第10話 あなたが描いたんですか

「この人は誰なんでしょうね」


 ──どうでもいいな。

 石崎先生の問いが耳に飛び込んできたけれど、あたしが真っ先に思ったのはそれだけだった。どうでもいいな。このひとが誰かとか、先生が死んでしまっているとか、そんなのどうでもいい。少しも重要じゃない。問題はあたしがこの人に捕まってもうどうしようもないってことだけ。

「先生が死んでいたら、何か変わるんですか」

 石崎先生はおそらくあたしをわかっていないんだろう。この人が本当は誰なのかとか、向こうへ行ったら二度と戻れないかもしれないとか、そんなことは今までに何度も考えたことだ。とっくの昔にどうでも良くなっている。

「だから、そもそもこの人はあなたの言っていた美術教師じゃない可能性が高いでしょう」

「それは前も言いましたよね。先生かどうかはわからない、でも好きだって」

「会ったこともないかもしれないのに?そもそも人間かどうかもわからない。ただの現象かも」

「現象?」

「私たちが知ってるのは、彼女が絵から絵へと移動するってだけでしょう」

「じゃあ、あたしは現象に恋をしてるのかも」

 呟くようにそう言った。石崎先生は言葉を切って黙り込んだ。呆れられたのかもしれない。ため息が聞こえた。

「須藤さん、もうやめませんか。ただの絵でしょう」

 ただの絵。いつだったかそう言って石崎先生に怒られたような気がする。

「ただの絵だって言うなら、なおさらあたしをここに描いてくれてもいいじゃないですか。ただの絵なんでしょ?」

 石崎先生はまた黙り込んでしまった。あたしはこれがただの絵でもないし、現象でもないと思う。きっと石崎先生も、本当は同じことを思っているはずだ。大人たちはしばしば、思っているのとは違うことを言ってその場をやり過ごそうとする。これが単に絵から絵へ移動していく現象だったとして、じゃああの時美術室で見たあれはなんと説明したらいいんだろう。

「何が起こってるのかわからないのに、その渦中に単身で乗り込むのは賢くないですよ」

 この美術教師はいつも賢明なことを言う。べつにあたしは、あたしの賢さを証明するために生きてる訳じゃないのに。馬鹿みたいな選択をして馬鹿みたいに死んでも、あたしはあたしの人生を愛せるだけの自信があるのに。

「仕組みがわかるまでは描けませんし、新しい絵を描くのもやめておきましょう。危険ですから」

 それだけ言って、石崎先生はあたしを帰るように促した。正しくて安全な判断だと思ったけど、私は正しくありたいわけでも安全に生きたいわけでもなかった。ただあの人に会いたい。先生がもういないなら、ぐちゃぐちゃになったあたしの後悔も恋慕も執着も、ほどけるのはあの人しかいない。

 だからあたしは描くのをやめなかった。自分の絵の具と絵筆を持ち帰って、家で絵を描いた。もっと緻密に、もっと正確に、もっと詳しく。いつか世界の全てをここに描こう。あの人がもう寂しくないように。

 あたしには、もうあまり時間がないだろうという予感があった。何に対する時間がかはわからないけど、とにかくそんな予感がしていた。だから急いでいたのだ。そしてその予感は、絵を書き上げるたびに募っていくようだった。描けば描くほど後悔が上塗りされていくのに、あたしは描くのをやめられなかった。いつだったか苦しそうに先生が絵を描いていたのを思い出した。泥沼、とあたしは思った。先生は絵を描くのを止めて欲しかったのかもしれない。石崎先生はどうして、あたしから何もかも取り上げてくれなかったのだろう。そうすればあたしはそれ以上絵を描けなくなるのに。

 そんな恨言を心の中で唱えてみても、心の奥底ではそんなの無意味だとわかっていた。取り上げられたら取り上げられたで、あたしはなんとかお金をかき集めて画材を揃えるに決まっている。どうしてだろうか?好きだから?後悔してるから?もう戻れないから?ただの現象かもしれないとわかった今でも、あたしは絵の中のあの人を見るたび胸の奥の方が苦しくなって、何もかも捧げてしまいたくなる。


 もうすっかり冬になった頃、石崎先生はあたしを美術準備室に呼び出した。石崎先生はあたしが準備室のドアを開けるなり、無人になった絵をあたしに差し出した。

「描いてますよね、須藤さん」

 あたしはゆっくり頷き、まっすぐに石崎先生を見た。

「どうして。言ったでしょう、危ないからやめなさいって」

 先生の声色は怒っているようでもあり、また心配しているようでもあった。

「なにがどう危ないんですか」

「それがわからないから危ないって言ってるんです」

 黙って目を伏せると、無人だったはずの絵のなかにあの人がいた。こちらへ向かって手を振っている。

 石崎先生がもっともらしいことを言っているのが聞こえていたけれど、あたしの視線はあの人に釘付けになっていた。この人は、やっぱりただの現象なんかじゃない。あたしに何かを伝えようとしている。でもそれが何かわからない。耳から聞こえてくる声がうるさくて、思考がまとまらない。

「とにかく、何が起こってるかわかるまでは──」

「それ、前も聞きました」

 口をついてでた言葉は、自分が思っていたより刺々しい響きを持っていた。

「何か、わかったんですか?石崎先生はこのまま有耶無耶うやむやにしてあたしのこともあたしの絵のこともこの人のことも、なかったことにしようとしてたんじゃないですか?」

「そんなこと──」

「じゃあ、どうしてもっと早く気がつかなかったんですか?あたしが描いてるって。あれからもう何枚も描きました。石崎先生は他人だから、このままあたしが一生絵を描かなければ何も見なかったことにできると思ったんじゃないですか?」

 それだけ言って、あたしは美術準備室をでて行った。あの人の存在を無かったことになんて、そんなの絶対にさせない。あたしはそのためだけに描いているんだから。


 準備室のドアは直接美術室へと続いている。バタンと扉を閉めると、美術室には誰もいなかった。思っていたよりも長い説教だったらしい。

 不意に視界の隅に違和感を感じて黒板を見上げて、あたしは息を呑んだ。


 黒板にはあの人がいた。長い髪に白い肌と、片えくぼ。呆然として立ち尽くしていると、石崎先生があたしを追って美術室へ入ってきた。

「…あなたが描いたんですか」

 あたしは首を振り、美術室を飛び出した。あたしが走ると、その人もついてくるようだった。掲示物の端にもコンクリートにも電柱にも、あの人が現れては消えていく。そこら中から声が聞こえるような気がした。走って走って、やっとの思いで家まで帰って自分の部屋のドアを閉めたけど、あたしはそのままへなへなと座り込んでしまった。心臓が早鐘を打っていて、息が苦しい。

 ──ねえ、穂花さん、描いて。

 木製のドアにあの人の姿が浮かび上がっていた。あの時と変わらない大きさで、あの時と変わらない眼差しだった。


 自分でも意識しないうちに、絵筆を手に取っていた。

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