな話し方だ。腕に血管が浮かび上がっていて、その肩は呼吸するたび上下するのに、どうしても人間のようには思えなかった。

「須藤はどこにいるんですか」

女性は黙って首を横に振るだけだった。俺は無理矢理家の中に上がり込もうとした。

「邪魔、しないでください」

女性が私の前に立ち塞がった。俺は無言で彼女の肩を掴んで押しのけようとして、その妙な感触に狼狽えた。名状し難い違和感があった。人間の肩の形をしているのに、およそ人間の肩に触れた時とは思えない違和感が指先を滑り、俺は反射的に彼女を突き飛ばしていた。

「あっ…」

彼女の体はそのまま弧を描いて、頭から床に落ちた。そんなに強い力をかけたつもりはなかった。鈍い音がしたと思うと、床に転がった彼女がゆっくり目を開けて、何でも無いような顔で起き上がって言った。

「まだ、描けてないんです」

「……誰が、何をですか」

「須藤さんが、私を」

「何を言ってるんですか?」

「でも大丈夫、もう少しですから」

何がだろうか。薄暗い玄関の中で、彼女の体は暮れかかった夕暮れに照らされていた。

「……海に、行きましたよね」

俺は須藤の絵のことを思い出して、そんなことを口走っていた。馬鹿げたことを言ったと思った。そんなはずがないのに。

「ああ。はい。綺麗でした」

女性はそう言って笑った。背筋を汗が伝っていくのがわかった。俺はまた言葉を続けた。

「そのあと、電車に乗りましたよね」

「はい。なんていう駅だったか忘れちゃいましたけど」

馬鹿な。そんなことあるはずがない。この女は俺をからかっているに違いない。

「路地裏で、野良猫を撫でていたのも、喫茶店にいたのも、覚えてるんですか」

「自分のことですから、覚えていますよ」

ちぐはぐだった彼女の目の焦点が、俺に合わせられたのがわかった。それは妙な感覚だった。定型文を繰り返すだけのロボットが流暢に話し始めたかのような猛烈な違和感。でもその違和感もすぐに消えてしまった。

「あの猫、可愛かったなぁ」

ごくごく自然な笑顔だった。あまりにも自然だったから、俺は先刻の出来事を忘れてしまうところだった。彼女の輪郭がどんどん人間らしく、現実味を帯びていくのがわかった。何が起こっているんだろう?

「描けたみたい」

彼女が家の奥をチラッと見てからそう言った。

「もう、いいですよ。穂花さんに会いに来たんでしょう?」

「……ええ」

「上の部屋にいるんです。呼んできますね」

おかしいと思っているのに、俺は彼女に納得させられてしまっていた。おかしいことなんて何もないと、その髪が、体が、瞳が物語っていた。おかしいことなんてなにもなかった。彼女は俺を玄関に残したまま、家の奥へと消えていった。

「穂花さん?先生が来てるよ」

気を許し切った声だ、と思った。およそ先生と生徒とは思えない。俺は何をするためにここに来たのか、わからなくなっていた。

「穂花さーん」

暗い玄関には声だけが届いた。なぜ俺はここに来たんだろう。しばらくすると、静かな足音とともに、申し訳なさそうな顔をした彼女が降りてきた。

「ごめんなさい、疲れて眠っちゃったみたい」

「……そうですか」

「何か用事でした?伝言があるなら私が……」

頭にモヤがかかったみたいだった。なぜ須藤への言伝をこの人に?そもそも俺は、伝言があって須藤の家に来たんだったか?違っただろう、違ったはずだ。でもじゃあ、何のために来たんだったか。

「いえ、いいんです。あなたは、えっと…」

「穂花さんに聞いてください」

「は?」

「私のことでしょう?穂花さんに聞いてください」

それ以外にどうしようもない、とでも言いたげな笑顔だった。俺は彼女に礼を言って、学校へ戻った。

明日、須藤にあの人のことを訊いてみよう。彼女がそう言ったのだから、きっと須藤なら知っているはずだ。俺は準備室にあった須藤の絵を改めた。どうしてあのとき、須藤を追いかけて家まで行ったんだろうか。先刻まで何か恐ろしいことが起こっているような気がしていたあれは一体なんだったんだろう。

須藤は風景画ばかりを描く。それも妙に寂しい、まるでついさっきまで誰かがその場にいたかのような気配が漂う絵ばかりを。砂浜には足跡が残っているし、喫茶店のアイスコーヒーのグラスは飲みかけだ。

おれはどうして、しばらく絵は描かない方がいいと彼女に言ったのだろう。何が起こるかわからないから、と言った気がする。でも何が?どんな種類のことが起こると思ったのだろう。

俺は誰もいない砂浜の絵をじっと見つめてみたけれど、何一つ思い出せなかった。ただ何かを忘れてしまったという感覚だけが、妙にはっきりとあった。


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